飢えと渇きと欲

意味深なインカの台詞を痛感したのはその日の夜だった。
空腹で堪らない。お腹が空いた。喉が渇いた。足りない。夕飯はしっかり食べたのに腹は満たされるどころか何も無いみたいにぽっかりと穴が空いたような、何も入っていない様な感覚だった。

「インカさん。あの、これ」
「足りんだろ?」

足りんだろ?じゃねぇよ!
鳴りこそしないが空腹を訴える腹を手のひらで抑えインカを睨みつけた。

「精力でなければ栄養は取れん。どれだけ米を食おうが肉を食おうが腹は満たないぞ」
「でもそれはインカであって俺は普通の人間だぞ」

淫魔であるインカはそうかもしれない。精液でなければ満たされないし生きるための力をつけられないかもしれない。でも俺は淫魔ではなく普通の人間なのだ。普段の食事で栄養が摂れないなんて事はありえない。

「私とお前は一心同体の共有体。その間はお前の栄養補給は私のものと同じなのだ。つまり精力でなければ腹は満たされん」

インカの台詞に頭が真っ白になった。
なんて事してくれたんだこいつ!!
って事はなんなの。つまり俺もこいつと同じで精液でしか栄養は摂れなくて、普通にごはんを食べても栄養は摂れないし腹も膨らまないし、このまま精液を腹に入れなければインカ同様餓死してしまうって事?

「嫌だあああ!!死にたくないいいい!!」
「じゃあホラ。精液をぐいっと」
「飲みたくないいいい!!」
「上の口が嫌なら下の口でもいいぞ」
「下の口って何?!!」

頭を抱えてベッドに蹲る。これ以上変な情報を与えないでくれ。

「うぅ…腹減った…」
「だから飲めと言うとーに。ていうか私の方が空腹だ」
「飲まん、知らん」
「さっき部屋に来たあいつ。お前の兄だろう?頼んで飲んでこい」
「死んでも嫌です!!」

考えただけで鳥肌が立つ。
俺が黎巴のを?ありえない。絶対に嫌だ。嫌だしそもそもあいつに襲いかかろうものなら返り討ちにあう。
…もう考えないようにしよう。
時間が経って、インカの力が少し回復して、いつまで経っても飲まない俺に痺れを切らして出て行ってくれたらいいのに。
硬く目を閉じて布団を頭まで被った。
起きたら全て夢だった、なんて。そんなオチならいい。


+++

残念ながらそんなオチでは無かった。
翌日、インカは普通に部屋にいた。俺の空腹もそのままだ。むしろ昨夜より酷い。
無駄な抵抗とわかりつつ朝ごはんはいつもより多めに食べた。普段朝はパン一枚でも多いと言う俺が二枚平らげ、インスタントスープまで飲んだので母さんはびっくりしていた。黎巴も驚いていた気がする。父さんは俺が起きるより先に出ているのでリアクションはなし。
当然腹が満たされる事はなく空腹に耐えながら通学し空腹に耐えながら授業を受ける。
4時間目の体育。ついに空腹に耐えきれず俺は倒れた。

「…死ぬ」
「はは、大袈裟だなぁ。貧血だってさ」
「……ひとや…?」

目が覚めると白い天井が見えた。保健室で寝ていたらしい。首を横に向けると一耶がいた。小学生の時からの親友だ。目が合うとにかっと笑みを向けられた。イケメンは眩しいぜ。
一耶は身長も俺より高くて、体格だって俺より良くて、運動もできて、勉強は…優秀ではないが俺よりはできる。カッコよくて絶対にモテるだろうに女の子といるところはあまり見ない。彼女も多分いないだろう。一耶の事だし、彼女ができたら大切にするんだろうな。俺と遊んでくれなくなるかもしれない。それが少し嫌で俺はちょっとだけホッとしていた。

「まだ授業中だけど保険医の先生は寝てなさいってさ。しんどくないか?」
「…あ、うん。もしかしてずっと居てくれたのか?」
「まぁな。気にすんなよ。サボれてラッキーだ」

そう笑って一耶は俺の髪を撫でた。
…俺が女子だったら絶対惚れてる。
時計を見ると授業時間はまだまだ残っていた。俺が倒れたのは授業が始まって割とすぐだったと思う。寝ていたのは十分程度の様だ。
ベッド周りにはカーテンが仕切ってある。だが完全に閉じ切ってなく人が通れるくらいの間隔が空いていた。覗くと保健室は無人の様で俺たち二人しかいなかった。

「墨斗が倒れるなんて珍しいな。寝不足か?」
「いや、お腹空いてて」
「なんだそりゃ。授業が終わったら昼休みだしそれまで頑張れ」
「…うん」

授業が終わるまで三十分程ある。
それまで俺は空腹に耐えられるのか。無理だ。耐えたところで、弁当を食べたところで俺の腹は満たされない。
足りない。食べたい。渇いている。飲みたい。
飢えで思考がおかしくなったみたいだ。我慢の限界だった。
カーテンで作られた狭い空間。一耶の存在がダイレクトに感じる。ご馳走を前にお預けを食らってる気分だった。
一耶は体操服だった。俺も体操服だ。体育の授業中だったのだから当然だ。白いシャツ越しからもわかる一耶の身体。一年の途中まで運動部で、辞めてしまった後も家ではトレーニングはしていると言ってた。俺と違ってしっかりと筋肉の付いた身体。少し汗の匂いがした。まだ夏には早いとはいえ昼間で太陽は真上に昇っていて気温は暑い。短時間でも動けば汗はかく。でも不快感はなくて脳が痺れた。
…くらくらする。

「大丈夫か?」

心配した表情の一耶が俺の顔を覗き込む。
距離がぐっと狭まる。
肌に触れる感触。鼻腔をくすぐる一耶の匂い。
一気に脳が犯されて一つの思考で埋め尽くされた。
食べたい。

「…ごめん、お腹空いて。我慢できない」
「…?弁当持ってこようか?」
「違うんだ」

一耶のシャツの襟元を掴んで引き寄せる。
予想していない行動に対処できなかった一耶はバランスを崩して俺の上に倒れる。が俺を潰さない様にと腕に力を入れギリギリで防ぐ。押し潰される気でいたのに一耶の気遣いに申し訳なくなる。鼻先が触れる程の至近距離。何方のかわからない鼓動の音が煩く聞こえた。驚き固まっている一耶の腕をもう一度強く引き寄せるとその勢いで俺は起き上がり一耶の上に馬乗りになった。
飢えと渇きで濡れた目が熱を持つ。ついに我慢ができなくなって一耶を見つめた。
震える唇を耳元に近付け、願望をぶつけた。

「一耶のが…っ、欲しい…!」


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