30

 凪砂に伝言を残した美雪は、それから豊の直属の部下が運転する車に押し込められ、氷室の屋敷に連れて帰られた。兄を偽る男は余程機嫌が悪いのか、一切美雪に話しかけることはなかった。車内に立ち込める重い空気は美雪の心を更に沈めて行った。

 屋敷の奥深くに美雪の最初の部屋があった。豊がパリに経つ前まで閉じ込められていた暗がりは、外に出た美雪にとっての恐怖。大晦日、SSのために必ず帰国する豊に言いつけを破っていることがばれないよう、美雪は二度その部屋に戻ったことがあった。

 車を降りて長い廊下を歩く最中、美雪は自分の足元を見下ろしていた。顔を上げる気力もなかった。掴まれた手首が痛い。油断をすれば、扱いを誤った豊の手によって脱臼してしまいそうだった。豊には美雪を繊細に扱おうとする気がなかった、彼女が自分の命令に背いたことが冷たい彼を更に冷血にさせている。

 金属でできた重たい扉が開かれる。その先に広がる闇に美雪が足を止めると、豊が力づくで、投げるようにして部屋の中へと押し込めた。豊はそのまま扉を閉めて部屋を後にする。

(……また、この部屋だ)

 床に手をついた美雪は俯いたまま、耳に違和感を覚える。兄が急遽帰国したことを電話で執事に聞いたときから、彼女の耳は所々音声を拾えなくなっていた。この部屋に入ると空気の流れる音すら聞こえない。無音に近かった。

(……今は、夜? 暗すぎて分からない。さっき外は明るかった。白鳥くんと会ったのはお昼を過ぎたくらいだったから……ビルから屋敷まで、車で……この部屋に入ってから、どれくらい経ったんだっけ)

 窓が無い部屋には光が射し込まない。時間の感覚がなくなる空間だった。窓はなくともベッドはあるというのに、美雪はその場から動かずに意識を失うようにして床で眠りについた。

 どれくらいの間そうしていたのか。再び豊がやってきたのはそれから一日経った後のことだったが、美雪にはそれが分からなかった。後ろで扉が開く音──いつもの美雪なら五月蠅く感じる大きさのはずだが、今の美雪には微かな物音程度に感じられた──で目が覚める。入ってきたのは勿論、兄を名乗る男だった。

「さて、まずはどうしようか。……そうだな、俺はなるべくお前には喋らないで欲しいのだけど、説明してもらおうか」

 振り返らず、ただ俯いている美雪の背中に男が迫った。美雪と同じように膝をついても背丈が大きく異なる彼は、乙女の柔らかい髪を撫でた。優しい手付きだったが、美雪が安らぐことはなかった。命綱が今にも切られそうな感覚。

「どうして俺を裏切った?」
「……」
「ん? どうした、言ってみろ」
「……」
「可笑しいなぁ……何かやんごとなき事情があるなら、それが言い訳になるのなら聞いてやると言っているんだが。外で言葉を覚えたんだろう? 随分流暢に話していたのに、俺にはだんまりかい? 寂しいなぁ……ああ、そうか。俺が『黙れ』と言ったから、それに従っているんだね? はは。俺の機嫌を損ねたと理解して学習したんだ、やはりお前は賢いよ」

 豊はくつりと嗤い、美雪の髪を勢いよく手繰り寄せた。頭を後ろに引かれた美雪は息に詰まって表情を曇らせ、背中を反らす。耳元で低く呪いのような言葉が響いた。

「だが俺は次の命令を下している。説明しろ。俺を裏切って、俺の愛を裏切って屋敷の外に出た理由を。外界に逃げた理由を。すべて。包み隠すことは許さないよ。俺はお前に歩くことも考えることも許可した覚えはない」

