黒板に書かれたのは、お化け屋敷、劇、迷路、メイド喫茶、露店などなど……。
 その下に書いてある算用数字は、それぞれに挙手をした生徒の数だ。
 水無月祭、またの名を文化祭。
 何をしようかと盛り上がる友人に交じりたくも、わたしの席と友だちの席とはずいぶん遠いので、ひとり口をつぐんで結果を見守るしかない。
 わたしは自分の挙手したバザーが黒板消しで消されてしまうのを、ぼんやりと眺めていた。
「じゃあ、劇か露店で! 5分後に聞くから、考えててください!」
 またクラスがざわめく。
 わたしははっと我に返った。
 ど、どうしよう。2択……。
 劇は、衣装作りとかならできそうだけど、万一じゃんけんに負けて役を持ってしまったら困る。わたしはみんなの前で演じるなんて、とてもできない。
 露店の方がまだましかなあ。
 料理もさほど得意じゃないけど、何人かでするだろうから、頼らせてもらえば……。
 誰か周りに相談できる人がいないかな、と横を見ると、何やら考え込んでいる水希くんが目に入った。
 机に肘をついて悩まし気に眉を寄せる姿は、オーギュスト・ロダンの制作した有名なブロンズ像に負けず劣らず。
 水希くんも残った2択で迷っているのかな。こういう行事ごとには興味がなさそうだと、思っていたのだけれど。
 あまりに真剣な顔つきなので、なんとなく声をかけづらかったけれど、わたしは意を決して彼を呼ぶことにした。
「水希くん」
「んー?」
 水希くんは聞いているこちらの気が抜けてしまいそうな、ゆるい返事をした。相変わらず頬杖はとかず、目だけがわたしに向く。
 少し怖い顔つきになっていたけど、反応してくれたし、機嫌が悪いわけじゃないみたい。一安心だ。
「悩んでる?」
「……ん」
 水希くんは神妙な顔でこくんと首を縦に動かした。
 普段見ることのない彼の表情が新鮮で、わたしは水希くんとは対照的に、ふにゃりと口元が緩んでしまう。
 水希くんは少し不思議そうに眉を顰めた。
 この顔が嫌悪を現しているわけじゃないとわかったのは、つい最近だ。
「水希くんは、どっちがいいと思う?」
「どっちも捨てがたいよ」
 そう言って水希くんは眉間を押さえる。
 なんだかわたしが持っている水希くんの印象ばかり話してしまうが、わたしは彼は劇か露店かであれば、迷わず露店を取るだろうと思っていたので、彼の悩み様にちょっとだけあっけにとられた。
「……逆に高橋さんはさ、どっちがいいと思う? イチゴとブルーベリー」
「うーん、わたしは…………?」
 頭の中に真っ赤なイチゴと、小粒のブルーベリーとを想像したわたしは、はて、と首を傾げた。
 な、なんでイチゴとブルーベリー? 劇と露店じゃなくて?
