どちらかというならば彼のお兄さんの方が表立ったファンが多いのだけれど、水希くんの意外な一面を知っている人もいないわけではない。
 たとえば今、わたしの前に立っている女の子もそうだ。
 あまり話したことのないその子は、実は1年のころから水希くんが気になっていたのだという。彼女は水希くんと1学年2学年ともにクラスは一緒だとか、一度だけ同じ委員になってしゃべったとかなんとか。
 率直に言うと彼女は水希くんが好きなので、わたしに協力してほしいらしい。
「で、でもわたし、そんなに水希くんと仲良くないよ?」
「あたしよりいいでしょ? 高橋さん、いっつも水希くんとしゃべってるじゃん!」
「そ、そんなことは……」
 たまたま席が隣なので話す機会があるだけだ。
 それに水希くんのわたしへの感覚は、多分そこらの男友達、それか、水泳部のマネージャーさんと変わらないものだろう。
 協力して、と言われてもわたしは戦力になれない気がする。
「ね、好きな色とか、好きな食べ物とか。まずは簡単なものを聞いてくれない?」
「う、うん……」
「あと……好きなタイプも」
 こっそり窺うようにわたしを見る彼女は、同性のわたしからしても可愛らしいと思えた。
 そんなに仲良くないわたしに自分の気持ちを打ち明けるのだから、彼女はすごく強い人だと思うし、相当切羽詰っているんだろう。
 助けになってあげたいけれど、わたしもわたしで水希くんと話せるようになれたのはほとんど偶然のようなものだから……。素直にうなずけない自分が情けない。
 先にお弁当を食べている友だちはなんだか心配そうにわたしたちの方を見ている。
 その子がしびれを切らしてこちらに来ようとしたその瞬間――水希くんが戻ってきた。
「……! 高橋さん、よろしくね!」
 彼女は水希くんが教室に帰ってくるなりハッとした顔をして、さっと足早に去った。
 取り残されたわたしはぼうっとそこに突っ立っていたので、「なにしてんの」と水希くんに声をかけられてしまった。
「え……っと、お、おかえり水希くん」
「? うん」
 動揺していたわたしは明らかに変な対応をしてしまった。
 証拠として、水希くんがかなり怪訝な様子でわたしを見た。
 気まずい。
「ど……どこに行ってたの?」
 嫌な空気を晴らそうとしての発言だったけれど、言ったあとにすぐ後悔した。
 どこに行ってたのかなんて聞かなくていいだろう。そんな、わたしは水希くんの彼女でも何でもないのに。
 水希くんは席に座ってカバンからお弁当を取り出しているところだった。
 その動作をとめて、驚いたようにしていた。
「あ、いや、その……」
 いつもなら水希くんを前にして、早くこの場を去ってしまいたいと思うことはないのに、今のわたしは今すぐに水希くんの前から逃げ出したかった。
 恥ずかしい。
 いつもわたしはどうやって水希くんとしゃべっていたのだろう。
 わたしは明らかに動揺していた。
 その可能性を一度も考えたことがないわけじゃないのだけれど、面と向かって言われたのは初めてだったからだ。
 水希くんのことを好いている人がいて、わたしはその人にうらやましいと思われている。
 そんな人たちを前にして、わたしは、水希くんと一緒にいていいのだろうか。
「1年の教室」
「あ……」
「渚にお菓子持って行ってた」
「そう、なんだ」
「……? 高橋さん、具合悪い?」
 頬杖をついた水希くんが、わかりにくいけれど心配そうにわたしを見上げるので、わたしはいよいよ顔を上げていられず、俯いてしまった。
 それがますます水希くんの心配をかうことぐらい、ちょっと考えればわかったことなのに、「高橋さん?」と不安げに呼ばれても、どうしても空元気を出せなかった。
 沈黙が痛い。逃げ出したいのに、足が棒になったようだ。
 どのくらいの時間わたしが黙り込んで、突っ立っていたかはわからない。1分にも満たなかったのかもしれない。
 ガタ、と椅子を引きずる音がして、わたしの足元に影が降りた。
 膝の前で握りしめていた拳を取られる。角ばった男の人の手だった。
「俺じゃない、別の友達に聞いてもらった方がいいような話だろ?」
 その手がいささか乱暴に、しかし何か大切なプレゼントのリボンを解くような甘い手つきでわたしの拳をほどいて、くしゃりと何かを握らせた。
 弾かれたように顔を上げると、困ったように笑う水希くんがいた。
「橘くん」
「あ。はい」
「ちょっといいかしら」
 水希くんがわたしを見る。
 慌てて目を逸らした。
「高橋さん」
「、」
「おまじないとか、信じる方?」
「え……?」
「嫌なことがあったときとか、それを食べるとちょっと楽になるよ。まあそれ俺が好きなやつだし、俺だけかもしれないけど」
 じゃあ、と言うと、水希くんは扉から顔をのぞかせる天方先生の方へ行った。
 後ろ手で扉を閉めた彼は、天方先生に並んで、すぐ見えなくなってしまった。
 わたしは相も変わらず立ち尽くしていた。
「ちょっと、あんた橘になんか言われたの?」
「え。全然、そんなんじゃなくて……」
 トントン、と肩をたたかれてわたしはやっと夢から目覚めたようだった。
 友達は心配そうに眉を顰めて隣の空席をたたく。そこには手の付けられていないお弁当箱が置かれていた。
「本当に何にもない?」
「……うん」
「そう、何もないならいいけど。早くご飯食べましょう、あたしもう半分食べ終わっちゃったわ」
