31

「お前の家ってどっから何処までなんだよ」

 美雪は豊の使用人に見つかれば追われるのではないかと警戒していたが、豊が執事の兄弟に抑えられているのは屋敷の奥深くの部屋。それ故に事件が起こっていることが豊直属の部下には伝わっておらず、屋敷の中を見回っている者は数名しか居なかった。それでもレオは人影に気づくと美雪を引き寄せて息を顰め、彼らを搔い潜りながらなんとか屋敷の外に出た。
 一息ついて言ったレオの質問に美雪は首を傾げて遠くを見つめ、腕を上げて指をさす。

「……あの山までが所有地だと聴いたことがあります」
「山ぁ⁉ いや、普通は門から家全部とかじゃん! 門から家のドアまでが遠すぎるだろって言いたかったのに予想外の返答された!」

 レオは頭を掻くと「こっち」と言って美雪を着いて来させる。

「お陰で何処で車降りたら良いのか分かんなくてそこら辺に止めちゃったし」
「……車で来たんですか?」
「そりゃあな。距離あったし、お前が危な……シュウが急げ急げって五月蠅かったから」

 前を行くレオに着いて行く美雪は彼が立ち止まると同じように足を止めた。レオは「ほら」と言って助手席を開けた。助手席に促されたことがない美雪は疑問に思いながらも体を滑り込ませ、腰を落ち着けると乗ったことのない一般車の中を見渡した。隣の運転席には誰も座っていない。すると後ろを回ってきたレオが運転席に入り、美雪は目を丸くしてシートベルトを締めるレオを見る。

「……なんだよ」

 視線を察知したレオが唇を尖らせた。

「……貴方が運転するの?」
「そうだけど?」
「……これは貴方の車?」
「悪かったな、狭くて」
「…………免許はあるの?」
「あるよ! 当たり前だろうが! 無免許で運転するか!」

 しっかり講習を受けて免許を取ったレオは信じられないような目で見てくる美雪に青筋を立てた。「ったく……」と文句を言いながら美雪に手を伸ばすと、兄の手が蘇りきゅっと体を縮こませた。レオは彼女の反応にぴたりと動きを止め「……何もしねぇよ」と呟き、美雪の横にあるシートベルトを掴んで手繰った。

「自分でシートベルトもつけられないバブちゃんなんでちゅね〜♪」
「……」
「その引き顔やめて」

 場を和ませるつもりでふざけたレオだったが、彼女の目に少し凹んだ。
 レオは気を取り直してエンジンをかけた。美雪はハンドルを切っていくレオの横顔を盗み見る。

「……シュウはビルで待ってるから。アイツは免許持ってないし、色々準備があったからおれが来たってだけ。お前のこと心配してるよ。自分も行くって駄々捏ねるくらいな」

 宗がこの場に居ないことを彼女が気にしているのではないか、と思ったレオの気遣いだった。

「……まるで私が、貴方が来たことに落胆しているみたいに言うんですね」
「いや、だって。シュウの方が良いだろ、お前はさ」
「……決めつけることは無いでしょうに」
「……じゃあおれが来て嬉しかったのかよ」

 いじける子どものように、試すようにレオが尋ねた。美雪は間髪入れずに答える。

「ええ」

 タイミング悪く信号が赤に変わり、レオはブレーキを踏まざるを得なかった。いきなり踏み込んだことで車に鈍い衝撃が走る。二人の背中が浮いて、背もたれに打ち付けられた。美雪がレオを見ると彼はハンドルに顔を埋めている。

「……月永先輩?」
「ごめん。見ないで」
「……?」
「今おれ多分ぜったい変な顔してる」
「……たぶん、ぜったい? どっちですか?」
「だから両方なんだって」

***

 ESに辿り着いた美雪は「シュウは衣装ルームにいるから顔見せてこい。おれはテンシと話してくる」とレオに放り投げられ、衣装ルームに向かった。扉を控えめにノックすると、奥から「何かね」と不機嫌そうな声が聞こえてくる。

