スマホからお気に入りの曲が流れる。放っておけば止まるけど、スヌーズ機能のせいで数分おきにまた流れるので、わたしはもぞもぞと動いてスマホを布団の中に取り込んだ。
 アラームを切ったスマホは枕の横に置いて頭までかぶった布団をずらす。お母さんが一度部屋に来たのだろう。カーテンはすでに開いていて、眩しい日の光が差し込んでいる。
 ああ、来てしまった……。
 わたしはもう一度布団を頭までかぶる。実は、目覚ましが鳴る前から起きていた。あまりうまく眠れなかったのだ、昨日が金曜日だったから。
「……どうしよう」
 土曜の午前とは平和なもので、基本活動のゆるい手芸部のわたしはのんびりできる。部活があるのは平日だけだから、慌てて飛び起きる必要はない。
 そう、いつもなら、布団から出て伸びをして、手ぐしで髪を整えながら、リビングにいるお母さんに声をかけて、顔を洗う。そんな平和な朝である。
 ただ今回ばかりは話が違った。
 キーワードは、土曜日、隣の席の橘水希くん、だ。
 数週間前に、水泳部の集まりによければ顔を出さないかと誘われたあれは、流れてしまうと思っていたのだけれど、水希くんは昨日、わたしに尋ねてきた。「高橋さん、明日来る?」と。
 そのときのわたしは、新調した文房具のせいでおかしなぐらい機嫌が良く、ついつい二つ返事で頷いてしまったのだ。
 水希くんは珍しく笑っていた。「じゃあ14時に駅で待ってるから」と、迎えにまで来てくれるのだと。
 それが、昨日、金曜日の午後の話だ。
 迎えた土曜日。わたしはひどく落ち込んでいる。よくよく考えれば、やはりわたしは行くべきではないのだと思う。水希くんは気にすることないと言っていたけど、今日の集まりは水泳部、それもマネージャーさんに感謝の気持ちを込めて行われる会だ。水泳部でもなければ水希くん以外に知り合いのいないわたしは完全なる部外者。場の空気を悪くしてしまうに違いない。やっぱり、怖い。
 でも、……水希くん、駅まで来てくれるって言ってたし、どうしよう。
 わたしは水希くんと連絡先を交換していないので、今日はやっぱりごめんね、という旨を伝えることができない。何もなしに蹴ってしまうのは、駅で待ってくれている水希くんに悪い。
 もう一度スマホを手繰り寄せ、時刻を確認する。7時をちょっと過ぎた頃だった。
 ……数十分待ってもわたしが来なければ、水希くんは待つことを止めてくれるだろうか。そうだ。集まりはきっと盛り上がるから、水希くんはその輪に戻って、わたしのことなんて忘れて楽しんでくれる。
「……ごめんなさい」
 小さく呟いて、わたしは布団の中で丸くなった。そうするとまた眠ってしまって、驚いたことに、起きたのはそれから12時間後だった。
 1日仕事だったお母さんはそれから1時間後に帰ってきて、パジャマ姿のわたしを見るなり、だらしないわねと眉を顰めた。


 漫然と土日を過ごせば月曜日。土曜日以上に家から出るのが嫌だったけれどズル休みするわけにもいかず、わたしは足を引きずるようにして登校した。
 下足箱の前に立つと、ついつい水希くんの名前を眺めてしまい、ぶんぶんと頭を振る。水希くん、怒ってなければいいななんて、我ながら都合が良すぎるよ。きっと水希くんは約束をすっぽかしたわたしに怒っている。もしくは怒りを通り越して呆れてしまい、もう声をかけてくれないだろう。わたしが水希くんの立場だったら、そんな気持ちになるから。
 せっかく仲良くしてもらえていたのに、自分で台無しにしてしまった。そう思うと泣きそうになって、わたしは俯いて靴を履き替えた。
 扉がついているから水希くんの下足箱の中身が外靴なのかは、わたしにはわからない。既に水希くんが教室にいたらどうしよう。なんと声をかければ、どんな顔をすればいいだろう。いや、もう水希くんはわたしと口を利くことはおろか、目も合わせてくれないだろうか。謝りたいと思うのは、やっぱり自分勝手なのかな。
 自分で蒔いた種なのに、ひとり落ち込みながら教室に入る。
