フォンテーヌと璃月のお土産をトーマに渡した。今回はどちらも日持ちのいい焼き菓子だ。神里家の人と一緒に食べなと一言言うと、トーマは少し目を見張っていた。
「シャルルって若とお嬢を目の敵にしてなかったっけ……」
「そんなことしてたらトーマ、今頃俺の事稲妻から追い出してるだろ」
 積極的に交友を築こうとは思っていないしトーマの大事な人だと認識はしているけれど、目の敵にしているつもりはない。シャルルはトーマの固い忠義を思ってほんの少し口角を上げる。
 トーマの方はなんとも言えない顔をしているのでシャルルの指摘は図星なのだろう。
「シャルル」
「わ」
 急に体を抱き寄せられた。シャルルは身を捩ってトーマの肩口あたりに頭を出す。……あ。噂をすればなんとやら。神里のお嬢さんと当主がいる。トーマに強く抱き締めながら2人の様子を見ていると綾人の方と目が合った。
 神里綾人は、敵意はないけれどなんだか新しいイタズラを思いついたかのような、すました表情の裏に読めない何かを浮かべている。けれどこちらに来る様子はないし、あの悪戯心で苦労するのはトーマだろう。
「……今回は怪我がなくてよかった」
 シャルルは意識をトーマに戻した。力なさそうに頭を垂れた彼から、胸板あたりにすりと頬を寄せられる。
 とくとくと一定のリズムで鳴る心音を聞く様は、母親に縋る子供のようにも見えた。
「……トーマ」
「ん」
「なんかめっちゃ見られてるけど大丈夫そ?」
 あっち、とシャルルは未だこちらを観察している2人を指さす。不敬だとか怒られるかと思ったけれど、つられてそちらを見たトーマが情けない声を上げてシャルルを離した。
「わっ、若! お嬢! いつから見てたんです!?」
 トーマが慌てている。忠義を誓った二人の前でまるで母親に甘える子供みたいな様子を見せたらそりゃ慌てるか。
 あまり聞かないトーマの口調を新鮮に思いつつ、シャルルはゆっくり背中を向ける。トーマに帰還報告とお土産の手渡しが完了したので、もうここには用がない。
「あっ! と、シャルル!」
「ん?」
「今晩あいてるかな! ちょっと……渡したいものがあるんだ」
 渡したいもの。
 シャルルは首をかしげ、特に予定はないので頷いた。
「よかった。後で迎えに行くよ」トーマはそれだけ言って、焦った様子で神里の2人の所へ向かう。
 後で迎えに行くよって、自分がどこにいるのか当たり前にわかっているかのような態度だ。なんだかムカつくのでかくれんぼでもしてやろうか。
 トーマは2人に何やらからかわれているようで耳を赤くして情けなく眉を下げている。弱った彼は珍しい。
 シャルルは小さく鼻で笑って今度こそ神里屋敷を後にした。

 最近怪我が多いので今日は大人しくする日にした。稲妻城の海岸で釣竿を持ち、糸を投げる。釣りである。たまには心穏やかに海辺で糸を垂らし釣れた魚を夕飯にしてもいいかなという心積りだ。
 長丁場を見据えて腰を下ろす。
「シャルルにい!」
「うわっ」
 そんな時にがばりと後ろから抱きつかれた。
 情けない声を上げなんとかその重みに耐える。キャッキャッと聞こえる幼い声。振り向くと、たまに遊んでやる子供がひとりシャルルの後ろにいた。
「いきなり飛び乗ってきたらびっくりするだろ」と呆れ笑い。子供は楽しそうに笑う。
「シャルルにい、僕、オニカブトムシを捕まえに行きたいんだけど、ついてきてくれない?」
「オニカブトムシ?」
「子供だけで言っちゃダメってママが言うんだ。だから、シャルルにいがついてきてよ!」
 ここに来た理由は同伴の保護者探しのようだ。
 オニカブトムシは稲妻に生息する昆虫。それ自体は別にいいが、稲妻の木は崖に伸びていたり、森に深く入ってしまうと魔物が出たりもするので、確かに子供の好奇心だけに任せるのは親としては不安なのだろう。
「いいよ」
 シャルルは釣竿を片づける。
 今のところ夜以外は予定がない。この子に付き合ってやれる。
「やった! シャルルにいと久しぶりに遊べるね!」
 花が咲いたかのような子供の笑顔。
 シャルルはぽかんとした。
 もしかして一番の目的は自分と一緒に遊ぶことなのかなと思うと、少し、胸の当たりがむず痒かった。

 シャルルに兄弟はいない。もしいたら、幼い自分は目の前の子供のように目を輝かせながら昆虫集めなんかをしたのだろうか。そんなことを思う。
 子供の手の届かないところは肩車してやったり、時折遭遇するスライムを倒してすごいすごいと喜ばれたり。そんなことをしているとふとテウセルのことを思い出した。
 彼はちょっぴりワガママで世話の焼ける子だったが、無事兄に会えただろうか。
「シャルルにいありがとう! いっぱい捕まえれたよ!」
「ん。よかった」
 腰をかがめて子供の頭を撫でる。「これで薬を作ってみるんだ!」少年はふんと拳を作る。
「薬……?」
「パパがこの前大怪我をしちゃって……でもね、オニカブトムシを使った軟膏って言うのが、すごく効くんだ!」
「へえ……」