「さっきから喧しいのだよ、小娘! 僕は今とても苛々しているのだよ。あの子が心配で飛行機でも眠れなかったというのに月永に置いて行かれるし影片も喧しいし、君も五月蠅い! 慎ましくしろと言っている。衣装を作っている最中は静かにしたまえと何度も何度も……」

 あんずだと勘違いして針を握ったまま振り返った宗は扉を開けて控えめに覗き込んでいる少女が美雪だと気づいて固まった。宗からやっと「小娘」と呼ばれた美雪は頬を染めて自らの衣服を探る。

「……私ったらボイスレコーダーを用意してないわ。すぐ持ってきますから、もう一度仰って?」
「はっ? い、いや、ここは感動の再会で抱き合うところだろう⁉」
「待っててくださいまし」
「待つのは君の方だからね⁉」

 衣装ルームを出て行こうとする美雪に、宗は慌てて完成間近の衣装を放り出した。手首を掴み、腕の中に飛び込んで来た彼女に優しく触れた。髪を撫で、頬を撫で、彼女の無事が確認できると目に涙を浮かべて眉を下げる。

「ああ、良かった。君があの男に……最悪なことにならなくて、本当に良かった」

 大切な人を失うのではないかという恐怖に襲われながら、衣装を作ってレオを信じて待つことしかできなかった宗は彼女を力強く抱きしめ、生きていることを確認する。彼が震えていることに気が付いた美雪は静かに受け入れた。

「怖くなかったかい? 何もされなかった? 怪我は?」
「……大丈夫です」
「本当に?」
「……」

 肩を掴まれ顔を覗かれた美雪はまじまじと宗の顔を見つめる。宗は不安そうな表情で、美雪は彼に釣られて唇を噛んだ。

「…………こわかったぁ」
「ああっ、そうだよね、ごめんね。僕が傍に居れば……うぅ」
「……何ふたり揃ってめそめそしてんだ」

 開いている扉から入ってきたレオが呆れたように言った。宗は浮かんでいた涙を拭って切り替え、真剣な表情でレオに問う。

「月永。会場は?」
「テンシが押さえてくれた。当初の予定に比べると規模はちょっと小っちゃいけど、当日でよくあんだけのキャパの会場を用意できるよなぁ。チケットも数分前からゲリラ販売したけどもう完売だって。やっぱ持つべきは友達!」
「友達ねぇ。君が言いたいなら否定はしないでおくけれど」
「そう言うお前は? 衣装はどうなんだよ」
「ああ、後は仕上げだけだ。一応メンバーカラーも添えておいたけど、僕の独断だからね。文句は言わせないよ」

 宗はそう言うとハンガーに掛けていた白を基調とした衣装を持ってきて、レオと美雪に渡した。

「僕が赤で君が緑、月永が青だ」
「ふーん、三原色か」

 レオは新しい衣装を眺める。宗の言うメンバーカラーの青はポイントとして添えられていた。隣に立つ美雪の衣装を見たレオは言いたげな目で宗を見上げた。

「何かね」
「いやぁ……お前の趣味だなーって」
「良いだろう。可愛いだろう」
「うん、そうだな。可愛い可愛い」

 美雪の衣装は宗の趣味で作られたせいか、フリルが満載のワンピースだった。腰には幅の広い緑色のリボンがコルセットのように巻かれており、後ろで結ばれている。レオに指摘された宗は得意気に腕を組んで笑うが、美雪の次の台詞にぶすっと膨れることになる。

「……緑。……みか様と一緒♪」
「……やっぱり色を変えよう」
「こら。急がないと間に合わないぞ」
「だが僕じゃなくて影片とお揃いだなんて」
「お前なぁ、自分で決めたことなんだろ? っていうかミカエルのは真緑っていうか深緑じゃん」
「でも色の系統は同じだ。許されない」
「だぁーから間に合わないって言ってんだろ〜? もう移動しないといけないんだって」

