膝に乗ってきた猫の喉を撫でてやると猫はゴロゴロと鳴く。大層気持ちがいいようだ。
 トーマが犬猫を餌付けするのに便乗して、トーマから餌を少し分けてもらい、同じように餌付けしてみたら思惑通り野良猫に懐いてもらえた。こうやって木陰にいるとどこからか寄ってきて、撫でてくれと体を擦り寄せて来るのだから癒される。
 最近のトーマは機嫌がよく、シャルルが行き先を伝えればトーマの目の届く範囲じゃなくても出かけることを許可してくれる。というかそもそも夫婦でもないのだから逐一行動を報告する義務もないように思うのだけれど、ただでさえ心配症のトーマをこの頃酷く心配させてしまったので、行き先報告と帰宅報告はシャルルなりの懺悔でもある。
 最近のトーマ、を具体的に言うと、髪飾りを渡してからのトーマ、だ。よほどお土産が嬉しかったようで、派手に動き回らないときはシャルルが渡した髪飾りで髪を結ってくれている。
 無くしたり壊れたりしてしまったらまた買ってくるよとシャルルがトーマに伝えたら、そういう問題ではないのだと眉を顰められたのは昨日のことだ。
 シャルルもまた機嫌がいい。
 行動制限が緩くなったのも一つの理由だが、言うまでもなく、自分が渡した髪飾りでトーマがとても喜んでくれているからだ。それも身につけてくれているのだから尚のこと。
 だからもはや見なれてしまった人影がこちらに近づいて来るのに気がついても逃げず、むしろ到着を待ち、歓迎した。
「公子。こんにちは」
「……え、機嫌がいいね? てっきり嫌がるかと思ってたんだけど」
「今日は天気がいいからな」
 タルタリヤはちらりと空を見た。確かにいい天気だ。でも、以前フォンテーヌで出会った時も、今日と同じくらいの快晴だった。
「また手合わせしに俺に会いに来たの?」
「君は大体ここにいるって以前聞いたからね。そろそろやる気になってくれたかな?」
「ずるいな」
「え?」
「俺は公子に会いたくても会えないのに」
「……俺に会いたかったのかい?」
「まさか」
 シャルルが声に出して笑う。素の笑顔だった。
「まあでも、あんたが俺の友人なら、連絡ぐらいは取り合える関係でいたいな」
「……。璃月の北国銀行宛に手紙を出してくれれば、比較的連絡が取れるかもしれないね」
「曖昧だなぁ。さすが執行官、忙しいんだ」
「いつもは俺のこと暇人って罵ってなかった?」
「罵ってはいないよ。暇人に見えるなって感想を述べているだけで」
 やっぱり今日のシャルルは雰囲気が柔らかい。
 タルタリヤは怪訝な表情でいたが、不意に、フォンテーヌで見たシャルルの姿を思い出した。
 あの時彼は、真剣な顔をして、幼馴染みへのお土産を選んでいた。
「……。もしかして、"恋人"からいい反応をもらったのかな?」
「はは。幼馴染みだよ、トーマは」
「……」
 関係については訂正してきたけれど、話題については否定しなかった。
 ふうん。喜んでもらえたんだ。"幼馴染み"のために真剣に選んだ"お土産"は。ふーん。それでこんなに機嫌がいいんだ。ふーん……。
「公子はどうだった?」
「どうって、なにが?」
「ミルクキャンディ」
「……。ああ、甘ったるくてしかたなかったよ、あれは」
「そう?」
「君ってああいうのが好きなの? 子供舌だね」
「子供舌に合うお土産を持ってきてくれたら、俺は喜んで公子と手合わせをするよ」
「……」
「今度は持ってきてね。"ああいうの"」
 ゴロゴロと喉を鳴らしていた猫は、満足したのかシャルルの膝から下りて離れていった。
 膝が寂しくなる。
 シャルルは自分を見下ろすタルタリヤをじっと見つめた。
「突っ立ってないで座ったら? 少しは俺と、友人らしく話でもしよう」
「……今日の君、なんだか気味が悪いね」
「機嫌がいいからね。心を開いて公子に歩み寄ってるんだよ」
「俺は君が、俺と手合わせをしてくれればそれでいいんだけど?」
 ため息混じりに言いつつも、タルタリヤはシャルルと向かい合うように座った。
 少しだけ沈黙。
 心地の良い風が二人の頬を撫でる。
