夜遅くまでゲームをしていた真琴を起こさなかったのは初めてだ。
 3日目。日曜日。ゲーム機器を出しっぱなしにしていた彼もそろそろ起きているころであろう昼過ぎ。
「……、……」
 監視台に座ってゲストの安全に目を光らせたり、ときたまはぐれた子供の相手をしたりしているころは気付かなかったが、もうすぐ昼休憩だと思うと、どうもおかしいということに気付いた。
 誰かに、見られている。
 そりゃあ人がそれなりにいる遊園地のプールなので、水希が見られないということは不可能だが、この視線はそういう一時的なものではなかった。
 ジ、と突き刺さるような視線だ。
 水希はそっと眉間にしわを寄せてあたりを見渡した。
 楽しそうにはしゃぐ子連れ、大学生と思わしき男女グループ、老若男女問わないゲストたち。そのどれも自分たちの楽しみに夢中だ。
 気のせいか?
 視線の正体は見つからないまま、向かい側から同じ制服を着たキャストがやってくるのが見えた。
 水希は釈然としない気持ちのまま監視台を降りた。
 関係者以外立ち入り禁止。そんな注意書きの書かれた看板のある金網をくぐる。
 昼は椎菜に一声かけようかと考えていると、不意に後ろから呼び止められた。
 最近多いパターンだ。
 水希は立ち止まり、振り返って相手を確認する。
 4人の女の子。服装は何かの衣装。初めて見る顔だ。
 きっとキャストだ。ここに入れるのは、関係者だけなのだから。
「なにか?」と水希は首を傾げた。
「え、えっと……橘水希さん、ですよね?」
「? はい」
 水希はますます不思議がる。
 4人のうち、水色の衣装を着たショートカットのくせっ毛の女の子と、緑の衣装を着たロングヘアの女の子の2人が、何やら話し合っている。
 呼び止められたわりに、続かない言葉に水希は少々苛立った。
「あの」
「あ、すみません! か、可児江さんと同い年の新人さんが来たって聞いて……」
 水色の衣装の少女――ミュースは落ち着かない様子で水希を窺った。
 水希は一度拍子抜けした顔をすると、握った拳を口許に寄せ、「可児江と同い年ってだけでどうしてだ?」と呟く。
 高校生のキャストは水希のほかにも複数いる。西也の同い年だってそうだろう。
「優等生ぶってないで、正直に顔が気になったからって言っちゃえばー?」
「ちょっ! ちょっとサーラマ!」
 腕を拱いていたサーラマがやっと口を開いたと思えばいらぬことで、ミュースは慌てて彼女の口をふさいだ。
 水希はいささか不審がっていた。
「話なら、とりあえず休憩室でしませんか」
「は、はい!」
 いろいろ気にしていたってしょうがないだろうと思い、水希はミュースたちに休憩室に行くことを提案した。
 それに対して頷いてくれたのは救いだった。
 実は腹の虫が小さく音をあげていた。

 休憩室にはほかに人はいなかった。
 水希はキャップを机に置いて髪を撫でる。
 ぼすん、とイスに座る音がした。
 水希ではない。
「ヘリコプター!」
 結んだ髪をくるくると回しながら、キャスター付きのイスに座ったシルフィーが水希の背後を通り過ぎる。
 水希は唖然としたが、何も見なかったことにした。
「名前を伺っても?」
「はい! わたしはミュースです。こちらはコボリーとサーラマ、シルフィー、みんなでエレメンタリオでショーをしているんです」
「エレメンタリオ?」
「ご存じないですか?」
「聞かないな。俺はまだここに来たばかりだから、プール以外はほとんど見てない」
 ここに来たばかりというもの以外にも理由はあったが……。
 うろつくとどこから湧いて出てきたのか、姿も頭もピンクなポメラニアンに出くわして面倒なことになってしまう、というのはかなり余談だ。伏せておいた。
「そうですか……」とミュースがどこかしょんぼりした。
 水希は内心困っていた。彼には初対面の相手を悲しませる趣味はない。
「どんなことを?」
 水希が興味を示したことがうれしかったようだ。
 ミュースの顔がぱっと明るくなった。
「ワイヤーアクションを取り入れたダンスパフォーマンスです!」
「へえ……」
 水希は素直に感嘆した。