「あっ、おはよ!」
「……お、おはよう」
 挨拶してきてくれたのは一年の頃からの友だちだった。クラスはだいたい人が集まってたけれど、水希くんの姿はまだない。
 それにホッとしたと同時、虚しさが胸を支配する。ぎゅ、と鞄の持ち手をきつく握る。
「ねえあたし、土曜日駅で橘みたよ!」
「! ……」
 どきりとした。やっぱり水希くんは、駅で待っていてくれたのだ。
「そうなんだ」と消えそうな声で答えると、彼女は首をかしげる。「大好きな人の話なのに、なんでそんなに興味なさげ?」とどこかからかうように言われるけれど、わたしは苦笑いしかできないのだ。
「大丈夫? 具合悪いの?」
「ううん、平気」
「ふーん……それならいいけど。あ、聞いてよ、続きがあってね。あたし、そのときは声かけなかったんだけど買い物から帰ってきても、橘、駅にいたの!」
「え……?」
「最初見たのが3時ぐらいで、帰ってきたのは5時すぎぐらいだったかしら。何してんのって、さすがに聞いちゃったんだけど、橘、チラッてあたしのこと見て、無視! ほんとあいつ愛想ないわよねぇ」
 いつもならできるのに、今のわたしにはそんなことないって言い返せるほどの余裕なんてなかった。頭の中は真っ白だった。
 水希くんとの待ち合わせ時間は午後2時だった。友だちの話を聞くに、水希くんは、3時間、3時間も、わたしのことを待っていてくれたのだ。
 とんでもないことをしてしまった。わたしは体から血の気が引いていくのを感じた。
「普通クラスメイトに声かけられたらちょっとぐらいしゃべるでしょ。なのに完全無視とか。そもそも橘って、クラスメイトの顔覚えてるのかしら……って、あ。噂をすればってやつね」
 その言葉に、わたしは弾かれたように顔をあげ、入り口の方を振り返る。彼は、口を手で覆って大きなあくびをしながら教室に入ってきた。
 わたしは何も準備なんてしていなかった。ただ謝らなきゃいけないと。そのことしか頭になかった。
 慌てて水希くんの元に駆け寄って、彼の名前をほぼ叫ぶように呼んで、水希くんが何か言う前にガバリと頭をさげる。「ごめんなさい!」と大声で言ったから、クラスはシンと静まり返って、わたしの背中にはチクチク、たくさんの視線が刺さる。
「……ジロジロ見てんじゃねえよ」
「っ」
 頭上から聞こえたのは殺意のこもった声で、わたしの身は凍るようだった。クラスには先ほどとは空気の違う静けさが走り、しばらくして取り繕ったような賑やかさを演じ始める。そのときにはわたしが感じていた視線もなくなっていた。
 それでもわたしは顔をあげられなかった。ぎゅっと握った手のひらは汗ばんでいる。体が妙に熱い。額にも背にも嫌な汗をかいている。目には涙も浮かんでいる。動揺しきっていた。
 水希くんは、多分わたしを見下ろしていたのだと思う。クラスがざわめき始めてしばらくしてから、重々しいため息が聞こえた。
「高橋さん。朝の挨拶は『ごめんなさい』じゃないと思うんだけど」
「、」
「違う?」
 先ほどの声とは比べ物にならないぐらい優しい声音に、わたしはぶんぶんと頭を振る。
「急に謝られても意味がわからない……とかいうほど心当たりがないわけじゃないんだけどさ。とりあえず顔あげなよ。怒ってないから」
 つま先ばかり見ていた目を、何度も瞬きして、涙の膜を破る。頬に生暖かい滴が伝うのがわかって、こんな顔は水希くんに見せたくないと思った。また、余計な気を遣わせてしまう。
「高橋さん」
「…………約束破って、ごめんなさい」
「……ごめんなさいはもういいから」
「何時間も、待たせてたんだよね。本当に、ごめんなさい……」
「……」
 わたしは未だに顔をあげられず、口からはいらないと言われた謝罪ばかりが溢れる。
 またしばらく沈黙がわたしと水希くんの間を支配する。
「……正直、俺も無茶なことを言った」
「……」
 長らく続いた沈黙を破ったのは、水希くんだった。
