「ああ、やっと来てくれたんだね、月永君」
意を決して踏み込んだ豪勢な部屋に鎮座する彼女の現在の父親は、ガチガチに緊張しているレオを朗らかに歓迎した。予想とは若干異なる反応にレオは眉を顰め、彼の表情から意図を汲み取ろうとする。
レオが氷室の屋敷に足を踏み入れたのは今日で二度目だ。一度目は、兄を名乗る男に連れ戻された彼女を救いに来たとき。今日訪れた目的は、レオがきっちりかっちり着こんでいることを見れば察することができるだろう。
***
司から想い人である氷室美雪が婚約する恐れがあるということを聞いたレオは、彼女と交際を始め、恋人らしいことをそれなりにしてきた。
近頃様子の可笑しい彼女を問い詰めると、父親が提示した猶予は彼女が二十一になるまでの期間だと言う。それまでに相手が見つからなければ、父親が選んだ相手と婚約の話を進めることになるのだと。
レオがカレンダーを確認すると彼女の次の誕生日までの日数が少ないことに気が付いた。何故こんな直前になるまで自分に話さなかったのか、レオは呆れて彼女を責めるようなことを口走ったが、彼女が静かに「困らせると思った」と言うと苛立ちも収まり、自分の覚悟を彼女に伝えた。
「おれはスオ〜からお前が結婚するかもって話を聞いて、焦って告白したんだよ」
「……初めて聞きました」
「今はじめて言ったからな。……で、運よくお前が了承してくれて、まあお前はお試しみたいなつもりだったのかもしれないけど、おれは本気でお前が好きで、恋人らしいことをするって名目で好き勝手やらせてもらったりしたわけ」
彼女に男として意識してもらうために、柄にもなく普通の男子のように悩んで調べて色んな人に話を聞いて、「恋人なのだから」と正当化して、高校時代から想い続けていた彼女にずっとしたかったことをした。やんわり拒絶されても押して押して、受け入れてもらった。
「つまり全部おれの私利私欲。お前のことをよくわかんないヤツに渡して堪るかって思ったんだよ。付き合う前の謙虚で控えめな月永レオくんなら、シュウとかミカエルにならお前を任せられるって思っただろうけど、今のおれには無理な話」
味を占めた男にできることは、生涯の女を取り逃がさないことくらいだ。
「やっとお前に触れたんだ、キスできたんだ。お前はおれの天使で死神、おれを生かすも殺すもお前次第だよ。おれ以外の男と一緒になるお前なんて見たら、おれは首を吊って死ぬ」
震える手で指を組むレオの姿は、教会で懺悔をする罪人のようだった。美雪は彼の言葉を反芻し、彼が居なくなった世界の自分を想像してやや俯く。
「……自死は、褒められたものではありません。表現者にはよくある結末だと言う人もいるけれど、それは自死をした人物が『偶々』表現者だっただけ。人々の目に留まる人物が自死をするから、人々の心に色濃く残るだけ」
「お前って信教あるんだっけ?」
「……いいえ。パパが、よくお祈りをしていただけです。誰に祈っていたのかは分からないけれど」
美雪はそう言って、レオの目を真っ直ぐに見た。
「──私のための鎮魂歌、できているの?」
「……できてない」
「私はレオさんよりも後に死ななければならないんでしょう? そうでなきゃ、私の葬儀に鎮魂歌を流す気はないと、貴方が言いました。私は今、そのつもりで生きています。貴方が死んでから死ぬつもりです。貴方が死ぬというのなら、貴方は私のために鎮魂歌を作り終えていなければならない。出来ていないのなら、どうしてそんなことを仰るの?」
美雪はいつものようにしんしんと話している。声に乗せている思いは純粋な疑問なようだが、選んでいる言葉はうっかりしているレオを刺すようだった。ところが、レオは彼女に対して申し訳なくなることも、気まずくなることもなかった。彼女が生きて、自分よりも後に死のうとしていることが嬉しかった。
「作ってないのは、お前と長生きするつもりだったから。死ぬって言ったのは、そう言えばお前が、おれと一緒に居てくれると思ったから」
「……」
「おれ、狡いやつなんだよ。ろくでもない男なんだよ。こんな醜いのを晒してですら、お前と遂げたいって思う。愛してる、愛してるよ。美雪。だからおれを殺さないで。お願い」
レオが美雪のブラウスを掴んで目から水を落としながら涙声で言った。美雪は濡れるのも気にしないで彼の頬に触れ、顔を上げさせた。レオは唇までつたってきた涙の塩味に、今自分がどんな情けない姿を見せつけているのだろうかと嘆いた。きっと鼻水も垂らしている。ぐちゃぐちゃだ。彼女は綺麗な顔で、不思議の国に繋がる穴を見つけた少女のような表情でレオを見ている。
「……ねぇ、レオさん。キスをしても良い?」
「ふぇ? いいけろ」
どんなに汚い状態でも彼女からキスをしてもらえるならレオは拒否しない。美雪はレオの唇に自分の唇をそっと合わせて数秒。お互い目を瞑り、美雪が離れると薄く開けていく。美雪は唇に残った汁を舐めて「……ふふ。しょっぱい」と小さく笑った。
レオは衝動的に左手を彼女の指に絡ませ、右手を彼女の項に滑らせた。突然迫られた美雪は唇を貪られ、レオの肩に自由な方の手を添えた。ずる、ずる、とキスを繰り返している間に体は倒れて行き、レオの右手が床に当たった。
「ハァ。…………なあ」
「……なあに」
「口あけて」
「……」
「……舌いれたい」
「いや」
「なんで」
「それ苦手なの。にゅるにゅるしてて」
