03

 突然、不自然に言葉を止めた一彩に藍良は怪訝な顔をする。目の前で立ち止まられると、藍良にとって一彩は一際大きな壁のようだった。世間知らず過ぎて藍良が主に一彩のお世話をしている風に見えるが、実際は一彩の方が年上だ。これが一年の差だろうか、と藍良は思う。たかが一年、されど一年。藍良も努力すれば身長が更に伸び、顔付きも凛々しくなるのかもしれない。

「ちょっとヒロくん、どうしたの?」
「……」
「ヒロくん? ひ〜ろ〜くん?」
「──あっ、す、すまない、藍良。ぼんやりしていたよ」
「調子狂うなァ、まったく」

 ひらひらと目の前で手を振ったところで一彩は漸く藍良に気が付いた。物音や気配に過敏すぎるほど敏感な彼が此処まで判断を鈍らせている、藍良は不審に思った。一彩が固まり一点に見つめていた場所を見ると、そこには何もない。ただの無機質な廊下の壁だった。

「驚いたな……」
「何かあったの?」
「都会には精霊が居るんだね」
「……は?」

 思わず聞き返すが、一彩は夕日を追いかけて草原を走っているくらいに清々しい何処かキラキラとした表情で、特にふざけているといった印象はない。最も、一彩はふざけているようなことを平然と言ってのけるような部分も持ち合わせているが。

「せいれい? 何それ、ヒロくんの故郷の話?」
「故郷でも居ると聞かされてはいたけれど実際に見たことはないから、ただの御伽噺だと思っていたんだ。だけど今、僕が見たものは確かに精霊だった。あれが精霊でなければ何だと言うんだろう。教えてくれ、藍良」
「いや、そんなこと聞かれても。おれはヒロくんが言ってる『精霊』っていうのを見てないからわからないよ」
「そうか、一瞬で消えてしまったからね、無理もない……あ、でも今からなら追いつけるかもしれないよ。追いかけようか?」
「精霊と追いかけっこなんて、やってる暇ないでしょ〜?」
「む。それもそうか」

 彼らはMDMで結果を残さなければ解雇を言い渡される身だ。落ちこぼれ、劣等生という肩書きを背負いながらも躍進を遂げようとしている。一先ずは盂蘭盆会を乗り越えなくてはいけない。
 藍良は「やれやれ」と首を振った。先程から黙りこくっている後ろの先輩たちと共にレッスン室に向かわなければと思いながら振り返ると、そこには何故か指を組んで祈りを捧げている巽と、床にひれ伏しているマヨイがいた。

「待って⁉ どういう状況⁉」
「Amen……」
「何⁉ 急に祈り捧げないで⁉」
「ひ、ヒヒ、ヒ、フフフ」
「怖い怖い怖い。マヨさん怖いって。ちょっとしたホラーみたいになってるから!」

 腹を抱え込むようにして髪を床に擦りつけているマヨイは不気味な嗤い声をあげながら蠢いていた。テレビの画面から飛び出して来た怨霊のようで、藍良の肌が粟立つ。マヨイは「すみませんん……」と言って髪を乱させながら顔を上げた。頬を染めて涎を垂らしている様に藍良はドン引きする。

「ま、まさかこんなところで、しかも同じ目線でお会いできるとは思ってもいませんでしたので……つい興奮が抑えきれず……フヒヒ、ふひっ」
「え、何? 『お会いできるとは』って……もしかしてヒロくんが言ってた精霊の話? マヨさんにも見えたのォ? 嘘、なんかスピリチュアル関係?」

 マヨイはじゅるじゅると涎を啜って口元を拭った。マヨイは見えてはいけないものが見えていても不思議ではない見た目をしているし、一彩も鈍感そうでいて鋭い感覚を持っている人物だ。藍良は「感じ取れる人たち」だけで通じる話かと思うが、マヨイは首を振る。

「いえいえ、彼女はちゃんと人間のはずですよ。とても人間とは思えない見目をしていますけど」
「おや。俺はあの方はてっきり、天使かあるいは聖母・聖女なのかと思ったのですが」
「タッツン先輩まで見えてるってことは……おれが見逃しただけ?」

