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 自室のベッドで仰向けになり、腕を突き出す姿勢でスマートフォンを弄っていた藍良は画面上に表示された通知にビョッと飛び起きた。画面右上の時刻を確認するとキリの良い数字で、藍良は公式からの告知だろうと踏んで通知をタップする。

 告知内容は例の男女混合ユニットの新曲についてだった。添付された動画サイトのURLに跳ぶと、鮮やかなアニメーションと共に、今にも眠りそうな幼児ですら眠気を覚ますような音楽が鳴る。誰の耳からも離れない歌は、月永レオと名波哥夏が創出したものだ。

 宗・レオ・美雪の三人のユニットでは全員で歌うこともあればソロで歌うこともある。ランダムに二人ずつという曲もあった。藍良の耳に入るのは透き通った声で、女性ボーカルの正体を知っていればすぐに美雪であると推測できた。

「うひゃあ〜、相変わらずすっごいなァ、芸術家トリオユニット。超美麗作画の有名アニメーション会社が喜んで手を貸すわけだよね……わ、今の高音凄ッ⁉」

 同室の零と英智が不在ということもあり、藍良は周りの目を気にすることなく独り言を放っていた。藍良は動画説明欄をスクロールしていく。

「今回は……作曲が月永先輩で、編曲が名波哥夏なんだ。女性ボーカルの名前は出してないけど『名波哥夏』の表記はあるんだよね。まあ作曲してるから当たり前なんだけど……ボーカルも名波哥夏って出せば良いのにな。そうしたら色んな考察見て答えを言いたくなる気持ちを抑えることが出来るのに」

 アイドルオタクの藍良は誰に頼まれずとも推しのパブサをする。その一環で、女性ボーカルの名前を伏せていることでどのような憶測が飛び交っているのかが気になり、暇さえあればSNSを開いていた。現在進行形でも。

「モデルのA説、女優のB説……違うってばァ。うぅ、言いたい……美雪先輩だよって、名波哥夏ご本人だよ〜おれの推しだよ〜って言いたい。でもそんなことしたら情報漏洩でクビになるから、お口はミッ*ィーにしなくっちゃ……あ、この人『実は名波哥夏なんじゃ』って呟いてる。名探偵? 大正解なんだけど」

 季節は変わり、夏。美雪がリズムリンクに所属することになってから半年以上経っていた。トリオユニットはCMで起用されたところから始まり、顔出ししないアーティストというミステリアスさも相まって注目を集めている。レオと宗はそれぞれメインで活動しているユニットでのインタビューなどで言及されることもあり、その都度美雪の存在については深く触れないようにしていた。

「あ……っと。もうこんな時間。今日は午後から仕事だからって気ぃ抜いちゃってたや……あのEdenとの仕事なんだから気を引き締めないと。それにしても、ベッドでスマホ弄ってると無限に時間が過ぎていくのって何なんだろ。体感時間は五分なのになァ」

 ぶつくさと言いながら、藍良は支度を整えるべくベッドから降りた。鞄に必需品らを詰め込み、辺りを見渡して忘れ物がないかを確認する。

「よし、戸締りもちゃんとして……誰もいないけど、行ってきまーす」

 星奏館は女性禁制の、男性アイドルのための寮。夢ノ咲学院のアイドル科同様に厳重な警備が施されているが、念には念を。藍良はアイドルオタク故に、同室のアイドルのプライバシーに敏感だった。朔間零の私生活や天祥院英智の私物を公に晒してはいけないという使命感。藍良は二人が思った以上にトンチキなことを寮生活で学んでいた。

 星奏館を出た藍良は今回の仕事の集合場所であるESビルの屋上に向かう。そこからヘリでALKALOIDとEden全員が移動する手筈だ。
 エレベーターが一階の表示になり、藍良の目前で開いていく。中にいる誰かが降りる可能性があるからと、藍良は横向きになって出口を封鎖しないようにしたが、珍しく誰も乗っていなかった。藍良がエレベーターに乗り込むと、それに続こうとする人物がいた。

