07

「よぉーっす。お疲れさん」

 部屋の中にいるのは顎髭を蓄えた男だった。気だるげに声を掛けられた女性は、彼がかつてスーパーアイドルと呼ばれていたことを知っていた。「まあそこに掛けて」と促された女性は言葉に甘えて着席する。

「ふんふん……成る程な。スタプロはお前を推薦したってわけか。確かにビジュアルも悪くないし、仕事の評価もそこそこって感じだな。スタプロが抱えている女性アイドルの中ではお前が一番ってことなんだろ」

 指で髭を擦りながら書類に目を落とした男はふっと顔を上げて女を見た。女性はピンと背筋を伸ばす。これがかつてのステージ上であれば、甘い視線を送られて卒倒するファンがいるのだろう。
 女性の眼差しに、佐賀美陣は満足げに頷いた。

「うん、一番真面。そういうのが必要だよ。いやぁ、オジサン安心しちゃった。ニューディの子たちはどれもパッとしないし、コズプロの候補生はクソ生意気な感じでさ。猫かぶるのが上手なだけかもしれないけど被れるだけマシ。まあ天祥院が回してる場所だから、お利口さんは多いのか」

 真っ直ぐに褒められたのか、あるいは遠回しに貶されたのか。どちらなのかは分からない。女性はどう返したものか悩み、一先ず気の抜けた謝礼をしておく。

「突然ですが歴史の授業を始めます」

 夢ノ咲学院の保健医であるはずの男が人差し指をピンと立てた。

「ここまで来て勉強かよって思うかもしれないけど一応付き合ってね。お前の覚悟を確認するためでもあるから」

 女は再び背筋を伸ばして構えた。これから何を言われても、アイドルになる決意は揺るがない。輝きに満ち溢れた世界に飛び込めるかもしれない可能性を、チャンスを、ここで逃すわけにはいかなかった。

「アイドルの始まり、それはかの有名な伝説のスーパーアイドルとされている。近頃はゴッドファーザーなんて呼ばれ方をしていて、呼んではいけない例のあの人、みたいな感じで本名は呼ばれちゃあいない。その原始アイドルが引退してから、彼の後を追うようにして次々にソロのアイドルが出ちゃ引っ込み出ちゃ引っ込みしたが、誰も原始アイドルの後を継ぐことは出来ず、そうこうしている内にアイドル業界はどんどん衰退していった。それがアイドル暗黒期。俺はそんな中で唯一の希望みたいな呼ばれ方もしてたんだけど、重しが多すぎて嫌気が差して、非行に走っちゃったりしてフツ〜に引退したんだけど」

 軽い失敗談のように語られ、女性は何とリアクションすれば良いか分からなかった。ステージに立てなくなるとしても、アイドルで居られなくなるとしても、当時の佐賀美陣には耐え難いものだった。全ての期待を背負わされることが苦痛だった。

「男性アイドルはソロアイドルからユニット・グループで活動するアイドルが増えてきて、今ではそれがメジャーみたいになっているな。ESが出来たことで、日本国内でアイドルは一大産業みたいに扱われてる。割と冗談抜きで。でもそれは飽くまで『男性アイドル』の話だった。女性アイドルははっきり言って男に比べて陽の目を浴びることが出来ていないし期待もされていない。日本っていう国に長年染みついてた男尊女卑っていう文化の影響が強いだろうな。女は男の後ろを歩くもん、って。ほら、今でもあるだろ? 人手不足だから女性も働きましょうって言う割に育休産休でどーのこーのって。最近の若い連中はそういう意識が大分削がれてきてるけど、お偉いところの爺さんなんかず〜っとさぁ」

 話がどんどん脇道に逸れていることは女性にも分かっていた。指摘して良いものか考えていると、それが態度に出ていたのか「おっと、ごめん」と陣が我を取り戻す。

「話が逸れちまったな。でもまあこういう意識ってすぐ抜けるもんじゃないし、そこら辺をちゃんと理解してないとファンとの交流にも影響出るからな」

 耳を傾ける女は、今まで生きている内にその文化の片鱗に触れてきている感覚があり、彼の言葉に頷いた。

「──だが、そんな女性アイドルが近年急激に注目を集め始めている」

 陣は指を組んで告げた。

「その理由はお前もご存知のとおりだよ。二年前にある女が、華々しく、神々しく、爛々とステージに現れた。皆ビックリしたんだよ。こんな綺麗な子が存在するなんて知らなかった。同じ人間とは思えなかった。綺麗すぎて、可愛すぎて、美し過ぎて。今まで誰にも知られずに何処にいたんだよって。俺も初めてアイツを見たときは、こんなことがあって良いのかって震えた。誰もがその女の子に目を奪われた、夢中になった」

