05

 相方のみかと連絡を取る宗は徐々に昇っていく朝日を眩しそうに見つめた。不定期に帰国することはあっても、今の宗の本拠地はパリだ。みかとも美雪とも物理的な距離が開いてしまっている。泣き言をいうみかに釣られて、宗も「僕も寂しい」「君に逢いたいよ」と零していた。

「ちょっと、気になることを小耳に挟んでね」

 コズミック・プロダクションに新たに生まれたユニットの不穏な話。宗は彼らの近くにいるみかを心配し、忠告をする。

「なるべくそのCrazy:Bとやらには関わらないようにしたまえ。心得ているとは思うけど、ヤツらがあの子に近づくようなことがあれば君が守るんだよ。あの子は僕らに関する事柄には頑固だけど、普段は驚異的に流されやすいからね。柔軟と言えば聞こえは良いけれど、お陰で去年のKnightsの騒動には巻き込まれるし、知らず知らずのうちに他校にまで作曲しているし……ああ、勿論あの子にも電話しているよ。ただその……僕はまだ立ち直れていないのだよ、失恋から」

 美雪にもよく甘く囁いていたが、ここ最近彼女に「交際相手ができたらしい」という噂を聞いてしまった宗はどこか遠慮していた。いつもよりも言葉数が減り、沈黙が訪れてしまう。
 みかはその噂が出回ってから──噂が回る原因となったのは彼自身が嵐に相談したせいだ──美雪の行動により注意を払っていた。しかし、彼女が例の「ダーリン」と連絡を取っている姿を見ることはできていなかった。美雪と交流のあるESアイドルのほとんどが互いに互いを疑い合っている状況。抗争時代ほどではないが、空気がぴりついている。たかが色恋沙汰でアイドルが翻弄されているのを笑う者もいるだろうが、氷室美雪とはそういう女なのだ。惹きつけ、惑わす。本人の意思とは関係なく。

「……ともあれ。それではね、影片。君にも芸術の神が微笑みますように」

 話を終えた宗はみかの声を聞き届けてから切った。漸く慣れてきたスマートフォンを操作し、写真のアプリを開くと美雪の画像が出てくる。幼馴染に教えを乞い、一眼レフに収めた写真のデータを映していつでも見ることができるようにしていた。

「……ああ、氷室。かわいい氷室、可愛い……可愛い」

 切ないため息を漏らした宗の心はツキンと小さな痛みを主張した。画像を一枚一枚確認していくと彼女との思い出が甦り、宗は胸がいっぱいになる。彼女が選んだ相手ならば祝福せねばと考えようとする宗もいたが、記憶を辿ると何故自分ではなく他の男なのか、という思いが。彼女の愛を独占しているであろう「ダーリン」への怒りが沸々と湧いてくる。

「別れろ、別れろ、別れてしまえ……! 氷室から愛想を尽かされてしまえ! 僕から氷室を奪おうとするなど……おのれ、忌々しい男・ダーリン!」

***

 微かな音がワイヤレスイヤホンから漏れていた。装着している側からすると外に音が漏れているか否かはわからない。漏れているとは言っても、余程耳の良い者にしか聞き取れないものだった。
 凪砂は石に落としていた視線を横に座る茨に向けた。茨の横顔には笑みが浮かんでいる。また何か悪巧みをしていて、それが上手い方向に進んでいるのだろうか。彼は策士ではあるが些か運が悪い。事が上手い具合に運んでいると思っていても足元を掬われがちだ。

「……なかなか興味深い話をしているよね、あの子たち」
「はい? すみません閣下。音、漏れてました?」

 新ユニットの彼らを盗聴していた茨は凪砂に謝り、イヤホンの性能に遠回しに苦言を呈した。凪砂は石に視線を戻す。どこで拾ってきたものなのか、あるいは購入したものなのか。それの価値は凪砂にしかわからないのかもしれない。

「……耳は良いんだ、昔から。美雪と一緒でね。……子どもの頃に比べれば、色んなノイズに邪魔されて、物音などを聞き取り辛くなった気がするけど、美雪は変わらないから。私と美雪は、やっぱり違うものになってしまったんだね。……悲しいけど、私たちは同じもののはずだけど、そうだったはずだけど、違うからこそ触れ合える。違うものであって良かったと思う気持ちと、一つに戻りたいと思う気持ちもある。これが、矛盾。……ああ、美雪とぴったり合わさって、肌という境界線すらも無くすには、どうすれば良いんだろう。……どうしたら良いかな、茨」
「えー……ええ、そうですね。悲しいですね。でも嬉しいですよね。複雑ですよね〜」
「……ちゃんと聞いてないでしょ、茨」

