水希くんが居酒屋でバイトをしている、らしい。らしいというのもわたしはその話を噂好きな一人の友人を通して聞いたので、断言ができないのだ。
 その居酒屋というのは学校から少し歩いた駅の近くにあるもので、昔ながらの雰囲気のある、クラス会なんかではよく使われる場所。ちなみにこれも友人情報だ。そんなところで水希くんは午後7時から、毎週4回の勤務をしているんだとか。まったく、友人の情報収集力も恐ろしいものだ。
 わたしは水希くんがバイトをしているときいたとき、しかもそれが接客業だったので、失礼だけれど一抹の不安が過った。はたして水希くんにできるのだろうかと、思ってしまったのだ。なにせわたしが知る水希くんとは、いつだって冷えた目をしていて他者を寄せ付ける気は皆無。案外優しい人だってこともわかっているけど、デフォルトがあれなのだ。大丈夫かと心配せずにはいられなかった。
 それで思い切って聞いてみたのが今日の放課後のこと。
「水希くん、居酒屋さんでバイトしてるの?」とまずは事実確認を。いつもみたいにエナメルバッグを引っ掛けていた水希くんはこてんと首を横に倒して(すごくかわいかった)
「ん」
 と、なんとも素っ気ないけれど頷いた。はぐらかされるかと思っていたので拍子抜けだ。わたしは水希くんは自分自身のことを他人に簡単に話すような人ではないと思っていたのだ。だって水希くんが友だちと話すことといえば身内のことや甘いもののことだから。(なんで知ってるのかって、気になっている人をついつい追ってしまうということで終わらせてほしい)
 ともかくわたしは水希くんが噂通り居酒屋で働いていると知り、少なくとも動揺した。なんのためらいもなく答えた末、どうしてそんなことを聞くのかとも言わない水希くんは、多分わたし以外にもたくさんの人に同じ質問をされたのだろう。
「意外?」
「えっ、あ……その」
「顔に書いてある」
 わかりやすいね、高橋さん。そう言っていたずらっぽく笑った水希くんに、かあっと顔に熱が集まるのを自覚した。
 水希くんはきょとんとする。このままでは墓穴ばかりを掘ってしまいそうだったので、わたしは慌てて口を開いた。
「なんでバイトしてるの?」
「俺ん家下に2人いるって話したっけ」
「え、知らなかった……」
 他クラスに双子の兄弟がいることは知ってたけど、下にもいたなんて。そっか、水希くん、お兄さんなんだ。
「いいなあ……水希くん家は賑やかだね」
「そ? 高橋さんは一人っ子?」
「うん。そうなの。だから兄弟とか、すごく憧れてて」
「……そっか」
 水希くんはほんの少し淋しそうにした。わたしは無意識に下がった己の眉に今さら気づいて、ぶんぶんと手を振る。水希くんが気にすることではないのだ。
「だ、だから小さい子とかもだいすきで」
 水希くんにそんな表情をしてほしくなくてわたしはしっちゃかめっちゃか、狼狽しながら思いつくままを口にした。水希くんはふうんと鼻先を鳴らして、わずかに考えるように目を伏せる。どうしよう、余計な気を遣わせてしまったかもしれない。
「今度うちにおいでよ」
「…………えっ」
「小さい子、好きなんだろ。あいつら好奇心旺盛だし、高橋さんにすぐ懐くと思うよ」
 えっ、そんなっ! あわあわとするわたしと対比的に水希くんはどこまでも冷静だ。意外と天然さんなのだろうか、彼はとんだ爆弾発言に気づくそぶりを見せない。
 友人の端くれであるわたしなんかがちらちらファンもいるような彼のお家にお邪魔するなんて恐れ多い。こうやってお話しできているだけでも奇跡みたいなものなのに。
「え、ええ〜〜っ……でもその……」
「なに」
「ひいっ! あ、水希くん! 時間大丈夫? み、ミーティングとか、ほら、もう随分経ってるよ?」
 水希くんはわたしの挙動にかなり不機嫌な顔をしていたけれど、ちらりと壁掛け時計をみて、げっと小さく口にした。
「ごめん、俺行かないと」
「ううん。わたしこそ引き止めてごめんね」
 わたしがじゃあねと笑いかけると、水希くんはそっけない返事を残して駆け足で教室を出る。パタパタという足音が去っていってため息。苦し紛れの発言だったけど、よかった。だってあのまま会話を続けていたら多分わたしは白目を向いて気絶してしまっただろう。
 水希くんは格好いいし、わたしもそれなりに好意をもっているので、ああいうのは心臓に悪い、悪すぎる。うう、水希くん罪深いよ……。
 ……わたしも帰ろうかな。パタパタ、パタパタ。意味もなく手で仰ぐ。パタパタ、パタパタ。去っていったはずの足音が再び近づいてきていることに気づいたときには、教室の入り口に水希くんが少し肩を上下させて立っていたので心底驚いた。
「えっ、水希くん? 忘れもの?」
「高橋さん!」
「は、はいっ!」
「さっきの、また今度!」
 それじゃあと手を振って水希くんはまたも走り出した。呆然とその場に立ち尽くし、やっと我に返って廊下に飛び出る頃には当たり前に水希くんの姿はない。さっきの、とは。もしかして、いやもしかしなくても、家に遊びにおいでよというお誘いのことなのだろう。
 あれは水希くんのその場しのぎの慰めでもなんでもなく、心からの思いだったのだ。それを知ってしまってせっかく引いたはずの熱が顔にまた集まった。
 あれは、水希くんの優しさだ。下心も何もない、ただの優しさなんだ。わかっていても、どうしても胸のあたりがきゅうと締め付けられる。水希くん、水希くん、ほんと、
「水希くんのばか……!!」
 面と向かっては言えない思いを口にした夕間暮れ。なぜ水希くんがバイトを始めたのか聞き忘れていたことを思い出すのは、家に帰ってからだった。