 女性もそのライブを映像で見たことがあった。陣が語るように、女性も「彼女」に魅了されたのを覚えている。

「その女の子はデビューしたばっかりだって言うのに映画に出てドラマに出て、大忙しさ。皆が期待する通りの女の子だった。健気で上品で、愛嬌があって、皆から愛された。その愛は、お金として目に見える数字になった。アイドル業界はその子に依存した。本当なら女の子には一緒にステージに立つ仲間が居たのに、一人で舞台に立たされ続けた。歌わされ続けた。期待と愛と夢に応え続けた。……そう、俺と同じだ。過労で体を休ませる暇もなくて、心細くて、どんどん擦り減って行った。優しい子だからずっと我慢してたんだ。自我が薄いのもあるけど、俺が言っても、あきやんが言っても止まれなかった」

 陣は懺悔するように言う。辛い過去、彼女に一体どんな災いが降りかかったのか、続きが気になるようで、不吉なことが起こりそうで聞きたくないような、女はそんな心境に襲われる。

「で、あるときボンッと爆発した。積み上げてきたものが崩れたっていうのかな。我慢の壺が限界になって溢れてきたっていうのかな。まあどちらにせよだ。その女の子は現在ロンドンに亡命中」

 『亡命』という単語は政治家や王族などに使う単語ではないかと思った女性は目を剥いた。それを見た陣は「ああ、大丈夫大丈夫」と朗らかに言う。

「元気にやってるみたいだよ。作曲したり絵を描いたり、自由にさ。あの赤ちゃん……は言い過ぎか。幼女みたいな子には多分、もっと自由が必要だったんだよ。あのあきやんですら、『縛り付け過ぎた』って後悔してたし」

 陣はそこで「ちょっとごめん」と断りを入れてから湯呑を持って中の温くなったお茶を一口飲んだ。女性はじっと湯呑の底を見つめ、陣が喋りを再開するのを待つ。

「……ま、楽しくやってるとしても、その子に任せられるはずだった仕事は沢山あるわけで、今はそれを進められない状況ってわけ。だったら他の奴に任せれば良いんだけど、あいつは俺みたいに非行に走ってはいないし、『女性アイドル時代の始まり』を象徴するような子だ。しかもあいつがやってただけの仕事を、皆が満足いくように熟せる女性アイドルは、残念ながら探しても見つかるもんじゃない。そりゃそうだよな。あいつは求められるレベル以上のものを齎す、化け物みたいな女の子なんだから。……女の子に化け物は失礼か。『神話上の生物みたいな女の子』にしとこ。存在が奇跡なんだよ」

 湯呑を机に打ち付けた陣は身を乗り出して威嚇する獣のように睨みつけた。

「──氷室美雪っていうのはそういう女だ。お前は、そんな女の隣に立つ覚悟はあるのか? 隣に立てば、その輝きで目を潰され全身を焼かれるような女と、肩を並べる覚悟は。劣等感で押し潰されそうになりながら、観客に違和感を覚えさせない自然な笑顔を貼り付けてアイドルを続けられるか?」

***

 何度目かのロンドンの空を見上げた宗は(晴れている空をあまり見たことがないな)と考える。宗を迎えるロンドンの空はいつだって灰色だった。雨が多い国だと言うのは知識としてあったが、実際に雨に打たれた回数は少なく、ただどんよりとした空が広がるばかり。

 それでも街並みは美しい。宗は紙袋に食材を入れて、愛しい彼女の居る別荘に向かっていた。その足取りは軽やかで、すれ違った英国紳士は彼に釣られて自然と笑みを浮かべていた。

「美雪、月永。戻ったよ」
「おかえり〜」
「……お帰りなさい」

 氷室財閥の別荘に着いた宗はすぐさまアトリエに顔を出した。最初は絵具塗れなことに文句を言っていたレオだったが、今ではそこに寝っ転がって服と五線譜を汚しながら作曲している。美雪は背の高い椅子に座り、パレットナイフでキャンバスを引っ掻いていた。時折レオの鼻歌に耳をすませ、その音はああしろこうしろといちゃもんをつけていることもある。