 彼女はあきれた顔をして、自分のお弁当を取りに席に戻った。
 どうやらわたしの席の近くで食べるみたいだ。申し訳ない気持ちになりながら、一度深呼吸をする。
 わたしは右手を胸の前に引き寄せ、そっと自分の開いた。
「あんた、橘じゃないなら、さっきの女子になんか言われたんでしょ?」
「えっ!」
 わたしは慌てて手を背中に隠した。
 友だちはかなり不審な顔をしたけれど、聞いてくる様子はない。
「図星? あたしに言えないこと?」
「えっと……」
「ま、どうせ橘のこと聞いてとか言われたんでしょうけど」
「ええっ?! なんでわかるの……?」
 彼女は微妙な顔をして小さくため息をついた。
 どうしてかわからないけど、ひどくあきれられている。
「どうせあんたのことだから、橘に好意を持ってる子と話して、その子に申し訳なったんじゃない?」
 その通りだった。わたしは何も言えなかった。
 いたたまれなくなってわたしは顔をうつむけた。こうやってすぐ顔を背けるのは、きっとわたしの悪い癖だ。
「座りなさいよ」と彼女は苦笑しながら箸を動かした。
「別に気なんて遣わなくていいのよ」
「で、でも……」
「むしろあんたみたいに純粋な子、橘にはもったいないわ」
「そ、そんな! わたしの方が水希くんに釣り合ってないよ!」
「……あのねえ、あんたは橘を神格化してる。あいつの何がいいの? いっつも不機嫌だし、怖いし。双子のおにいちゃんの方がかなりいいじゃない、笑顔だし、優しそうだし」
「水希くんは……っ!」
 ぎゅっと右手に持ったままのちっちゃなおまじないを握りしめた。
「優しい人だよ。水希くんは、誰かと比べて劣ってるとか、そんなのはない。素敵な人だから」
 わたしは相変わらず俯いていた。顔をあげて面と向かって言えばよかったのに、それができないのがわたしの弱さだ。
 友だちはしばらく黙っていた。
 わたしも久しぶりに声を張って、心臓がばくばくとうるさかった。手は汗ばんでいた。
「……それで劣等感を覚える理由があたしにはぜんっぜんわかんない」
「へ……?」
 友人のあきれを通り越して優しい声に、わたしはおそるおそる顔をあげた。
「むしろあんたの方が……もう、その何もわかってない顔」
「ご、ごめん……」
「とにかく、あんたは何も気を遣わなくていいの」
 友だちはそれだけ言うと「早く食べなさい」とわたしが全く手を付けていないお弁当箱を箸でさした。
 その存在を忘れていたわたしは慌てた。見れば友だちのお弁当箱はすっかり空だ。
 は、早くしないと昼休み、終わっちゃう!
「……あ」
 キーンコーンカーンコーン……。
 友だちは教室の壁掛け時計を見ていた。
 右手に握っていた飴玉をおいてお弁当のふたを開けようとした途端、予鈴が鳴ってしまった。
「えっ……ええ! う、うそ!」
「……しょうがないから5限の後に食べなさい」
「そんなぁ!」
 絶対に授業中におなかが鳴っちゃうよ!
 助けを求めるように彼女を見ると、彼女は深くため息をついて「それでも食べなさいよ」と、わたしが机に置いた飴玉を指さした。
「飴ぐらいなら、ばれないでしょ」と。
 ――「おまじないとか、信じる方?」
 ふっと水希くんの優しい目を思い出した。
「橘、嫌だったら嫌って、良くも悪くもはっきり言うんじゃないのかしら」
「……うん」
「なら、いいじゃない」
 友だちはそれだけ言うと、片付けた弁当箱を持って席に戻ってしまった。
 けれどわたしにはそれだけで十分だった。
 わたしは水希くんのやさしさに甘えているばかりで、何も返せていないかもしれない。
 わたしに自分の思いを伝えてきたあの子に勝るような気持ちを持っていないかもしれない。
 それでも水希くんは文句を言わない。突っぱねたりしない。彼なりに傍にいていいと言ってくれている。
 それならわたしはこれから彼に見合うように、立派に胸を張って笑い合えるように、水希くんが自慢したくなるような友だちになればいいのだ。
 引け目を感じている暇があるのなら、少しずつ、少しずつ。気持ちを返していけばいい。
 オレンジ色の飴玉の封を切って、舌の上に転がす。
 本鈴まであと1分となかった。噛めばすぐになくなるけど、そんな気はさらさらなかった。友だちだってばれないっていってたから、きっと大丈夫だよね。
 教科の先生と僅差で水希くんは教室に入ってきて、結局彼も食べられなかったお弁当箱を、荒々しく閉まった。
「水希くん、お弁当いいの?」
「いいのって……食えるわけないだろ」
 教材を出しながら、水希くんは器用にわたしに蔑みの目を向けた。
「授業中におなか鳴っちゃうかもよ?」
「聞こえないふりしといて」
 ちょうど水希くんの言葉に重なるように、本鈴が鳴り響く。
 クラス委員の号令で、みんな立ち上がった。
 礼をして、座りなおす。
 先生が黒板に向かう。
 水希くんはすでに頬杖をついている。
 あの子には……、謝ろう。
 確かに誰かを間に通して聞くのも一手だけど、わたしは彼のことは自分から知ってほしいと思う。それがどんなに勇気のいることでも、わたしは水希くんの良さも彼の好きなものも、全部わたしの口からなんかじゃなくて、彼自身から聞いてほしい。
 そして、もっと水希くんの良さを知ってもらえたらいいと思うのだ。
 わたしはこっそり口に含んだ飴玉を転がした。
 とろけていく飴玉は、すっぱくて、けれどほんのり甘かった。