「フォンテーヌに行ったのは親に顔を見せるためだったけど、やっぱり旅は楽しいよね」
「冒険が好きなんだっけ。君は」
「うん。まだ行ったことがないのは、ナタとスネージナヤだから……近いうちにどちらかに行きたいな」
「ふうん……」
「? なに?」
「スネージナヤなら、俺の故郷だ」
 タルタリヤがどこか優しく目を細めている。故郷や、故郷にいる家族を思っているのだろう。
 戦闘狂でもそんな表情ができるのかと。シャルルは少し意外に思う。
「そうなんだ。ならいつか公子に案内を頼もうかな」
「え」
「スネージナヤは雪国って聞くし、今までみたいに雰囲気で旅をしたら凍死しそうじゃん? そうだ、公子はドラゴンスパインって知ってる?」
「……、知ってるよ。モンド南部にある雪山だろ?」
「うん。俺、そこで3日間遭難したことがあるんだ」
「は?」
「あの時はさすがに死を意識したよ」
 シャルルは当時を懐かしむように笑っているがまったく笑いごとではない。
「その話って、君の幼馴染みは知ってるのかい?」
「トーマは知らないよ。今度話してみようかな」
「やめときなよ。話したら、君、また行動制限されるって」
「はは、絶対そうだ」
 トーマは心配症だから。と、シャルルは笑う。
 よほど機嫌がいいのか、今日のシャルルはよく笑うなとタルタリヤは思った。
「公子、ちょっと手ぇ貸してくれる?」
「?」
 シャルルは身につけている手套を外しながら言う。
 それはどっちの意味の手を貸すだろうか、と疑問に思いつつ、タルタリヤはとりあえず右手をシャルルに差し出した。
「公子って指輪してるんだ。洒落てるね」
「? ありがとう」
 褒められたのでとりあえずお礼を言った。
 シャルルはタルタリヤの手を掴み、まじまじと観察する。目的は謎だが、手を貸して、というのはタルタリヤの解釈した意味であっていたようだ。
「指輪と手袋外してもいい?」
「え? ……何が目的なのかな」
「え。公子の手ってどんな感じなのかなって」
 公子の手ってどんな感じなのかな。
 ……?
 タルタリヤの困惑を他所にシャルルは許可なくタルタリヤの指輪と手袋とを外し、自分の手套の上に重ねて太ももに置く。混乱中のタルタリヤはされるがままであった。
 ぺたり。右手と左手を合わせる。
「公子の手の方が少しだけ大きいな」
 手を離す。
 ぎゅ。右手で右手を握る。
「……」
「公子、力込めてみてくれる?」
「……」
「いだだだだ」
 ぱっと手を振りほどく。
「何その握力。ゴリラかよ」
 シャルルは心底軽蔑した目をタルタリヤに向けた。力を込めろと言われたからタルタリヤはその通りにしただけなのに理不尽である。
「……で、なにがしたかったんだい?」
「俺、打撃を受けた時に握ってる武器をよく落としちゃうんだよな。だから握力が弱いのかなと思ったんだけど。公子ってさっきぐらいの力で柄を握ってんの?」
「まさか、しょっちゅうあんなに力を込めているわけがない」
「だよな。やっぱりグリップが合ってないのかな」
 はい。ありがとう。とシャルルはタルタリヤに手袋と指輪を返す。
「……」
 釈然としない思いを抱えたまま、タルタリヤは手袋と指輪をつけ直した。
 既にタルタリヤの手からは興味を失ったのか、シャルルは今度は自分の手のひらと大剣の持ち手とを交互に見ている。
「……。シャルル」
「ん?」
「手を貸して」
 視線は大剣の柄と右手に向いているが、シャルルは左手をタルタリヤに差し出した。
 タルタリヤは差し出されたシャルルの左手を握る。指を絡め、ぐ、ぱ、ぐ、ぱ。……。なるほど、少し面白いかもしれない。
 ふとシャルルが視線を上げた。タルタリヤが楽しそうに口に弧を描いているので何気なしに開いていた手のひらを閉じてみる。
 手に夢中だったタルタリヤはシャルルを見た。
「それって本気?」
「……」
「いててて」
「ふん」
 結構力が強かった。確かにこれは握力の問題ではなさそう。多分、シャルルが言ったようにグリップの問題だろう。
 ぱっと振り払われた手が何となく名残惜しい。
「俺も指輪でも嵌めてみようかな」
「なんで?」
