トーマは神里家の家司だ。その仕事が忙しければ、シャルルの世話を焼きに来ないことは、今までだって何度もあった。
起きた時には昼過ぎだった。トーマが家に来なかった時のシャルルの目覚めはいつもこんな調子だ。ぐ、と伸びをしてノロノロと家事をする。
昨日の手合わせのせいで体のあちこちが痛む。擦過傷や内出血がちらほら。シャルルは負けず嫌いなのでずっと黙っていたが、実はタルタリヤに肋骨を一本折られた。動くとそれなりに痛い。自分も二本折ってやったと言えど、もっと手加減しろと、文句を言いたくなる。
食事を作るために冷蔵庫を開けた。
何もなかった。
「……」
すっかりトーマに任せっきりだったので知らなかった。買い物に行かなければ。
シャルルはいそいそと身なりを整え準備して家を出た。
適当に食材を買って、何か報酬が良くて楽しい依頼がないかなあと冒険者協会に寄ってみた。ちなみにシャルルは冒険者協会に属していない。組織に属することは不自由を意味すると思っているからだ。
だから彼が冒険者協会に寄ってもキャサリンから仕事を斡旋してもらえないのだが、たまにキャサリンは、人がいいのか秘境の話や困っている人の話を振ってくれる。もちろん、冒険者協会に入りませんかという言葉を添えて。
そんな時に見慣れた金髪を見つけ、声をかけようと思ったのだけれど、彼には連れがいたので、やめた。
金髪で、後ろ髪は三つ編みにした少年と、ふわふわと浮いている白い女の子。彼らと一緒にいるトーマは楽しそうだ。
シャルル自身旅人と話をしたことはないけれど、彼がトーマの助けとなり、彼を危機から救ってくれたことは知っている。それと、この国を救ってくれた英雄でもある。
「……」
だからトーマは彼らと親しげだし、楽しそうだ。邪魔をしないでおこう。
「あ! シャルル!」
と、思ったのだけれどシャルルに気がついたトーマの方から声をかけられてしまった。少し離れた距離から大きな声で自分を呼び、ヒラヒラと手を振っている。
荷物があるし、体も痛いので、彼のように腕を上げて手を振ることが今はできない。
旅人の方とも目が合ったので軽く会釈をしておく。
トーマが「こっちにおいでよ」と手招きしている。旅人を紹介してくれるのだろう。どうしようかと迷っていると、不意にがさりと。
「あ。ちょっ……」
買ったばかりの刺身を野良猫にとられた。シャルルは慌てて猫を追いかける。「シャルル!」とトーマの声が聞こえたがそれどころではない。
「行っちゃったな」
「猫になにか取られてたね……」
パイモンと旅人はキョトンとした様子で青年が走って行った方向を眺めている。
「さっきのが、トーマの幼馴染みか?」
「ん? ああ……」
パイモンがトーマを向き直すと、彼は存外難しい顔をしている。「どうかしたのか?」と問い直す。
「いや。走り方がぎこちなかったなと思ってね」
「そうか? オイラにはわからなかったぞ?」
「さすが幼馴染みだね」
「ん。まあね」
「心配なら追いかけてきなよ。俺たちもそろそろ行くからさ」
「今度またさっきの幼馴染み、紹介してくれよな!」
「ああ。またね」
旅人たちと手を振り合って別れた。
さて、とトーマはシャルルが走っていった方向を見る。はたして、どこに向かっていったのだろうか。
追いかけた猫は、シャルルから盗んだ刺身を3匹の子猫に与えていた。
「はぁ、……」
シャルルは軽く胸を弾ませながらその様子を見る。
親猫だったのか、この子は。
みゃあみゃあという鳴き声。「はぁ」と。シャルルはまた息を吐く。
店主に、新鮮なのがあがったよと言われつい買ってしまい、夕飯に食べようと思っていたのだけれど、いまさら取り上げる気にはならない。
シャルルは近寄っても警戒する気配のない猫たちの傍にしゃがんで、彼らの様子を眺める。
「餌やりは、トーマの仕事なんだけどな」
ンミャンミャと鳴く子猫たちはどことなく嬉しそうだ。
刺身はまた買えばいい。シャルルはゆっくりと立ち上がる。
「いっ、つ〜……」
立ち上がる動作で胸が痛んだ。あははと心底愉快そうに笑い声をあげるタルタリヤが思い出されてなかなか憎い。
「シャルル」
「……トーマ」
いつの間に来たのかシャルルの後ろにトーマがいた。「さっきはそっちに行けなくてごめん」と謝りつつ、腰の辺りで軽く手を振る。
トーマはどことなく険しい顔をしてシャルルに近寄ってきた。
「口を切ったのか?」
「え?」