 脅すようにそう言った豊だったが、次には猫撫で声に切り替わっていた。この部屋に美雪が居る時に話しかけていた声と同じトーンだった。

「今のお前は、少し頭が可笑しくなってしまっただけだ。大丈夫だよ、すぐに元に戻すからね。お前は何も知らず、何も考えず、ただ此処で呼吸だけをしていれば良い。俺の与える養分だけを吸って生きれば良いんだよ。そうしたら、お前が一番美しくなったときに止めてあげるからね。お前だって美しいままで居たいだろう? どうせ死ぬなら早い内の方が良い。その方が美しいのだから。収穫の時期を誤れば老いて枯れていくだけなのだから。今尚美しく、これから更に美しくなるお前が皺だらけの老婆になるだなんて俺には耐えられない」

 美雪の首筋に豊の冷たい指が這った。その指先に力を込められればあっさり折れてしまいそう。息の根を止めるのも簡単だろう。

「よく顔を見せてご覧。……うん、良い子だ。やっぱり、毎日見るよりも時間を置いて見た方がお前の変化がよくわかる。ああ、本当に、お前は解語之花だね。待ち遠しいよ、お前が一番美しくなる瞬間が」

 美雪の頬を撫でた豊は満足気に頷いて感嘆の息を吐いた。

「なんだか気分が良くなってきたよ。お前が不特定多数の男を誘惑していたのは腹立たしいけど、奴隷から聞いて大体の経緯は分かっているんだ。だからお前の口からは説明しなくて良いや、不愉快になるだけだろうから。……父上がお前に会おうとしたのは誤算だった。俺のことをあれだけ放置していたから心配ないと思っていたのだけれど、お前を放置せずに連れて行くべきだったよ。お前が自分から逃げ出さないとしても、周りがどう動くかを推測できていなかった。失敗したね。だけど俺は同じ失敗は二度もしない。お前をフランスに連れて行くか迷ったけど……外を知って自我が芽生えたお前が、自分から逃げない保障はないだろう? いくら鎖で繋いでも賢いお前は抜け出そうとするかもしれない。だからね──」

 突然、背中を押し付けられた美雪はそこで漸く兄を振り返った。豊は綺麗に微笑んで美雪の上に圧し掛かっている。その手には鈍い光を放つ何かがあった。

「本当は体に傷を残したくはないんだけど、仕方がないから足の腱を切ることにした。完全に歩けなくなるわけじゃないらしいけど、遠くには行けないだろう。足を潰すのは造形が美しくないからね。大丈夫、自然治癒したらまた切ってあげるから。もっと効率が良い方法があったらそっちでもやってみよう。痛いだろうけど我慢しなさい。父上のせいだとしても、やっぱり俺以外に従ったお前が全部悪いから。これはその罰だよ、お仕置きだ。……ああ、そうだ。卵子を保存しておくのはその後からで遅くないよね。お前の遺伝子は欲しいけど、お前には処女で居て欲しいんだ。綺麗なまま殺してあげるよ、美雪」

 スカートをたくし上げられた美雪は兄が何をしようとしているのかを見つめる。

(──? え? なに? お兄様は何て言ってるの? 音が、ぼやけて)

 鋭利な刃物のような何かが足首に押し当てられた美雪はやっと危険を察知した。押さえつけてくる手から逃れようと必死に身を捩る。ほぼ聞こえない耳では自分が何を言っているのかが骨伝導でしか分からない。

「や、いゃ、う」
「暴れるな」
「ゃ、やだ、あ、だれか」

 美雪が足をばたつかせると、豊が舌打ちをして怒鳴った。その声は美雪の耳にぼんやりと届く。

(誰か、誰か、居ないの? 誰か……──こんな屋敷の奥なんて、誰も来ない。お兄様が誰も寄せ付けようとしない。誰もお兄様に逆らおうとしない。……殺されるのかな。アイドルに成れずに終わるのかな。宗様、みか様。なぁくん。月永先輩。どうしよう、ごめんなさい。どうしよう)

 人は死期が迫ると、これまでの記憶の中から死を回避する方法を探そうとするらしい。走馬灯と呼ばれるそれが美雪の頭の中でも起こっていた。次々に関わってきた人々の顔や言葉が浮かんでいく。高校生になってから、アイドルらと過ごした日々が。幼少期、凪砂と過ごした淡い記憶と父親が。


──執事と運転士はどうなんだよ。……お前に仕えてるんだろ? お前を優先するんじゃないのか?