 みかとお揃いなことにはしゃいだ美雪だったが、二人のやり取りを不思議そうに見つめた。

「……会場や衣装というのは、何でしょうか?」
「これからライブ」
「……え、私たちの?」
「そう」

 美雪は今までの会話の流れで「まさか」と思い口にすると肯定されてしまった。宗が衣装を作っていたのも、それを今渡されたのも、レオが英智と話して会場を押さえたのも、今日これから三人でライブをするためだった。

「言ってなかったのか」
「言ってなかったや」
「君ねぇ……車の中で伝える時間くらいあっただろう」
「しょーがないじゃん。忘れちゃったんだから」

 宗はため息を吐いて美雪に解説する。

「本来なら一年後の予定だったけれど、氷室豊が想定外の帰国をしてこの事態になったからね。もっと君の体力を増やしてから臨みたかった気持ちはあるけど、生死に関わるから致し方ない。君を奪還できたらその足でライブをする手筈を整えたんだ」
「……そ、そんないきなり?」

 戸惑う美雪を置いて、時計を見たレオが美雪の衣装を奪って持ち手を引いて扉まで向かう。

「マジで時間になっちゃうから移動するぞ!」
「まだ仕上げが済んでいないというのに……」
「移動しながらやれ!」
「ああもう、こんなドタバタでやるなんて夢ノ咲以来だよ!」

 慌てて道具を持ち抱えた宗も揃い、三人で衣装ルームを飛び出した。

 会場はESから少し離れた場所に位置していた。突然のライブであっても対応できるだけのスタッフを揃えている辺りにESの巨大さが伺える。
 楽屋に着いて休む暇もなく衣装に袖を通す。美雪は初めての舞台に不安と緊張で胸がいっぱいになりながら、背中のファスナーを宗に上げて貰った。恭しく靴まで履かせ、宗はスタイリストのように細かくチェックしていく。

「髪型はどうしようね……はじめてのお披露目だから、それが君のスタンダードという認識になるだろう」
「下ろしてていいんじゃない?」
「緩く巻いて……髪飾りを着けよう。そうだ、その方が良い」
「あんま拘ってる暇ないからな」
「分かっている。……やはり花だろうか。小ぶりな方がバランスが良いけど……ああ、パールも良いな。君は何でも似合うから悩んでしまうね」
「シュ〜ウ〜」
「ああ、はいはい。分かったよ急ぐから」

 髪のセットを終えた宗は自分の衣装をささっと済ませて身に着け、レオの衣装と髪型も手早く整えた。美雪に比べると粗雑な扱いにレオは失笑する。「まあそうだろうな」という具合だった。
 今まで大切に愛してきた乙女を世間に知らしめるためのライブだ。時間がなくとも彼女の魅力を最大限に生かせるようにしたいと思うのが彼にとっては当たり前なのだろう。

「よし。準備は良いか?」

 三人は舞台袖に到着する。レオが確認すると、スタッフにイヤモニとマイクを着けられた美雪は耳元が気になるようだった。気分が落ち着かないのはそのせいばかりではない。

「……本当に、最初は私一人なんですか?」
「あとでおれたちも出るから大丈夫だって」
「世界に君を見せてやるんだ。自己紹介しておいで。不安で仕方なくなったら、僕が行くから」

 宗が背中を撫でると、美雪は深く呼吸をした。薬指を触って緊張をほぐそうとする。

「手のひらに人って書いて飲むと良いらしいぞ」
「子ども騙しな……香りを嗅ぐ方が良いだろう。リラックスできる」

 レオは実際に手のひらに二回指を滑らせて見せる。呆れた宗が首元につけた香水でも嗅がせようかとすると、何故かレオが彼の頭を叩いた。やいのやいのと小声で騒ぎ始める二人だったが、美雪の後ろに現れた人物に止まる。

