04

「うおあああああアアアアアァァンッ‼ せなっち聞いてよぉおおおおおおおおっ‼」
「……ねぇ、時差って知ってる?」

 お肌のゴールデンタイムに合わせてスキンケア、ボディケアを施してベッドに入った泉は、友人からの連絡で沈みかけていた意識を強制的に現実に戻させられた。電話に出るとギャアギャアと喧しい薫の声が泉の耳から頭を劈く。キーンと鈍く響く頭を押さえた泉はビキリと額に青筋を立てて、呆れながら薫に皮肉った。電話口の薫は心外だったのか瞬時に我を取り戻す。

「え、イタリアとこっちの時差ってせいぜい七、八時間でしょ? ならまだ深夜一時じゃん。夜はこれからだよ」
「一緒にすんな。朔間に生活リズム合わせすぎなんじゃなぁい? 早寝早起きはモデルなんだから当たり前、肌荒れちゃうでしょ〜? アンタもアイドルなんだからそんくらい心掛けなよ」
「も〜、お小言は勘弁だよ。ここ最近は真面目にやってるのに……」

 薫が珍しく弱気になっていると思った泉は、このままぶつ切りにするのは哀れかと思いベッドから起き上がる。イタリアの夏は日本ほど湿気がないため、体感温度はそこまで高くない。とはいえこの時期は冷えたドリンクを胃に入れがちだ。それでも泉はプロ意識と根性で常温のものを口に含む。体を冷やしては代謝が落ちてしまうからだ。借りた部屋の隅に積んだ段ボール箱からミネラルウォーターを取り出す。

「で?」
「ん?」
「かおくんからすると朝っぱらから……まあこっち深夜だけど、態々俺に電話してくるってことは、何かあったんでしょ? 自分で『聞いてよ』って言ったんじゃん」
「そう、そうだよ! 聞いてよ、せなっち!」
「はいはい、聞くから」

 前までは鬱陶しくて相手にもしようとしていなかった泉だったが、高校三年の一年間でクラスメイトとの距離感も縮んだ。ペットボトルの蓋を緩めてコップに注ぎ、口につけたとき、薫から爆弾を投げ入れられる。

「美雪ちゃんに彼氏ができたの!」
「──ッ⁉ ブッ、ふ、オエェェッ!」
「え、せなっち吐いた⁉ あまりのことに拒否反応が出たんだねっ、わかる。わかるよ!」

 綺麗に口から噴水した泉は肩で息をして薫に唸った。地獄の閻魔ですら裸足で逃げそうな暗黒を纏っている。

「……どこの馬の骨? まさか斎宮?」
「ううん、斎宮くんではない」
「じゃあ誰だ……? れおくんは最近美雪から拷問されたって話しか聞いてないし」
「え、何それ初耳なんだけど。拷問?」
「待って、百歩譲って斎宮ならまだわかるというか、誰? まじで誰? 相手の男は俺より気が遣えて俺より綺麗で俺より美雪の世話をしてるヤツ?」
「ねぇねぇ、その拷問って気持ちいいヤツ? 俺も美雪ちゃんの拷問受けたい」
「話が嚙み合ってないんだけどぉ⁉ ちゃんとキャッチボールしてよねぇ!」
「いや兎に角拷問が気になって」

 各々好き勝手に話すせいで会話のドッジボールになっていた。深呼吸をして無理矢理自身を落ち着けた泉は一先ずタオルを引っ張ってきて床にぶちまけた水を拭いた。

「で、誰」
「わかんない」
「わかんないって何」
「わかんないもんはわかんないんだって。俺が聞いたのは電話だから」
「電話ぁ?」
「うん。電話してる相手にさ、美雪ちゃん、言ってたんだ──ダーリンって!」
「ダ」

 決定的な単語に思えた泉は復唱しようとして喉が突っかかり、何か不思議な生き物の鳴き声のような音しか発することができなかった。息を飲んで目を回し、打開策を見つけようとする。嫌な汗が噴き出るのは夏の気温のせいではない。

