06

「斎宮さん、助けてください!」

 Valkyrieのツアーの準備のために帰国していた宗が廊下を歩いている最中の出来事。後ろから切羽詰まったように助けを求めたのはスーツ姿の男だ。慌てて走ってきたのか、シャツもジャケットも草臥れた様子だった。
 呼び止められ振り返った宗は、息を切らしているその男に見覚えがあった。

「貴方は確か、美雪のマネージャーの?」
「はい、倉見です!」
「いつもあの子がお世話になって」
「はい、それはもうお世話をさせていただいて……って、すみません、挨拶をしている暇はないんです。どうかご尽力を」
「?」

 宗が頭を下げようとすると、倉見という男は切羽詰まったように遮った。

「美雪さんが姿を消したんです」
「──は?」
「自室にも居ないし電話をかけても繋がらないし、たぶん仕事用のスマホを置いていったか電源を切ってるかのどちらかだと思うんですが……これから番組の収録があるっていうのに。ああもうっ、どうして急にこんな……」

 倉見は一通り宗に伝え、固まっている彼に尋ねる。

「美雪さんが行きそうな場所、御存知ありませんかっ? スタッフがファンシーショップとか、ES周辺を走り回ってはいるんですが……」

 宗の脳内では最悪の妄想が繰り広げられていた。
 彼女が姿を消した。誰もが魅了される乙女に目が眩み、かつてのゴッドファーザーや氷室豊のように彼女を拉致監禁した可能性。もしくは、美雪がデビューしてから恐ろしいくらいに成りを顰めている氷室豊が今度こそ彼女を手にかけようと攫ったか。
 宗の心臓がどくどくと血を全身に行き渡らせる。その音が、宗の耳に嫌というほど響いて来た。汗が吹き出す。

「防犯カメラは、見ましたか」
「はい、確認済みです」
「不審者は」
「分かりません。美雪さんが花鳴館を出て行く様子なら映っていましたが、それ以降は……」

 宗はわずかに震える手でスマートフォンを取り出し、彼女に電話をかけてみる。マネージャーは仕事用の番号しか知らないため、彼女が宗からの連絡に応じるのを祈るしかなかった。
 電子音は思いのほかすぐに途絶えた。

「美雪っ? 無事かい?」
「……えぇ。何か」

 淡々としている返答に宗は気が抜けた。どうやら彼女が無事らしいことが分かり、倉見にアイコンタクトを取った。

「君、今どこに居るんだい?」
「……空港です」
「空港? 何処に行こうとしているの?」
「……そうね」

 彼女の返答を待つ間、宗は電話越しに空港のアナウンスを聞いていた。美雪は思いついたように言う。

「……ウィーンには行きたいけど、最初は何処にしようかしら。ローマ、ベルリン、アテネ、ロンドン……どれが良いと思います?」
「ヨーロッパに行こうとしているのかいっ? 君は僕の個展に出席する以外は日本に居るのが殆どだろう? 仕事だって国内に溢れているはずだ。リズムリンクというか、世間が君を望んでいるからね。多忙な君が旅行を楽しむ暇はないと思うのだけど……ああいや、勿論休暇は必要だし、労働に見合った休みを事務所は与えなければならないのだけれど」

 宗の台詞を横で聞くマネージャーは肩身が狭くなっていった。彼女に圧し掛かる負担の重さを早い段階で察知していた陣と章臣が動き、宗とレオが彼女に助言したこともあって、去年の冬は彼女に休暇が与えられた。しかし、それ以降彼女の体が十分に癒せる期間の休みが与えられた試しがない。彼女が仕事をしなければリズムリンクは経済的に潤わないということが、その長期休暇で証明されてしまったからだった。

「今日も仕事なのだろう? 今、君のマネージャーが近くにいて、僕に泣きついてきたんだよ。……僕は君の味方だよ。でもね、何らかの事情があるのかもしれないけど、期待されて用意された仕事を蹴ってしまうのは君の名前やキャリアにも傷がついてしまう。だから今日のところは我慢して、戻ってきてくれないか」