誰とやったんだよ、と聞きそうになったレオだったが、すぐに答えは分かったので口には出さなかった。表情には不機嫌なのが滲み出ている。フン、と鼻で息を吐いて彼女の横にゴロンと転がった。
「分かったよ。じゃあ結婚してからする」
「……お父様が、認めてくれるかどうか」
「んー……駄目って言われたら駆け落ちでもすっか」
「……何処へ?」
「ウィーン」
音楽の都。二人に似合いの場所だ。レオが当然のことのように言うと、美雪は天井に顔を向けたまま瞼を閉じる彼の横顔を見て微笑んだ。
「……ああ。良いですね」
***
そうしてやってきた今日。レオは美雪の父親に挨拶をするためにスーツを着、いつもは疎放に結っている髪もワックスで整えていた。挨拶というのは勿論、そういう挨拶である。
レオがたった一度だけ会ったことのある美雪の今の父親は、兄と風貌こそそっくりだったが、雰囲気は兄の纏うものよりも穏やかだった。それでも二十歳になったばかりの娘に結婚を急かし、婚約者の候補を用意して執行猶予まで設けてくる男だ。家同士の利益のための結婚を優先するのであれば、間違いなくレオはお引き取り願われるだろう。氷室の父が「娘は渡さん」と厳格な昭和親父と化すのは全く想像できないが、こちらを値踏みするように眺めてくるのは確定だ。
出方を間違えてはいけない。油断するな。レオは自分に言い聞かせ、何故かにこにこ笑っている氷室の父を見遣る。シミュレーションはしてきた。何を言うのかも考えて来た。深呼吸をして発しようとする。
「それで? 式はいつにするんだい?」
「えっ」
「婚姻届けはもう出した?」
「えっ」
氷室の父の言葉にレオの頭は混乱する。彼の台詞はまるで美雪と自分の婚約を認めて、歓んでいるかのようだ。
氷室恵慈は固まっているレオに首を傾げる。
「ん? 美雪と結婚するんだよね? この一年間、交際してきたんだろう?」
「え? え、あ、そうです、けど」
「いつ挨拶に来るのかなーって思ってたんだ。結構ギリギリだったね? 巴くんに期待させるだけ期待させることになってしまったよ、謝らないとな」
氷室の父はさらりと会話を続けていくが、レオの思考は未だ追いついていなかった。
「……え、っと? あの、認めてもらえる、んですか?」
「認めるも何も、君が最初に言ったんじゃあないか」
「……?」
「『娘さんを僕にください』って。ああ、『貰います』とも言ってたかな」
確かに氷室の屋敷に囚われた美雪を救い出すとき、遭遇した第二の父親に向かってレオはそう口走った。レオは斜め上を見上げて自分の発言を思い出し、目線を氷室の父に戻す。
「そんなことを言われたものだから私はもうそのつもりで居たのだけれど。君が美雪と交際しているという話は全く私の耳に入って来ないし、正式な挨拶にも来ないから、ほんの少し落胆していたんだよね」
「は、はぁ。すみません?」
深い意味が無かった言葉ではないが、勿論本気だったが、突発的に出た言葉をそのまま受け止められたとは思ってもいなかったレオは、ため息を吐いている氷室の父に反射的に謝っていた。
「私の娘となった氷室美雪はこの世の何よりも美しい。誰もが手を伸ばす宝石。その美貌で時には人を狂わせる。そんな娘、君が手をこまねいている内に、手の早い誰かに盗られてしまうよね? それを君も、美雪を大切にしていると言う周りの男の子たちの誰も理解できていないようだったから、発破をかけた、と言えば良いかな。美雪に結婚を急かすことで周りの男を焦らせた。そして誰よりも早く行動してあの子に受け入れられ、私に挨拶にくる度胸のある男に、私の娘を任せるつもりだったんだ」
自身の思惑を語った氷室恵慈はレオを讃えて拍手を送った。しかしレオの心の靄は晴れない。
「おめでとう、月永君。君と娘の結婚を認めよう」
「……おれが来なかったら、誰も来なかったら、どうするつもりだったんですか?」
「そのときはそのまま、巴財団の長男と婚約させるつもりだったよ。彼は美雪と結ばれても誠実さを保ち、驕ることもなく、美雪を尊重し庇護する。そして万が一に婚約を経て結婚できずとも大人しく身を引く、優秀で聡明な男子だ。だから候補として選んだんだよ」
氷室の父は、娘の幸せは考えていたらしい。全く人騒がせなことをしてくれる、とレオは脱力してその場にしゃがみ込んだ。
(なんだよ……おれ、めっちゃ気合い入れて来たのに。駆け落ち計画まで考えて……)
レオが顔を覆って深い深いため息を吐いていると、氷室の父が浮ついた様子で近寄ってきた。
「プロポーズはどんな風にしたんだい? 新婚旅行は何処にする? ウエディングドレスは何色にしようか。『あなた色に染めて』の白? 『あなた以外に染まりません』の黒?」
「……なんでそんなにウキウキしてるんすか」
「君が来てくれたのが嬉しいんだよ。誰が来ても喜ばしいけど、やっぱり私の目は間違っていなかったって思えるからね。あの子に氷室は窮屈だろうから、月永君のお家に任せるね。氷室のことは気にしないで自由にやってくれて構わないよ」
「……っていうか早すぎませんか、二十一で結婚って」
「おや。君は美雪を法的に縛りたくはないのかい?」
「…………」
「だから早い内が良いって言ったんだよ。あの子の場合は特にね」
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