 返答に困った茨が適当な返しをすると凪砂はむっと唇を尖らせて茨を睨んだ。『彼女と融合したい』と言っているような問いかけに何と答えるのが正解だったというのだろう。
 ES体制に入ってからというものの、コズプロの副社長の茨は多忙を極めており、凪砂や美雪に構っている時間が減っていた。凪砂はそれに寂しさを感じている。同じ車内にいる今ですら、茨はノートパソコンと友達になってしまっている。飼い主に放置される猫はこういう気持ちなのだろうか、と凪砂は先日美雪と一緒に見た猫の動画を思い出した。

「……そういえば、Crazy:Bのことだけど」
「はい? 何か気になることでもありましたか?」

 二人は互いに手元に目を落としたまま会話を続ける。

「……彼らの歌は、茨が美雪に頼んだの?」
「いえ。Crazy:Bにはコズプロに入った新人作曲家のものを数曲預けております。まさか、すぐに切り捨てられるぽっと出の彼らに、美雪さんの曲を渡すはずがないでしょう」
「……? ……変だな、可笑しい。茨と話が噛み合ってない気がする」
「……噛み合ってない? そうですか?」

 二人は顔を合わせて首を傾げ合う。点、点、点と間が訪れた。
 茨はそこで嫌な予感がした。凪砂が聞いてくるということは、それが美雪関連ということは、確信があるということだ。Crazy:Bの曲を、名波哥夏が作ったという確信が。二人には常人には理解できない魂の繋がりがある。

 茨は即座にサミットに向けて作成している資料のデータを保存してウィンドウを閉じ、Crazy:Bのライブ映像を開いた。これまで茨は忙しさのあまり彼らが歌っている映像はスキップして「Crazy:Bがどのようにアイドルユニットに攻撃を仕掛けているか」という確認しかしてこなかった。相手を煽るようなMCをする燐音にほくそ笑んでいる場合ではなかった、ということ。新人作曲家が用意した楽譜のデータも横に開き、彼らの歌っているメロディとそれが異なることに愕然とする。

「…………こ、れは」
「……彼らの歌、美雪が作ってるものだよね?」
「…………」

 茨は追い打ちをかけられる。バチン、と額を叩くようにした抑え、フゥーと息を吐いた。

「──なんでだぁあああああ! くれぐれも『関わるな』って、『曲を作ることだけはするな』って言ったよなぁぁあああああッ⁉」
「……びっくりした。突然大声を出さないで」
「アンタの妹に文句言ってんだよ!」
「……美雪への文句は私への文句にもなるよ」
「ああぁあぁアァ……くっそ! どうすんだ、あんの傾城傾国の美女が! 可愛い顔しててもやって良いことと悪いことがあるってもんでしょうが‼ なんで言うこと聞いてくれないんですかねぇぇええ、もぉおおおおおおおッ‼」

 茨が地団駄を踏むせいで車内はそれなりの規模の地震に見舞われているかのようだった。凪砂は遊園地のアトラクションに乗っているような気分で揺られる。今にも外へ飛び出してパソコンを地面に叩きつけたい衝動に駆られる茨だったが、何とか自分を落ち着けようとする。

「……美雪が作ると、困るの?」
「困ります、とっても困ります。まず『名波哥夏』は天才作曲家です。彼女が作っているとなれば観客もそれだけ期待しますし、魅了される者も出てくるでしょう。Crazy:Bを知らない者も『名波哥夏が作っているなら』と興味を持ちます。そうなればCrazy:Bに想定外の数のファンがつき、彼らを消し辛くなる。加えて、確定ではありませんが、もし美雪さんがCrazy:Bを気に入っているという事実が証明されれば『万が一の事態』になったとき、我らESアイドルも彼らを攻撃することが難しく──さては、天城氏はそれが狙いで……? それなら辻褄が合うな」

 ブツブツと推理する茨の横で、凪砂は湖のように冷静だった。自分より慌てふためく人物がいると、かえって落ち着くものだ。

「……天城燐音がどういうつもりなのか、わからないけど、彼、美雪の名前は出していないみたいだよ」
「は?」
「……作曲家名、名波哥夏の名前を公表していない。伏せてる。……去年までの私たちと、二年前のfineと同じ。公表してないならたぶん、私くらいしか、美雪が作ってるってわからないと思うけど」

 美雪に作曲を頼んでいた凪砂は、美雪を抗争に巻き込まないために意図的に作曲家名を伏せていた時期があった。SSを終え、ES体制になるからとEdenの作曲家も公表することになっていた。