 オニカブトムシを使った軟膏。少年がカゴに入れたオニカブトムシがスプラッタされるのを想像してシャルルはやや気分が悪くなった。いやお前、魔物やらアビスやらそんなものよりひどいスプラッタと縁があるだろうというのは正しいツッコミである。
「親父さん、きっと嬉しいだろうね」
「! へへ……」
 少年と手を繋いで彼の家路を辿る。夕日が2人の影を伸ばした。
「あ! トーマとパパだ!」
 稲妻城の麓に差し掛かったあたりで横の子供は声を上げた。
 彼の言った通りそこには商人と話しているトーマがいて、子供の声に反応し振り返る。ブンブンと手を振る子どもと、その横の男。
「あれ? シャルル」
 子供と手を繋いだままトーマの方に行く。
 商人との話は丁度一段落しているのか、子供とシャルルが合流しても、特に困った様子は見られない。
「トーマ! それとパパ! 僕、シャルルにいと遊んでもらったんだ!」
「ははっ、そうか。それはよかったな!」
 トーマが腰をかがめて子供の頭を撫でてやる。
 パパと呼ばれた商人はそれを微笑ましげに見ている。大怪我をしたというのは本当のようで、今も左腕を包帯で吊っている。
「シャルルさん。そういえば麓の奥さんが、貴方に相談したいことがあると言っていましたよ」
「え? 俺?」
 商人は頷く。
 自分は冒険者協会に属する冒険者じゃなければ社奉行に関わる役人でもないのに一体なんだろうかと不思議に思いつつ、じゃあ今度話を聞いてみます、と返事をする。商人もそれに肯定した。
「それじゃあ帰ろうか。トーマさん、シャルルさん。2人ともお世話になりました」
「じゃあねトーマ、シャルルにい! また遊んでね!」
 去っていく親子を見送った。
 自分は"兄"と呼ばれるがトーマは呼び捨てなんだな。そう思ってなんとなくトーマを見れば、トーマも同じことを思っているのかどことなく不満そうな目をシャルルに向けている。
「シャルルって案外子供に懐かれるよな……」
「え? ……うーん」
 神妙な面持ちのトーマにそんなことはないと言おうと思ったけれど、最近遺跡守衛を独眼坊と呼ぶ子供にも親しげにされたし、あながち否定できないなとシャルルは黙った。
「ま、人タラシ動物タラシのトーマには敵わないと思うけど」
「ん? それは褒めてるのかな?」
「はは」
 笑って誤魔化した。

 本日のトーマの公用もあれが最後だったようで2人で一緒に木漏茶屋にやってきた。ワンと短く鳴いた太郎丸の顎をトーマが撫でている。
 昔トーマにあの犬のアテレコをされたことがある。稲妻に来て間もなく、しかも待ち合わせに指定された店の犬が軽く口を開ける度にトーマの声で話し、これが自分のもうひとつの姿だなんていうからシャルルは本気で信じた。稲妻にはそんな怪異があるのだと。
 実際のトーマは受付の裏に隠れていた。「犬になってもトーマは俺の大事な幼馴染みだよ」など焦ったように太郎丸を撫でるシャルルの前に、お腹を抱えながら姿を現した。この時のシャルルは騙された悔しさとトーマはなんともないという安心で、へなへなと座り込んだのだった。
 そしてこのイタズラは旅人にもやったらしい。シャルルのように太郎丸がトーマなのだと信じた旅人たちの様子を本人が楽しそうに語ってきて、シャルルは呆れたのであった。
 そんな回想はさておき。
 シャルルは今、木漏茶屋の一室で、トーマと膝を向かい合わせて座り、机に並んだ蟹のバター添えと渡来鳥肉をつまみつつ、白ご飯を食べている。
 今日はトーマの奢りだという。最近170万を肩代わりしところどころ節約を強いられているシャルルとしては嬉しい申し出である。
 しかしトーマは最初こそ笑顔だったが段々と顔が強ばっていた。ぱくり。カニの身を口の中で解しながらシャルルはその顔を怪訝に見る。
 トーマは以前モラを使いすぎて全財産が10モラになったことがある男だ。もしかして今もそんな状態でピンチなのを忘れてご飯を奢るなどと豪語したのか?
 シャルルは節約中ではあるが今日の食事代は払える。トーマにモラがないと言うのなら、無銭飲食を回避するために自分が払う余裕があるのでそう伝えてやるかと、一旦口の中を嚥下した。
「トーマ」
「シャルル」
 互いの名を呼ぶのは同時だった。
 お互いに目を丸くし、「トーマ先にいいよ」「いやシャルルが先に」と定番のやり取り。「じゃあ俺から」とシャルルは話を切り出す。
「なんか神妙な顔してるけどどうかした?」
「えっ! あー……」
 言い淀み頬をかくトーマの様子はいよいよ金欠が怪しい。
 シャルルはふ、と笑った。
「任せろトーマ。ここは俺が払うよ」
「ん? ……いやいやいや、なんで?」
「金欠だろ?」
「金欠……? 金欠は170万モラ肩代わりしたシャルルのことじゃないか?」
「俺のことはいいんだよ。トーマ、難しい顔してるってことは10モラしかないんだろ」
 俺にはわかるよ幼馴染みよ。頬杖をつきながらにまりとした口を隠さずにトーマを見つめる。
 トーマは唖然としていたが、徐々に我に返ったのか「い、いやそうじゃない。違う!」と軽く机を叩いた。
「あれ。10モラ生活じゃないんだ」