「あ、美雪先輩!」
「……白鳥くん」

 藍良はパッと表情を明るくした。開ボタンを押して彼女がスムーズに乗れるようにする。美雪は藍良がボタンを押しているのに気が付くと「ありがとう」と礼を言って足を踏み入れた。美雪は藍良の隣に立ち、細い指で目的の階のボタンを押した。

「お仕事?」
「……作曲の方のね」

 Valkyrie以外に作曲しない、と宣言したこともあったが、美雪は宗とレオと活動するようになってからは他のユニットに楽曲提供することを再開していた。レオの作戦が上手くいく確信がない美雪はValkyrieに専念したい気持ちがまだあったが、宗から厳しい言葉を掛けられたこともあり、今までどおりアイドルたちと交流することにした。

「さっき聞いたよ、新曲!」
「……ああ、今日公開する予定だったね。……どうだった?」
「もうスッッゴかった! 今回は美雪先輩だけで歌ってたんですね」
「……うん」
「キー高くてビックリしたよォ」
「そう、そうなの。わかる?」
「え? う、うん」

 思いのほか食いついて来た美雪に藍良はたじろいだ。美雪は少し眉を顰めていて、藍良は不機嫌なのだろうか、と顔色を窺う。

「あの人ね、高すぎるからせめてマイナス3にしてって言ったのに全然聞いてくれなかったの。三人で歌うと男声と女声でどうしても音域が狭まるから、私一人のときは好き放題に音を散らばせて……勝手すぎると思わない? 私が編曲で上手い具合に収めようとしたのに認めてくれなくて、いつまでも話し合いが続いて、揉めるのも疲れて結局私が折れたの」
「そ、そうなんだ?」

 彼女がそこまで不満を抱えているような曲だったのだろうか、と藍良は先程聴いた曲を思い出す。サビが癖になる歌で、藍良は仕事までの時間が許す限りリピートしていた。裏では揉めた曲だったのか、と藍良は意見を言おうと口を開く。

「でも凄く綺麗だったし……月永先輩は美雪先輩なら出せるって信じて作ったんじゃないの? 三人で歌うとキーが低くなって、美雪先輩の持ち味を出せないからって」
「そういうことを言ってるんじゃあないの。あの人みたいに都合の良いこと言って私を乗せようとしないで。そこまで単純ではなくってよ。出せる音であっても余裕がないと聴いている人様が聴き苦しく感じるかもしれないでしょう? こっちが出すのも辛い音なんて音を外すリスクを上げるだけだし、ましてや歌いながら踊るなんて不可能だわ。あの人はそこまで考えて作っていないのよ。歌わせるだけで躍らせる気がないか、音源を流して躍らせるだけの曲としか思えない。『お前なら出せるだろ』『出せないのか?』『行けるだろ』って、いつもいつも自分のやりたいことばっかり。確かに私は『KnightsやValkyrieでは出来ないことを三人でやりましょう』とは言ったけれど、限度というものがあるでしょ? 明らかに私のことを考えて作曲していない。私のことはもっと大切に丁重に扱いなさいって言ってるのに……いつかあの人が出せないようなキーで作ってやろうかしら」
「す、スミマセンデシタ……素人が口挟んで」

 藍良は新曲を聴き苦しく感じることはなく、寧ろ透き通っていて心に澄んだ海や空が広がって行くように感じていた。が、これ以上レオを擁護するようなことを言えば美雪の文句が止まらなくなると思った藍良は大人しく黙ることにした。以前、美雪は『自分よりも宗とレオの方が議論をしている』と言っていたが、美雪もやはり芸術家で、特に同じ作曲家であるレオに対しては思う所があって噛みついているらしい。 

「……あれ、待って? 『歌いながら踊る』って言った? 美雪先輩、顔出ししてないよね?」
「……あ」
「顔出ししないでライブするってこと? ライブ決まったの⁉」
「…………違う。口が滑っただけ。ごめんなさい、聞かなかったことにして。……誰にも言わないで」

 美雪はぱっと口に手を当てて目線を落として言う。

(美雪先輩、気持ちが昂ると言っちゃいけないこと言っちゃうタイプなんだ。思いっきり「あ」って言ってたし……何でも完璧でちょっとふわふわしてる人だと思ってたけど、抜けてる部分もあるなんて可愛いな。ギャップ萌えはファンが増えるよ、おれが保障する。早く顔出しして)