「ここだよ。瘡蓋になってる」
トーマの手が伸びてきて顔に触れる。その親指で口の端を撫でられた。
「あー、うん。思いっきり殴られたからな……」
「えっ?」
「でも俺も思いっきり殴ったし」
「…………あー、そういうことか」
わかったわかった、と続けるトーマはあからさまに不機嫌だ。
シャルルはほんの少し眉を寄せる。
「あのさ。トーマ」
「別に仲良くするなって言ってないだろ?」
「そういう態度だったろ、今」
「仕方ないだろ。言うなって言われても嫌だから態度に出ちゃうんだ」
「子供か」
呆れた。トーマの方は「そうだよ。子供だよ」なんて開き直っている。
「大体なんでそんなに公子殿と仲良くするのかな」
「はぁ? トーマだって俺のことは放っておいて、俺の知らないところで神里や旅人の世話焼いてるくせに」
「……ん? え、いや、旅人とは偶然会ったから話してただけだよ」
「あっそ」
「……、え。もしかしてさっき、妬いてた?」
トーマがぱっと自分の口に手を当てた。口を隠すその動作は、どうせニヤけた口元をシャルルに見られまいとしているのだ。
シャルルはじとりとトーマを睨む。
妬いたのかなんて。思ってもわざわざそんなこと、本人の前で言うか。……いや、タルタリヤにプロポーズだの、トーマに嫉妬だの、ストレートに言い放ってきた自分が言えたことではないか。
「ねえ、シャルル……」
「……はぁ。妬いたよ。俺の世話しないで、旅人と仲良くしてるから」
「……、……あー。うん。うん……」
「……」
目を逸らされた。自分から聞いてきたくせにはっきり答えてやると顔を赤くしてやがる。
シャルルが変わらずしらっとした目でトーマを見つめていると、トーマは「んんっ」とわざとらしい咳払いをした。
「あー、シャルル! そういえば食事はとった? シャルルん家の冷蔵庫、空っぽだったろ? あ。だから買い物してたんだ?」
「……」
すっかりいつもの調子だな、とシャルルは思う。
まだ。と首を振ると、トーマはぽんと手を叩いた。
「なら一緒に食べに行こうか。オレも昼はまだなんだ」
「ん」
「オレが奢るよ」
「じゃあお言葉に甘えて」
「ああ。もちろんだ」
ぱあとトーマが笑う。
不服な気持ちは多少残っていたが、彼の笑顔を見ると、不思議と気持ちが澄んでいく。なんだかんだでその明るい笑顔には負けてしまうなと、シャルルは思った。
最近はトーマと二人でゆっくりすることがなかったなとシャルルはしみじみ考える。というか、モンドで別れ、稲妻で再会して以来、トーマの周りにはいつも人がいたし、手合わせしたり島を散策したりすることはあれど、四六時中一緒にいるとかはない。
四六時中一緒にいるように思えるのは、トーマがほとんど毎朝世話を焼きに来るからだろう。
ふう。思わずため息をつく。
「やっぱり温泉はいいね」
「うん……」
思った言葉をトーマに言われてしまったので、シャルルは横にいるトーマに同意した。
朝食兼昼食をトーマに奢ってもらったあと、トーマは今日は午前中に仕事を終わらせて午後は休暇をもらっているとのことだったので、プラプラと買い物をして、温泉に来た。
買い物中、「なんで午後休とってんの?」と聞いたシャルルに「なんでわからないかなぁ」とトーマが呆れ顔をしたのは余談である。
「それにしても家族風呂にしてよかったよ。まさかそんなに全身傷だらけだとは思わなかった……」
「ほんと怖いよな。あの戦闘狂やばすぎるって」
擦過傷。瘡蓋。
内出血。青あざ。
腹に穴をあけられ内臓をえぐられるなんてハードプレイは受けなかったけれど、全身傷だらけだ。
「これ、折られただろ?」
トーマがシャルルの右胸を押す。
「い゛っ! ……ぅぐ、……」
パシャ、とお湯が跳ねた。
「……はあ。治るまで大人しくしてないとダメだよ」
「……」
治せと思っているのならわざわざ押さないで欲しい。シャルルは恨みを込めてトーマを睨んだ。
温泉と言えばやはり瓶入りのコーヒー牛乳だ。トーマに昼ご飯を奢ってもらったので、シャルルはコーヒー牛乳をふたつ買った。
「はい。トーマの分」
「ありがとう」
トーマの隣に座り瓶の蓋を開ける。
「そろそろスネージナヤに行ってみようかな」
「ダメだ」
「……はあ」
なんだその即答、とシャルルは呆れた。軽い独り言のつもりだったのに。
「モンドでも別れたじゃん」
「……」
「ちゃんとまた戻ってくるよ。トーマのとこに」