 あまりに予想外な質問だったので、相当な間抜け面をしてしまったと思う。
 水希くんは変に口角を上げるわたしを見て、小首をかしげながら「あ、ケーキじゃなくてタルトね」と付け加えた。
「た、たると」
「? うん」
「いちごたると、と、ぶるーべりーたると」
「大丈夫? 高橋さん。たどたどしいよ」
 水希くんのわたしを見る目は若干あわれんでいた。
 とはいっても「そりゃあたどたどしくもなるよ!」と大声をあげられるほどの勇気はわたしにはない。頬をかいて苦笑いすることでごまかした。
 どうして急にタルトの話なんだろう。
 わたしがあんまりにもぎこちなかったので、話がかみ合っていないことにやっと気づいたのか、水希くんは「あれ?」と首をひねった。
「俺、高橋さんに話してなかったっけ」
「は、話してないと思う……」
「ふうん。てっきり話したものだと思ってた」
 水希くんは当事者なのにあたかも第三者であるかのような反応だ。
 決して非難しているわけじゃないけど、相変わらず薄いというか、なんというか……。
「渚……あーっと、部活の後輩が『江ちゃん感謝祭をしよう!』って言いだして」
「江ちゃんって、マネージャーさん?」
「知ってんの?」
「ううん。ただ、水希くん、部活の後輩がって言ってたし、ちゃん付けされるなら女の子かなって」
「なるほどね」
 水希くんはくつくつと喉を鳴らして笑う。
「まあでも、渚は誰にでもちゃん付けだよ。真琴もまこちゃんだし、遙もハルちゃんだし。怜も怜ちゃん」
「と、ということは……」
 水希くんも、と紡ごうとしたら、水希くんは人差し指を立ててシイと口を横に引っ張った。
「柄じゃないのにね」
 あきれ、困ったように肩を竦めるわりに、水希くんの表情と声色は優しい。
 そんな彼を見ながら、わたしの意識は確実にどこか遠いところに旅立っていた。
 ふとした瞬間に、ちょっとでも水希くんと話せたら、と思っていたころのわたしがよみがえるのだ。
 仲良くなりたいな、と遠目に見ていたときは、水希くんはとにかく別次元の人物。言い過ぎかもしれないけど、雲の上の存在だった。
 ちょっとしたしぐさに、かっこいいな、と憧れを抱いていたころのわたしは、水希くんと話せるようになってから目を瞑っていた。
 それが今、部の後輩の話をする彼を見て、突然に目を開けた。
 ああ、すてきな人だ、と。
「高橋さん?」
「あ、えっと、ごめんね。なんだっけ……」
「タルトの話」
「そう、だね。そうだったね」
「? 変なの」
 フ、と柔らかく笑った水希くんを直視することはできなかった。
 思えばわたしが水希くんに興味を持ったのは、人を寄せ付けない雰囲気とは裏腹、ふとしたときに見せる優しさが気になったからだったかもしれない。
 本当の彼は、どっちなんだろう。どんな人なんだろうって。
 水希くんは柄じゃないといったけれど、水希くんの後輩が彼にちゃん付けするのもうなずけた。ぴったりじゃないか、水希ちゃん、って。
 何てことを思っていると、「そうだ」と水希くんがひらめいた。
「予定がなかったら、高橋さんも来る?」
「え?」
「ほら。水泳部ってむさくるしいだろ?」
 ぱちんと思考の風船を割ってみせた水希くんの目に、からかいなんて微塵にもない。
 水希くんは、マネージャーさんがそう口にしたことはないけれど実際女の子一人で男の輪にいるのは物足りないものがあるんじゃないかと、常々思っていたのだという。話が盛り上がっても、共感できる点は女子と男子で差が出るだろうし、と。
 真顔で言ってみせる彼に、唖然と聞いていたわたしの顔に熱が集まる。
「そ、そんな! 行けるわけないよ。わたし、水泳部じゃないから」
「気にすることじゃないよ。集まるのも珍しく俺の家だし、蓮と蘭もいるから……ちょうどいい」
「ええっ!」
「一人っ子なんだろ」
 その言葉が随分前の話にさかのぼることを理解して、また恥ずかしくなった。
 バイトを始めた話をした日、一人っ子だから兄弟がうらやましいと言ったわたしを、水希くんは覚えていたのだ。
 そして、また今度、と。あの日水希くんは言った。それも、覚えていた。