「……美雪」

 振り返ると、凪砂が立っていた。白い衣装を纏う美雪を見て眩しそうに目を細め、微笑む。凪砂が何度も夢に見た程、待ち侘びた光景だった。

「……アイドルに成るんだね」
「……ごめんね、何度も言わせてしまって。何度も否定してしまって」
「ううん……良いんだ。私も、無理を言ってしまったから。美雪の気持ちを考えていなかったから。……でも、今、とても嬉しい気持ち。美雪もわかる?」
「……うん。わかる」

 二人はどちらともなく指を絡ませ合った。凪砂が少し屈み、額をくっつける。

「……なぁくん」
「……ん?」
「……私のこと、ちゃんと見ててね。目を逸らさないで、ちゃんと見ててね」
「うん、わかった。ちゃんと見てる。私には美雪しか見えないよ。……だから、安心して行っておいで」

 凪砂が指先に力を込めると美雪もそれに返した。二人はそっと離れていく。昔はずっと手を繋いでいたが、それを引き裂かれ泣いた日もあったが、今は別の個体となっても繋がりがあることを確信できている。

 会場が暗くなった。そこにレオと美雪の曲が流れ始め、舞台上が徐々にライトに照らされていく。レオと宗にそれぞれの手を握られた美雪は最後の深呼吸をして一歩を踏み出した。

***

 モニターに映る彼女の顔を見て会場の誰もが目を奪われた空気、スピーカーから流れる彼女の声を聴いた会場の誰もが息を飲む気配を感じ取った宗とレオは、タイミングを合わせたわけでもないのに同じように頷いていた。パチッと目が合い、レオが最初に発する。

「……大丈夫そうだな」
「ああ。不安がっていたけど、あの子は完璧に音程を取れるからね」
「体力面が課題だけど。後半バテないと良いな……」
「それは仕方ない。栄養不足だから」

 一曲目は彼女のソロと決めていた。彼女にスポットライトを浴びせることが、一番に注目させることがレオの作戦だったからだ。

(氷室豊が帰国する前にあの子をアイドルとして十分に育て、ライブで華々しく顔を明かすという月永の作戦は、恐らく三毛縞や天祥院から言わせると現実的とは言えない、メルヘンと呼ばれる御都合主義的産物なのだろう。そんなに都合よく行くはずがないと、奴らは苦言を呈すだろう。デウス・エクス・マキナは居ない、此処は舞台上ではなく現実なのだから。あの子本人ですら納得が行っていない様子だったからね。結局、氷室豊が想定外の帰国をしてしまったため、まだ発展途上のあの子を出すことになってしまったけど……アイドルに成るために生まれたようなあの子だ。心配はいらないだろう)

 宗は舞台袖から美雪のパフォーマンスを見守りながら、レオの提案を思い返した。三人で話し合ったあのとき、美雪が渋っていたのを宗はよく覚えている。

「──あれ? 執事さん」

 レオの声に宗が振り返ると、二人の背後には氷室の執事の兄弟が立っていた。いつもきっちりとした身形をしているはずだが、今の彼らはやつれ気味だった。髪がやや跳ねている。

「大丈夫ですか? 聴いた話だと、あの子に危険が迫った時に氷室豊を押さえてくださったとか」
「ええ……若様が大暴れするので二人がかりで、何とか」

 執事は肯定すると「すみません、このような姿で」と襟を整えた。

「若は縛り付けて転がしておきましたんで、当分は動けないはずです。そこまで化け物ではないでしょう」

 執事兄弟に押さえつけられた豊は拘束され、美雪を閉じ込めていた部屋に入れられている現状だ。虚無の空間を過ごしていた美雪の気持ちを味わえば良い、という恨みを込めて兄弟は鍵を閉めていた。豊は最後まで脅すようなことを口走っていたが、兄弟の心は揺るがなかった。
 執事はぐっと顔に力を込めて主人の歌い舞う姿を見つめる。