 マヨイの「人間だ」という言葉と、常識人枠である巽にも見えていたことから、藍良はそう読んだ。三人に見えていたという「精霊のような天使のような聖母のような人間」の姿が気になり、もうすでに見えないとわかっていても一彩が立つ向こう側を気にしてしまう。

「どんな人だったの?」
「精霊のようだったよ」
「それは聞いたよ」
「聖女のようでしたな」
「それも聞いたってば。おれが聞いてるのは外見的特徴であって、そういう抽象的なのじゃないんだけどォ? ……というか、マヨさんは知ってるっぽかったよね?」
「あっ、はい……」

 マヨイは乱れた髪を手櫛で整え立ち上がった。ギザギザの歯を見せつけてふひふひ笑う。

「彼女は夢ノ咲学院音楽科の二年生です。名前を氷室美雪さん、と言います」
「音楽科……? 彼女はアイドル科ではないのか? あんなに綺麗なのに?」
「アイドル科は男子しか入れないでしょ。他の学科は女子も入れるけどね」
「ああ、確かにそうだったよ」

 藍良に教えられた一彩はその観点は抜けていた、と手のひらをポンと打った。寧ろ何故そんな常識的な部分を忘れているのか、藍良は理解に苦しんだ。

「音楽科ではピアノやヴァイオリンなどの楽器を専門に極めていく方々もいれば、作曲の技法を学び、技術を高めていく方々もいらっしゃいます。彼女は後者、作曲家として活動している方です」
「作曲家……つまりレオ先輩と同じ職業の人か」
「月永先輩はアイドルもやってるけどね。作曲家が本業だ〜って言ってるけど」

 一彩の言う事にいちいち突っ込みや訂正を入れていると埒が明かない。どんどん話が脇道に逸れて行ってしまう、と思った藍良はマヨイにアイコンタクトを取って続きを促した。つぶらな瞳にマヨイは笑みを深める。

「ふふ、藍良さんもご存知かと思いますよ?」
「へ?」
「彼女は『名波哥夏』というペンネームを用いて活動していらっしゃいますので」
「──えっ、名波哥夏っ⁉」

 ペンネームを耳にした途端、藍良の背筋がビョンと伸びた。一彩と巽は不思議そうにしている。

「う、嘘⁉ 名波哥夏って、あの『名波哥夏』⁉ うわぁっ、会いたい! 顔出ししてないのに『めっちゃ美人』っていう噂が流れてるけど、ESにも出没するの⁉ ってかなんでマヨさんは名波哥夏の顔を知ってるのォ〜⁉ 知り合い⁉」
「知り合いだなんて滅相もない」

 苦笑いを浮かべてやんわりと首を振るマヨイの前で、藍良は目をキラキラさせて飛び跳ねていた。

「有名な人なのかい?」
「ヒロくんってばほんっと世間知らずなんだから! 名波哥夏って言ったら、Valkyrieを筆頭に夢ノ咲学院出身の多数のユニットに楽曲提供してるっていう、月永先輩と並ぶくらいの天才作曲家なんだからね⁉ あまりの作曲スピードの速さとユニットによって全く異なる曲調に、SNSでは『名波哥夏は九人いる』って言われてたり、Valkyrieのファンの中には熱狂的な信者が居たり……」
「なんで九人なのかな? 十人の方がきりが良いのに」
「もうっヒロくん黙ってて! オタクの語りを遮るのは罪! ギルティ!」

 びしーっと指をさされた一彩はきょとんと目を丸くして藍良の人差し指に焦点を当てた。藍良はお行儀が悪いことをしてしまったと密かに反省しながら指を引っ込め、手を合わせてうっとりと天井を見上げた。立ち話もなんだということで、四人はそのままレッスン室に向かって歩き始める。