「滑り止め的な?」
「その目的なら滑り止めのついてるグローブの方が確実なんじゃないかな」
「そうだけど、指輪の方がオシャレじゃん」
 滑り止め云々は建前で、実は指輪に興味があるようだ。
「……つけてみる?」
「え。うん」
 タルタリヤの提案にシャルルがほんの少し目を細めた。どうやらやっぱり指輪に興味があって、つけてみたかったらしい。
 タルタリヤは右手の小指につけている指輪をもう一度外しシャルルに渡す。
「ありがとう」
 シャルルは借りた指輪を左手の小指に嵌める。少し大きい。
「君、俺より少し手が小さいからこっちの方が合うんじゃない?」
「?」
 タルタリヤはシャルルの左手を掴んで、小指から指輪を外し、薬指に嵌める。小指に嵌めたときよりもぴったりだ。
「ほら。ちょうどいい」
「……」
 シャルルは指輪の嵌った薬指からタルタリヤの深い青に視線を向ける。
 不自然に黙ったシャルルからの視線に、タルタリヤは首を傾げた。
「ん? どうかした?」
「プロポーズを受ける時ってこんな感じなのかなって」
「は? ……、……!」
 左手の薬指。
 理解したタルタリヤは弾かれたようにシャルルから手を離した。
 バクバクと心臓がうるさい。
「え。ごめん、そんなに引かないでよ」
「……、……」
「ほら。返すって。ごめんってば」
 シャルルはタルタリヤに借りた指輪を薬指から外してタルタリヤに差し出す。
 けれどタルタリヤはそれを受け取ろうとせず、口許に手を当て、厳しい表情をしたままだ。
「え? 怒ってる? ごめんって、公子」
「……いや、怒ってるって言うか、何言ってんのこいつって思ったというか……」
「それって怒ってるんじゃない? 手合わせしてあげるから機嫌直せよ」
 すっとタルタリヤが立ち上がった。
「今日は帰るよ」
「ん? え?」
 さあやろうか! そう言われるとばかり思っていた。しかしシャルルの予想に反してタルタリヤはシャルルに背中を向けてスタスタと歩いていってしまう。
「公子!」
 背中に向かって叫んだけれどタルタリヤは立ち止まらず本当にこの場を去ってしまった。
「……え。そんなに怒る?」
 タルタリヤはそんなことを気にするとは思わなかったけれど、手合わせ発言もスルーしてあれほど怒るということは、プロポーズみたい発言はデリカシーがなさすぎたのか。
 というか指輪、返せていないのだけれど……。

 ☆

 タルタリヤに返せなかった指輪をうっかりなくしてしまっては困るので、ガラスのコップに入れて、棚の上に置いておいた。そうすると何が起こるかと言うと、毎日シャルルの世話をしに来てくれているトーマが気づくというわけで。
「シャルル。どうしたの? これ」
「うん?」
 怪しむ声音の元を振り向くと、トーマがコップの中の指輪を睨んでいる。
「ああ。公子の忘れ物」
「公子殿の?」
「ん。ちょっと借りたんだけど、返そうとしたら受け取らずに帰っちゃった」
「借りた? なんで?」
 トーマは未だに怪訝そうだ。
 ひとつシャルルがトーマの疑問に答えると、またひとつトーマの疑問が増えてしまう。それくらい、トーマからしてみると、シャルルが指輪を持っているというのは不可解なのだろう。
「指輪をつけてみたかったから」
「……。ふーん」
「? ……」
 トーマは依然難しい表情のままだ。
「というか、いつ会ったの?」
「え。昨日」
「ふーん……。会う約束でもしてたのかな?」
「? 全然。というか、連絡する手段がないし。……あ。いや、北国銀行に手紙を送れば気づくかもって言ってたな」
 そういえばそんなことを言っていたと思い出した。
 今度いつ会えるかもわからないし、それなら指輪を小包に入れて北国銀行宛に送ればいいだろうか。……いや、この指輪、もしかするとタルタリヤにとってとても大事なものかもしれない。やっぱりちゃんと対面で返すのが安全か……。
「シャルルと公子殿って、そんなに仲良かったっけ」
「え? 仲良いって、どのへんが?」
「仲良くなかったら自分の身につけてるものを貸さないと思うけど」