「……モニターでも設置して出て来れば良かった。あのお嬢様の姿を見れば、若様だって諦めが付いたかもしれない」
「確かに。後でアーカイブ垂れ流すか」

 運転士の兄が賛同し、屋敷に戻ったら次にどう報復してやるかを決定する。運転士は目を瞑り、宗とレオに感謝を述べた。

「ありがとうございます、斎宮様、月永様。お二人のお陰で、お嬢が巣立つことが出来ました」
「旦那様は、お嬢様が独り立ちできるようになることを望んでいました。だから僕たちも可能な限りお嬢様のお好きなように動けるよう、大きな口出しはしないでいました。……若様が帰国するまでに独り立ち出来なければ、旦那様はお嬢様に救いの手を向ける予定ではあったのです。本当にどうしようもなくなったときには、我々氷室財閥はお嬢様をお助けするつもりでした。ですがこうして、お嬢様は我々の手を借りることなく、大きな舞台に立っている」
「ほんのちょっとだけ手は出したけどな、あれはやばかったから仕方ない。……ちょっぴり悲しい気持ちもあるけど、子どもが一人前になったのを喜ぶのが親ってもんですよね」

 運転士がいつものようにおちゃらけると横から弟の執事の肘が飛んできた。横腹を摩る兄を睨んだ弟は声のトーンを落とす。静かに怒りの炎が上がっていた。

「……どうやら今回若様が予定にはない帰国をされたのは、お嬢様が所属する事務所で以前逮捕された俳優から流出した、盗撮画像が原因のようで」
「え、あの鮫島ってヤツ?」
「そうなんですよ。あのクソ野郎、海外で『うちに若い女子が入った〜』って自慢してたみたいで。ふざけ腐りやがってますよね。犯罪しまくりっすよ、刑をもっと重くすべきです」
「だから氷室豊は帰国して真っ直ぐにESに向かったのか……」

 宗とレオは事の発端に納得する。最後まで問題を残していく男には困ったものだ。
 このまま謝辞を受け入れるだけでは、と思った宗は背筋を伸ばして頭を下げた。レオもそれに従う。

「こちらこそ、ありがとうございました。僕たちをあの子に出会わせてくれて。あなた方が居なければ、僕らはあの子に出会うことすらできなかったでしょう。今のあの子が居るのは、間違いなくあなた方のお陰です」
「これからはそれぞれアイツのことを守ろうよ。おれたちは仲間として、執事さんたちは家族として」
「……ええ、よろしくお願い致します」
「どうぞ末永く。今回は思いがけない事件でしたけど、油断せずに若を監視しておきますんで」
「それでは僕らは失礼させていただきます」
「ライブ、頑張ってくださいね」

 執事兄弟はぴったり揃ったお辞儀を披露するとすぐさま姿を消した。レオはここで彼女の晴れ姿を見て行けば良いのにと思ったが、引き留める間もなかった。影に徹底して引き際を弁えるのが、使用人として生きている内に染みついてしまっているのだろう。

 宗とレオが舞台に目を向けると、曲は終盤の盛り上がりに入っていた。彼女のステップに合わせて揺れるスカートのフリルに、レオは「シュウはこれが見たかったんだろうな」と肩を竦める。

 曲が終わると、美雪はマイクに拾われないよう静かに細く、息を整えた。その間、彼女のパフォーマンスに呆気を取られていた観客はざわめくことなく停止していた。静まり返った広い広い空間で、美雪が息を吸う音が微かに響いた。

「……はじめまして。私は、名波哥夏。──本名を、氷室美雪と言います。……海外で活躍しているモデルの氷室豊は、私の兄です」

 彼の妹であることを、それを一番に伝えなくてはいけなかった。宗とレオは台本通りに言葉を紡いだ彼女に安心する。

(残念だったね、氷室豊。君のことを把握するために忌々しい天祥院に態々話を聴いたけれど、君は自分の見目を生かすことで財閥の広告塔になるだけの、お遊びのつもりだったらしいね。それが意外にも上手くいき、君は海外からの注目を浴びた。結果として、それが天祥院がアイドルを志す後押しともなったようだけど……)

