2日目。カレンダーは休日なので午前からの勤務だ。
水希は今日は一人でプールに赴いた。
支配人の西也は事務仕事で忙しいらしく、今日は顔を見ていない。ちなみに、事務仕事云々は自称お花の妖精・ティラミー情報だ。
更衣室で着替えて配属場所へ向かうなりティラミーに絡まれた水希は機嫌が悪い。
なんなのだろう、あの、生きた猥褻物。
プールに向かう水希に声をかけてきたかと思えば、どこから取り出したのか公言できない大人のおもちゃを見せつけてきたので、「やめてください」と言ってつい蹴とばしてしまった。
後悔はしていない。
まだ人のいないプールを見渡して、意気込む。
少々働く人の個性が濃すぎる職場ではあるが、挫折して脱落するのは癪に障る。それに、水希はまだ本来の目的を達成できていないのだから。
1万前後のペティナイフ。まずはあれを買うと決めているのだ。
「あ、あの……」
「?」
キャップの鍔をいじる手を止めて、水希は振り返った。が、人がいない。
気のせいだろうかと思って前を向きなおす。
「ああっあの! ここです! 私です!」
「……ん?」
もう一度振り返るとピョンピョンと跳ねるツインテールの少女が目に入った。
「あんた……」
「ははははいっ! わわわたし、ちゅちゅちゅちゅうじょうしっ……!」
「……」
噛んだ。
「う、ううー……」
「……落ち着けよ」
1日目もかなり緊張していたが、もともと対人関係ではビクビクしてしまう性格なのだろう。
水希はツインテールの少女、中城椎菜の様子にあきれた顔をしたが、声色は彼女を落ち着けるために優しい。
椎菜はごくりとつばを飲み込んで水希を見上げた。
「中城さん?」
「は、はいっ!」
「俺は橘水希。よろしく」
「! は、はいっ! よろしくお願いしましゅ……っ」
「……、……」
期待を裏切らずに噛んだ椎菜に、水希はフと笑った。
彼女からは妹のような雰囲気を感じる。無下にはできない。むしろ守ってやりたくなる少女だ。
「わわ……」
「なに?」
「いいいいえっ! なんでもありませんっ! そ、それでは!」
言うが早いか椎菜は走って行ってしまった。
水希はしばらく不思議そうにその背中を眺めていたが、徐に自分のシャツを見ると、目を瞑って深い息をついた。
正面が白い青のキャップはともかく、この黄色のTシャツ。どう考えてもかぶっている。
黄色を着るのは部活動だけだと思っていたのに。
はっはっと息を切らして椎菜は壁に寄り掛かった。
椎菜のうるさい胸の太鼓は、今しがた全力疾走したのとは別に理由を持つ。
――わ、笑えるんだ、あの人。
椎菜の頭の中でぐるぐると一人の男の微笑みが回っている。
椎菜は一日目、研修会場で自分より先に来ていた水希を見た瞬間、その冷たい目に恐怖を抱いていた。
もう一つ横にいた女性、映子は気にしているように見えなかったが、椎菜は水希の横に座るのをひどくためらった。
しかし彼女の後ろにはぞくぞくと人が続いていた。
結果、大きく深く頭を下げ、なるべく水希を見ないようにして彼の横に座ったのだ。
配置を決められる時も、どうかこの人とは離れますように、と思ったのに、まさかの同じ場所。こういうとき、逆に願わない方がいいというのは本当のようであった。
西也に案内されたときも、水希は始終無言であった。
とはいっても、椎菜のように緊張で声が出ない様子は微塵にもなく、つまらなそうにあたりを見回して、かったるそうに目を細めるのだ。
怖い人だ。
椎菜の思いはそれに尽きた。
西也にジョーを紹介されたあとは水希と別々になったが、あまり気は晴れなかった。
1日目は、それ以上水希と接する機会はなかった。
2日目、椎菜は一番乗りでプールにやってきた。
開園前の遊園地は静かなもので、ぽつんとプールに立つ椎菜は孤独だった。
昨日打ち解けたキャスト、ジョーもまだのようだ。
水面が風に吹かれて揺れる。なんだかひやりとした。椎菜は心細かった。
そこに現れたのは自分と同じ制服のキャストだったが、ぱあっと晴れた心はすぐに曇る。
彼は椎菜の苦手とする人物だった。
昨日よりも険しい顔をしていた彼、橘水希はあたりを見渡してほうと一息ついた。
椎菜は何も見なかったことにして機械室に逃げてしまおうと思った。
だが、これから先のことを考えると、まだお互いここの新人である内にある程度打ち解けた方がいいように思えた。
こういうのは、時間が経てば経つほど気まずくなる。
椎菜は意を決して水希に声をかけた。