「……。トーマ、なんか怒ってない?」
「……」
「声が、怒ってるように感じるんだけど。……気のせいだったらごめん」
 シャルルは不安げにトーマを見つめている。
 揺らぐ新橋色の瞳を見ていると、トーマは自分の大人げなさがほんの少し情けなくなる。
「怒ってるよ」
「……、……」
「指輪なら、オレが買ってあげるよ」
「え?」
「だから、他人の指輪をつけないでくれるかな」
「……。いや、あのさ。それって嫉妬?」
「……」
 トーマが黙り込んだ。
 つい昨日、プロポーズ発言でタルタリヤを怒らせた記憶がよぎる。また失言してしまっただろうか。
「ん。うん……、いや、ごめん……」
「……そうだよ。これは嫉妬だ」
「……」
 自分から聞いておいてなんだが、肯定されると言葉が出ない。
 嫉妬。嫉妬したのか。自分が、公子から指輪を借りて身につけたことに。その指輪を、返し損ねただけといえど、今も持っていることに。
 息が詰まる。
 シャルルは乾いた喉を潤すように唾を飲み込んだ。
「大好きな幼馴染みが別の誰かにとられてしまうのが嫌なんだけど、この感情は"幼馴染み"に向けるのは重いかな」
 黙るシャルルへ言葉を向けたトーマのその声音には、まだ苛立ちを残っていたけれど、どことなく悲しそうだ。
 シャルルはじっとトーマの目を見つめている。
 そうしているうちに耐えられなくなってくるのはトーマの方だ。トーマは「いまのはやっぱりなしだ!」と無理に笑って誤魔化そうと考えた。
 けれどそれをさせなかったのは無言だったシャルルの方だった。
「……。俺は、トーマを探して稲妻にきて、トーマがここで、俺以外に心を許している人がいるのを知った時、今トーマが俺に言ったのと同じ気持ちを持ったことがある。というか、今も持ってる」
「……」
「だから別に、幼馴染みなのに重いとは、俺は思わない」
「……。うん」
 トーマとしては初耳だったし、シャルルが自分の周囲の人間に嫉妬していたことが意外だった。そんな様子、ちっともみせなかったくせに。
「他人の指輪をつけないで、てのは、守れると思う。でも、トーマが今思ってることは約束できない」
「……ふーん、オレが何を思ってるのかわかるんだ?」
「公子と仲良くするなって思ってるだろ」
「……」
 図星だ。トーマはぐ、と黙った。
「じゃあトーマは神里の人と離れて、俺とずっと旅をしてくれる?」
「それはできない。オレにとって若とお嬢は」
「そうだよね」
 トーマの発言中にシャルルは言葉を重ねた。
 トーマの口から続く言葉を聞きたくなかったのだろう。
「今までずっと言わなかったし、今後も二度と聞かない。トーマの大事な人たちだって理解してるから」
「……。だからオレにも、理解しろってことだよね」
「そうだよ」
「……、はは。苦しいなぁ……。大事な人なの? 殺されかけたのに」
「……まだわからない。ただ、もう少し知りたいと思ってる」
「……。……シャルル、抱きしめてもいい?」
「うん」
 返事するより先に体を抱き寄せられた。力加減がなってなくて、少し苦しい。そんな不満はあったが、シャルルもトーマの背に腕を回した。
 ――お互いに随分依存している幼馴染みだね。
 タルタリヤに以前言われた言葉を思い出す。本当にその通りだと思う。しかもそれが、出会って数日の人間に見透かされるのだから笑えない。

 ☆

 璃月へ行くことを漠然と考えていたがそれが計画になることはなかった。
「あ。公子」
「……。やあ」
 店の軒下で三色団子を食べているところにタルタリヤがやってきた。今日はいつもと違って気まずそうだなと、タルタリヤの声音を聞いたシャルルは思う。
「座る? 1個あげようか」
「また甘ったるいやつ?」
「おいしいよ。三色団子」
 タルタリヤは皿に乗った団子とシャルルが今ちょうど口にしている団子とを交互に見たあと、溜息をつき、シャルルの横に腰を下ろした。
「璃月の北国銀行ってやつを訪ねてみようかと思ってたんだけど、公子の方から来てくれて助かったよ」
「へえ。じゃあ俺の用件はわかってそうだ」