「……でも、名波哥夏の名前を出さなくても、美雪の曲は大衆を惹きつけてしまうから。Crazy:Bに想定外のファンがつくっていうのは、免れないかもね」
「ああ、もう……とんでもないことをしてくれましたね、美雪さんは」
「……ふむ。茨が忠告していたのに彼らと接点を持ち、曲を作ったってことは、美雪がそう思える何かが彼らにあったということになる。……何だろう。美雪のことがわからない。……寂しい。今、美雪はどこにいるんだろう。会いたいな……」

 凪砂はちらっと茨を見る。彼は忙しく指を動かしてスマートフォンを弄っていた。意地でも自分を見ようとしない茨に痺れを切らした凪砂はずいっと身を乗り出す。

「……茨」
「はい、はい。ええ。今、美雪さんを呼び出しておりますから」
「……やった♪」
「お説教しなくてはなりませんからね」
「……可哀想なことしないで」
「これは躾です。美雪さんは悪いことをしたんです。約束を破ったんですから、それ相応の罰を受けてもらいます」
「……悪いこと、ね。本当にそう? 茨にとって『都合が悪いこと』、でしょ? 自分のミスなのに美雪に八つ当たりして、傷つけるっていうなら、私も黙ってないからね。…………もし美雪を泣かせたら」
「そ、そこまでのことはしませんってば」

 凄まれた茨は身を強張らせた。

***

 数々のESアイドルたちから噂される「ダーリン」はここ数日で急激に花粉症になったのかと思うくらいにくしゃみが止まらない。先程も「ぶぇっきしょい‼」とぶっ放し、仲間から「うわ、きったな!」「手で覆わんか阿呆」「五分ほど換気しましょう。暫く近づかないでください」と散々な言われ様だった。

 宣言通りレッスン室の窓という窓を全て開け放ったHiMERUはこはくを連れて部屋を出て行った。真夏に窓を全開にするという行為は、冷房が利いている部屋から冷気を一気に追い払うことでもある。いくら数分のことであっても万全に体温調整しなければならない。

「風邪でも引いたかね〜」

 大の字になって寝転んだ燐音は部屋が温くなるのを肌で感じながら天井に向かってぼやいた。

「燐音くーん。僕もう戻っていいっすか?」
「だめ〜」
「え〜、ゼリー作りたいんすけど……」

 燐音と同じく退室せずに部屋に残ったニキはメンバーの半分が居なくなったからと食堂の持ち場に戻ってもいいかと、一応リーダーである燐音に尋ねた。燐音は自分を見下ろすニキを訝しげに見上げる。

「ぜりぃ? あんな食った気のしねぇもん作って何になるんだよ」
「いやいや、ちゃんとしたメニューっすから。頼む子いるんすよ〜? 体型管理のために低カロリーのものを摂取しようとするアイドルの子だっているし、逆にゼリーが無いと食べられるものがほとんどないような子だっているんす」
「どういう食生活だよ。病人か」
「そういう難儀な体質なんすよ〜、僕と同じで」
「なに、ゼリー依存症?」

 燐音は腹筋に力を入れて起き上がった。ずれたヘアバンドを指で調整して存在もしない依存症を創作する。

「なんでも、食べ物の大半に異物感を感じて飲み込めないらしいっす」
「異物感……? 今まで何食って生きてんだ」
「だからゼリーとかスープとかっすよ。あ、あとサプリメントって言ってたっす」
「まじで病人だな」
「チョコレートとか飴とか、口の中で融けてくれるものも大丈夫みたいっすけど、胃がもともと小さいんでしょ〜ね。力加減間違えるとぽっきり行っちゃいそうっす。あ、でもでも、僕が作った料理は気に入ってくれたみたいで、結構食べてくれるようになったんすよ〜♪」
「あ、電話」
「全然僕の話聞いてないっすね? もういいもんっ」

 ぷいっと背中を向けて拗ねるニキを置いて、燐音はポケットで揺れるスマートフォンを確認する。画面に表示された「♡ハニー♡」の文字に笑みを浮かべた。恋人との電話に浮かれて喜ぶ乙女のようにゴロンと転がって頬杖をついた。

「ハァイ、ハニー♪ 元気? 今どこいんの? ……ふーん、そっか。……ん? あァ、そのことね。……なんでって、ハニーのためだぜ? ハニーを愛してるから俺は……あー、ハイハイ。すんませんでしたァ」

 通話ボタンを押した燐音は軽口を叩くように甘い言葉を吐くが、相手の「ハニー」には通用しなかったらしい。静かに怒られた燐音は頭を掻いて素直に謝った。燐音に自室に入り浸られているニキは「また例のハニーか」と慣れた様子で見守っている。