「……そ、そういう渾名のヤツ、とか?」
「無理がない?」
「だって! 美雪は男のことをそういう風に呼ぶ子じゃないでしょ⁉ そんなっ、クリスマスにイチャコラしておいて一週間後に速攻喧嘩別れする頭の悪い男女みたいな、上辺だけの惚気リア充みたいな呼び方……ううう、俺の美雪は彼氏をそんな風に呼ぶ子じゃない! 彼氏なんて認めない! お兄ちゃんは認めないからねぇ!」
「例えが物凄く具体的というか偏見の塊みたいな台詞だったんだけど。ところでお兄さん、美雪さんを僕にください」
「やるか阿呆。俺だって美雪に求められたら喜んで応えるし、美雪に相応しい男がこの世に居ないとわかったら俺が美雪と結婚する」
「近親相姦! 兄失格!」
「別に俺は血の繋がったお兄ちゃんじゃないからね〜♪ ま、そうなったら豊(ゆたか)さんにご挨拶しなきゃだけど」
「ああ、美雪ちゃんのリアルお兄さんね」

 今度こそミネラルウォーターで喉を潤した泉は薫の返しに目を丸くする。二人は美雪と豊に血の繋がりがないことを知らない。知っているのは旧fineと宗くらいだ。

「へぇ、かおくんもちゃんと知ってるんだ」
「そりゃあね。有名なモデルさんだし、俺だって一応イイトコのお家出身だから会ったことはあるよ。いやぁ、でもそっか、豊さんのことが抜けてたな。あの人に挨拶かぁ……ハードル高いなぁ」
「豊さんってどんな感じの人なの?」

 独り言のように吐く薫に疑問が浮かんだ泉は、美雪の兄に会ったことがあるという彼に『氷室豊』の人となりを尋ねる。泉はモデル業界にいるため美雪の兄の名前も顔も知っている。ただフィールドが違うため、泉は彼と仕事をしたこともなければ会ったこともなかった。イタリアではなくフランスを拠点にしていれば彼と遭遇できたかもしれない、と泉は薄っすら考える。

「えぇ? そうだなぁ…………穏やかなんだけど、強かで、威圧感が凄い人、かな。近寄り辛かったよ、挨拶くらいしかしてないけどね。たぶん向こうも俺なんか眼中になかったし」
「威圧感……オーラか。世界レベルのモデルだと、やっぱりオーラから違うんだね……」

 先程のお返しというわけではないが、泉も独り言のような呟きを発した。イタリアで自分試しをしている泉にとって、世界で活躍しているモデルの話を聞いて参考にしようとするのは理にかなった行動だった。
 薫は自己完結している泉の言葉に引っかかったのか「う〜ん」と頭を悩ませる。

「オーラ、ねぇ。あれはオーラで良いのかなぁ……そういうのじゃなくて、もっとこう、やばそうな雰囲気っていうか……あ、『体格の良い天祥院くん』って感じかも」
「天祥院ンン? 豊さんって性格悪いんだ」
「俺たちの代って天祥院くんのイメージ凄まじいよね」
「なぁに? アンタが言い始めたんでしょ〜? ……ってなんでこんな話してるんだっけ」
「え? そりゃあ、美雪ちゃんの結婚の話……──って違うよ! 彼氏の話!」
「そうじゃん! 何忘れてんの、そんな大事な話!」
「そっちこそなんですけど⁉」

 話がどんどん脇道に逸れてしまっていたことを思い出した二人は互いに互いを罵った。
 泉はミネラルウォーターを飲み干して机の上にコップを置いた。ペットボトルの中にはまだ三分の二ほど残っているが、これ以上は飲み過ぎだ。日の当たらない位置にペットボトルを移動させ、本題に戻る。

「ダーリン呼びイコール彼氏ではないでしょ」
「え、そうかなぁ? じゃあ聞くけど、ダーリンってどんな人に使う呼称?」
「……ヨシダ、リンとか?」
「日本に何人か居そうな名前だけど無理があるって」
「五月蠅いなぁ! かおくんだって美雪に彼氏がいるって認めたくないなら苦し紛れに現実逃避の案を出しなって!」
「現実逃避って自分で言っちゃったよ」

 ソファに勢いよく座った泉は苛立ちで踵を床に打ち付けた。そもそも、美雪が「ダーリン」と言っている現場を見たと言う薫に詳細を聞いていない。泉は当時の状況を聞いてから判断しようとする。必死だ。

「美雪はどんな風だった? 彼氏に電話する感じ? 特別な人に電話してる感じだった? ダーリンの呼び方は? 甘かった? 音符ついてた? ハートついてた?」
「一気に聞かないで……別に、いつもの美雪ちゃんだったよ。平淡で無感情」
「じゃあ彼氏じゃないね」
「いやいや、それで断言するのは難しいでしょ。美雪ちゃんが世間的な恋人関係を理解してるとは思えないもん」
「でもあの子、子どもの作り方は知ってるよ」