 はっきりと響いたのは意外なことになずなの声だった。美雪はハッとして、唇を震わせて二人の名を叫んでいた。

「──……た、助けて! 公晴(きみはる)、孝明(たかあき)!」

 瞬間、美雪の上から重さが消えた。振り返ると執事と運転士の兄弟が二人がかりで豊を押さえつけていた。豊は奴隷に反抗されたことに憤り喚き散らしている。美雪は当主である義兄よりも、血の繋がりのない、正式な氷室の娘ではない自分を助けようとする二人を茫然と眺めた。

「若様、御容赦をッ」
「お嬢、走れ!」

 運転士の兄に怒鳴られた美雪はすぐさま立ち上がって部屋を飛び出した。
 いくら豊が海外でモデルをする程に恵まれた体型だとしても、二人の男に飛び掛かられては振り払うのは困難だ。

「ふざけるなよ……奴隷の分際で主人に反抗する気か!」

 二人の下敷きになった豊は呻き声を上げる。その上で手を緩めない運転士が肩を竦めた。

「クビになるのは覚悟の上ですよ」
「……僕たちは貴方の奴隷である以前に氷室の使用人です。そして、旦那様からお嬢様を任せられた身。相手が誰であろうと、お嬢様を優先するのは当然のこと」
「そういうことです。すみませんね、若サマ。……あんな風にお嬢に求められちゃあ動いちゃうでしょうよ。俺達の体は、そういう風に作られてるんです」

***

 大財閥の屋敷は迷路のようなものだ。美雪は出口を目指して走るが、あの部屋の感覚がどうにも抜けないのか、切りつけられそうになった恐怖からか、足が震えていた。その内、絡まってしまって蹴躓く。

(ああ、だめ。早く立たないと……二人は守ってくれたけど、屋敷の中はお兄様の息がかかった使用人がいるはず。急いで離れないといけないのに……)

 美雪は震える足を叩いて直そうとした。それでも震えはなかなか引かない。涙を滲ませ、きゅっと唇を噛んで俯く美雪の視界に靴が入り込んだ。音に気づかず、使用人ではないかと思った美雪はすぐに顔を上げた。

「■■! ■■■■⁉ ■■、■■■■⁉」

 美雪の視界に飛び込んで来たのはレオのドアップだった。彼は美雪の前に膝をつくとパクパクと口を開いている。美雪の反応がないことに疑問を抱いたレオは首を傾げて更に言葉を紡いでいるらしいが、美雪の耳は上手く拾えない。まだ暗がりでの感覚が抜けない。

「■■⁉ ■■■■! ■■すんなよ‼」
「……?」
「■■! マジで! ■■■■⁉」
「……」
「バーカ! ブース!」

 暴言だけは聞こえた美雪はまた下らないことを言っているのだろうかと怪訝そうに眉を顰めた。

「……なんでこんなところにいるの?」
「いや助けに来たんですけど⁉ 悪かったな、シュウじゃなくておれで!」
「……別にそんなことは言ってません」

 レオはぶつぶつ文句を言いながら美雪の手を取って立たせた。いつの間にか足の震えは消えていた。
 美雪はレオが此処に居る理由はわかっても、どうやって来たのかが分からなかった。レオは氷室の屋敷の場所を知らないはずだ。宗は勿論、英智ですら場所は怪しい。

「……どうして場所が分かったんですか?」
「シュウがお前のスマホにGPS入れてたろ? それ追っかけてきた」
「……GPS?」
「え。待って。お前に無断で入れたのかよアイツ。機械音痴の癖になんでそこだけマジでやるんだよ、きしょ」
「……悪口言わないで」

 凪砂からのメッセージを受けた宗とレオはすぐに帰国し、宗のスマートフォンに入っているGPSアプリを起動することで氷室の屋敷の場所を掴んだ。不幸中の幸い、美雪の荷物は豊の所有する車の中に残されたままだった。

「ってかお前ん家広くね? めっちゃ彷徨ったんだけど」
「……そうですね。私も行ったことがない場所があります」
「自分の家で⁉」
「……それより急がないと。今逃げているんです」
「何から?」
「お兄様」
「ああ、クソ兄貴……何で鬼ごっこになってんの? ってかあれ? なんでお前ふらふらしてるの? てっきり魔王に捕まった姫みたいな感じになってるのかと思ってたんだけど」
「……よく分からないんですけど、殺される一歩手前みたいになったので命からがら」
「おっけ。逃げよ」