「シャルルはオレをなんだと思ってるんだ……。ごほん。ほら、渡したいものがあるって言っただろう?」
 トーマが真剣な顔をするのでシャルルは頬杖をやめて居住まいを正す。
「シャルル。左手出して」
「ほい」
「……ふー。……」
 言われた通りに差し出した左手の手首を優しく掴んだトーマが深呼吸をしている。
 伝わってくるその緊張に思わずシャルルも身を引き締める。一体何をするのか。
「……」
「……」
 するりと通った冷たい感覚。飾り気はない、ごく普通の銀の指輪。余計な装飾がないのに照明の下で宝石のように輝くそれを、シャルルは何度も瞬きして見つめる。
「……モンドの店から取り寄せたんだ。いろいろ迷ったんだけど、オレとシャルルが出会ったのはモンドだったからね」
 左手の薬指に嵌った指輪。段々と思考が追いついてきた。ジワジワと顔が熱くなってくる。右手で口元を押えて挙動不審に瞳を動かす。
「左手の薬指て、トーマ……」
「嫌だった?」
「ン゛ッ……」
 またもトーマの頭に垂れ下がる犬耳が見えシャルルは声を詰まらせた。嫌なわけではない。単に照れくさいのだ。
 試しに付き合ってみようと言われたことは覚えているし、トーマのことを好きだという自覚もある。指輪も買ってやると言われていたけれど、実際薬指に嵌められると嬉しいのか恥ずかしいのかどうしようもなく心臓が騒ぐというもので。
「……ありがとう。大事にする」
「ん」
 トーマが柔らかく微笑んだ。
 顔の熱はまだ冷めそうにない。

 ☆

 今まで両手に手袋をつけていたが、迷い抜いた末に右手だけに手袋をすることにした。左手に手袋をすると貰った指輪が見えなくなるし、かといって指輪を外して手袋をはめつけ直すのも気が進まない。折角トーマにつけてもらったのだ。自分で付け直すのは嫌だった。
 ところで急な話だが、シャルルは白銀の雪国、スネージナヤにいる。トーマに指輪を貰った途端に「それじゃ俺は約束通りスネージナヤに行くよ」と言い出したのでトーマはひっくり返るところだった。
 しかしトーマが言ったのだ。指輪をあげるからそれまでは行かないでと。即ち指輪を貰った今、冒険へのゴーサインである。
 その一言を聞いたトーマは「シャルル、本当、そういうところだよ……」と複雑そうにしていたのだけれど、シャルルは旅が好きなのだ。こればっかりは譲れない。
「旅に満足したらトーマと稲妻で静かに暮らしてもいいかも」
「……!」
 不意にこぼした言葉はトーマにとって絶大な破壊力があったらしい。ぎゅうと強く抱きしめられて絞め落とされるところであった。
 閑話休題。
 辺り一面の白銀世界。思わずため息をすると白い息が宙に浮かぶ。ドラゴンスパインで遭難を経験済み、扱うのは氷元素、とはいっても寒いものは寒い。
 着慣れないコートを引き締め、ポケットに手を突っ込み、ぐるぐる巻きにしたマフラーに顔をうずめる。
 はあ。もう一度宙を白く染める。
 まずはこの地で宿を探さなければ。一歩踏み出すと積もった雪がサクサクと音を立てる。足を取られて転ばないように注意を払う。
 吹雪や雪はドラゴンスパインで見たけれどスネージナヤのそれは神秘的で胸をときめかせる。秘境や遺跡をめぐるのも好きだけれど、こうやって観光するのも大好きだ。スネージナヤは夜になるとオーロラを見ることができるらしい。
「あっ!? シャルル!!」
 今夜が楽しみだ――と胸を高鳴らせていたところに自分を呼ぶ大声が聞こえた。
 はて。スネージナヤに知り合いなどいないはずだが。同名かそれとも聞き間違いだろうかとも思いながら振り向くと、一人の子供が雪の上を一生懸命駆けてきているのを見つけた。
 コサック帽。明るい茶髪。青い瞳。
 あの子供には覚えがあった。以前璃月にいた迷子である。
「……。テウセル?」
「へへ! シャルル! また会えて嬉しい!」
 シャルルの元までたどり着いたテウセルが、シャルルの足にしがみつく。そういえばこの子はスネージナヤの子だったか。思わぬ再会にシャルルは驚きつつも腰をかがめテウセルの頭を撫でた。
「俺もだよ。あの後お兄さんには会えた?」
「うんっ! お兄ちゃんに、いっぱい遊んでもらったよ」
「それはよかった」
 兄の話題となるとテウセルは大きな瞳をキラキラと輝かせる。密航してまで会いに来るんだから今更ではあるが、この子は兄が大好きなんだなとシャルルは微笑ましく思った。
「でも、シャルルはなんでここにいるの?」
「観光に来たんだ」
「そうなんだ! じゃああとで僕が案内してあげる!」
「はは」
 意気込む様子はいかにも子供らしくて可愛らしい。
 この小さいガイドさんに世話になるのもまた一興。しかし今はとりあえず、早めに宿を確保しておきたいところだ。
「それじゃあ俺は宿を探しに行かなくちゃ」
「えっ、あ……でも……あのねっ! もうすぐお兄ちゃんが乗った船がつくんだ」
「うん?」
「それまで、一緒に待っててほしい……」
 ぎゅとしがみつかれてはやや動揺する。シャルルが宿を見つけたあと再会できる確証がないことをなんとなく察しているのだろうか。