「でもよォ、これはハニーにとっても良い機会なんじゃね? ハニーだって有名なわけじゃん、ブランド的な? だからこそ力試し的なのやってみたらどーよ? って思ったワケ。……ん。納得してくれたなら良いんだよ。ハニーは素直で良い子でちゅね〜、ばぶばぶ♪ ……オーイそんな冷めた返しすんなよォ。悲しくなっちまうだろ〜? ……んじゃ、そーいうわけで。ハニーから連絡くれて嬉しかったぜ。いつもは俺からばっかだからさ。まあでも、寂しくなったら俺の方からすっから。ハニーは待ってるだけで良いんだぜ? 大事な人にも誤解されちゃうだろ? な? ……ん。愛してるぜ」

 画面に「ちゅっ」とリップ音を放った燐音を、ニキは何とも言えない表情で見下ろす。よくもまあそんな歯の浮くような台詞を言えるものだ。

「良かったんすか? ここで電話しちゃって」
「あァ。向こうは学校みたいだし、ぼかしたから平気っしょ。たぶん」
「まあ、何の話してんのかさっぱりだったっすけど」

 燐音が「ハニー」との連絡をES内でしようとせず、ニキの部屋やES外で連絡するのを徹底していたことを知っていたニキが尋ねる。ESでは誰が盗聴しているかわかったものではない。Crazy:Bの動向をコズプロの副所長が追っていることを彼らは理解していた。だからこそ、燐音は「ハニー」──美雪に自分のことを「ダーリン」と呼ぶよう指示していたのだった。

 自分が切られること・切られる前にコズプロに利用されることを悟った燐音は溜まった鬱憤を晴らすことを決めた。アイドルの正解を決めたES、そしてそれを受け入れるアイドルもどきと観客・ファンに「思考を止めるな」と訴えかけることを決心した。自分が愛していた『アイドル』を否定されて黙っていることなど出来なかった。

 燐音の声を届かせるためには、コズプロが用意した曲では能力不足だった。それもそのはず。コズプロの副所長はCrazy:Bをいつでも切り捨てられるよう「その程度」の曲しか与えていなかったのだ。耳を傾けてもらうためには力が必要だ。耳を傾けるという判断をしてもらうためには実力を示さなければならない。Crazy:Bの力をより引き出し、Crazy:Bを観てもらい、Crazy:Bを魅せるために、名波哥夏の歌が必要だった。

 燐音は美雪に「自分たちが解雇されそうになっている身であること」「他のユニットを攻撃する『予防接種』の役割を与えられていること」を説明していた。できるだけ、美雪の善意を刺激するように。美雪は燐音の説明のお陰か、思うところがあったのか、燐音の思惑通りに曲を授けた。予想外だったのは曲を授ける前・楽曲コンセプトの相談中、薫に電話を聞かれてしまい、それが巡り巡ってESに所属するアイドルたちに広まってしまったことくらいだ。燐音が美雪に接近したことを知らないアイドルたちは「ダーリン」が燐音であることを推測できない。万が一のために渾名で呼ばせておいて良かった、と燐音は思う。

 先程の電話は、作曲家名を公表していないことに疑問を抱いた美雪が確認のために掛けてきたものだった。このレッスン室ですら確実に盗聴されていないとは言えないため、燐音は聞かれても困らないよう詳細は語らずに、電話の相手が彼女だと悟られないよう美雪と話した。彼女が納得するために、のらりくらりと本音を隠して。燐音は遠回しに『お前から連絡をするな』と警告をしていた。

「あ、おかえりなさ〜い」
「やはり温度が上がっていますね。天城、体調管理は万全にお願いしますよ。今は大事な時期ですから」
「へいへい」
「誰かに噂でもされてんちゃうか」
「あー、その線はあるかも」
「きっと悪い噂でしょうね」
「善行はしてへんからな。わしらは恨みを買っとる」

 きっちり五分で戻ってきたHiMERUとこはくの腕には人数分のスポーツドリンクがあった。HiMERUは燐音にペットボトルを投げ、こはくはニキに差し出した。HiMERUは自分のものにすぐには口をつけず、窓を閉めにかかる。こはくもそれに気づいてHiMERUが閉めている方とは逆側の窓の鍵を掛けた。

 換気という名の小休憩を挟んだ彼らは水分補給を済ませると立ち上がり、レッスンを再開する。集まりの悪い四人が珍しく集結した今日、足並みを揃えなければいけない。燐音は美雪から授かった曲を流した。

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