 彼女の行動の理由を聞くのはその後でも遅くないだろう。今は収録に間に合わせることが第一だと考えた宗はそう判断して彼女を説得した。
 電話の向こう側の美雪は、彼が自分の味方をしてくれないことに落胆している。

「……いっそ傷をつけてしまいたいくらい。そうすれば不要になりますものね?」

 静かな声に宗は一瞬、口を噤んでしまった。沈黙が訪れ、宗は恐る恐る彼女の名を呼んだ。

「……もう沢山。悪辣な連中に囲まれて搾取されるように働かされるなんてうんざり。私を未だにお利口なお人形さんだと思ってるみたい。嫌で嫌で嫌で仕方ない。自由に成れたのに、ちっとも楽しくないんだもの。我慢して我慢して我慢して、楽しみを奪われた私は、それでも我慢しなければなりませんか? この我慢はいつまで続く? 死ぬまでずっと? 人類は歴史を振り返り学ぶのではないのですか。愚かに繰り返すだけなら何の意味もない」
「……美雪。人生は楽しいことばかりではないよ」
「分かってます、そんなこと。貴方を失いかけたときに学んだ。夢ノ咲で、先輩方に沢山教えてもらいました。でももう、限界なんです。私いっぱい我慢したのに、頑張ってるのに、貴方もレオさんも全然帰ってきてくれないし、私、ずっと一人なんだもの。三人で一緒だと思ってたのに。……苦しい……寂しい、悲しい。悲しいよぅ、ふぇ、うう……」

 彼女が泣いているのも関わらず不覚にもキュンとしてしまった宗は口角が上がらないよう口を押さえつけた。唇を噛みしめる宗を倉見は不思議そうに眺めている。
 美雪を説得しようと厳しい言葉もかけようとしていた宗だったが、彼女がそこまで言うならと吹っ切れた。

「そういうことなら好きにすると良い」
「え、ちょ、斎宮さん⁉」

 横のマネージャーが喧しく騒ぎ始めても宗は無視した。

「そうだね、その中なら最初はイギリスが良いんじゃないかな。ヨーロッパの主要都市を回って行くつもりなら、ロンドンには空港が沢山あるから便利だろう。拠点にするなら僕はロンドンを薦める」
「わかりました。ではロンドンにします」
「ああ。バカンスだね、楽しんでおいで」
「……落ち着いたら貴方も来てください」
「是非」

 軽やかに電話を切った宗は愕然としているマネージャーを見下ろすと「そういうわけですので」と爽やかに笑った。斎宮宗は飽くまで麗しの少女の味方だった。

***

 事の経緯を聞いたレオは、宗が使い物にならないからという理由で自分に話が回ってきたことに苦笑いを浮かべる。レオは自分が変人の部類であることを理解しているし、スケジュールの管理なども泉に任せっぱなしではあるが、氷室美雪に関連することであれば周りからある程度の信頼は得ることができているようだ。

 美雪がイギリスに経ってから約一週間が過ぎていた。美雪がいつまで日本に戻らないつもりなのかは知らないが、番組の収録は勿論ドラマの撮影も進められない状況だ。関係者に迷惑をかけているという事実は変えられない。今まで何でも受け入れて黙々と熟していた彼女もまた、我が侭で偏屈で使い勝手の悪い芸術家なのだと、リズムリンクは今回の一件で学ぶことになった。常に気ままに生きているレオと常に頑固に生きている宗に比べれば、ため込んでため込んで爆発するタイプの美雪は扱いさえ気をつけていれば問題はない。

 美雪が我慢の限界になったのはValkyrieのツアーと自分の仕事が重なったことが原因だった。これまで仕事続きだった美雪はValkyrieのツアーが決まると「その期間には絶対に仕事を入れないように」とマネージャーに釘を刺していた。しかし事務所と彼女の板挟みになっている倉見は、彼女の優しさに甘えようと事務所が美雪に采配した仕事を、その期間に入れてしまった。それを知った美雪は激怒。着の身着のまま飛び出し、執事を呼び出してロンドンにある氷室財閥が所有する屋敷に落ち着いたのだと言う。