「ああ……やはり君に出迎えて貰えるのは良いね」

 彼女に「お帰りなさい」と言われるだけで宗は新婚の空気を醸し出した。レオは言いたげな目線を宗に送るが、彼はスルーして美雪に近づいていく。

「今日は君の好きなヴィシソワーズにしようと思うけど、それで良い?」
「……えぇ。ありがとうございます」
「君の舌を唸らせてみせるよ。……これは何処の風景?」
「……サンクトペテルブルク」
「そうか、この間はロシアに行ったんだったね。寒くはなかった?」
「……はい、貴方のマフラーのお陰で」
「ああ、着けてくれたのかい? 嬉しいよ」

 レオは頬を緩めて彼女に話しかける宗を恨めしそうに横目で見て、知らん顔をしてペンを握り直した。五線紙に目を落としても、意識はどうしても二人に向いてしまう。無駄な抵抗だった。

 反抗期で強制的に休暇をもぎ取った、というよりも勝手に開始させた美雪は今まで国内で窮屈に過ごしていた分を取り戻すようにあちこちに飛んでいた。Valkyrieのツアーを終えた宗は不定期に美雪の元を訪ね、レオも仕事がない間はロンドンに身を置くことが増えた。はじめは与えられた任務を遂行しようとしていたレオだったが、気ままに過ごしている彼女を見ていると日本に連れ戻そうという気持ちが自然と失せていった。彼女が楽しいなら、幸せならそれで良いように思えた。

「……おや? 君の携帯が鳴っているようだけど」
「……? どなたかしら」

 椅子から降りた美雪は塗れたタオルで手を拭き、スマートフォンを取った。

「……Добрый день. Как дела?」

 ロシア語だ。電話の相手は誰なのか、宗とレオは耳を澄ませて彼女の会話を聞き取ろうとするが、その決意は美雪の話す言語が切り替わったことで必要がなくなる。

「……今はどちらに居るの? ……あら、そうなの? でもそちらは深夜じゃなかった? ……ああ、時差呆け、ね。慣れるまでは確かに……あ、どうだった? ……本当? 良かった。やっぱりね、あなたなら大丈夫だと思ったの。……ふふ、会えるのが楽しみ。……えぇ、あなたもお元気でね。夜更かしはしないように。……До свидания. おやすみなさい」

 薄く微笑んだ美雪がスマートフォンを置いて振り返ると、神妙な面持ちで黙り込む男二人が目に入る。美雪は不思議な空気を感じながら首を傾げ、椅子に戻りパレットナイフを握った。

「今の誰?」
「ロシアの男かい?」
「どんなヤツ?」
「まさか恋人じゃないだろうね」
「……違います。一気に聞かないで」

 レオと宗は椅子の周りに集まって問い詰めた。電話の彼女が明らかにふわふわしていたからだ。「恋する乙女のようだった」という感想を持つ者もいるかもしれない表情で、二人は気持ちが落ち着かない。

「……女の子です。日本人とのハーフで、サンクトペテルブルクでお友達になりました」
「女」
「本当に? 女性を装った男の可能性は?」
「……何のために女装する必要があるんです?」
「それは勿論、君に近づくためだよ。そうして同性だと油断させて接近してくる男だっているさ。世界は広いからね」
「……でも、ちゃんと名前も教えてもらったし、女の子の名前で」
「偽名かもしれないだろう」
「……学生証も見せてもらいました」
「そんなものいくらでも作れるよ」
「……貴方は人を疑い過ぎです」
「君の危機管理能力が低いんだよ」

 宗に強く言われた美雪は唇を尖らせた。いじけた子どものような顔も可愛くて、宗はでれっと頬を緩めた。レオは可愛さのあまり舌を噛んで眉間に皺を寄せて衝動を耐えていた。

「……女の子のお友達、居ないんですもの。……良いじゃないですか、少しくらい。バカンスの間にお友達を増やしたって」
「音楽科は? 同級生くらい居ただろ?」
「……執事が近くに居たせいで、近寄り難かったみたいで」