「シャルルが旅をしている間にオレがいなくなるかもしれないぞ?」
「トーマがモンドにいなかったからここまで探しに来ただろ」
ごくごく。口内に甘みが広がっていく。
「何度でも探すよ。好きだから」
「……」
「飲まないの?」
「飲むよ」
拗ねたような声を裏切らず、拗ねた顔だ。
昔と変わらない。モンドからスメールに向かう時も、トーマはこんな感じだった。
シャルルは別に、トーマの許可が下りなくてもトーマを置いて旅に出る。それをトーマもわかっていた。
「……いつ行く?」
「そのうち。まだ決めてない」
「じゃあ、ここにオレが指輪を嵌めるまでは待って。……」
トーマは徐にシャルルの左手をとった。とって、ぱちくりと瞬きし、徐々に表情を固くした。
左手の薬指の付け根にだけある赤い痕は、まるで指輪である。
「……。なにこれ」
「え? うわ、なにこれ」
「シャルル」
「え? いや待って。俺、これは知らない…………ん? あれ」
噛まれたのを思い出した。タルタリヤに。薬指を、まるで噛みちぎるかのように。
それと同時に「君は貰うなって言われたのだろうが、俺は送るなと言われていない」といったことを言っていたのも思い出す。
「あっ! あー……」
そしてそれらを思い出したシャルルの反応を見てトーマも確信する。
「シャルル」
「いや、これは不可抗力というか」
「オレはお嬢や若にこんなことしないし、されない。シャルルにとっての公子殿と、オレにとっての神里家を同じように語るのは、やっぱり、大切の意味が違うんじゃないか」
「いや、……」
「これは立派な浮気だよね」
「えっ……幼馴染みに浮気とかある……?」
「あるよ」
「えっ」
驚愕した。幼馴染みにも浮気という概念があるらしい。
「シャルル」
「え? ん、……」
かぷりと口を噛まれた。そのことにびっくりしていると、今度は優しく唇を啄まれる。
「首輪はもうつけただろ?」
「……」
「オレのでいてよ。幼馴染みだろう?」
「……、……」
返事ができない。シャルルははく。と空気を食べた。
幼馴染みと、キスはするものだろうか。
「そうだ。今日はシャルルん家に泊まっていいかな?」
「……」
「? シャルル」
トントンと肩を叩かれてシャルルはハッとした。完全に意識が飛んでいた。今、トーマが何を言ったのかが分からないので、もう一度促す。
「だから、泊まっていいかなって。今日。シャルルの家に」
「それは全然いいけど……」
「よかった」
トーマは頬を緩めて嬉しそうに笑っている。
シャルルはそれをどこか別の世界のことのように眺めている。
唇に触れた柔らかい感覚が頭から離れなかった。
☆
トーマが振舞ってくれた夕飯を食べ、皿洗いをしているときに気がついたことだが、我が家には布団が一人分しかない。
今まで何度もトーマを家に招いているけれど、泊まりとなると話は別だ。トーマが泊まったことがないのなら他に泊めるような客は尚更いないし、用意しようとも思っていなかった。
掛物は色々あれど、敷布団は一枚だ。シャルルはその事実をすっかり失念していた。
「どうしよう」
ぽつりと呟いて蛇口を捻った。洗い終わった食器は水切りラックに入れておく。
どうしようって言ったって一緒に寝るか一人が畳の上で寝るかしかないのだが。後者を選ぶとしてその場合客人であるトーマにそんなことはさせられないのでシャルルが畳の上だろう。
「シャルル。布団ってどこにある?」
「……」
シャルルが食器を洗っている間シャルルの部屋にある観光雑誌を眺めていたトーマが、ちょうど今、シャルルがどうしようかと悩んでいた問題を口にしながら寄ってきた。
じ、とトーマの若草色を見つめる。「うん?」と首を倒す様子はどことなく大型犬を彷彿とさせる可愛らしさだ。
「タオルケットとかはあるんだけどさ」
「うん」
「敷布団が一枚しかないんだよな」
「ああ、そっか。シャルルって一人暮らしだしね」
うんうんとトーマは頷いている。
「じゃあいつもの敷布団を敷いておくよ。あそこの押し入れだよね?」
「うん。……?」
シャルルの返事を聞いてトーマは早速布団を用意している。今朝(と言っても昼だが)、シャルルが押入れに片付けたやつだ。
布団が一枚しかないことについてトーマは特に問題視していないようだ。よく遊びに来るから、自分の家のような感覚でいるのだろうか。
まあ、座布団が二枚あるからそれを繋げて自分の敷布団にするか……。