 さびれた遊園地だと学校で馬鹿にされていたが、派手なショーが行われているようだ、と。
「時間が取れれば、お邪魔します」
「……はい! お待ちしてますね!」
 とは言ったものの、時間うんぬんよりもあの歩く猥褻物をどうにかしなければならない。
 ティラミーが女に目のないことは見ればわかるし、彼本人の口からも聞かされたが……自分がからかわれる理由はさっぱりわからなかった。男だ。女顔でも中性的でも何でもない、男だ。
 水希はティラミーのことを考えると自然と険しい表情になることに気付いて、そっと頭を振った。
「ミュースさんたちは、もうご飯を食べましたか」
「それが、まだなんです」
 ミュースが困ったように首を傾げた。
 視線だけで聞けば、シルフィーはさておき、コボリーもサーラマも似たような反応だ。
「ってか……休憩に入ったとたん『行くよ!』って引っ張り出されたから、食べる余裕なんてなかったんだよねー」
「サーラマ!」
「……ふ、」
 ミュースとサーラマを見ていると、既視感を覚えた。
 多分2人のやり取りが、水泳部の後輩――怜と渚のやり取りに似ていたからだ。
 不意に漏れた水希の笑いにミュースとサーラマは驚いた顔をした。
 しかし2人が彼を見た時には、すっかり普段の表情になっていた。
 水希はバッグから小さめのトートバックを取り出して、机に置き、その中からレンジパックを取り出した。
「よければ」
 レンジパックを片手で差し出されたミュースは困惑しながらもそれを受け取った。
 ミュース以外の3人も不思議そうにそれをのぞき込む。
 ミュースは彼に尋ねようと思ったが、水希はすでにイスに座って弁当箱を開けていた。
「ミュースさん。開けてみましょう」
「そ、そうだね」
 待ちきれないのかコボリーがミュースの腕をゆすった。
 水希には「よければ」と手渡されたのだ。開けても怒られないだろう。
 ミュースは少し緊張しながらレンジパックを開けた。
 ふわりと甘い香りが広がった。
「マフィン……?」
 レンジパックの中に入っていたのは、きつね色をした4つのマフィンであった。
 シルフィーは目をキラキラとさせる。
 ほかの3人が水希を見ると、彼はお茶を飲んでいた。
「これ……」
「全部プレーンで味気ないけど……ああ、口に合わなかったらすみません」
「つ、作ったんですか?!」
「? はい」
「も、もしかしてお弁当も……」
「まあ」
 何か驚くことだろうか、と水希は首を傾げた。
 ミュースはレンジパックを抱えたまま、ふらりとよろめいた。
「りょ、料理男子……」ミュースのつぶやきにサーラマがあきれた顔をした。
 水希が作ったマフィンは、昨日ふと椎菜とジョーにあげようと思ってきまぐれで作ったものだ。1人に2つずつ、と思って4つ作ってきたのだが、思わぬところで助かった。
 椎菜たちにはまた後日持ってくればいいだろう。
 まずシルフィーの手がにゅっと伸びて、マフィンを一つとる。
「あっ」と声を上げるミュースのことなど、彼女には見えていない。
「いっただっきまーす!」
 シルフィーはぱくんと一口かじった。
「んー! デリシャス!」
 シルフィーはしんから嬉しそうで、今にもほっぺがとろけそう、といった顔を水希に向けた。
 水希はわずかに目を見張って、そっと彼女から目を逸らした。あまりに素直すぎるシルフィーの表情をまっすぐに見ていられなかった。
「もーいっこ!」
「シルフィー!」
「シ、シルフィーさん! 独り占めはだめですよ!」
「とかいってコボリーはなに確保してんのよ!」
 サーラマの指摘通り、コボリーはすでに一つを大切そうに手に包んでおり、ミュースも一つ残ったマフィンを、レンジパックごと守っている。
 つまり、シルフィーがとったもう一つは、サーラマのものだ。
「ちょっと! シルフィー!」
「バーリアー!」
「こ、このーっ!」
 なにやらケンカが始まった。
 主にシルフィーとサーラマのやり取りで、ミュースとコボリーはふにゃりと口元を緩めてマフィンを食べている。
 水希はそれをちらりと見て、卵焼きを口に放り込んだ。
 何か工夫したわけではないが、いつもよりおいしいような気がした。