 倉見に電話で泣きつかれたレオがロンドンに到着した。イタリアを中心に動いている彼にとって、日本よりも来やすい場所だった。宗に教えられた住所に向かうと、そこには別荘と呼ぶに相応しい豪勢な屋敷が聳え立っていた。インターホンらしきものは見当たらないため、レオは扉についている金具を鳴らしてみた。昔の洋画のような動作に風情を感じていると、中から男が出てくる。

「お。執事さん」
「お久しぶりです、月永様」
「久しぶり〜。あいつは?」
「今はアトリエにいらっしゃるかと」

 現れた執事は「案内します」と言ってレオを通した。壁に飾られた絵画や装飾などを眺めながら執事に着いて行くレオは、彼の背中に尋ねてみる。

「シュウはもう来たの?」
「はい、数日前にいらっしゃいました。日本よりも距離が縮まったと嬉しそうに」
「物理的には確かにな」

 彼が美雪の背中を押したようなものなのだから、宗が一番乗りするのは当然と言えば当然だ。ただ、平然に見えるレオは彼より先に此処へ来られなかったことを口惜しく思う。

 執事がある一室の前で立ち止まった。どうやらここが彼女のアトリエらしい。

「集中していらっしゃるときはノックにも気づかないので、静かにお入りください」
「りょ〜」

 執事はレオにそう言うときっちりとお辞儀をして退散した。レオは言われた通りにドアノブを回し、そっと中を覗き込む。
 隙間からは画材が見えた。アクリル絵の具と首だけの彫刻、キャンバスと筆入れ、イーゼル。音楽ばかりでなく造形美術も嗜む彼女は作曲以外にも没頭できるものがある。

 ペンキの匂いを嗅ぎながらレオが扉を開け切ると、美雪がバケツを振りかぶって絵具をぶちまけていた。

「どぉおおおおッ⁉ 何やってんだお前⁉ お前って『芸術は爆発』系だったっけ⁉」

 レオが思わず飛び込むと、床に落ちた絵具が拡がっていく中心に裸足で立った美雪が、頬や服に絵具をつけたまま振り返る。ぱちくりと瞬きをした。

「……? 何でいるの?」
「うわ、お前のアトリエきったな。シュウが見たら卒倒するんじゃね?」
「……この服は宗さんが作ったものです」
「え」
「……好きに汚すようにと。私が絵を描き終わったときに、この服も完成すると仰っていました」

 はっちゃけた美雪が自由奔放に絵を描き、散った絵具たちによって染められた衣装もまた美しい。宗はそう言いたいようだ。レオは唖然とする。

「嘘だろ? シュウってそういう偶然の産物ってあんま好きじゃないんじゃ……ってかお前もさ、もっと計算して、カチャカチャってパズルみたいに組み立てるタイプじゃなかった?」
「……ストレスたまってるときにそんなこと出来ません」

 美雪は背の高い椅子に座ると絵具がべったりついたキャンバスに筆を置いていく。レオは絵具を踏んで汚れないよう、離れた場所に座って彼女を見上げた。

「お前もちゃんと人間なんだな」
「……何だと思ってたんですか」
「……人外?」
「……確かにそういう役はよく頂きますけど、私自身はたぶん人間なので」
「お前も自信ないんじゃん」
「……出自が明確ではないので。親が人間という確信がないです」
「まあローレライとかウンディーネとか言われても不思議じゃない気はするけど。お前に親っているのかな? お花から生まれた親指姫がそのまま成長したとかない?」

 レオが常々思っていたことを話すと、美雪が怪訝そうに彼を見下ろした。レオは何か不味いことを言っただろうか、と固唾を飲む。

「……変なの」
「え、何が」
「……あなた今、私のこと褒めてませんか?」
「え……あ、うん。そうかも」
「……なんか気持ち悪い」
「はぁっ⁉」

 唐突に罵声を浴びせられたレオは顔を赤くして立ち上がり、ずんずんと彼女の元に歩んだ。絵具が靴についたが、それは今は問題ではない。レオは自分がここに来た目的を思い出し、椅子を揺らした。

