09

 花鳴館の共有スペースにて。設置されているグランドピアノの前に腰掛けた美雪は思うままに、擦りつけるようにして鍵盤を叩いていた。
 共有スペースは文字通り、花鳴館を使用する者たちが集う場だ。つまり彼女らの自室がそれなりに近くにある、ということ。早朝から遠慮無しに演奏することで、セットした目覚まし時計が不要になる者もいた。

 美雪がリーダーの立ち位置になっているユニットに所属し、彼女をオンニと呼び、彼女からマンネと呼ばれるコズプロ女子も同様だった。「なんて傍迷惑な」と目を擦りながら自室を出て共有スペースでピアノをぶっ放している不届き者に喝を入れようとしたら、それが自分のリーダーだったのだから仰天した。ポカンと口を開けて佇み、指が絡まっているかのようにも見えるピアノの超絶技巧を眺めていると、どうやら一曲終わったらしい。美雪は最後の和音をたっぷり伸ばしてペダルをゆっくり解いていく。

「……お早う、マンネ。起こしてしまった?」

 ゆらり、と艶のある髪の隙間から見つめてくる美雪にマンネはびくっと体を硬直させた。いつもぽやぽやしている美雪が、今朝は偉く気だるげで大人なレディのように彼女には思えた。美雪は悩まし気なため息をついて髪を掻き上げた。漂う色香に同性のマンネですらくらっと来てしまう。

「……今の? ショパン。練習曲を順番に弾いてる」

 とても二本の腕だけで奏でられるとは思えない曲を『練習曲』と言われたマンネは目が飛び出るかと思った。

「……練習曲、エチュードと呼ばれるものは、ある特定の演奏技巧を修得するために作成された曲のこと。簡単なものから難しいものまで様々なのよ。……『別れの曲』や『革命のエチュード』なら聞いたことがあるんじゃないかしら」

 マンネのリアクションを見た美雪は解説をして鍵盤で指を躍らせた。美雪が言った曲はクラシックに精通していないマンネでも耳にしたことがあるように思えるものだった。

「……ショパンはいつも忘れさせてくれる。リストも、シューマンも好き。指に全ての集中を注いで没頭できる曲は、よく私を助けてくれる」

 譜面台に並べた楽譜らを手に取っていく美雪は、ある一冊で手を止めた。

「ラフマニノフ……彼は気難し過ぎて何を考えているのか分からない。……どうしても、現代に近づくにつれて技法は複雑化していくものなのだけれどね。先人達が既にやってしまっていることをひけらかすのは恥ずかしいから。二番煎じで、新鮮味に欠ける詰まらないものになってしまうから」

 突然語られてもマンネには理解することが出来なかった。首を傾げて固まり、早朝からピアノを弾いていたリーダーに「何かあったのか」と問う。すると美雪は息を吐きながら目を瞑り、薄く目を開けてフローリングを眺めた。共有スペースに置かれた時計の針の音が普段より大きく聞こえる。

「……ねぇ。マンネは好きな人っている? ……どうしてそんなに慌てているの? ……ああ、私にスキャンダルがあると思ったのね。ううん、そうじゃないのよ。……そうじゃないけど、そうならないと良いな、とは思う。出来るだけ貴女たちに苦労させたくないもの、可愛い妹たちだから」

 そう言われても、マンネは不安に思わないわけがなかった。男性女性に関わらず、昔のように『アイドル業界のタブー』までは言わないが、色恋沙汰は現代でも週刊誌やネットニュースに取り上げられでもすれば炎上に繋がる。その事件が人気の増減に関わるのだ。

「……マンネは恋をしたことある? ……へぇ、そうなの。初恋はいつ? ……そう、小学生。ねぇ、小学校ってどんなところだった? 中学校は? 楽しかった? 韓国にいる間に恋はしたの? ……思い出は美化されるものだと言うけれど、経験したからこそ、素敵な記憶になるのよね。その人を形成するために大切で、貴重なものだわ。……私には、それが無いから。なんだか自分が空っぽに感じるときもあるけれど」

 美雪にとって最初で最後の青春は高校時代だった。それも十分に満喫することができたのは二年間だけ。
 マンネの今までの恋は小学生のとき、クラスで足の速い男の子を好きになってバレンタインにチョコを渡したこと。中学生で部活の先輩に片思いをしていたこと。どれも実らずに終わってしまったが、どれもその程度の淡く青すぎる羞恥の記憶だったとマンネは自覚している。数年前に運命の出会いをして、彼女は此処にいたから。マンネはそのとき、今まで男性にしていた恋の何倍以上もの衝撃と熱を感じた。