 今度は泉が爆弾を投下した。電話の向こうでコーヒーを飲んでいた薫は気管に入って「げほっごほっ」と咽る。

「えっ、嘘⁉ 誰が教えたの⁉」
「コズプロのおでん」
「は? 誰?」
「Edenの連中。俺はそう呼んでる」
「一文字違うだけで随分庶民的になるね」

 薫は静かな突っ込みを入れた後にボスン、と寮の部屋のベッドに横たわった。

「な〜んだ、美雪ちゃん知ってるんだ〜……純粋なままで良かったのに。無垢な天使のままで良かったのに。俺が初夜に手取り足取り教えてあげるつもりだったのになぁ……」
「通報した」
「冗談冗談」
「半分?」
「本気」
「はい通報」
「待ってってば。というか何でせなっちは美雪ちゃんがEdenさん達から教わったって知ってるの?」
「斎宮がそれが原因でブチ切れてたからさ。コズプロに所属するのが決まって挨拶した日かなんかに斧持って振り回してたよ」
「よく捕まらなかったね斎宮くん」

 また話題が逸れていると感じた泉は軌道修正を測った。平淡に「ダーリン」と呼んでいただけでは情報として弱い。発言者が美雪の時点で、呼び方だけで相手が彼氏であると決めつけるのは難しかった。認めたくない、というのもあるだろう。

「美雪はその電話中、他に何か言ってた?」
「ん〜……生憎、俺は地獄耳ではないから、そこまでは聞いてないや」
「話の内容がわかれば、美雪に彼氏ができた説を壊せると思ったんだけどなぁ……」
「……これ言ったら決定的かな、って思って黙ってたんだけど」
「何」

 泉は薫が目の前に居るわけでもないのにソファから身を乗り出していた。ごくりと唾を飲み、カメラの前に居るかの如き表情で薫の言葉を聞き逃さないよう耳を澄ます。

「俺が話しかけたら、ちょっぴり慌ててたんだよね、美雪ちゃん」
「…………」
「知られちゃ不味い、みたいじゃない?」
「…………」
「特に、美雪ちゃんってさ、前に『好きなアイドルが結婚したら嫌』って言ってたこともあって。……そういうのに敏感な子だとしたらさ、もしかすると相手がアイドルで、周りに交際をばれちゃいけないって思ってる説、ない?」
「…………」
「『今の電話、誰?』って聞いたら『内緒です』って言われちゃったし、目合わせようとしないし」
「…………」
「そろそろ何か喋ってくれない?」
「五月蠅い。今相手を炙り出してる最中」
「誰だと思う?」
「取り敢えず斎宮とれおくんは候補から外れた」
「だよね。斎宮くんは『ダーリン』なんて呼ばせないだろうし、月永くんだったらせなっちに話行ってるはずだもんね」
「うん。なんも聞いてない」

 レオは半分ペットみたいな扱いを受けていた。飼い主である泉が把握していないのであればレオではないだろう、と薫も既に判断している。

「……俺ともかおくんとも関わりが浅いヤツかな」
「かなぁ? ……俺の一位候補言っていい?」
「どうぞ」
「凪砂くん」
「おでんのリーダー? なんで?」
「なんかね、めっちゃ美雪ちゃんと仲良いらしいよ。風の噂で聞いた。あと美雪ちゃんと彼、波長合いそうだし。なんとなく」
「アンタそいつと同室でしょ? 聞いたの?」
「聞けるわけないじゃん! 滅茶苦茶そわそわしながらチラチラ見てるけど! 怖い顔で『何か用?』って聞かれるから踏み込めないの!」

 怖い顔と薫は称したが、それは凪砂の真顔だ。同室になってから彼が見た目よりも和やかな人物であることを薫も理解してはいたが、「凪砂ってさぁ〜彼女いる〜?」なんて気安く話しかけられるほど距離は縮まっていなかった。
 泉は次なる彼氏候補が頭に浮かぶ。