 詳細を語らせるよりも逃げるべしと悟ったレオは美雪の手を握って走ろうとした。
 その先に、一人の男性が立っていることに気が付きレオは足を止める。氷室豊に似ている男性に、レオは本人ではないかと警戒する。

「お前がクソ兄貴かこのヤロー!」
「……違います、お父様です」
「は? え、父親? ……確かによく見たら画像より老けてるわ」

 距離を縮めることなく目を細めて観察したレオは父親だと言われても警戒を解くことはなかった。レオにとって氷室の父は、豊が美雪にしようとしていたことの全てを許して容認していた、ろくでもない男という認識だった。

「おい、ろくでなし! お前の息子のせいでおれの……えっと、おれの後輩が迷惑してんだ! お前も息子と一緒になってコイツを閉じ込めてたってことだろ? そんなのが許されると思ってんのか。お前コイツの曲聴いたことあんのか、コイツの歌聴いたことあんのか? ないんだろ! コイツはこんなところで飼い殺されて死んで良いヤツじゃあないんだよ‼ この分からず屋、すっとこどっこい! さっさとそこを退きやがれ! 止めようとしたって無駄だからな!」
「……あの、お父様は私を外に出してくれた人です」
「えっ……⁉」

 一方的に暴言を放ってしまったレオは衝撃の事実にベチンと口を塞いだ。恐る恐る氷室の父を見遣ると、彼は眉を下げて微笑んでいた。よく息子に似ているが、雰囲気は何倍も柔らかいことに気づいたレオはそっと手を離す。

「……すみませんでした。でも、おれはアンタのことは信用できない。外に出したとしても、じゃあ今まで放置してたのかよ、何してたんだよって感じだし……だからおれはコイツを連れて行きます。娘さんを僕にください。って言うか娘さんは貰います」

 レオは美雪の手を握って真っ直ぐに氷室の父を睨んだ。美雪が自分の横顔を見つめていることが分かっても、レオは美雪と視線を交わすことはしなかった。

「……君の言う通りだよ」

 氷室恵慈はゆっくり頷いて口を開いた。

「私は部下や使用人たちに、有難いことに慕われているけれど、父親としては『ろくでなし』だ。良い君主ではあっても、良い父親ではない。父親を名乗る資格すらない。妻や豊がああなったのも見てみぬふりをしてしまった。家族のことだけは、いつも失敗している。……だから、娘のことを見つけるのも遅くなってしまった。せめてもの罪滅ぼしだと思って、この子を外に出したんだ」

 気に食わないレオはムッと顔を顰めて噛みつく。

「だったらちゃんと面倒見ろよ。いきなり放り出されたら人間の赤ちゃんは生きていけないんだぞ」
「……私、赤ちゃんじゃないです」
「赤ちゃんだろうが、お前は」

 二人の言い合いに氷室の父は薄く笑った。部屋から動くことが出来なかったあの少女が、喋るのも、歩くことさえもできなかった娘が、歳の近い男の子と会話をしていることが感慨深かった。

「そうだね。豊に放任主義だった癖が抜けなかったみたいだ。また失敗してしまったね。……ありがとう、月永くん。こんな私を父と呼んでくれる娘を、よろしく頼むよ」

 そう言うと、氷室の父はレオと美雪の横を通り過ぎて行った。彼の背中を見つめた二人だったが、どちらともなく顔を合わせて真っ直ぐ進もうとする。

「美雪」

 言い忘れたことがあったのか、氷室の父は娘を引き留めた。美雪は立ち止まって振り返り、レオは彼女の一歩先で、しっかりと手を繋いだまま歩みを止める。

「……よく、頑張ったね。これからも、人様に沢山迷惑を掛けなさい。でもその分、誰かに迷惑を掛けられることを許しなさい。お前なら出来ると、お前の二人目の父は分かっているよ」
「……はい、お父様」

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