ガタガタと貧乏ゆすり。今日はすこぶる機嫌が悪い。
 わたしではなく、隣の席の水希くんのことだ。
 頬杖をつきどこともとれない一点を睨みつけ、机から投げ出した長い足は忙しく騒いでいる。
 朝のホームルームギリギリにやってきた水希くんは、席に着くなりこの調子だ。身に纏っているオーラもイライラしてますって感じで、みんな怯えてなるべく彼の目につかないように身を縮めている。
 ざわついていたはずの教室が、水希くんを中心とした同心円状に静まり返っていった。おそるべし、水希くん……。彼なら目つきで人を、いや、オーラで人を殺せるんじゃないのかな。
 そんな日に限って担任はなかなか現れようとしないのだからこのクラスに充満した恐怖は救いようがない。
「……高橋」
 どうしたのかなあ、水希くん。とぼんやり考えていると、後ろの席の男子生徒に肩を叩かれる。あんまり話さない人だ。なんだろう。
 なにか気に障るようなことをしただろうかと内心ビクビクしながら振り返ったので、わたし以上に何かに怯える彼を見た途端拍子抜けした。
「お前、どうにかしろよ。あれ」
「えっ?」
「最近橘と仲いいだろ」
「ええっ!」
 男子生徒はそれだけ言うとさっと身を引いた。
 わたしはわたしで彼に言われた言葉に過剰に反応してしまい、挙動不審になる。
 最近仲がいいと言われましても、なんというか、わたしが一方的に呼び止めて話しかけてるだけで……! 仲がいいなんて、畏れ多い。
「チッ」
 なんてもたもたしていると、何をそんなにイライラしているのか、水希くんが舌を打った。
 水希くんの近くの席の人たちがビクッと肩を跳ね上げたのがあまりにも気の毒で、わたしだってちょっと怖かったけど、日頃なんだかんだで優しい水希くんを思い出しながら、決死の覚悟で挑んだ。
「あ、あの、水希くん」
「あ?」
 わたしの顔に浮かんでいたであろう笑顔はぴしりと、音を立てて凍てついた。
 すっごい低い声だった。そして射殺すような目に、多分わたしは殺されたのだ。
 わたしだけではなく周りの空気も固まった。尊い犠牲を忘れない、と言わんばかりの、水希くんの隣の、つまりはわたしの2つ隣のクラスメイトの顔は忘れられそうにない。
「あ……高橋さん」
「……」
「?」
 ふとした拍子にいつもどおりの水希くんが戻ってきて、何事もなかったかのようにわたしに声をかけるのだから、ぶわっと目に涙が浮かんだ。
 もちろんそれを見た水希くんは、どんなに冷血漢と思われていようと、人の子であるわけで、ぎょっと目を丸くした。
「はっ? え? え、なに、お腹痛い?」
「う、ううーっ……!」
「えっちょっ、高橋さん?」
「水希くんっ、こ、こわくて……っ」
 水希くんはひたすら困ったようにわたしを見ていたけれど、はっと何かに気づいた顔をして、すぐにきまり悪そうに頬をかく。
「あー……」
 ぐしゃりと髪をかきあげる水希くんに、先ほどの泣く子も黙る鬼のようすはない。
「イライラしてるときに周りが見えないくせをどうにかしろって真琴にもよく言われるんだけど……ごめん」
 はたから見れば、机の外に足を出して、お互い膝を向けあい、一方は泣いて、一方はバツが悪そうにする様子など、不思議な光景以外の何物でもなかったと思う。
「ほんとごめん」としんから申し訳なさそうにする水希くんに、わたしだっていつまでも泣いているのは彼に失礼だろうと思って、ぶんぶんと首を振った。
 ぐしぐしと手で目を拭う。「手でこするな」と水希くんが少し慌てた。ああ、やっぱり、いつもの水希くんだ。
「え、えっと、なにかあったの?」
「……」
 思い出させてはいけないことを思い出させたのだろう、水希くんはぐっと眉間にしわを寄せたし、周りのみんなが絶望したのが空気でわかった。
 自分でも、うっかり言ってしまってから後悔したのだ。せっかく水希くんの気が落ち着いたのだから、聞かぬままにしておけばよかったのに、と。
 どうしよう。さあっと血の気が引くのがわかった。「えっと」となにも考えないまま口を動かしたのと、黙り込んでいた水希くんが、
「遙……七瀬遙ってわかる?」
 と、聞いてきたのは同時だった。
 唖然とするわたしに、彼は「まあ知らなくてもいいんだけど」と呟く。
 ぐるぐると巡る思考から、わたしはいろんなものを引っ張り出した。七瀬くん。聞いたことがある。泳ぎのうまい、確か水泳部で、そう、水希くんの幼なじみだ。
「あいつ、水風呂に入らなきゃ死ぬんだけどさ」
「?!」
「昨日も入ってて……ろくに体拭かないで鯖とか焼くから……」
 ぶつぶつと言う水希くんは、驚くわたしを置いてけぼりだ。
「だから風邪ひくっていったのに……」としかめっ面で言うのを聞く限り、七瀬くんは風邪をひいたらしい。
「ふらふらしながら『熱はない』とか言って学校に来ようとするから、気絶させてきたんだけど」
「気絶?!」
「? うん」
 なにかおかしなことを言ったのか、といった調子の水希くんに、わたしは開いた口がふさがらない。
 気絶って、そんな。まさかの。ひゃ、110番はいりますか?!
「あいつ、ちゃんと布団で寝てるといいけど」
 水希くんの目は真剣だった。
「そ、そうだね……風邪のときは寝てないとだもんね!」
「そうだよ。でもあいつのことだから起きて懲りずに鯖焼いたり、水風呂に入ってそうっつーか……」
 まだ悪口が言い足りないようだったけれど、水希くんは大きくため息をついて終わりにした。
「あ、もしかしたら俺、遙の風邪持ってるかもしれないし、あんまり近づかないほうがいいかも」
「遅れました! ホームルームを始めましょう!」
 タイミングよくからりとクラスのドアが開いて、出席簿を持った担任がばたばたと入ってくる。
 ちょうど話に一段落ついていたし、水希くんはそれをきっかけに前を向きなおす。
 出席を確認、今日の連絡事項を担任が告げ始めたので、わたしもいそいそと足を机の下に直した。
 担任の声を耳に入れつつ、そっと水希くんを伺うと、今度はなにを考えているのか、難しい顔をしている。
 根は優しい彼のことだから――きっと幼なじみ、七瀬くんのことを心配しているんだろう。
 水希くんの機嫌をあれほどにまで大きく揺さぶる七瀬くんとは、一体どんな人なのだろう。そんな不思議を抱えたある日のことだった。
 隣の席の水希くんは、怖いところも多いけど、やっぱり優しい人です。

 その日のうちに、橘水希を手なづける女、というレッテルを貼られてしまったことを、わたしは知らない。