 スネージナヤは雪が降っている。往来する人々。その中にぽつんとこの子を置いていくのは胸が傷んだ。
「わかった」
「! やったぁ!」
 宿探しはテウセルが兄と合流したあとでも遅くないだろう。テウセルと手を繋ぎ、シャルルは先程離れたばかりの港へ向かった。
「シャルル! あとで僕の家に来てよ!」
「んー」
 テウセルの兄の到着を待つ間テウセルと一緒に小さな雪だるまを作っている。
「お兄ちゃんにもらった宝物が庭にいっぱいあるんだ!」
 自慢したいということか。
 いきなり幼い我が子が知らない男を家に連れてきたら両親から何だこの不審者はと通報されるんじゃないかとシャルルは悩む。テウセルの誘いへの答えを迷っていると、ポーと低い音が響いた。
 船の汽笛だ。
「あっ! あの船だ! あの船に僕のお兄ちゃんが乗ってるんだよ」
 お兄ちゃん、とテウセルが一生懸命に手を振る。
 船が到着し、ぞろぞろと人が降りてくる。テウセルは興奮しているのかシャルルの左手を強く握っている。あの人の流れに走っていかないあたり、ちょっとは我慢を覚えたようだ。
「いた! お兄ちゃーん!」
 テウセルは一段と大きな声を出した。 シャルルの手を離して『お兄ちゃん』の元に走っていく。
「お兄ちゃん!」
「やあテウセル! 待っててくれたのかい?」
 抱きついてきたテウセルを受け止めた男は、優しい笑顔を彼に見せ、よしよしと頭を撫でている。
 シャルルはそれを少し離れた場所で呆然と見ていた。
 テウセルの兄は、北国銀行で金を借りているおもちゃ屋さんの販売員のアヤックス、と聞いたはずだが。
「へへ! あっ。ねえお兄ちゃん。この前僕を助けてくれたお兄さんの話、覚えてる?」
「ああ。覚えてるよ。確か"シャルル"って言ったね?」
「うん! 実は今、一緒にいるんだ! 観光にきたんだって。こっちに来て!」
「え? おっと」
 テウセルはぐいぐいと兄の手を引っ張る。
 テウセルとその兄はどんどんシャルルに近づいてくる。そしてピタリとシャルルの前で止まった。
「お兄ちゃん。この人が僕を助けてくれたシャルルだよ! それでね、シャルル! この人が僕の自慢のお兄ちゃんなんだ!」
 爛々と目を輝かせ紹介してくれているがシャルルは理解が追いついていない。辛うじて「テウセルの、お兄さん……」と呟いた。
 明るい茶髪に深い青の瞳。いつもはジャケット一枚だが、スネージナヤの気候に合わせてロング丈のコートを着ている男。
 どこからどう見てもタルタリヤである。他人の空似説を考えたけれどシャルルを見たタルタリヤが「シャルルってやっぱり君か」と呟いたおかげでその説は一瞬で消えた。
 いやテウセル、君お兄さんのことを『おもちゃ屋さんの販売員』と言っていなかったか。しかも名前は『アヤックス』だと。
「あれ? お兄ちゃんとシャルルは友達なの?」
「はは。実はそうなんだ。テウセルにシャルルって名前を聞いた時にもしかしてと思ってたんだけどね」
「でもシャルルはお兄ちゃんの名前を聞いても全然気づいてなかったよ?」
「……」
 テウセルの不思議そうな視線と、タルタリヤの刺すような視線が向く。
 話を合わせろ。ファデュイ、公子、タルタリヤという名前を出すな。何も言われていないのにそう訴えてきてるのがまじまじと分かった。
 とはいえ呼び方ばっかりは絶対にボロが出るので同音異義語で誤魔化すことにする。
「……君のお兄さんのこと、俺は『講師』って呼んでてね。俺にいろんなことを教えてくれるから、先生って意味で、そう呼んでるんだ。だからうっかり、名前を忘れちゃってたよ」
「ええ! そうなんだ。お兄ちゃんって、シャルルの先生なんだね!」
 テウセルはなんだか得意げだ。
 タルタリヤが満足そうにしているのは無性に殴りたい。
「ねえお兄ちゃん。シャルルにね、庭のおもちゃを見てほしいんだ。だから今から一緒に行ってもいいよね?」
「ああもちろん。シャルルにも来てもらおうか」
「やった! 行こうよ、シャルル!」
 タルタリヤと左手を繋いでいるテウセルは、空いていた右手でシャルルの左手を掴む。完全にテウセルの家に行く流れである。
 シャルルははしゃぐテウセルからタルタリヤに視線を移す。
「…………今度説明してくれる?」
「わかってるよ」


 場所は変わってテウセルの家。庭にある自慢のコレクションとやらを見せつけられたあとは、それじゃあ俺は宿を探すから家族団欒をごゆっくりとテウセルたちと別れようとしたのだけれど、何を思ったのかタルタリヤに君を家族に紹介したいなと引き止められ、ちょうど庭にでてきたタルタリヤの親や他の兄弟たちと挨拶をかわし、シャルル自身もひとまず軽い自己紹介をした。そこにテウセルが璃月で自分を助けてくれたんだよと付け加え、今回観光でスネージナヤに来て今から宿を探すんだってと、――――気がつくとシャルルはタルタリヤの部屋にいた。そう。なぜか今回の観光、タルタリヤの家でお世話になることになったのである。
 曰く、アヤックスの友人でテウセルの恩人なのだから遠慮せずに泊まってほしいとのこと。
 いや遠慮したいが?