 生暖かい目で自分を見つめてくる藍良に気まずくなったのか、美雪はエレベーターが止まるとぴゅーっと降りて行ってしまった。

「え、ちょ、美雪先輩⁉ 降りる階じゃないと思うんだけど⁉」

 そこが美雪がボタンを押した階ではないと気づいた藍良は引き留めようとするが、美雪はそのまま逃げていく。藍良はこのまま自分が降りてエレベーターを逃してしまえば集合時間ギリギリになってしまうかもしれない、と思ったが、彼女を彷徨わせる方が危ないと、咄嗟に飛び出して追いかけていた。藍良は彼女にお世話される中で、彼女が思った以上に危なっかしく方向音痴ということを理解していた。

「美雪せんぱーい! 待ってってばァ、心配しなくても誰にも言わないって!」
「……本当に? 約束できる? 破ったら針千本飲ませるよ」
「はいはい。分かったって、指切りね。拳万」

 追いついた藍良は美雪の肩を掴んで止めさせ、まさか本当に針を飲まされそうになった男がいるとも知らずに指を絡ませた。

「でも、良かったよ。顔出ししなくても、ライブをしてくれるってだけでファンは救われると思うし」
「……うん。いつか、近い内にね。そのために今、体力を増やしているの」
「あ、偶にジャージでいるところ見たけど、そういうことだったんだ?」
「……ええ」
「ちゃんと食べなよォ? 最近、美雪先輩のお世話タイムは減ったけど、ずっとおれに食べさせてばっかだったから」
「……大丈夫。体重増えたから」
「何キロ?」
「……一キロ?」
「それ誤差じゃない?」
「……そんなことはないわ」
「いや、水分量とかでそんくらい変わるって」
「……もう。白鳥くんまでそんなこと言わないで」

 頬を膨らませた美雪のほっぺを突いた藍良は「えへ」と笑う。姉のようで妹のような、不思議な関係だった。
 突然、バイブレーションが響く。藍良が自分のものかと思いポケットを触るが、何も振動していなかった。ということは美雪のものだ。美雪はスマートフォンを取り出すと、藍良に断ってから電話に出た。

「……はい」
「お嬢様っ、今すぐESビルから離れてください!」
「……何故?」
「──若様が御帰国されました」

 藍良には電話の相手の声は聞こえていなかった。ただ、みるみるうちに目を大きくしていく美雪の顔しか見えていない。

「屋敷に寄ることなく、一直線にESビルに向かわれたという話です。恐らく、お嬢様がそこにいることを知っているのかと」
「……」
「車を飛ばして向かっております。すぐにビルから離れて合流しましょう、旦那様が■■を■■て、■■すれば、■■、■■■■」
「…………」
「■■? ■■様? お嬢様? 聴こえておりますか?」
「……美雪先輩? 大丈夫?」

 執事と藍良の心配する声が重なり、茫然としていた美雪の聴覚が戻った。浅く呼吸した美雪は藍良を見つめた後、背を向けて執事に「分かった」とだけ返事をして電話を切った。その背中に藍良は尋ねる。

「……ほんとに大丈夫?」
「…………もし私が、帰って来なかったら、天祥院先輩と七種さんに『Valkyrieをよろしく』と伝えておいて」
「へ?」
「……いや、違うかな。やっぱり言わなくて良い、のかな。……どうすれば良いんだろう。ごめんね、上手く纏まってなくて。可笑しいな、耳が……兎に角、急がないと。じゃあね」
「ちょ、ちょっと、美雪先輩っ? そんなフラフラな状態で放置して行けないって……!」

 藍良は今まで来た道を引き返してエレベーターまで行こうとする美雪を追いかける。彼女の足取りは何かに纏わりつかれているように不安定に揺れていた。重苦しい蔦が絡んできて、急がなくてはいけないのに、美雪の体力を奪おうとしている。

「と、取り敢えず休めるところに行こうよっ、体調悪いんでしょ?」
「……」
「美雪先輩、待って! 美雪先輩ってば! もう、待ってって言ってるのに!」
「……ぇ? え、何? 今何か言った?」
「──ど、どうしたの? わ、手すごい震えてるじゃんっ」