「ああ……いいなぁ、みんなは名波哥夏を見たんだ……精霊とか聖女に思われるくらい綺麗な人ってことだよね……」
「藍良は彼女の曲だと何が好きなんだい?」
「え、ええっ? 一番を決めろって⁉ そ、そりゃあ、Valkyrieの……いやEden……? ああでもUNDEADと紅月も……ううっ、一個になんて絞れないよ〜!」
「藍良さんにそこまで好かれている作曲家ですか……興味が出て来ましたね」
「ウム。彼女の曲を聴いてみたくなったよ」

 一彩は巽の呟きに首を縦に振って賛同した。三人の少し後ろを遠慮がちに追いかけるマヨイは、いつも曲げがちな背骨を伸ばして何故か誇らしげに微笑んだ。

「もう既に聴いていますよ。Trickstarのライブでは彼女の曲が歌われていましたからね。でもその、会場の外に向かう通路の最中に響いてきたものですから、音響の問題でぼんやりとしか聞こえてこなかったと思うんですけど」
「ああ、あの歌がそうなんだね? 直に聴いてみたくなる音色だったよ」

 藍良は「そういえば」とTrickstarがゲストとして出演したライブの記憶を巡らせる。兄である天城燐音を見つけた一彩が駆け出し、他の観客を押しのけちょっとした騒ぎになってしまい、Trickstarのライブを観ることは叶わなかった。それでも、マヨイに導かれた隠し通路でぼやけて響いてきた曲に、藍良は鳥肌が立っていた。実際に会場で聴いていたら涙を流していたかもしれない。

「……それにしても、藍良さんはわかりますがマヨイさんも随分、彼女のことに詳しいんですな」
「ビクッ」

 大袈裟に肩を跳ねあげたマヨイに藍良は(びくって口に出す人はじめて見たな)と密かに思う。そして巽の意見は尤もだと気づき、マヨイを注視した。一彩も真っ直ぐとした目で口を割るのを待っている。居心地が悪そうなマヨイは「あう」と腕を摩り、変な汗を流しながらギョロギョロと目を回した。

「ええっと、その、彼女のことは去年から……見守っていまして」
「見守る」
「見守る」

 一彩と巽がそっくりそのまま単語を復唱すると、マヨイは責め立てられている気分になって肩を窮屈そうにした。藍良はあんぐりと口を開けて叫ぶ。

「まさかストーカー⁉」
「ちちち違います! あ、いや、違わな……いえ! 違います!」
「どっちなのさァ!」
「わ、私は『お願い』されて、彼女を見ているだけですので! 音楽科での監視は不要なのでアイドル科にいる間だけですし、手芸部室で着替えていらっしゃるときとかは、本当に! 目を瞑っていますから!」

 マヨイは風が巻き起こりそうな程にぶんぶん手を振って否定した。藍良はちっとも理解できないマヨイの告白に困り果てた。

「お、お願い? 監視? 全然意味わかんないんだけど……マヨさんは自分の意思で名波哥夏をストーカーしてるわけじゃないってこと?」
「はいっ、ええっと…………あの、たぶん頼まれずとも見守っていたとは思いますが」
「自主的にストーキングするなァ!」
「すみませんすみません! これが私の生き方ですのでスミマセン! 蛆虫以下でスミマセンンン!」

 土下座を始めるマヨイの背中を撫でた巽は「まあまあ」と言って彼を支えて立ち上がった。そして巽は遠慮なしにマヨイにずいっと顔を寄せる。マヨイが身を引こうとしてもお構い無しだ。

「マヨイさん。貴方を疑っているわけではありませんが、行き過ぎたストーカー行為は如何なものかと」
「そんな至近距離で言われなくてもわかってますぅ……! こ、これにはやんごとなき事情がありまして……!」
「藍良。ストーカーとか、ストーキングというのは何だ?」
「そんなのも知らずによく現代日本を生き延びてきたね、ヒロくんは」

 藍良は一彩にストーカー云々について解説しようと軽く咳払いをする。

「ストーキングっていうのは誰かの後を着いてったり、付き纏ったりすること。ストーキングをする人のことをストーカーって言うんだ。ストーキングは相手に恐怖とか害を与えるものだから、『やっちゃいけないこと』なんだよ。アイドルはストーカーされる危険性が高いし、アイドルがストーカーするのもアウト。犯罪だからね、法律でも立派に規制されてる」
「フム……では、マヨイ先輩はそのやってはいけない、間違った行為であるストーキングをしているということなのか」