「……私の恋? ……さぁ、分からない。とっても大切な人はいるけれど。その人のことを考えるだけで、見ているだけで、満たされる気持ちになることもあるけれど…………どうしたの? 変な顔をして。……それが、恋なの? 私でも分からないことが、マンネには分かるの?」

 眉を下げて唇を噛むマンネを見て美雪は口を噤んだ。彼女が何故そんな表情になるのか、今までの会話の流れを振り返り、考えてみる。

「……ごめんなさいね、変なことを聞いたわ。忘れて頂戴。……これがマリッジブルーかしら。……二人にも内緒にしてね」

 マンネの耳にはしっかり『マリッジブルー』という単語が聴こえていた。自分の運命を変えた氷室美雪という女の口から『結婚』に繋がる言葉が飛び出して来たことに、マンネはどうしようもない不安感に駆られる。気持ちが変に焦って、心臓が可笑しな方向にねじ曲がりそうだった。
 美雪がスタプロ女子とニューディ女子には言わないようにと釘を刺して立ち去った後も、マンネは暫く共有スペースから離れることが出来なかった。

***

 氷室の父の提案のせいで憂欝になった誕生日パーティー。日和の兄と対話を終えた美雪に父は「二十一になるまでに相手が決まらなかったら巴財団の長男と婚約するように」と告げた。
 二十歳になったばかりとはいえ、ユニットになったことで負担が減ったとはいえ。忙しい身の美雪がたった一年で、それも氷室の父が納得できる身分の相手を交際相手として見つけることができるのか。美雪がその気になれば男は蛆虫のように湧くが、今まで色恋沙汰を避けてきた──というよりも、その必要性を感じていなければ、恋心というものを理解できていなかった──彼女にとって、難解な課題を与えられたようなものだった。

 数年前に豊の手にかかり眠りにつく心算だった美雪は、それからアイドルとして活動している内に自分の将来について考えることもあったが、結婚は眼中になかった。今まで仕事で関わってきた芸能人やスタッフらに交際を迫られたことは少なくはないが、「アイドルだから」という理由で断ってきていた。美雪のやんわりとした断り方に調子に乗る者もいたが、彼女の周りにはレオか宗、零か敬人、あるいは執事兄弟などが目を光らせているため、虫は寄り付いていない。

 ゴッドファーザーは自分だけのアイドルを求めていた男だった。その影響を受けているのか、美雪も自分の愛するアイドル──つまりValkyrieには結婚という選択肢を取って欲しくないと思っている。現代では些か古い考え方ではある。

(……でも、お二人の遺伝子は残さなければならない。……相応しい女性を探さなくては)

 美雪は自分の結婚について考え過ぎるあまり、宗とみかの結婚にまで思考が及んでいた。二人を想った結果、氷室の父と同じように結婚を押し付けようとしている。

「あれ、美雪ちゃんじゃないっすか」
「……椎名さん」

 ESの廊下を歩いている内に、美雪は無意識にコズプロに足を運んでいたようだった。

「珍しいっすね、今日はオフっすか?」
「……えぇ」
「あ! そういや燐音くんとHiMERUくんと共演が決まったんすよね? リスビが主題歌の。僕、ドラマの度に新曲を用意する必要があるかと思ってたんすけど、過去に出た楽曲を使用する例もあるんすね〜。燐音くんすっごい張り切ってるんすよ〜、HiMERUくんもニヤついてましたし♪」

 にっこり駆け寄ってきたニキの言葉に、雑念に気を取られていた美雪は(そういえばそんな話もあったな)とぼんやり思う。撮影が終われば次の撮影、それが終われば次の撮影、そのまた次の撮影、というスケジュールを組まされている美雪からすると、「共演たのしみだね」という会話は「はぁ」「まぁ」「そうですね」程度のものになってしまっていた。

「……それは、秋頃のドラマでしたっけ」
「そうなんすか? 僕はそこまでちゃんと把握してないんすけど」
「……その頃までには、見つけていないと」
「? 何をっすか?」

 きょとんとニキが目を丸くしていると傍にあった扉が開き、噂の燐音とHiMERUに加えてこはくまで出てくる。
 それまでぼーっとしていた美雪だったが、燐音を見た途端にある記憶が蘇る。彼は自分に向かって「結婚しろ」と半強制的プロポーズをしてきたではないか。彼は自分にプロポーズをしてきたたった一人の男ではないか。

「──天城さん!」
「うおっ? なんだ美雪ちゃん。いきなり飛びついてきて。今日も可愛いから心臓飛び出るかと思ったわ。平静装ってるけど心拍数急上昇中だぜ。マジ罪な女だよ」
「結婚してください」
「なぁぁ、ンど、ぉ、ほぇ?」