 藍良に手を取られた美雪は振り返って訝しそうにするが、藍良は彼女の違和感に狼狽えるしかない。ここまで至近距離にいて自分の声が聞こえないなんてことは有り得ない。作曲家の彼女なら尚更。
 美雪の背後の奥でエレベーターが止まった。扉が開いて、中にいる人物が藍良の視界に収まる。

(……あれ? あの人)

 藍良は彼を何処かで見たことがあるように思えたが、アイドルではないため専門外だった。後ろに迫った人物に気づいていない美雪は藍良に言う。

「……ご、ごめんね。離してくれる? 早く行かないと、お兄様が来ちゃう」
「──『お兄様』?」

 復唱したのは藍良ではない。エレベーターから降りて来た人物だった。冷たい声に、美雪の体は凍り付いたかのように固まった。ぎこちなく振り返ると、毛皮のコートを身に纏った美丈夫が立っている。彼の背後で扉が閉まった。

「俺はお前にその言葉を教えた覚えも無ければ、そう呼ぶように指示した覚えもないんだけど、誰に教わった? 父上か、代谷か? ああ、良い。よく喋るようになったみたいだけど答える必要はないよ。俺は喧しい女は嫌いなんだ。どうしてただ黙って、望まれるときにだけ頷くという単純なことが出来ないんだろう。どの女もそうだった。顔が美しくても頭が悪い。声が美しくても体が醜い。動物の方がましなくらいにな。その点、お前はとても優秀だった。自我が芽生えていないお陰で、植え付けるとすぐに黙って、喋ることを忘れてくれた。俺の理想の女を残して逝ってくれた伝説のアイドルに感謝しなくてはいけないね」

 男・氷室豊は長い脚で美雪と藍良まで距離を詰めていく。藍良は遠くにいたはずの彼が近づいてくる度に、彼がどれだけ大きな体をしているのかが嫌と言う程に分かって竦んだ。
 一方的に話す豊の言葉は藍良には理解できない。藍良は美雪を見るが、彼女の顔は豊に向けられていて藍良からは見えなかった。しかし、指先が冷たくなっていることだけは藍良に伝わっている。

「なぁ、美雪。お前はただ俺が『呼べ』と言ったときに俺の名前を呼べば良かったのに、いつの間に俺の呼び方を変えた? 俺はお前に、俺の名前以外を喋ることを許可したか? 俺はお前に出歩くことを許可したか? 体に傷をつけたくなかったから、ありとあらゆる人間としての活動を忘れさせたのに。何故、俺の優しさを受け入れない? 何故、外に出た? 俺は言ったよな、『一生屋敷の外に出るな』と。忘れたか? 何度も何度も繰り返し伝えただろう。忘れていないよな? それならば何故だ。何故、何故、何故。俺がフランスにいる間、父上に媚びを売ったか? 代谷を自分の思い通りに動かして悦に浸っていたのか? お前は外に出て何人の男を誑かした? 俺を裏切って、俺を騙して、楽しんでいたのか?」

 豊は美雪の前で立ち止まると眉間に皺を寄せて見下ろした。

「おい、お前」
「……」
「お前だよ、いつまでも美雪に触れている、そこのお前」
「……へっ? お、おれですか?」
「お前以外に誰がいる。……醜いな。汚い手で美雪に触れるな、穢れるだろう。美雪は俺の妹で娘で妻で母で、女だ。だから嫌だったんだ……外に出ればお前に触れようとする男が確実にいるから」

 罵倒された藍良は彼の虫を見るような眼に思わず手を離していた。美雪が振り返って縋るように見つめてきて、藍良は離してはいけなかったと悟る。美雪の目は助けを求めていた。
 藍良が再び彼女の手を握ろうとすると、それよりも先に豊が美雪を引き寄せていた。顎を掴んで無理矢理目線を合わせる。