「……大穴で影片」
「えっ、影片って、斎宮くんの横にいる?」
「うん。間抜けな顔しておいて油断した斎宮から美雪を掻っ攫ってる腹黒かも」
「……確かに。斎宮くん信者っぽいし悪意というか邪気がないから自然と候補にも挙がらなかったけど、斎宮くんの次に美雪ちゃんに近いし──ってか斎宮くんは海外だから今影片くんが一番美雪ちゃんに近いんじゃ……!」
「影片で確定だね。アイツなら『美雪ちゃ〜ん、ダーリンって呼んでや〜♡』とか言って呼ばせてる可能性高い」
「せなっち関西弁下手くそだね」
「うっさい」

***

 翌日。

「うおあああああアアアアアァァンッ‼ せなっち聞いてよぉおおおおおおおおっ‼」
「……何これデジャブ?」

 二十四時間前と全く同じ時間、一言一句変わらない台詞を電話口で叫んでいる薫に泉は頭痛がした。イタリアはまたもや深夜だ。

「今度は何。ってか美雪の交際相手わかった?」
「今さっきね! 登校する影片くんとばったり会ったから聞いたの!」
「何て?」
「『美雪ちゃんと付き合ってるの?』って!」
「直球に聞いたねぇ。で?」
「『そんなわけあらへんよ!』って全力で否定された!」
「アンタも関西弁下手くそだと思うんだけど」

 みか本人に聞いてもその反応。そもそも美雪の彼氏も交際の事実を隠そうとしているのであれば、相手がわかるはずもないのだが。

「あの子、嘘なんてつけるタイプじゃなさそうだもん……たぶん白だよ」
「ふーん、そっか……じゃあおでんリーダーなのかな」
「勇気出して凪砂くんに聞いてみたよ、せなっち。俺を褒めて」
「よくやった。褒めて遣わす」
「かたじけない」

 謎の時代劇ごっこを繰り広げている場合ではない。薫は咳払いをして、凪砂に言われた言葉をそのまま泉に再現しようとする。

「『……私と美雪は、運命共同体。生まれる以前より、共にあることが宿命づけられていた。私と美雪は二人で一人』……だって」
「は? 何? 仮面ラ*ダーなの?」
「Wね。もりっちが戦隊モノだけじゃなくてライダーものまで詳しいから覚えちゃったよ」
「どっちも日曜にやってるからね」

 凪砂の物真似をしている薫の表情は泉には見えていなかったが、薫は目をきりりとさせて声のトーンを落とし、ゆっくり喋ってみせた。
 久々に暑苦しい男の顔を思い出した泉は頭を振って本題に戻る。

「乱って夢ノ咲にいるときから何考えてるかわかんなかったけど、電波系なんだ? ってかその台詞じゃ付き合ってるのか全然わからないんだけど」
「付き合う必要なんてない、って言いたいんじゃない? よくわからないけど滅茶苦茶マウント取られたことだけはわかったよ、ドヤ顔だったし。同室なのに大丈夫かなぁ……仲良くできるかなぁ……実は美雪ちゃんと付き合ってるの、俺だったりしないかなぁ」
「どさくさに紛れて何言ってんだ」
「俺も美雪ちゃんにダーリンって呼ばれたい」
「俺も。……あ、いやダーリンよりお兄ちゃんかな」

 また振り出しに戻ってしまった二人は願望を曝け出した。
泉はレオに「美雪に彼氏ができたらしい」なんて言ってしまえば、彼が作曲にすら手をつけられなくなると思って言えていない。薫も泉以外の誰にも相談することができず、色んなアイドルとすれ違っては(コイツか……?)と疑心暗鬼になっている。相棒の零にすら「薫く〜ん♪」と挨拶をされただけで睨んだ始末だ。零はかなり戸惑っていた。

 この後、薫に尋ねられたみかが嵐に「美雪ちゃんと付き合ってるんかって聞かれたんよ」と零してしまい、そこから噂が広まって『美雪ちゃんの彼氏は誰』と犯人捜しをする輩が出始めた。みかから電話で聞いた宗はすぐさまジェット機で飛んできて、

「誰だ! 君を誑かしているのは!」
「……何の話です?」
「だからっ、彼氏だよ! 君の交際相手! ダーリンなどとふざけた渾名で呼ぶよう指示されたのだろう⁉」
「…………そ、そんな人、いません」
「──ヒ、ヒィィイイッ‼」

と美雪を問い詰めて破滅し、噂を聞いてしまったレオは「この世から一切の音が消えた」と一週間ほど放心状態になった。

prev

next