 意味の分からないリアクションをする燐音の周りで、Crazy:Bのメンバーたちは一斉に「は?」と口に出していた。

「ちょ、ちょ、待って? え、結婚?」
「結婚してくれるんですよね? そう言ってましたもんね?」
「え、いや、え?」
「辺境の地で一緒に暮らすって言いましたよね? 連れて行ってください、そこまで」
「言っ……たけど、え? マジで?」

 突然のことに燐音のヘアバンドがずり落ちてきていた。しがみついて上目遣いで見上げてくる美雪にボボボボボッと顔が赤くなる。

「今すぐ結婚して」
「今⁉ い、いや、あれだろ。ドラマ撮影とか色々あんだろ。今はあれじゃねっ? 俺っちも結婚はちょっと早すぎる年齢というかぁ……? 結婚発表するのか知らねぇけど俺っち的には発表したいかなーって思うから、でも美雪ちゃんが結婚ってなったら最悪俺が刺されるし世界中が大発狂しちまうというか」

 燐音はダラダラと汗を流して見っともなく目を泳がせながら、歓喜で震える体を押さえつけて話す。美雪は彼が結婚に乗り気ではない様子に落胆した。誰にも干渉されない辺境の地に連れ去ってくれる彼こそが希望だと思ったのだ。

「……結婚、してくれないんですか? ……嘘つき。してくれるって言ったのに」
「する」
「待てや」
「待つっす」
「待ちなさい天城」

 きゅっと服を握られ、ぽかっと弱弱しく打たれた燐音は心臓が爆発して真顔で「Yes」と答えていた。メンバー全員が静止に入る。

「悪いなお前ら。お先」
「何が『お先』じゃボケ老人が。のぼせ上がんのも大概にせぇよ」
「名波さん、一度冷静になりましょう。こんな男と結婚してみなさい。故郷に引っ込んだとしてもギャンブル依存症のこの男は貴女にひもじい生活を強制するかもしれません。子どもが出来ても亭主関白のこの男は育児に専念するとは思えません。確実に不幸せまっしぐらだと思いませんか? 女性の誰もが避けるべき選択肢なのですよ、此奴は」
「マジで燐音くんはお勧め物件じゃないっす、余り物の訳あり物件っす。美雪ちゃんは絶対に騙されてるっす。……遂に結婚詐欺師になるなんて」
「お縄になった方がええな。美雪はん、此奴は十中八九、性欲猿や。ぽこぽこ産ませようとすんで。ぬしはんの体じゃ耐え切れん」
「お前ら酷すぎるぞ」

 勿論、彼らも天城燐音というリーダーの良さを知っている。彼は素直に表現できないだけで努力家で、見てくれの割に誠実な男であるということを。それを言わないのは美雪を本気で心配しているのと、他の男に渡してなるものかという男の本能だった。何としても燐音の株を下げようとしている。

「……でも私、相手を探さないといけなくて……プロポーズしてくれた人も、天城さんしか居なくて」
「──では、HiMERUがプロポーズをすればHiMERUと結婚してくださるんですか?」
「……ぇ?」

 HiMERUは燐音と密着する美雪の手首を取って距離を詰める。燐音が眉間に皺を寄せるとHiMERUは挑戦的に視線を交わした。

「あ、ずるいっすHiMERUくん! 僕も立候補するっす!」
(分家とはいえ、わしが氷室の令嬢と結婚すれば、朱桜と氷室の微妙な関係も友好になるやろか……いや、わしは分を弁えんといかん。汚れた手で美雪はんに触ることはできん)

 ハイハーイと挙手するニキの横でこはくは目を逸らした。美雪は期待の籠った目でHiMERUを見上げる。

「……HiMERUさんが、結婚してくれるの?」
「──えぇ、喜んで。HiMERUは天城とは違って快く引き受けます、貴女の夫という立場を」
「ざけんなよメルメル。てめぇはすっこんでろ。美雪ちゃんは俺と結婚したがってんだ、俺の奥さんになるんだよ」
「おや? さっきまで狼狽えていた意気地なしの癖に。負け犬はよく吠える」
「誰が負け犬だって?」
「──知らないようだから教えて差し上げますが、名波さんはHiMERUの顔がお好みのようですよ?」
「ア?」
「ギャンブル依存の将来性無し野郎よりも、顔が好みの誠実で頭も良く穏やかなHiMERUの方が良いでしょう?」
「やめとけ美雪ちゃん。コイツはクズだ」
「クズに言われたくありません」
「どっちもどっちっす。美雪ちゃん、僕と結婚すると食べられる料理がわんさか出て来ますよ〜!」