「指輪だろ? でも今は手元にないんだ。持ち歩いてなくしたら困るから、家に置いてる」
 もぐもぐ。団子を咀嚼。もぐもぐ。ごくん。湯のみを手に取る。
「あれ。もしかして手合わせの方?」
「……君がその気なら俺としては万々歳だけど」
「まあ。別にしてやってもいいけど」
「え」
「公子しつこいからな。たまにはマジで相手してやるよ」
 細められた目。冷たい眼差し。刺すような殺気。
 体感だが、急激に、この場の空気が冷える。
「……あは」
「うわ、公子、顔こわ。それあんまりこういう民間の場でしない方がいいよ」
「君も人のこと言えるような目じゃなかったけどね」
 タルタリヤは串を手に取り三色団子を口に含んだ。
 程よく弾力のある柔らかなそれは、やっぱり、甘ったるい。
 ここに来た時のタルタリヤは気まずそうだったが、手合わせに積極的なシャルルの態度を見て、すっかり調子が戻ったらしい。もぐもぐと三色団子を食べて「悪くないね」なんて感想を述べている。
 シャルルは甘いものをもらえると機嫌が良くなる自覚がある。
 シャルルにとっての甘いものは、タルタリヤの場合『本気の手合わせ』のようだ。人の好みはそれぞれだけれど、やはり好みが殺し合いというのは、物騒なものだ。

 茶屋から離れて自宅に帰った。ついてきたタルタリヤは「相変わらず狭い家だね」なんて言ってきている。
「広い家を持ったら処分も大変だろ」
「それっていつか稲妻を離れることを視野に入れてるってことかな?」
「そうかも。俺は自由の風だからな」
「君はフォンテーヌ出身だろ」
「あはは」
 シャルルはこういうやつだ。たまに掴みどころがない。
「はい。これ」
 コップに保管しておいた指輪をタルタリヤに差し出す。が、タルタリヤは素直に受け取ろうとしない。
「公子?」
「それ、俺の指に嵌めてくれる?」
「え? まあ。いいけど……。じゃあ、手ぇ貸して」
「はい」
 差し出された左手を両手で包む。
「公子って手が綺麗だよな」
「……」
 なんとなくタルタリヤの手に感想を述べつつ、シャルルは言われたとおり、タルタリヤの小指に指輪を嵌めた。
「はい。つけたよ」
「……あれが本当にプロポーズだったら、君は受け入れたかい?」
 あれ、と言われシャルルは少なからず驚いた。
 あんなに怒っていたくせに、タルタリヤの方から話を掘り返すとは。
「断ったかな」
「はは。即答とは傷つくなぁ」
 言葉の割に傷ついていなさそうな笑みだ。
 そもそも出会って日が浅い。真剣なプロポーズをするような間柄でもないだろう。
「公子は、俺が会いたいときに会えないから。いつも俺のそばにいてくれるなら、喜んで受けるけど」
「え。……君って俺のことが好きなの?」
「気に入ってる方だよ」
 タルタリヤはぱちくりと瞬きをした。
 目の前にあるターコイズブルーは、タルタリヤを揶揄しているようには見えない。本心のようだ。
「……。ファデュイにくるかい?」
「は?」
「ファデュイに入って俺の部下になれば、いつでも俺に会えるだろう? それに、君の欲望を満たす旅をさせてあげられるよ。俺の方は、いつでも君と手合わせができるようになる。win-win、てやつだ」
「……。ふむ」
 確かにいいかも、とシャルルは思った。
 毎日手合わせに付き合わされるのはめんどうだけれど、刺激的な冒険は魅力的。
「でもやっぱりいいかな。組織に属したら自由がなくなる。部下ってのもなんか負けた気になるし。それに俺は誰かについて行きたいんじゃなくてあくまでも自分の行きたい場所に行きたい時に旅をしたいから」
「君ってなかなかワガママだよね」
「そうかな」
「君に付き合う幼馴染みも大変だ」
「トーマはそばにいてくれるけど、俺に付き合ってはいないよ。彼には稲妻や、神里家がある」
「……」
「公子にファデュイがあるのと一緒だね」
 ふ、と笑ってシャルルはタルタリヤから離れた。
 手合わせをするならもう少し動きやすい服に着替えようかななんて言いながら服を探している。なかなかの自由人だ。
 シャルルが上着を完全に脱いだ。