「帰るぞ。お前の居場所は外にはない」
「……わ、わたし」
「喋るな」
「も、もうしわけ」
「喋るなと言っている」
「……ぁ、でも、お兄様」
「──五月蠅いッ、黙れ! 黙れ、黙れ。反抗するな。頭まで悪くなったのか、お前は。そう呼ぶなと言っている。俺が望むときだけ『豊』と呼べ。また最初からやり直さないと駄目だな……ああ、泣くな。面倒臭い。俺はすぐ泣く女も嫌いだ。泣けば何とかなると思っている。お前から感情も消したはずなのになぁ……鬱陶しい、苛々する。……俺はお前に優しくしたいんだよ。分かるよな? なぁ? 勢い余って殴ってしまったら、顔や体に傷がついてしまうだろう? お前も痛い思いをしたくないだろう? なぁ? だったら俺に従えよ、大人しく。今まで通り。従えるよな? ……俺が怖い? 今だけだよ。お前が素直な良い子に戻ってくれるなら、俺だって今まで通り優しくできるさ。お前が逆らったから、こうなっているんだ。全部全部全部全部全部全部お前のせいだよ。でもね、俺は優しいから許してあげる。ちょっとお仕置きをするだけでね。ほら、頷くだけで良いんだよ、美雪。簡単だろう? 俺に逆らうな。従え。出来るな? ほら、頷いて。ほら、ほら」
「……」
「──チッ。おい、頷け」

 顎を強く掴まれた美雪ははくはく口を震わせて頭を下げた。豊は美雪を引っ張った。何か不味いことが起きていることだけは理解できた藍良が走り出し、豊の行く手を阻んだ。

「ちょっと待ってください。何なんですか、アンタは」
「邪魔だ、退け」
「お、お断わりします! 美雪先輩泣いてるし、アンタの今の言葉は、何て言うか、えっと……美雪先輩を尊重しているとは思えません。事情は知らないけど、女の子にそんな威圧的に接するのはどうかと思いますっ」

 豊は目を細めて藍良を睨んだ。藍良はぐっと唇を噛んで震えを堪える。

「……そう。美雪はお前を奴隷にしたんだね」
「ど、奴隷?」
「どんな風に唆したのかな、屋敷に戻ったら教えてくれよ、美雪。俺に実践して」
「違うよ、美雪先輩は確かに魅力的だけどっ、おれは別に唆されてるとか思ってませんし」

 藍良の横を通り過ぎた豊はエレベーターのボタンを押した。時間のかかるそれに苛立った彼は舌打ちを零す。

「ちょっと! 無視しないでください! 美雪先輩をどうするつもり⁉」
「……五月蠅い羽虫だ。趣味が悪いな、美雪は。お前を愛でるのは俺一人で十分だろう。お前が愛するのも、俺一人で十分だ」

 ESビルのエレベーターはなかなか来ないことで有名だが、今回はすんなり来たように藍良には見受けられた。この非常時に空気を読まない無機物は扉を開いて豊を迎え入れた。藍良も飛び乗り、何が何でも追いかけようとする。豊は藍良を見下ろすと長い脚で蹴り飛ばした。腹部を強く蹴られた藍良は硬い床に打ち付けられ、美雪は「白鳥くんっ」と声を上げる。駆け寄ろうにも手首を強く掴まれていて振りほどけない。
 そうして、扉は閉まって行った。

***

 こうしては居られない、と藍良は屋上まで階段で駆け上がっていた。ゼェハァと肩で息をしながら、鉄の味が滲む喉を抑えて仲間の元へと向かう。屋上の扉を開けると、もう既に藍良以外のメンバーが揃っていた。リーダーの一彩が漸く現れた藍良に駆け寄る。

「藍良? 集合時間ギリギリだなんて珍しい。息が上がっているけど大丈夫かい?」
「ヒィ、はぁっ……美雪ッ、美雪先輩が、ッゲホ」

 喋れない藍良に巽が水を差し出した。マヨイが背中を撫で、落ち着けるよう促す。

「……美雪がどうかした? さっきから胸騒ぎが凄くて、美雪に何かあったんじゃないかと思っていたんだけど」
「これから仕事だというのに動こうとするんですから、止めるのが大変でしたよ」