「なんで座布団を並べてるんだ?」
「え? 俺はこっちで寝ようと思って」
「え? なんで?」
「え……? いや、トーマを畳に追いやるわけにもいかないだろ」
え? の応酬である。
「? でもそこで寝たら風邪をひくだろ。こっちで一緒に寝よう」
敷布団の上に座っているトーマが大きく腕を開いた。さあおいで。そう言わんばかりだ。
「……、……??」
「どうしたんだい?」
「……。トーマって、俺と一緒の布団で寝ることに違和感覚えたりしないのか……?」
「? 別に?」
「あ。そう……」
トーマはきょとんとしている。本当に何も疑問に思っていない様だ。
シャルルもそれこそ歳が5歳にもならないころは親と一緒に眠っていた気がするが、大人となった今では、男女問わず、友人も、幼馴染みも、親も、一緒の布団で眠る対象ではないように思う。
記憶の中の自分のような幼子であれば添い寝してやるのもいいだろうが、トーマと自分は年の変わらない幼馴染みだ。
「……とりあえず電気消すから」
「うん」
ぱち、と部屋の電気を消した。障子も閉めているので真っ暗だ。
シャルルは釈然としない気持ちで座布団の上に横になった。
「こっちにおいでってば」
「ひわっ」
ぐっと強い力に抱き寄せられて思わず声が裏返ってしまった。くく、と小さな笑い声がする。
「シャルルのそんな声、初めて聞いたかもしれないな」
「出したくて出したわけじゃないんだけど……」
「はは。……はぁ」
「、」
かぷ。とトーマに項を軽く噛まれた。驚いて小さく肩が跳ねた。
「トーマ」
「うん……」
今度はさすさすとお腹を撫でられている。トーマの腕を掴んで咎めてみるけれどやめる気配はない。
「ちょっと、トーマ」
「おやすみ、シャルル……」
「……は?」
「……」
すう。と規則正しい寝息が聞こえる。
信じられない。眠ったというのか、この男は。
「……」
こんなの、幼馴染みの範疇を超えている。
幼馴染みはキスをしないし、一緒の布団で眠らないし、お腹を直に撫でたり、項を噛んだりしない。絶対しない。なのに、何だこの状況は。
シャルルは困惑していた。一旦布団から抜け出そうとしてみたが、トーマが強く抱きついてきていてそうもいかない。
項に柔らかな唇が当たり、腹部を直に触られ抱きしめられている状況で、一体自分に、どうやって眠れというのだろう。
結論から言うとシャルルは眠れなかった。一睡も出来ないままトーマからの「おはよう」を聞き、当たり前のように家事をするトーマの姿をながめ、トーマが用意してくれた食事を食べ、布団は自分で片付けた。
一睡もできなかったシャルルと反してトーマはよく眠れたらしい。「今日は体がすごく軽いな。温泉効果かな」と上機嫌で言っていたのを、シャルルはなんだか無性に殴りたくなった。
なんでこの男はこんなにいつも通りなんだ?
シャルルは理解ができなかった。トーマがあまりにも飄々としているので、幼馴染みってのは、キスをし添い寝し素肌を触るまるで恋人のような行為を気軽にするような距離感だったなと一瞬納得しかけた。納得しかけて我に返った。
絶対に違う。
百歩譲って人懐こいトーマの価値観がそうだったとしてもシャルルの考えは別だ。幼馴染みとはそんなことしない。しないから、もしするのならトーマとの関係に新しい名前をつけなければならない。なんて名前をつければいいかはわからないのでトーマと話しながら考えをまとめよう。
「トーマ」
「ん?」
呼ぶとトーマはその優しい若草色を素直にシャルルに向けた。
胸の中では昨日のことを問いただしてやろうと意気込んでいたのに、トーマを見ると、なぜか言葉が出てこない。「あ」とか「う」とか言葉を漏らしていると不思議そうにしていたトーマがぽんと手のひらを叩く。
「おはようのハグかな?」
「は?」
「え?」
間が空く。呆然としていると「あれ? ごめん、違ったかな。でも寝起きのシャルルっていつもこうやってオレに抱きついてくるよね」と言われシャルルはさらに唖然とした。
寝起きの自分ははたしてそんなことをしていただろうか。全く記憶にない。
「トーマは幼馴染みだよな?」
「うん? そうだよ?」
「……」
「もちろん、シャルルがそれ以上を望んでくれるならオレはいつでも応えるけど」
「え? ……? ……??」
驚いてそれ以上言葉が出なかった。まあ考えておいてくれよと頭をポンポン優しく撫でられたのだけはわかった。