「ちょっと。やめて」
「うっせ。降りてこい」
「やだ」
「イヤイヤ期の赤ちゃんめ」
「違います、反抗期です」
「いつまでロンドンにいるつもりだよ。お前が仕事放棄して飛んだからリズリン大変なことになってんだぞ?」

 レオが自分を連れ戻そうとしているのだと悟った美雪は一気に機嫌が悪くなる。ピッと筆を弾いてレオの顔に絵具を飛ばした。レオが喚くと美雪はつーんとそっぽを向く。

「こんの……わがままじゃじゃ馬姫!」
「──きゃあっ!」

 レオが椅子を強く揺らすとバランスを崩した美雪が後ろに倒れてくる。レオはぎょっと目を剥いて両腕を伸ばし、絵具に塗れながら彼女を受け止めた。
 ビチャン、とワンピースの裾が汚れていく。二人は互いに呼吸を止め、一斉に吐き出した。

「……信じられない」
「ごめん」
「……」
「ごめんって」

 素直にしょげているレオを睨んだ美雪は彼の頬に筆を走らせた。両頬に三本線を描かれたレオは最後に鼻の天辺を塗られ、彼女を見つめた。目が合うと、美雪は耐え切れなくなったように笑う。

「ふふ……ははっ。可笑しい」
「……お前、ストレスでネジが吹っ飛ぶタイプな」
「えぇ?」
「ほら、風呂入って絵具落とすぞ」
「あ、ちょっと」

 レオは美雪を抱えて立ち上がり、アトリエの奥にある扉を開けた。これだけ汚れるのだから近くにあるだろうと踏んでいたバスルームは見事、その部屋に位置していた。

「や。まだ」
「乾いたら落とし辛いだろ、これ。アクリルだし」
「いいの」
「良くない」

 水の張ってない風呂に入れられた美雪は風呂嫌いの猫のように不満気だった。逃げようにもレオが仁王立ちして行き先を塞いでいる。美雪は腹癒せにシャワーの蛇口を捻って冷水をレオに浴びせた。

「わぶっ⁉」

 頭から冷たいシャワーを被ったレオはクスクス笑っている女に悪戯心が芽生えた。シャワーヘッドを彼女に向け、自分と同じ思いをさせてやろうとする。

「あっ、やだ、冷たい」
「お前が最初にやったんだからな。覚悟しろよ〜? おひめさ、……」

 水を吸った白いワンピースが重たくなり、美雪の体に張り付いた。体のラインが浮き出て、白が透けていることに気が付いたレオは林檎のように顔を赤くさせ、蛇口を回して止めた。ちらっと盗み見ると、彼女の髪から雫が落ちた。絵具の混じった水が排水溝へと流れていく。

 急に静かになったレオを美雪は不思議そうに見上げた。レオは無言で蛇口を捻り、手のひらで温度を確認する。お湯になった。レオはお湯をすくって彼女の頬についた絵具を取ろうとする。
親指で優しく擦ると、それは思いのほかすぐに取れた。付着してからそこまで時間が経過していなかったのだろう。レオは薄く口を開け、指を彼女の項まで滑らせる。

「……なんで避けねぇの?」
「……?」
「……このままじゃ、しちゃうけど」

 鼻先が触れ合っていた。

「…………キス?」

 たっぷりの間を持って美雪が言った。凪砂と何度も唇を重ねている彼女にとって、キスのハードルはそこまで高くはない。だからこそ燐音の練習台にもなった。
 平静な態度がレオには面白くない。彼は下唇を噛んで指を項から耳へと移動させ、小さな耳の形をなぞった。すると美雪が身を捩る。

「ん、……なに?」
「……なんでもねーよ」

 レオはシャワーヘッドを彼女に押し付けると早足にバスルームを出て行った。

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