 どうやら高校三年間で友人と呼べるものは出来なかったらしい。一年の間はアイドル科に足繫く通い、二年の間はESにまで足を運んでいた。加えて三年時は芸術家三人のユニットの活動と練習に追われていたため、彼女が音楽科の同級らと満足に交流できる時間はなかったのだろう。レオと宗は顔を見合わせる。

「……それに、その子はニューディに女性アイドルとして入ったそうなので、男の子だったら面接の時点で落とされているではずです」
「え、何でウチの事務所?」

 レオが猫目を大きくして聞くと、美雪はため息をついてナイフで掬った絵具をキャンバスに乗せた。

「……Valkyrieのツアーがあったでしょう? そのとき、こっそり日本に帰ったんですけど」
「あ〜、やっぱりあの期間日本に居たなぁ?」
「当たり前じゃないですか。元々全通するつもりだったんです。それなのに愚かなマネージャーと事務所が私に労働を強いて……」
「いや全通するつもりだったのかよ」

 彼女の忙しさでよくもまあ全通しようとしたものだ、とレオは呆れた目を向けた。隣の宗は「僕たちは愛されているね……」とくねくねしている。

「……そしたら、マネージャーが会場に居て」
「まあお前が飛んだ理由がツアーだったんだから、そのツアーにお前が来るって踏んで警備員くらい配置するよな」

 彼女の行動原理を知っていれば誰でも分かるような寸法だ。寧ろ頭の良い彼女がまんまとその罠に引っかかったことが問題。そこまで単純明快に行動するだろうか、とレオは思う。美雪は変装して忍び込んだはずだったが、その変装の仕方が良くなかった。逆に悪目立ちしていた。

「……でも、これだけ迷惑をかけているから、もう私のことなんて放っておいて新しいアイドルを探すかと思ってたんです。なのに、そうはならなくて……『いつになったら帰ってくるのか』って聞かれて」
「君が替えの利かない唯一無二の存在だからだよ。確かに今は羽を伸ばしているけれど、取返しのつかない問題を起こしたわけではないからね。リズムリンクと世界がまだ君というアイドルを求めているということだ」

 ふと、レオは彼女の台詞に疑問を抱く。

「お前、もうアイドル嫌になっちゃったの?」
「……そう、そこに行きつくんです、私も。やっとアイドルに成れたのだから、パパとの約束も果たせたのだから、出来る限りは続けるべきだと思うんです。……でも、これからも今までと変わらずにお仕事をするのは、嬉しい悲鳴を通り越してしまっているから、もう無理です。だから、それを脱却するためにどうすれば良いか考えました。歴史を見て、学びました。私も貴方たちと同じように、同性のアイドルとユニットを組めば良いと」

 男性アイドルの過去と現状を見て、美雪はそうすべきだと判断した。個人に負担を強いられるのを防ぐべく、ユニットという手段を用いる。夢ノ咲学院の革命では個人の力を弱めるために使われた戦法であったが、それは時代のニーズに嵌った。

「……マネージャーにはリズムリンク以外の事務所にも呼びかけるように言いました。うちの事務所だけに任せていると、調子に乗りますから」
「ああ、それはそうだね。リズリンは明らかに君を得てから調子づいている」
「……だから今、たぶん日本では、それぞれの事務所が女性アイドルを集めて、厳選しているはずです。私とユニットを組める女の子を探している」

 美雪は語りながらナイフをキャンバスに滑らせ、ロシアの都市を描いていった。そこで出会った美雪のファンだと言うロシアの少女。父親がロシア人で、母親が日本人だと美雪に語った。

「……仕事用の携帯も電源を入れておいて、マネージャーから偶に報告を貰っているんですが、ニューディはどうもはっきりしないようで」
「すみませんねぇ、ウチはどうしても弱いんですよーだ」
「えぇ、そのようですね」
「おい」
「冗談です」

 そんな軽口を交わし、美雪は続ける。

「だから、サンクトペテルブルクで会った子にニューディを勧めました。さっきのはその報告です。あの子、『早く教えたかった』って……可愛いでしょう? 年下なんです。えへ、私がお姉ちゃん……♪ 同室になったらお世話をしてあげるんです、楽しみっ」
(……なんかコイツ、年下なら何でも可愛いって言いそうだな)

 珍しくへにゃりと笑う彼女の認識がガバガバな気がしたレオは宗がどんな反応をしているのか窺う。彼は嬉しそうにしている美雪の愛らしさを噛みしめるように拳を握っていた。

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