「どうして……」
 シャルルは途方に暮れた声を出す。
 タルタリヤの家族は大家族。多勢に無勢と言うべきか。シャルルひとりではあの人数の押しに勝てるわけがなかった。
「ほら。ホットミルク持ってきたよ」
「ありがとう……」
 マグをふたつ持って部屋に入ってきたタルタリヤにシャルルは礼を言う。おもてなしを望んだわけではないが厚意には感謝せねばなるまい。
「公子っていつからおもちゃ屋さんの販売員になったんだよ……」
「兄弟には俺がファデュイにいるなんて言えないだろう?」
「はぁ……」
 ファデュイという組織は闇もあり、家族に知られたくないというのはまあ理解はできるが。テウセルがタルタリヤの弟だとわかっていたら、シャルルはテウセルに自分の名前を教えなかったし深く関わることもしなかった。厄介なことになるのが見え透いているからだ。
「さっきは話を合わせてくれてありがとう。さすが諜報だね。うまい作り話だったよ」
「え? なんかちょっとバカにしてる?」
「いやいや。ちゃんと感謝してるって。それと璃月でテウセルを助けてくれたことも感謝してるんだよ。本当にありがとう」
「……」
 あのタルタリヤが自分に礼を言い頭を下げている。なんとも珍妙な光景だ。
「それに関しては偶然だし、俺も子供を見殺しになんかしたら目覚めが悪いからさ。でもさぁ公子。ちょっと甘やかしすぎなんじゃない?」
 シャルルは璃月で手を焼いたテウセルの行動を思い起こす。
「遺跡守衛に向かって行って『お兄ちゃんが正義のヒーローって言ってたもん!!』とか、何があるか分からない秘境に『ここはおもちゃ工場だよ! お兄ちゃんが言ってたもん!!』って勝手に走っていくんだよ。子供の夢を守るのはいいことだろうけど、危ないことは危ないって、ちゃんと現実も教えてやらないと。俺みたいに腹に風穴あけて、運悪ければ死ぬよ」
「……耳が痛いよ」
 甘やかした自覚も無邪気さゆえの無防備にも覚えはあるらしい。タルタリヤが苦い表情をしている。
 シャルルはため息をついて「まあ他人事だからこれ以上は言えないけど」とこの話題は終わらせた。
「お兄ちゃん! 遊ぼー!」
 部屋の外からテウセルの声が聞こえる。
 タルタリヤは閉まった扉をチラとみて、それからシャルルを見る。
 タルタリヤがスネージナヤに戻ってきた目的はその声だろう。シャルルは熱いマグをふうふうと少し冷やす。
「行ってきなよ公子。俺もこれ飲んだら出発するから」
「俺がいないとここに戻って来れないんじゃない? 観光なら後で付き合ってあげるから、ここで待ってなよ」
 何を素っ頓狂なことを言っているんだこの公子。
「戻ってくるつもりもないけど……」
 シャルルは大勢の勢いに負けてタルタリヤの家に上がったが、ここに泊まる気はさらさらない。早く宿を探しに行かないと遅い時間では部屋が取りにくくなる。
「お兄ちゃんー」
 がちゃりと部屋の扉が開いた。
 タルタリヤが部屋から出てくるのを待ちくたびれたのかむっすりした顔のテウセルが廊下に立っている。
「……テウセル。シャルルも一緒に遊んでいいかい?」
「は?」
「え! シャルルも一緒に遊んでくれるの? へへ。やったー!」
「はい??」
「お兄ちゃん、シャルル、氷上釣りにいこう! 僕、準備してくるね!」
 テウセルはすっかり不機嫌を忘れて明るい声でそう言うとぱたぱたと走りって行った。
「おい。公子……」
「まさかシャルル、あんなに喜んでる子供を落ち込ませないよね?」
「…………」
 ニコリと笑うタルタリヤにシャルルは唖然とした。
 なんなんだこいつは。

 氷の張った湖の上。厚い氷に空けた穴に垂らした糸。シャルルは今スネージナヤの湖で穴釣りをしている。
「お兄ちゃん、なかなか釣れないね」
「はは。テウセル、根気強く待たないと」
 目の前には膝にテウセルを座らせ、釣り穴に糸を垂らすタルタリヤ。テウセルの頭に頬を寄せ優しい顔つきをしているタルタリヤと釣りなんかより兄にかまけているテウセル。微笑ましい兄弟の姿から視線を逸らし、シャルルはマフラーに顔を埋めてバレないようにため息をついた。
 氷上釣り自体はしたことがないので興味がある。けれどシャルルのプランではスネージナヤの街並みを観光しようと思っていたので、正直いうと、退屈である。
 加えて目の前の家族団欒ならぬ兄弟団欒が赤の他人であるシャルルには気まずい。
 この空間にはたして自分は必要だろうか。
「シャルル! お魚がかかってるよ!」
「……、あ」
 ぼんやりしていた。
 釣竿の先端が浮き沈みし、糸を引っ張られる重みを感じる。テウセルに指摘された通り魚がかかっているようだ。
 タルタリヤの膝から下りたテウセルは、目を輝かせてシャルルの持つ釣竿を見ている。
「……テウセルが引く?」
「! いいの? やりたいっ!」
「いいよ」
 落としてしまわないように手を添えながらテウセルに釣竿を握らせた。このくらいの歳の子は積極的に手伝われることを好かないだろう。ぎこちない手つきをシャルルはのんびりと眺めた。
 ぴちぴち。小さな魚がつり上がった。
「やった! 釣れたよ。シャルル!」
「すごいね。テウセル。……ちょっと貸りるよ」
 氷上釣りの経験はないが釣りは心得ている。ぱたぱたと抵抗しながらぷらんと釣り針にかかった魚を慣れた手つきで外して、傍にあるバケツに移した。
「へへ。僕が一番!」
 シャルルの釣竿にかかった魚だが、テウセルが釣り上げたのでテウセルの手柄のようだ。ちなみにはしゃぐ彼の釣竿は、テウセルが早々に飽きたので隅の方に放置されている。
