04

 いつからか数えることを止めていた連勤は、宗とレオに助言された美雪がマネージャーに進言したことで一先ず区切られ、暫くの休暇が与えられた。
 作曲しては休暇にならないと言う者も居そうだが、彼女にとっては浮かんだ音を放出できない状態の方がストレスになる。三日ほど自室で十分に休みを取った美雪は、その間に作成した楽曲をコズプロに提出しようと花鳴館を出た。

 その帰り道に見つけたのが天城燐音だった。肘をついて脚をおっ広げて椅子に座り、台本と思わしきものを手に持って唸っている。特に用事もない美雪は彼に声を掛けた。

「……天城さん」
「うおっ⁉」

 静かに近寄られ気配を取れなかった燐音が飛びあがると椅子が大きな音を立てた。お化けでも見るような目で振り返った燐音は美雪を見下ろして「なんだよ……」とへにゃりと座り込む。

「あのさぁ、美雪ちゃん」
「……はい」
「そんだけの顔持っててステージでもオーラ出してんだからさ、日常生活でも出したら? ヌッて出て来られて心臓止まるかと思ったぜ……」
「……出したり引っ込めたりしているつもりはないので、天城さんが余程集中していたのではないでしょうか」

 燐音は気まずそうに目を逸らした。その視線の先にあるものは数秒前まで手に持っていた台本で、美雪は表紙に書かれているタイトルを読み上げた。

「……出演が決まったんですね、おめでとうございます」
「いやぁ、大人気アイドルで女優も兼任されている氷室美雪さんに祝ってもらうほどじゃねぇって」
「……お仕事を貰えたのは、あなた方が問題を起こした後に真面目に取り組み、成果を出したからです。……はじめから問題を起こしていなければ、なんて『たられば』の話は止しておいて、評価されたことは素直に喜んでは如何でしょう」
「微妙に針を刺してくるよな美雪ちゃんって。女王蜂にも針はあるんだったな、無いのは交尾のためだけに生きてる雄蜂だけで……ってその理論だと俺っち針無しじゃん。キャハ」

 痛くも痒くもないと言わんばかりに、燐音はケラケラ笑った。その後すぐに笑みは消え、悩まし気なため息を吐く。

「……困ってるんですか?」
「そうだって言ったら助けてくれ……いや、やめとくわ」

 出会ったばかりのとき、スマートフォンで話した際と同じ会話をし掛けた燐音は途中で気が変わった。今、燐音自身が抱えている悩み事を彼女に相談したところで、彼女に何か解決できるとは思えなかった。
 美雪はじっと燐音を見つめ、彼の対面にある椅子を引いた。

「……こういうときは、無理に聞き出すものではないそうですね」
「は?」
「……相手が話したくなるのを待つという手段があります。なので待ちます」
「いや、恐喝じゃん」

 椅子に座った美雪の真っ直ぐな目に燐音は口角を引き攣らせた。いつもの彼なら悩んでいることすら隠せたはずだが、今回は悩みが悩み故に表情に出てしまっている。それが美雪の興味を引いてしまったのだろう。
 燐音は美雪の瞳を見ていると心まで見透かされそうで目を逸らした。

「……」
「……」
「……黙って待ってるつもりか?」
「……変ですか?」
「普通はさ、気を紛らわすようなことを話すんじゃね?」
「……気を、紛らわす」

 美雪はアイドルになってから質問される機会が増えた。インタビューやバラエティなどでも急に話を振られることがあり、それに対応できなければいけない。

「……では、昨日読んだ本の話をしましょう」
「へぇ。どんな?」
「相対性理論」
「あー、そういうのはメルメルと話した方が良いぜ」
「……じゃあ、氷鷹先輩のお母様と共演したときの話を」
「お。その映画観たぜ? あれは泣けた」

 母と美雪の共演を聞いた北斗の荒れ様は凄まじかった。北斗の母は美雪を気に入り、渉に向かって「お前の変な癖がつく前に私がこの子を育てる」と言い、美雪を娘のように可愛がった。勢いのまま喋る太陽のような人に「ほっちゃんどうかしら?」「自慢の息子よ!」「歳も近いでしょ?」「ずっと娘が欲しかったのよぉ」と詰め寄られ、美雪は気の抜けた返事しか出来なかった。自分をプッシュされた事実を聞かされた北斗は「何をしてるんだ!」と怒りながらも満更ではないニヤつき顔だったという。