 凪砂が藍良に近づく横で、茨がため息をついて眼鏡を押し上げた。水を一気に飲み干した藍良は「ぶはぁっ」とペットボトルから口を離した。

「美雪先輩が、なんかすっごい威圧的な男の人に連れて行かれたの!」
「……威圧的?」
「どっかで顔を見たことある気がするんだけど、おれ、アイドルしか詳しくないから分かんなくてさァ! 美雪先輩を泣かせる最悪で最低な男だよ! 何言ってるのかよく分かんなかったし蹴られたし! 怖いことしか分かんなかった!」
「蹴られたっ? け、怪我はありませんか?」
「っていうか何でマヨさんはこういうときに限って美雪先輩のことストーカーしてないわけェ⁉ おれ一人で何とかなるわけないじゃん!」

 藍良は八つ当たりするかのようにマヨイの肩を掴んで揺らした。ジュンが「ストーカー……?」と鋭い目つきでマヨイを睨むが、それどころじゃないマヨイは気づかない。

「ぐ、ぐぇぇっスミマセンスミマセン! 私は仕事してる間とかは彼女を追いかけている暇がなくて、いつもストーカーしてるのではなくてですねっ?」
「……もしかして、この男ではない?」

 凪砂がスマートフォンを藍良に見せると、藍良は画面に表示された人物に「ああー!」と声をあげて指をさす。

「そう、コイツだよォ! そっか、モデルの氷室豊! 美雪先輩が『お兄様』って言ってたけど兄妹だったのォ⁉ そ、それにしては随分……変な雰囲気だったけど」

 画面に表示された豊の顔写真と名前に、藍良は彼と美雪の苗字が同じことに疑問を感じる。凪砂は「……やはり、この男」と呟き、その横で日和も真剣な顔つきだった。

「凪砂くん、平気?」
「……うん、大丈夫。私よりも美雪が心配だ」

 日和は凪砂のトラウマがフラッシュバックしてはいないかと気に掛けた。凪砂は頭を振って否定し、藍良に尋ねた。

「……美雪が連れて行かれたのは、いつのこと?」
「つ、ついさっきです。エレベーターに乗って行ったから、ビルを出てるかもしれないけど……」
「……茨。一階の防犯カメラを確認したい」
「……畏まりました」

 有無を言わせぬ雰囲気の凪砂に、茨は素直に従ってパソコンに防犯カメラの画面を表示させた。出入り口に切り替えると、外からやってくる人物や中から出て行く人影がよく見える。少し時間を巻き戻すと、確かに美雪を引っ張って行く男の姿があった。パソコンの前に居座る茨を囲むようにして、EdenとALKALOIDの全員が覗き込む。

「……ん? 美雪ちゃん、こっちに気づいているね?」
「『こっち』つーか、監視カメラに気づいてるってことでしょうよ」

 日和とジュンが言うように、録画映像に映る美雪は涙を拭ってカメラを捉えていた。豊の目を盗んで手を動かしている。それが凪砂にしか通じないサインだと気づいた茨は彼を見遣る。

「閣下。美雪さんは何と?」
「…………」

 凪砂は顎に手をやり、眉間に皺を寄せていた。茨が再度「閣下?」と呼び掛けると彼は目を伏せる。

「……美雪は、私がこれを見ると分かって残したのかな。だとしたら、何だか悲しい」
「美雪ちゃんは何て?」

 日和が尋ねると凪砂は切なそうに吐き出す。

「……月永くんと斎宮くんに、自分の状況を知らせるようにって。二人は今、海外だからだろう。……どうして私を頼ってくれないのかな」

 無理矢理コズプロに入れようとしたことで諍いもあったが、その後レオと宗のお陰で二人の関係は修復していた。時間の許す限り、いつものように触れ合うことも継続している。

「それは、事情をよく知っているのがお二人だからかと思います。サミットに現れリズムリンクへの所属を宣言した際にも、月永氏と斎宮氏が同席していましたから」
「……なんで私じゃなくてその二人なの」
「そんなこと俺に言われましても」
「凪砂くん。二人にやきもち焼くよりも、美雪ちゃんの伝言のとおりにした方が良いと思うね。それが美雪ちゃんからの、他でもない君へのお願いなんだから」

 日和に諭されると、凪砂は渋々頷いてホールハンズでメッセージを送った。
 もう二度と、彼女に「嫌い」などと言われたくはなかった。

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