 嬉しそうにしているテウセルを褒めていると、つきりと刺々しい視線を感じた。上目に見ればタルタリヤがやや険しい表情でこちらを見ている。
 大方、溺愛する弟が赤の他人に懐いている光景が面白くないのだろう。そんな顔をするのなら初めから自分を同伴させなければいいのに。シャルルとしてはとんだとばっちりである。
「……君はこの後どこに行きたいんだっけ?」
「え。何?」
「スネージナヤに行くなら俺に案内を頼みたいって言ってたじゃないか」
 急に不機嫌に話を振られた。
 そんな話したっけか。シャルルは遠い記憶を振り返る。言った気がしなくもない。話の流れ。社交辞令で。
「あー……。うん……」
 深い意味なく言った言葉だ。別に強制的な約束でもなんでもない。
「え。お兄ちゃん、シャルルと2人で遊ぶの?」
 タルタリヤの膝の上に戻っていたテウセルが、二人の会話を聞いて寂しげに問いかけてきた。その手はきゅっとタルタリヤの服を掴んでいる。この兄あってこの弟。折角帰ってきた兄がシャルルにとられてしまうことを嫌がっているのがまるわかりである。
「……。はぁ」
 このため息ばかりは隠すことができなかった。
 タルタリヤからテウセルをとるつもりなんてなければテウセルからタルタリヤをとるつもりもない。自由に動けないフラストレーション。兄弟仲良し空間に余計な水をさしている自覚もある。この辺が潮時だ。
「……」
「シャルル?」
 唐突に立ち上がり釣り道具を片付け始めたシャルルをテウセルが不思議そうに呼ぶ。
「ごめん。用事を思い出した」
「え?」
「手紙を届けて欲しいって預かってるんだ」
 シャルルはカバンから薄い水色の封筒を取りだしてテウセルに見せた。宛名はテウセルの知らない名前である。
 この場を去る言い訳として使ってしまったが、スネージナヤにいる姉に届けて欲しいと、稲妻の女性から手紙を預かっているのは本当だ。ちなみにこれは商人が言っていた稲妻城の麓の奥さんからの依頼である。
 もし行くことがあればと渡されたそれ。郵便屋に頼まず自分に預けたのは、本人の様子を見て、どんな調子であったかを教えてほしいからだろう。
「釣り道具置いていくけどいいかな。荷物を嵩張らせてごめんな」
「あ、うん。シャルル、またあとでね!」
 テウセルが約束だよと言わんばかりにそう言った。
 その言葉にはあまり乗り気ではない。シャルルは曖昧に返事をした。

 手紙の相手は案外簡単に見つかった。街の人から聞いた通りに雪山の奥に住む女性を訪ね、あなたの妹からですと手紙を差し出すと、最初こそ不審そうにしていた彼女もぱっと顔を綻ばせ、返事を書くから待ってちょうだいとシャルルを玄関に通した。
 しばらくして女性から返信を受け取り、少しばかり稲妻の様子とスネージナヤで暮らす彼女の近況とを情報交換して、シャルルは女性の家を後にした。
 その後に宿を探し始めたのだけれど、時刻は夕暮れ、シャルルの悪い想像は現実となってしまった。
 宿が空いていないのだ。昼前まではそこそこ空きがあったそうだが今やどこも満室。それなりに旅の経験があるシャルルとしてもやっぱこうなるよなという感想だ。
 女性の家が雪山の奥と聞いた時点で今日はやめておけば良かったかと思うが、昼前には埋まってしまったというのだから、昼過ぎまで氷上釣りをしていたシャルルは、どっちみちだめだっただろう。
 諦めてスネージナヤを観光した。ここの名物だというボルシチを食べ、珍しい骨董品店に足を踏み入れ、声をかけてきた地元の子供と雪合戦をした。最後のひとつについては謎すぎると本人も思っている。
 シャルルはドラゴンスパインでかまくら限界キャンプをしたことがある。文字通り自分でかまくらを作ってそこで一夜を過ごすのだ。あのときは運良く凍死せずに済んだが今回は厳しいかもしれない。
 すっかり日は落ち街中は街灯があるといえどあたりは薄暗い。気温も昼より落ちてきた。どうしようかなと思案しながら雪を踏みしめているところに、ふと。
 ――営業時間 18:00-04:00
 酒場だ。翌4時まで営業しているときた。朝になれば宿も部屋が空くかもしれない。いわゆるオールには自信があるし、4時までここで粘り、そこから8時までと考えて、4時間くらいなら雪の中で耐え抜く自信がある。
 シャルルはパッと目を輝かせ店の扉を開いた。

 ☆

 夜10時。空はすっかり黒く染まり、しんしんと雪の降る街を、タルタリヤは一人の男を探しながら早足で歩いていた。
 夕方まで氷上釣りをしてその後は暗くなる前にとテウセルを連れて家に帰った。両親は"アヤックスの友達"も一緒に戻ってくるものだと思っていたようでたいそう不思議がっていた。
「シャルル、帰ってこないね」夜になってテウセルが言った。「こんなに暗くなったら心配だわ。お友達はスネージナヤが初めてなんでしょう?」母も続けた。
 チクタクチクタク。時計の針が進む。チクチク。胸が痛む。
「シャルルのこと探してくるよ」
 そう言ってタルタリヤが家を出たのは夜10時になる前だった。

 最近テウセルが密航して来る頻度が増えた気がして、さすがに一度休暇をとって帰省しようと考えた。
 ――ならいつか、公子に案内を頼もうかな。
 自分の故郷がスネージナヤだと語った時。出会ってまだ日の浅い頃に言われたそれは、ただの社交辞令で、約束なんかではないことはわかっていた。