彼と話している最中、椎菜はとにかく頭が真っ白だった。
自分がろくに話せなかったことはわかっている。覚えていないが、多分水希は迷惑そうな顔をしていただろう。
しかし最後に、よろしく、と言った後に微笑んだ彼のことだけは、鮮明に思い出すことができるのだ。
優しい目をしていた。
研修会場で見た彼とは、とても同一人物だとは思えなかった。
橘水希。名前もしっかり覚えている。きっと、年上だ。
もしかしたら、仲良くなれるかもしれない。
椎菜は自分の胸の前でガッツポーズを作り「よしっ」と気を引き締めた。
2日目の研修は、昨日よりもうまくいくような気がした。
休日、ということもあってかプールは昨日よりも人が多かった。
浮き輪を膨らませるのに悪戦苦闘する小学生に手伝って! と腕をひかれたり、大学生にトイレの場所を聞かれたり。そうこうしているうちに今日も特に問題なく、勤務終了の時間だ。
キャップをくるくると回しながら更衣室へ向かっていた水希に、「あの!」と後ろから声がかかる。
デジャヴだ。
「……中城さん」
「ど、どうも!」
今度は一回で椎菜を見つけることができた。
水希は立ち止まって彼女が自分の横に並ぶのを待った。
ちょっとだけくたびれた様子の椎菜だが、それでもピンと背筋を張っている。
「お疲れさま」
随分低い位置にある頭をつい撫でてやったのは、蓮や蘭にしてやるクセだった。
椎菜がびくりと肩を跳ね上げてから、水希は、まずった、と思った。
まだ名前しか知らないような男に頭を撫でられるなんて、気持ちが悪い以外の何物でもなかっただろう。
これじゃああのポメラニアンにセクハラだのなんだの言える立場じゃない。
「……悪い」
「ああああのっ、ちが、違うんです!」
ぱっと離れた水希の手を、椎菜は慌てて掴んだ。
水希が驚きで目を丸くする。
「しし、椎菜はっ嫌だったんじゃなくてっ! 驚いただけで……っ!」
驚いたということは多少嫌悪の感情が入っていたんじゃないのか? と水希は首をかしげたが、後ろから新たに感じた気配にハッとし――勢い良く足を振り上げた。
ぐへっと嫌なうめき声。鳩尾に決まった手ごたえがあった。
「みーっ!!」
「ひいっ?!」
悲鳴をあげてポメラニアンが吹っ飛んだ。
いきなりのそれに椎菜は水希の後ろに姿を隠した。
ズザザッと砂埃が舞う。
水希に蹴り飛ばされたティラミーは、よれよれになって立ち上がった。
「ひ、ひどいみー……橘くん……」
「すみません。反射的に」
本当に反射だ。後ろから何か嫌なものが来ている、とわかったとたんに勝手に足が動いていたのだ。
真顔で謝罪されたって、なんの誠意も感じられないというのに。
恨めしげに見てくるティラミーに、水希は悪びれる様子がない。
ティラミーはやれやれと肩を竦めた。
「随分警戒されたもんだみー。ぼくはただ橘くんと仲良くなりたいだけなのに、つれない……っていないみー?!!」
ぽん、と水希の肩に手を置こうとしたティラミーだったが、そこにはすでに水希の姿はなかった。
ティラミーの前にひゅるりと木の葉が1枚落ちた。
水希に腕を引っ張られた椎菜は不安そうに後ろを振り返っていた。
もうティラミーの姿は見えない。
「よ、よかったんですか?」
「気にしなくていいよ。構うと余計厄介になる」
存外歩幅の大きな水希は、それほどティラミーと関わりたくないのだろう。
椎菜は「はあ……」と頷くしかなかった。
詳しくはわからないが、何かあったのだろう。
「……(手、大きい)」
椎菜は自分の手首をつかむ水希の手を盗み見た。
2人の間に会話はない。
椎菜はこっそり笑った。
きっと彼は、優しい人だ。
事務棟につくとあっけなく手が離された。
「中城さんも、あいつには注意した方がいいよ」とだけ言い残して、水希は男子更衣室に姿を消した。
椎菜はしばらくその場にたたずんでいた。
お兄ちゃん、という言葉がしっくりくるような気がする。
兄弟がいるのだろうか。
明日――聞けるといい。
「中城? どうかしたのか?」
「あ、可児江先輩! いえ、ただ……」
椎菜は事務棟にやってきた西也を見て、次に男子更衣室につながる廊下を見て――。
「いい人ですね!」
「はぁ?」
「では!」
椎菜はスキップ気味で女子更衣室へ向かった。
西也はその背中を不思議そうに見送って――反対側の廊下を見る。
誰もいない。
椎菜はいったい誰のことを言っていたのだろうか。
西也の疑問は深まるばかりだった。