「すげぇよな、美雪ちゃんは」
「……?」
「デビューしてすぐドラマ出て、映画出て……やっぱさ、キス、シーンとか、あんの?」

 途切れ途切れ言う燐音に、美雪はきょとんと目を丸くした。振り返って見ると、今までキスシーンと呼べるようなものは一つもない。ベッドの上に寝かされたことはあったが。

「……ないですね」
「え、ないの?」
「……若いアイドルだからと、事務所が気にして敢えてそういうシーンを外しているのかもしれません」

 それを聞いた燐音は安心したように肩から力を抜いた。

「そっか……朔間零とあんな映画やったから、何回もしてんのかと思ってた」
「……あの映画は脱がされるだけです」
「だけって。嫁入り前の娘が簡単に言うなよ」
「……でも、少しだけなので。全部脱がすよりもはだけるくらいが興奮すると、脚本家が」
「そういう性癖なんだろーな」

 脚本家や監督というのは性癖を体現しようとする変態が多いもの、という偏見が燐音の中にあった。だが脚本家を全否定できる男というのも少ないだろう。事実、燐音は確かにあの映画の美雪の肌の見え具合にグッとくるものがあった。

「良かったよ……美雪ちゃんのファーストキスが共演者の男に奪われることがなくて」

 安心した燐音がそう言う。キスは結婚してから、の燐音は「はじめて」を大事にしたい男だった。彼女が強いられて、仕事で仕方なく失うことにならずにほっとして零れた言葉だったが、美雪には腑に落ちない。

「……? 私、キスはしたことあります」
「──へぁっ?」

 ポカンと口を開けた燐音の頭に「いつ?」「誰と?」「どこで?」「なんで?」「どうやって?」と次々に疑問符が浮かんでいく。夢を打ち砕かれた気分だった。兎に角ショックで、彼女の食べたら美味しそうなくらいに瑞々しいピンク色の唇を見つめてしまう。

「え、だっ……え? お、お、俺の美雪ちゃんが……」
「……天城さん?」
「う、うぅぅ……ファンだったのに……CDも写真集も保存用と観賞用と……」
「……応援してくれてたんですか? どうもありがとう」
「──裏切ったな‼ この尻軽! ビッチ! それでも好きだ!」

 燐音は頭を掻き毟って立ち上がり、行き場のない感情に地団駄を踏んだ。涙目でキッと美雪を睨む。

「誰だよ、相手の男!」
「……なぁくんです」
「ナギ⁉ アイツいつの間に抜け駆けして……ってか、いつの話⁉」
「……ずっと昔のことなので……いくつだったかも分かりません」
「昔ならノーカンじゃね⁉ 覚えてねぇならノーカンじゃね⁉」

 燐音は必死に凪砂とのキスをカウントさせないようにするが、無意味だった。

「……いえ。はじめてを覚えていないだけで、なぁくんとは数え切れないくらいしてます」
「数え切れないくらい……⁉」
「……最近は忙しくてしていませんけど、会ったらほぼ必ず」
「そんな海外の挨拶みたいに……⁉ え、ほっぺじゃなくて? 実はほっぺじゃない?」
「……唇です」
「うわぁあああああああああああッ‼」

 絶叫した燐音に美雪は少し眉を顰めた。一通り叫び終わった燐音は荒く息を吐くと閃いたように顔を上げ、美雪の肩を掴んで問い詰める。

「し……舌は? ベロチューはっ?」
「ぁ……私、それ、ちょっと苦手で」
「にが、て……? したことあんの?」

 美雪は目を伏せてコクンと頷いた。まるで反応を示さない燐音を疑問に思った美雪が見上げると、彼は菩薩のような微笑みを浮かべて石化していた。ぺちぺちと美雪が頬を軽く叩いてみると、燐音は心の底から傷ついたような顔でどんよりとしたムードを醸し出す。

「いや……そうだよな、普通そうだ。美雪ちゃんがキスしたことないなんてねぇよな。死ぬほど可愛いんだ……乱凪砂だってたまんなくなっちゃうよな……くそ、羨ましい」
「……天城さんは、今度お仕事でキスをするんですか?」
「──なっ、なんでそれを⁉」
「……話の、流れ?」
「……美雪ちゃんも話の流れが分かるようになったんだな」