 会場のどよめきを聴きながら、宗は英智に聞いた話を思い出していた。いつもなら自分と二人きりになって同じ空気を吸うことも拒絶していた宗の方から「話がある」と持ち掛けられ、英智も困惑した様子だった。宗が嫌々話していると最初こそニマニマしていた英智だったが段々と深刻な表情になっていった。天祥院財閥にとっても、氷室財閥という存在は大きかった。

(君が有名であればあるほど、その妹である氷室美雪が注目される。すると君は氷室美雪に迂闊に手を出すことが出来なくなる。何故なら名波哥夏という存在が、氷室美雪という存在が消えることを、世界が許さないからだ。もし君があの子に手をかけ、あの子が表舞台から姿を消せば間違いなく兄である君に疑問がぶつけられる。「お前の妹は今どうしているのか」と。そしてこちらは君を脅すだけのスクープを持っている。他でもない、君があの子を監禁していた事実だ。それが公表されれば君は終わる。先程の執事の言葉から察するに氷室財閥も、氷室恵慈もあの子を隠蔽することを許さないのだろう。分かるかい、君は詰んでいるんだよ。君が世間に顔を知られていることが君の首を絞めているんだ。──自業自得、全て報いだよ。お前があの子にしてきたことのね)

 レオが「行くぞ」と声を掛け、宗は「ああ」と返し美雪の元へと向かうため踏み出した。先に舞台に立つ彼女に合流するのだと思うと、自分の衣装を纏い舞台に立つ彼女の華奢な背中を見ると、宗の中で喜びの花嵐が舞った。

(今なら乱に、君と僕が似ていると言われた理由が分かる。この子はとても華憐で、庇護欲や支配欲を搔き立てる魔性の女だ。魅惑的な、絶世独立の乙女。運命を狂わせる少女。恐らく生まれたときから、宇宙が産んだ奇跡と呼べる娘だった。見つけた途端に隠したくなったのだろう、欲しくなったのだろう。ゴッドファーザーと同じように、囲って自分だけのものにしたくなったのだろう。僕にもよくわかる。よく、わかる。恥ずかしくて穴があったら入りたくなるくらいにね。僕だって、あの子を自分だけの宝物として大切に仕舞っておきたい気持ちがあった。仁兎が居た頃の僕なら、そうしていただろう。けれど……)

 宗はレオと自分を見つけた瞬間、明らかに安心したように微笑んだ美雪を今すぐに抱きしめたい衝動に駆られた。大勢の人間が見ている場面でそんなことは出来ないため、湧き上がった感情を堪える。

(──この子が、美雪が笑って生きられないのは間違っているよ。暗がりで死んだように生きるのではなく、光に照らされて輝いて大いに生きるべきなんだ。僕と君の決定的な違いはそこだろうね。僕は愛する人の笑顔が見たいのだよ。君はこの子を自分の手で殺して美しく保つことが目的だったようだけど、そんな恐ろしい野望は永遠に叶わないよ。君には分からないのかな、変化することの美しさが。だとしたら君は本当に昔の僕のようだね。第一、死んだら言葉を紡げなくなるじゃあないか。あの甘い声で呼ばれて何とも思わないわけではなかっただろうに。君は馬鹿だね、大馬鹿者だ。人は声から忘れていくのだよ。あの子の声を思い出せないなんて、もう聴けないなんて、そんなの、それこそ死んだ方がましじゃあないか)

 三人で舞台に立つのはこれが初めてではない。返礼祭の後、沖縄に旅行した際、観光地から離れた小さな店を繁盛させるために小ぢんまりとしたライブをした。そのときと違うのは美雪が簾の奥に隠れず踊っていることだろう。