 言い争う男二人の後ろからニキが手を振ってアピールすると、美雪は(確かに)と目を輝かせた。食事に困ることの多い美雪にとって椎名ニキは優良物件だ。燐音は「あ、ずりぃ!」と言い、HiMERUは舌打ちをする。

(ふひひ、掛かった掛かった……♪ 美雪ちゃんの胃袋をしっかり掴んだ僕だって有利っすよね。僕が美雪ちゃんの旦那サマになったら、美雪ちゃんに僕の種を植え付けてお乳が出るようにしてあげるんす……そうしたら極上のお乳が飲み放題♪ 赤ちゃんには一滴も渡さないっす。僕、食事のことに関しては本当に天才的思考っすね?)
「……ニキ。目がラリってんぞ」
「……椎名。涎が汚いです」
「へ? ああ、すませんっす」

 飢餓状態になった際に美雪を求めたニキの思考回路は健在だった。二人に指摘されたニキは涎を手の甲で拭った。

「ちゅうか、なんで結婚の話になるん? ぬしはん、こないだ二十歳になったばっかやろ?」

 呆れた表情で見守っていたこはくはふと疑問に思い尋ねる。今の時代で二十歳に結婚となれば「早すぎるのでは」と心配されるくらいだ。いくら彼女が財閥の令嬢とはいえ、急ぐ必要はないようにこはくには思えた。必死だった男三人は「言われてみれば」という間抜け面を晒していて、こはくは頭痛がしてくる。

「……お父様に、そろそろ相手を連れてこいって言われて」
「はぁ。随分急くなぁ、氷室も」
「……あと一年で見つからなかったら、お父様が決めた人と結婚しなきゃいけなくなるかもしれないの」
「余程その相手が嫌なんか」

 美雪は日和の兄を思い出し、首を振った。相手が良い人か悪い人かではない。

「……ううん。とても良い人だった。優しくて、私を尊重してくださった」
「ふぅん。ならええんちゃう?」
「いやいやそういうことじゃねぇだろ、こはくちゃん」
「そうですよ桜河。女心というのはそこまで単純ではありません」
「その通りっす!」
「よう知りもせん奴らは黙っとれ」

 朱桜は天祥院や氷室ほどではないにしても、古くから代々受け継がれてきた伝統と歴史ある、由緒正しき家柄だ。その分家である桜河も、それとなく財閥や財団の格式を理解してはいる。

「猶予を与えられてるだけマシに思うけどな、わしは。金持ちの家は親が決めた家同士の利益のための結婚が普通やろ。ぬしはんが連れて来た相手次第では結婚の許可は降りんちゃう? そこにいるろくでなし共を連れてったら間違いなく却下されんで」
「……それくらい私だって分かってるわ。だから天城さんにお願いしたの。天城さんの故郷まで駆け落ちすれば良いかなって」
「駆け落ち⁉ え、普通の結婚じゃねーの⁉」

 まさか彼女がそんなことを考えて自分をまき込もうとしているとは思っていなかった燐音が飛び退いた。彼と同様、目を丸くしたHiMERUだったが頭を回転させてキリリと表情を作る。彼女が好きだと言う自分の顔を存分に使おうとしていた。

「──名波さん。HiMERUなら国内ではなく海外へ逃亡できますよ」
「……それも良いかも」
「そうでしょう? 愛の逃避行と行きましょう♪」

 HiMERUが手を差し出すと、美雪は少しはにかんで彼の手を取った。

「……HiMERUさんね、パパに似てるの」
「お父様にですか?」
「……うん。七種さんも似てるけど、HiMERUさんも似てると思う。だから、好き」

 美雪は頬を桃色に染めて恥じらいながら言った。恋する乙女のような仕草にHiMERUの心が掻き毟られる。HiMERUの口角は自然と吊り上がっていった。

「──ふふ、ふふふふふ。フフフフフフフ」
「HiMERUくん、笑い方が不気味っす」
「というか顔が怖いわ。ほんまにアイドルか?」
「サスペンスドラマの犯人役だな。今度オファーくんぞ」

 気分の良いHiMERUにそんな野次は利かなかった。美雪の腰に手を回し、かつて巽にしたように壁へと追いやる。どん、と拳を打ち付けて彼女を見降ろし、顎を掬い上げて囁いた。

「──では、『俺』をパパにしてくれますか?」
「……?」
「おんどりゃあ! このボケカスがァッ‼」

 こはくの飛び蹴りが炸裂した。あまりの容赦の無さに燐音とニキは縮み上がった。

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