 稲妻を訪ねるとシャルルはおらず、代わりに彼の幼馴染みがシャルルは旅に出たからここにはいないこと、しばらく帰ってこないことを教えてくれた。行き先までは教えてもらえなかったが、不在であることは明かしてくれるあたり、トーマという人間はお人好しなのだろう。
 旅に出たのか。タイミングが悪い。帰郷のついでにシャルルを案内してあげようと思ったのだけれど。
 スネージナヤに帰省し、テウセルに手を引かれシャルルと対面した時タルタリヤは酷く驚いた。名前を聞いたあたりから動揺していたのだけれど本当にスネージナヤにいるのだ。
 それからすぐ、テウセルの前でシャルルが話を合わせてくれることを祈った。シャルルは空気が読める男だった。タルタリヤが思っていた以上に話を上手く合わせてくれた。
 一難去った。そしたら不満が湧き出てきた。
 スネージナヤに来るのなら、自分に一声かけてくれたらよかったのに。案内してほしいと言ったじゃあないか。
 庭に置いている宝物をシャルルに見せたいと言うテウセルに肯定した。そのまま流れで家族にシャルルを紹介した。自分の友人でテウセルの恩人となる人がスネージナヤを観光しに来た。家族がシャルルを歓迎するのは当然の流れであった。
 ただシャルルは始終困惑していて、ほとんど乗り気でなかった。
 スネージナヤの寒さには慣れていないだろうとホットミルクを入れてやった。マグカップを受け取ったシャルルの左薬指には銀の指輪が嵌っていた。そのことを追求するより早く、シャルルはタルタリヤにお前はいつからおもちゃ屋になったのだと尋ねた。だから、指輪のことを聞けなかった。
 ここに泊まる気はない。早く出ていきたい。そんな雰囲気を醸す彼を、テウセルの誘いに便乗して引き止めた。突っぱねることだってできただろうに、文句を言わずについてきてくれるあたり、多分彼は子供に優しいのだ。
 実際シャルルはテウセルに優しかった。
 テウセルが楽しそうなのはいいことだ。けれど、テウセルにばかり構うシャルルがどうしてか気に食わなかった。

 宿を何件か尋ねたが、タルタリヤが説明した特徴を持つ男はどこにも泊まっていないようだった。けれど訪ねてきてはいたようで、部屋が空いていないと聞くと、途方に暮れた様子で出ていったのだという。
 宿を借りられずタルタリヤの家にも来ず。
 スネージナヤの夜は冷え込む。こんなときに、彼は一体どこにいるというのか。
 ドラゴンスパインで3日遭難したと言っていたのをふと思い出したが、まさか彼が、2度も同じ失敗をするとは考え難い。……いや。案外無謀な性格なので、また遭難している可能性も捨てられないか。
 粗方街を探し終えたタルタリヤは、雪山の方を向く。街灯のないあちらをこんな時間に探しに行くのは骨の折れることだが――。
「はぁ、ほんと、こまるって。……」
「おいおい。まだ飲めるだろ?」
 からん。チャイムの音。
 不意に聞こえた声にタルタリヤは勢いよくそちらを向いた。
「や。ちょっと無理って。まじで。ない……」
「釣れないこと言うなよ」
「いや、……はぁ。あんたさ。睡眠薬、盛ったでしょ」
「どうだか?」
「くそ……、無理やり飲ませるとか。すねーじなやの治安、……う。飛びそう……」
 酒場の出入口付近には男が2人。ひとりは、タルタリヤが今まさに探していた人物だ。
 探していた男、シャルルは、足取りが覚束ず、今にも転んでしまいこうなのを、男に腰を寄せられ支えられている。
「あ゛ぁ……うざ。腰触んないで……」
「口の利き方には気をつけろよ。それにな、睡眠薬を盛られたのに眠らないってことは、盛られてないんだぜ? 兄ちゃん」
「盛られてるって。おれ、いま、気合いで起きてるし……ふぅ……きっつ……」
 タルタリヤは大まかに理解した。少なくともシャルルにとって今の状況は不本意であると。
「シャルル」
 自分でも思っていた以上に低い声が出た。
 うつろな瞳はぐるぐる回りながらタルタリヤを向き「こーし」と小さくつぶやく。
「あ? なんだお前……」
「あー……。悪いけどその子、俺のツレなんだよね」
「はあ?」
「だから返してもらえるかな」
 つかつかと足音を立て近寄り、シャルルの腰に回った男の手を捻る。「いてえ!」と情けない声を出して男は手を離した。
「てめえ何すんだよ!」
「あのさぁ。失せろって言ってんのがわからない?」
「あぁ?!」
「こういうことだから」
 タルタリヤはくいとシャルルの顎を掬い唇を塞いだ。ぼんやりしていた瞳が驚いていたが、それも次第に瞼を下ろした。
 シャルルはいくら飲んだのか、アルコール臭いし、酒の味もする。触れれば頬だって火照っているし、口の中も存外に熱い。大人しくされるがままにキスを受け入れているのは、酔っていて、抵抗する気力がないからなのか。
「はっ。……」
「〜〜〜っ! くそっ!! んなら、一人で飲ませんなよ!!」
 男は顔を真っ赤にして酒場に戻って行った。しつこく言い寄っていたくせに、ちょっと見せつけてやればしっぽを巻いて逃げるなんて、清々しいほどに小物である。
 引っ込んでいた舌を捕まえるとシャルルは大袈裟なくらいに肩を跳ね上げた。その様子が面白くて今度は舌で歯をなぞる。
 ぽろ。と、シャルルの眦から涙がこぼれた。
「ぅ……。ん、んんー」
 ぽんぽんと力なくシャルルがタルタリヤの胸板を叩く。そろそろ苦しい。そう訴えている。
「……は」
「はぁ、……公子、これ、必要あった……?」
 開いた瞳はやはり虚ろだ。今にも眠りに落ちそうなのを必死に耐えているらしい。
 これ、というのはキスのことだろう。