「……アイドルって凄い。歌いながら踊って、踊りながら歌って。ファンを見て、笑顔を見せて、手を振って。恥ずかしくないように、認めてもらうために、楽しんでもらうために努力をしている。貴方たち、こんなに凄いことをいつもしていたのね」
「はは。今更なに言ってんだよ」
「だって。こんなにも高まることってある? 息があがって上手く話せているのかも分からない。……私、上手に出来ている? 私の知ってるアイドルって、ほとんどの人が涼し気な顔をしているんだもの。私、いま見っともないんじゃあないかしら」
「見っともなくて良いよ。それもアイドルで、そういうアイドルが好きなファンがいるのだから」

 レオと宗が返すと、美雪は感極まったようだった。ライトを浴びることが、賞賛の眼差しを向けられながら歌い、拍手を得ながら舞うことが心地よく、今生きている気持ちがするということを知った。レオは凪砂ではないが、彼女の今の気持ちが通じてくるようだった。体中から喜びのメロディが溢れるような感覚をレオも経験している。今もそうだった。

(──天国のパパ。遅くなってごめんなさい。私、ちゃんとアイドルに成れました。見てる? 見てくれている? 長く忘れていた感覚。小さな箱庭でなぁくんと歌って、踊って、パパに抱きしめて貰ったときと似ているかもしれない。こんなに胸が高鳴ったら死んでしまうかも……なんて。当分は貴方に会うつもりはないから、寂しいかもしれないけど、天国で待っていてください。私が死ぬと悲しむ人がいるの。置いて逝けない人がいるの)

 空に手を伸ばしても届くことはないが、美雪は心の中で一人目の父に語り掛けていた。観客席に視線を落とすと、前の方に見知った顔が並んでいることに気が付いた。

(……なぁくんだけじゃない。巴さん、七種さん、漣さん……瀬名先輩、鳴上先輩、凛月先輩、朱桜くん。影片先輩まで。……あっちにいるのは、仁兎先輩? ……ああ、白鳥くんと桜河くんもいる。まさか、みんな来てくれているの? ……あ、羽風先輩)

 薫が手を振っているのに気づいた美雪は薄く微笑んで控えめに振り返した。ファンサを受けた薫は絶叫しているが、横にいる零が「今の我輩にファンサしたんじゃない⁉」と騒ぎ、流れ弾を喰らった晃牙とアドニスはガッツポーズをして噛みしめている。愉快なUNDEADを見てしまった美雪は思わず笑ってしまい口を押さえた。

「美雪!」
「──えっ? なあに?」

 突然レオにそう呼ばれる。彼に名前で呼ばれた試しがなく反応に遅れた美雪が目を向けると、彼はニッと笑った。

「──楽しもう! 自己満足だって言うヤツもいるけど、アイドルが楽しまなきゃファンも楽しくない! 歌おう! 踊ろう! 不格好でも観てくれる人が居ればおれたちはアイドルだ!」

 レオは勢いよく美雪の肩を組んだ。

「シュウがValkyrieでやれないようなことをやらせよう! シュウがファンサ飛ばしちゃうくらいに浮かれさせよう!」
「そんなことされなくても現段階で結構浮かれているけどね」
「じゃあ投げチューくらい飛ばせって」
「やめてください。Valkyrieはファンサービスしません。ファンサービスしないのがファンサービスです」
「何だその理論。今のおれたちはValkyrieじゃないんだから良いだろ」

 見かねた宗もレオとは逆位置に寄って同じように肩を組んだ。間に挟まれた美雪は手の位置に困ってあわあわした後、結局諦めたように下げた。

「……もう、こんなの舞台の貴方じゃないのに」
「ほう? 僕の舞台上の姿を君が決めるのかね?」
「……い、いいえ」
「ふふ、冗談だよ。やっぱり君は僕に上から来られる方が好きみたいだね。……ほっぺが赤いよ」
「……これは貴方のメイクです」
「おや? 僕はそんなにチークを濃くしたかな?」
「おい、イチャついてないで次の曲行くぞ。ゲリラすぎて会場押さえられる時間も短いんだからな」

 ムッとしたレオが宗を押しのけるようにすると、次の曲が流れ始める。レオと宗は組んでいた肩を解いて定位置に着いた。

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