 彼のお家にお邪魔する話なんて、どこか彼方へ忘却されるものだとばかり思っていたのに。
「で、でも……感謝祭って、やっぱり部外者が来ちゃまずいよ」
「なんだかんだ言って、ただ飲み食いして、トランプとか。遊ぶだけだよ。いっつもそうだし」
「……」
「無理強いはしないけど。俺は高橋さんに来てほしいと思うよ」
「!」
 どうしてそんな言葉を軽く言ってしまえるのだろう。
 また頬杖をついた水希くんは、穏やかに目を細めた。
 水希くんに下心はない。
 社交辞令でも、恋心でも、なんでもない。
 だからわたしは泣きたくなった。
 悔しいとか、みじめだとか、そんな気持ちからではない。彼のやさしさがうれしいのだ。わたしを友だちとして大事にしてくれる水希くんに、どうしようもない感謝がわきあがるのだ。
 ずっと、彼にあこがれているだけだったわたしには、予想だにしていなかったこと。
 わたしには、もったいない。
「はーい! 5分経ったので、多数決とりまーす!」
 水希くんが不思議そうに前を見た。
 おかげでこぼれそうになった涙を隠すことに成功した。2回も泣き顔をさらすなんて、さすがに恥ずかしい。
「劇か露店、絶対に手を挙げてください!」
「……なにあれ?」
 ぽつりと口にした水希くんに、わたしは開いた口が塞がらない。
 文化祭の話し合いをしていたことに、彼は気付いていなかったというのだろうか。いったいいつから水希くんの意識はタルトに持っていかれていたのだろう。末恐ろしいよ水希くん……。
「高橋さん、どっち…………あ、これのことか」
「え?」
「んーん」
 水希くんはひとりおかしそうに笑った。
「高橋さんは、どっちがいいと思う?」
 まるで、ふりだしに戻る、だ。
 わたしはとっさに頭の中に真っ赤なイチゴと、ちょっと粒を大きくしたブルーベリーを思い浮かべた。
「……イチゴ、かな?」
「……くっ、あははっ」
「え、ええ?」
 わたしは声を上げて笑う水希くんを初めて見た。
 こんなふうに、笑えるんだ。
 静かに笑う姿は何度か見てきたけど、肩を震わせて笑う水希くんは新鮮だ。
「……うん。わかった。イチゴにするよ」
 笑いの隠しきれていない、震えた声でそう言って、水希くんは前を見た。
 どうして笑われたのだろう。そんな疑問と、ああ今の水希くん、ビデオに収めたかった、という気持ちを抱えて前を向く。
 ビデオに撮りたかったなんて思ったことは、水希くんにばれたら蔑まれるにちがいないから、わたしだけの秘密だ。
「じゃあ、劇の人!」クラス委員の声が響く。そろそろと数人の手が挙がる。
「じゃあ次ぎ、露店!」ざわつくクラス。
 水希くんが手を挙げた。
 わたしはあっと小さく声を漏らした。
「意見ですか?」
「あっ……ち、ちがいます」
 見下ろしてくるクラス委員に体を縮めて、わたしもおずおず挙手をした。
 ――「高橋さんは、どっちがいいと思う?」
 最初はタルトだったけど、さっきの水希くんは劇か露店かを尋ねてきたのだ。
 クラス委員と一緒で、水希くんにもわたしの声は聞こえてしまっていたようで、彼は机にうつぶせて肩を震わしている。
 かあっと顔が熱くなった。
 まぎらわしいよ水希くん!
 多数決の結果文化祭でやるのは露店になった。そこで何を売るのかは、時間がないのでまた日を改めて決めるらしい。
 いつもみたいにエナメルバックを担いだ水希くん。
 慌てて声をかけようとしたとたん、わたしが呼び止める前に彼が振り返った。
 ごくんと言葉を飲み込む。し、心臓が止まるかと思った。
「高橋さん」
「は、はい!」
「今週の土曜日。気が向いたら教えて」
 じゃ、と手をひらりと振って水希くんは行ってしまった。
 今週の土曜日。特に予定はないや。……って、そうじゃないよ!
 あんな優しい顔をして、わたしにどうしろというのだろう。水希くんはとんでもない爆弾をおいていったのだ。
 わたしはしばらくその場に立ち尽くしていた。やっと教室を出たころには――もう今頃プールにいるのだろう――水希くんの姿はなかった。
 それでもわたしの瞼には、ぴったり彼が引っ付いていたのだった。