 乱暴に椅子に座り直した燐音は白状することにした。顔に出るほどに悩んでいる事の発端は、出演が決まったドラマのキスシーンだった。

「俺はさ、キスは結婚してから派なんだよ」
「……結婚、ですか」
「うん……だから何つーか、ここでファーストキス失うのか〜って。柄にもなく悩んじまって」

 故郷の古臭い風習に嫌気が差すこともあった燐音だったが、やはり生まれ育った場所の慣習は染み付いてしまっているものだ。仕事は仕事、と割り切ろうにも気持ちは引けている。

「……お相手の女優さんは、好みの女性ではありませんか?」
「あー……そういう問題じゃ、ねぇかな」
「……演技の場で失うのが嫌なのですね」
「そそ。そういう感じ」

 燐音が頷くと、美雪は「ふむ」と数秒考える間を持った。すくっと立ち上がり、燐音に近づく。燐音は椅子に座ったまま彼女を見上げた。

「……では、練習しましょうか」
「練習?」
「私と」
「え」

 美雪は髪を耳にかけ、目を瞑って燐音に唇を寄せた。燐音の唇の端に柔らかい感触。停止した燐音の鼻に甘い匂いが入り込んだ。美雪はそっと離れて「……どうでしょう?」と尋ねる。

「……少し外したんですけど」
「……」
「……天城さん?」

 燐音の顔からボンッと湯煙が上がった。ガタガタッと椅子ごと後退し、美雪を指さして叫ぶ。

「ば、ばばばっ、ばっ、どっ……っせ、責任取れよな⁉」
「……責任?」
「け、結婚しろよ⁉ するからな⁉ 逃げても捕まえて無理矢理結婚すっから‼ 俺と辺境の地で子どもに囲まれて幸せに暮らせ‼」
「……相手が居なかったら、お願いしますね」
「オッ──⁉」

 燐音は白目を剥いて後ろにひっくり返りそうになった。脅迫のつもりが肯定的に受け取られてしまった。自分の願望が叶う日が来るのかもしれないと思うと、燐音はこのまま死んでも良いかもしれないと思う。しかしここで死んでは彼女と結婚できない。彼女が望めば相手なんぞいくらでも湧いて出るだろうが、希望は捨てたくない。

「……良いんだな、マジで」
「……ええ。本当に困ったら」
「本気で受け取るからな」
「……天城さんなら叩かれ慣れてるでしょうから、結婚してファンが激減しても平気そうです」
「そういう理由?」

言質を取るように確認した燐音だったが、彼女の言う事は本気にしない方が良いだろうと心を落ち着かせる。一生忘れることはないだろうが。

「ってか美雪ちゃんさ、思わせぶりなこと言うの止めておいた方が良いぜ? 前にこはくちゃんが結構キレてたんだけど」
「……桜河くんが?」
「うん。浮気されたーって」
「……浮気?」
「美雪ちゃんがその気にさせてんだって。男ってちょっと優しくされたら『俺のこと好きなんじゃね?』って思っちゃう生き物なんだよ」
「……私が悪いんですか?」
「いや美雪ちゃんは悪くねぇよ」

 即答する男だった。
 美雪は燐音の忠告を胸に留め、そろそろ退散しようかと思い身を翻すが、燐音に手首を掴まれる。

「ね、美雪ちゃん」
「……はい」
「さっきのちゅーさ、〇・五じゃん?」
「〇・五?」
「ちゃんとしてくんない? 俺のマウスヴァージン奪って。美雪ちゃんにあげちゃう」

 頼まれた美雪は躊躇うことなく燐音にキスした。燐音は至近距離にある長い睫毛にときめきながら目を瞑り、離れていく彼女を切なく思う。

「……ありがとな。いい思い出できたわ」
「……それは良かったです」
「おう。これでちゃんと仕事できそう」
「……頑張ってください」
「うん。あ、美雪ちゃんとキスしたーって自慢していい? 道端とかインタビューとかで」
「やめてください」
「釣れねーな、ハニー」
「……燃えちゃうでしょう、お互いに」
「いーじゃん。燃えてるくらいがちょうど良いよ、俺も、宗くんもさ」

 燐音が宗の名前を出すと美雪は流れるように目を逸らして燐音から離れて行った。

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