 それは意識しなくても目がいった。
 誰かに首を絞められているかのような、変色した皮膚。
「うわ。……なにその、火傷痕」
「ん? ああ。そっか、公子に見られたことはなかったんだっけ」
「そんなところ、普通は火傷しなくないか? 明らかに人為的だね」
「若気の至り、的な?」
「……なるほど。幼馴染み絡みだ」
「公子もだいぶ俺のことがわかるようになったじゃん」
 声音はどこか楽しそうだ。
 すぽりとタートルネックの服をかぶり、火傷痕は布の下に隠れた。
「まあ焼いてっていったのは俺だけど」
「君ってマゾ?」
「失礼だなぁ。そんな趣味はないよ。昔手合わせしてた時に首を切っちゃってさ」
「ああ。焼灼止血ってわけだ」
「うん。まあ今になって思えば焼かなくてもよかったかも」
 急すぎて冷静じゃなかったんだよね。お互い。
 そんな言葉をタルタリヤはどこか冷めた心で聞いている。
 こんな傷痕があるのなら、腹部の傷痕なんて微塵にも気にしないわけだ。霞む思考でそんなことを思っていた。
「公子に脇腹刺された痛みなんか比べ物にならないぐらい痛かったな。トーマに首を焼かれたのは。今までで一番痛かった」
「ふうん。それならさ」
 胸ぐらを捕まれぐいと引き寄せられた。
 暗い深海が、シャルルを飲み込もうとする。
「今日俺が、今までで一番だって言えるくらいの痛い思いをさせてあげるよ」
「……」
「例えば君の腹を穿ってグチャグチャに掻き回してやったら、君は心地いい悲鳴を聞かせてくれるかな」
「趣味の悪い拷問ってこと? 想像するだけで痛いなぁ」
 シャルルはタルタリヤの深い青から目をそらさない。それどころか、目を細めて好戦的に笑った。
「あのさ、公子」
「……」
「やれるものならやってみろよ。腹を穿たれて掻き回されて泣くのはあんたかもしれないな」
「へえ。そんなこと言うんだ。随分挑発的じゃないか」
「言っただろ、マジで手合わせしてやるって」
 冷たい眼差し。隠す気のない殺意。
「……あは。やっぱり君はおもしろいよ」
 タルタリヤは無意識に舌なめずりした。「間違って君のこと殺しちゃうかもしれないな」そう呟いて胸ぐらから手を離す。
「俺が死んだら遺灰を旅に連れて行ってほしいな」
「まさか。スネージナヤの雪の下に埋めてあげるよ」
「それなら死ねないな」
 シャルルは笑った。素の笑顔だった。

 ☆

 大地に寝転んで空を見ると改めて綺麗に感じるものだ。この鉛のような体でなければ、きっと大きく深呼吸をして、胸いっぱいに空気を吸い込み、リラックスしただろう。
「口の中が鉄の味だ」
「それは子供舌にはつらいね。はは、う、笑うと痛いな」
「全部折ってやるつもりだったのにあんたほんとタフだよな」
「2本やられただけでも不覚なんだけど」
 空を見上げながら語る。ちなみに今のは肋骨の話だ。
「君、容赦なくて、本当に好きだよ。君には邪眼を使ってみたくなる」
「ああ」
「ああって。知ってるの?」
「知ってるって言うか持ってるけど」
「はぁ!?」
 ガバリと勢いよくタルタリヤが体を起こし、依然として大の字に寝転んでいるシャルルの顔を覗き込む。そんなに勢いよく動いたら笑ったときよりも胸が痛むだろうにとシャルルは呆れた。
「なんで持ってるの!?」
「え? ファデュイの連中が配ってたじゃん」
 それはまだ鎖国令が続き、目狩り令が執行されていたときのことだ。シャルルは抵抗軍に所属していたわけではないが、国の騒動最中にファデュイにもらった。それだけのことである。
 そんなことをざっくり語ると、タルタリヤが深くため息をついた。
「……。君は使わない方がいいよ。それ」
「公子は使うのに?」
「君のためを思って言ってる」
 タルタリヤは真剣だ。
 シャルルは緩慢に瞬きをして、ふ、と息を吐く。
「さっきまで俺を殺そうとしてたのに、俺のためを思ってるなんて。変な人だ」
「俺との戦い以外で死なれたら困るんだよ」
「そんなに簡単に死なないよ」
「簡単に死ぬよ。君みたいな普通の人間は」
「手ぇ貸してよ公子」
 シャルルはタルタリヤの右手を叩く。