 タルタリヤは鼻で笑う。
「生半可な演技じゃ納得させられないだろ?」
「テウセルのことかな……? あ、ごめん公子……限界……眠すぎる……、……」
「ちょっ」
 急に全身の力が抜け崩れ落ちそうになったシャルルをタルタリヤは慌てて抱きとめた。
 ほんのり頬を赤く染めて、目尻に涙のあとを残し、すうと寝息を立てている様子は、まるで泣き疲れて眠った幼子のようにも見える。
 いろいろと言いたいことはある。けれどそれを今は飲み込んで、タルタリヤは呆れとも安堵ともとれるため息をつき、シャルルを横抱きにして歩き出した。

 家に帰ると母親だけが起きていた。
 ガラの悪いのに絡まれて酒場で無理やり飲まされてたみたいだ、と多分半分くらいはあっているであろう状況を説明すると、母親は心配そうに眉を下げ水を用意してくれた。「無事でよかった。お母さんもこれで眠れるわ」なんて言葉には苦笑いを返し、タルタリヤはシャルルを抱えたまま自室に入った。
 上着を脱がせてシャルルをベッドに寝かせた。
 シャルルは眉間に皺を寄せ、唇を薄く開いて少し寝苦しそうに息をしている。呼吸に合わせて胸が小さく上下する。頬も紅潮しているので熱を出して寝込んでいるかのようだ。
 フォンテーヌでも炎水をガバガバ飲んだシャルルの世話をしたけれどその時はここまでではなかった。今回はあの時以上に飲んだのか。いや飲まされたのか。それともなにか、余計なものを盛られたのか。
「……」
 シャルルは睡眠薬がどうのとか揉めていた。あの手の輩が質のいい眠剤を飲ませるようには思えない。
 一旦起こして今からでも無理やり胃の中の物を吐かせた方がいいだろうか。うっすらと空いている唇に親指を引っ掛ける。と、シャルルが緩慢に瞼を持ち上げた。
「……起きた?」
「……。……」
 焦点の合わない瞳がタルタリヤの方向を向いている。
 タルタリヤの問いかけには答えず、シャルルは自分の頬に当たるタルタリヤの手を掴み、ふ、と小さな笑みをこぼす。
「つめたい。……冷たくて、きもちがいい」
「……」
 事実、雪の降る街を歩き回って帰ってきたばかりだ。タルタリヤの手は少しかじかんでいた。本当に発熱しているかのように火照っているシャルルにはちょうどいいのだろう。
 タルタリヤの手を大切そうに握って、その手のひらに頬擦りしている。シャルルのその様子は幼子のようでもあったが、対極の、もの欲しがる大人のようにも映った。
「ファデュイでも薬や毒の類はいろいろと見るけどさ……君が飲んだのって媚薬ってやつじゃないの」
「……」
 タルタリヤの発言を聞いたシャルルは言葉を噛み砕いているのか、沈黙して、数回瞬きをする。それからゆっくり目を閉じて、ほんの少し口角を上げた。
「ふふ。……『おもちゃ屋』には、媚薬なんてあるんだ。……」
「笑い事で言ったつもりじゃないんだけど?」
「ん、う」
 自由に触らせていた手でシャルルの口を割った。指でシャルルを舌を挟んで軽く引っ張り、ぐちゃぐちゃと口内を荒らす。「うう゛、」当然喋れない。意味のない喃語を発し、飲み込めない唾液をだらしなく垂らす。
「事の重大さがわかってないのかなぁ」
「ふ、っぅ……、うー……」
「俺が助けなかったらあの男にもこうやって好き勝手に触られて、情けなく犯されてただろうね? 君自身がこんなに無謀なのに、よく俺に、弟にちゃんと現実を教えてやれなんて言えたものだ」
 口内で遊ばせていた指を引き抜き、絡んだ唾液をシャルルの腹に擦り付けて伸ばす。びく。と大袈裟に体を揺らしたシャルルはその曖昧な瞳でタルタリヤの青を力なく見つめた。
「……セックスって、相手にとっても、無防備な行為だよね。俺が公子の弟と違うのは……人を殺せることかな」
「? ……」
「俺は公子が思うより、現実を知ってるよ」
「……経験があるのかな?」
 タルタリヤはスルスルとシャルルの肌を手のひらで撫でる。
「はぁ。……子供の頃にひとり。セックスは未遂だけど」
「君ってそういう言葉に結構躊躇いがないよね……。未遂じゃないのは人殺しの方か。……どうやって?」
「顔を凍らせて気道を塞いだ」
「ふーん……」
 腹や胸を滑っていた手は首に達した。
 は。短い息がシャルルの口から漏れる。潤んだ瞳が瞬きすれば、目尻に一つだけ涙が伝う。
「俺のことは殺さないの?」
「殺せないよ。……それに……公子は俺にそんなことしないでしょ?」
「なにそれ。充分襲われかけてるのにまだ俺のこと信頼でもしてるの? 俺はファデュイだよ。そして執行官の『公子』だ」
「『講師』俺はテウセルに内緒にしたよ」
 シャルルは小さく笑みをする。
 今この家にいるタルタリヤは、テウセルたちの優しいお兄ちゃん。ファデュイのタルタリヤではなく、おもちゃ屋さんの販売員のアヤックス。ここではそう振る舞えと言い出したのはタルタリヤの方だ。
 テウセルがいるこの家では、絶対にできない。シャルルは兄弟思いの彼を見て確信していたし、事実、それは当たっていた。
 タルタリヤが歪んだ表情をする。見透かされたことへの屈辱と言えた。
「……そういうところだよ」
 何がそういうところなのかさっぱりだ。シャルルはタルタリヤの手を掴んで自身から離す。やはり本気ではなかったようでタルタリヤは呆気なく引いた。
「だから公子もトーマには内緒にしてね」
「……何を?」
「俺が、人を殺したことを」
 2人だけの秘密にしよう。虚ろなターコイズブルーが愛おしげに細められる。
 タルタリヤも目を細め、糸のような呼吸をする唇に噛み付いた。