 恐ろしい程に真っ直ぐな目で振り返った一彩はマヨイに顔を寄せた。巽に続いて後輩にまで迫られたマヨイは心肺停止しかける。

「マヨイ先輩。何か事情があってのことなら正直に話して欲しいよ。僕はALKALOIDのリーダーだからね、メンバーから犯罪者を出すわけにはいかない」
「う、うう……純心な刃が怪物の心を傷つける……」

 猫背になって嘆いたマヨイはフゥと息を吐くと観念したように口を割った。

「ええとですね……美雪さんは由緒ある日本屈指の財閥の娘さんなんです」
「お嬢様ってこと?」
「はい……本来ならSPなり護衛なりが着かなければいけないんですけど、美雪さんの要望でアイドル科にいる間は護衛を外していらっしゃるようで」

 一般家庭で育った者には想像もできないような次元の話だ。SPと言われて藍良の頭に浮かんだのは、海の向こうの国のお偉いさんの周りに立っている黒服だ。それと似たようなものがお金持ちの周辺には待機しているのかと藍良が空想していると、マヨイがまた腕を摩ってぼそぼそと言葉を紡ぐ。

「私はこの通り、地上に足をつけるよりも屋根裏や天井裏などを這いずっている方が性に合っていますので……それに目をつけてくださった美雪さんの執事の方が、私にアイドル科での美雪さんの動向を見守るよう要請してきた、という経緯です」
「……え、それって凄くない? お金持ちから直々にお願いされたってことでしょ?」
「いえ。大したことはしておりませんので……」

 滅相もない、とマヨイは縮こまった。彼が顔を伏せると、長い前髪がダラリと垂れ下がって怨霊のようだった。

「……私は本当に、『見守る』ことしか出来ません。去年なんて、彼女が襲われている現場に駆け付けることが出来ずに狼狽えるばかりで……うう、不甲斐ない」

 穏やかではない単語が飛び出して来たことで巽の顔が険しくなる。藍良もサッと顔を青くした。一彩だけはいつもどおりの表情だが、二人の空気がざわついたのを察知したマヨイは慌てて続ける。

「ええっと、私は何もできませんでしたけど、ちゃんとアイドル科の先輩が彼女を助け出してくれましたし、問題行動をした生徒はきっちり罰を受けましたから安心してくださいっ」
「ああ、それは良かった……過去のこととはいえ悍ましいことにならず、ほっとしております」
「仮にもアイドルを目指してるヤツがそんなことするなんて信じられない……」

 巽は胸を撫で下ろしているが、藍良は怒りを纏っている。藍良はアイドルを愛しているからこそ、アイドルとして相応しくない行動をする人間を許せなかった。それこそ、『アイドルもどき』だ。

「……あ。話が逸れてしまいましたけど、つまりストーカーではありません! 似たようなことをしていますがこれはほんの誤差です!」
「ウム、説明してくれたから事情はわかったよ。頼まれてストーキングしているのであれば犯罪にはならないんだよね、藍良」
「う、ううん? おれは法律の専門家じゃないからわかんないよ。この場合、訴えられたりしたらどうなるんだろう?」
「ヒッ」

 引き攣った悲鳴を漏らしたマヨイをちらりと窺った巽は「ふむ」と熟慮する。

「まあ、マヨイさんの存在に彼女が気づいていないのであれば、ストーキングされて不快に感じることはないでしょうし、マヨイさんが相手を害し、恐怖を与えているということにはならないでしょう」
「ほっ……」
「ばれなきゃ犯罪じゃない、みたいな理論だなぁ」
「ふふ。一休さんと呼んでください♪」
「頓智というか屁理屈というか」

 話が一段落したところで丁度レッスン室の前に辿り着いた。今日も今日とて盂蘭盆会に向けた稽古の始まりだ。

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