 タルタリヤが素直に腕を浮かせると、シャルルはその手を自分の胸の上に誘った。
 ドクドク。一定のリズムを刻む心音。
「死なないよ」
「……はぁ」
 タルタリヤはパタリとシャルルの横に寝転んだ。再び揃って大の字である。
「……ちなみに何元素?」
「うわほら。やっぱり興味あるんじゃん」
「聞いてみてるだけだよ」
「雷」
「え。お揃いだね?」
「何そのお揃い。嬉しいのか?」
「いや別に……」
「変なの」
 今度はシャルルが体を起こした。
 口の中で舌を回し、こくりと喉を鳴らす。血の味が止まらない。タルタリヤに殴られて口を切ったから。
「うがいしたい」
「むこうの海水でゆすいできなよ」
「絶対染みるよな。あ、公子って水元素じゃん」
「……。嗽に俺の元素が使われるって、なんか屈辱だな……」
「俺に肋骨2本折られたのとどっちが屈辱?」
「……君さ。いまからでも本気で泣かせてあげようか」
「え。やる? 邪眼使う?」
 シャルルが楽しげに口角を上げ、「いて」と呟く。きゅと口を指で押えた。
 タルタリヤは笑うと胸が痛いが、シャルルの方は笑うと口が痛い。
「なんでそんなに好戦的なのかな……」
「アドレナリンのせいかも。戦ってる最中とそのあとって、興奮するよな」
「わからなくはないけどさ」
 タルタリヤは寝転んだままだ。なんだかんだ言っても肋骨が折れた状況というのはきついらしい。
 シャルルは何気なしにタルタリヤの頭を撫でる。
「……」
 もちろん、急に頭を撫でられたタルタリヤの方は、当惑している。
「俺はそろそろ戻ろうかな。公子のこと殴ったら気分がすっきりした」
「……うわ。俺のこと八つ当たりに使ったのかな?」
「半分くらいな」
「はは。当て馬かな、俺は」
「公子のことも好きだよ」
「……」
 頭を撫でていた手が離れる。
 指輪をしていない、華奢な指。
「指輪、俺が買ってあげようか?」
 シャルルは不思議そうにタルタリヤを覗いた。
 似たようなセリフを聞いたばかりだ。まさかトーマとの会話を知っているのかと驚いたが、そういえばそもそも自分がタルタリヤの前で指輪を気にする素振りをしたんだったなと思い直す。
「や。遠慮しとくよ。トーマに他のやつから指輪をもらうなって言われてるし」
「なにそれ。独占欲丸出しじゃん。頷いたわけ?」
「うん」
「は? はぁ、君も大概だよね。……あー、なるほどねぇ、だいたい分かった。そういうことか」
 自分と再会する前に、自分から指輪を借りた話をトーマにして、その件で言い合うにしろ合わないにしろ、とにかく多少揉めたのだ。それでシャルルはどことなく苛立ちがあって、その苛立ちの解消に手合わせは使われた。まったく酷い当て馬だ。
 いつも手合わせを渋るシャルルがこうも好戦的なのは珍しいとは思ったが。なんだかいいように扱われた気分である。
「厄介な幼馴染みだね。君たち」
「俺もそう思う」
 シャルルは少しだけ遠い目だ。
 タルタリヤはしばらくその目を眺めていたが、飽きたようで、遠くを見るシャルルの体を軽く叩く。
「手、貸して。シャルル」
「ん?」
 シャルルはタルタリヤに右手を差し出す。と、そっちじゃないと言われたので、今度は左手を向ける。するとその手はグッと引っ張られ、タルタリヤにがぶりと。
「いっ!」
「……」
「ちょ、痛いって、いっ、公子!」
 角度を変えて何度も指の付け根を噛まれる。もしやこいつ指を噛みちぎろうとしているのではないか。
「……ん」
 タルタリヤが口を離した瞬間、シャルルはばっと手を引っこめた。
「あはは」
「マジで痛い……食いちぎられるかと思った。やっぱ怖いな、あんた。当て馬にされたのそんなに怒ってんの?」
「怒ってないよ。まったく」
「はぁ?」
「君は貰うなって言われたんだろうけど、俺は送るなって言われてないからね」
「え。意味がわからない」
「それでいいよ。簡単に堕ちたら、征服しがいがないだろう?」
 タルタリヤは体を起こしシャルルの顎をすくって笑う。当のシャルルはこれでもかと言うほど眉間に皺を寄せ「なにそれ」と吐き捨てるのだった。