「水泳部だけの集まりに参加するの、高橋さんあまり乗り気じゃなかったし。わかってて来させようとした俺に非がある」
「……、っ」
「高橋さん一人っ子って言ってたから、蓮たちに会わせてやりたくて。俺の気持ちばっかりで先走ってた」
「そんなこと……っ、っ?」
 耐えきれなくなって顔をあげたわたしの目の前に、水希くんがひとつの小袋を差し出す。リボン結びは形が崩れていて、ちょっと不器用なラッピング。
「イチゴタルトはあいつらが全部食べたから。代わりにね」
「……クッキー……?」
「そ。ラッピングは蓮と蘭にやってもらった。ちょっと下手だけど、すごい頑張ってたから許してやって。ほら」
 水希くんに手を出すように促されたので、言われるがまま、おずおず、手をお椀型にして出すと、その上にぽとんと小袋が落とされる。
「駅でずっと待ってたのは俺の勝手な判断だから。無理言った自覚はあったし来ないのかもって諦めてたけど、高橋さん意外と抜けてるし、寝坊したのかと思って。まあなんつーかさ、待ってるって言った俺が待ってなかったらダメだろ」
「水希く、わぷっ!」
「だから泣くのやめろ」
 視界は突然真っ暗になった。すんと鼻をくすぐるのは柔軟剤のいい匂い。
 手のひらには小袋をのせたまま、手首でタオルを押さえる。そうすると水希くんの手が離れたのがわかった。
「もう一枚持ってきてるから」
「……洗って返します」
「どうも」
 つまり今顔に押し付けられたのは水希くんが部活で使う予定だったフェイスタオルのようだ。先に言われた通り、予備があるようなので、変に気を遣う方が余計なのだろう。
 うう……水希くん男の子なのにわたしの使うタオルよりいい匂いがする……。
「欲を言えば高橋さんにも食べてもらいたかった」
「え……?」
「タルト」
「……」
 かあっと顔が熱くなる。水希くんの言葉に深い意味はないのだとわかっていても照れてしまう。
 勘違いしちゃダメだ! と心内自分にビンタしつつ、わたしは話をそらす。
「……今度、お詫びするね」
「へえ?」
「だ、だから参考までに……なにかあれば聞かせてほしい……です」
「……」
 わたしは相変わらず水希くんの顔を見ることができていない。柔らかいタオルに顔をうずめ続けている。
 それでも無言になった水希くんに怯えないでいられるのは、彼の纏う空気が優しいものだからだろう。
「……あ。じゃあ、今度高橋さんの時間もらえる?」
「……え?」
「喫茶店。ついてきてよ」
「き、きっさ……?」
「俺がよく行くとこ。レシピとかたまに教えてもらってる」
「よ、よくいくところ……?」
「うん」
「わ、わたしと水希くんが……?」
「他に誰がいるんだよ」
「ふふ、ふたり……?」
「あれなら蓮と蘭も連れて行くけど。あいつら外に出るとはしゃぎ倒すから大変だと思うよ」
 今度はわたしが黙った。
 水希くんは構わず続ける。
「高橋さんが俺に高橋さんの時間をくれれば、お互い様になるだろ」
 つまるところ、わたしが水希くんを何時間も待たせていたことを謝っていたので、今の案でちゃらにしようということだ。時間取引。なるほど! ……なんて言えるわけがない! 水希くんはさらっと言ってしまったけど、それって、でで、で、でーとだよ!
「土曜のことはもう気にしなくていいから」
 ぽすん、と頭に何かが乗る。
「ま、考えといて」
 ぽんぽん。頭を2度優しく叩かれた。
 ボッと頭から湯気が出て、プシューと何かが抜けていく。そんな感じがした。
 暫時その場に突っ立ったままで、こっそり隙間から様子を窺うと、水希くんはすでに席についていた。
 わたしは油指しの必要なロボットのような歩き方で教室を出る。べそをかいた顔を洗うためだ。
 水希くんは、なんなのだろう。
 女の子みんなにあんな思わせぶりな態度を取っているのかと思いきや、声をかけても無視されるとわたしの友人は言っていたし、先ほども集めた視線を払うために、女の子を含むクラスメイトを睨みつけたのだ。
 わたしは一度、水泳部のマネージャーさんの頭を撫でている水希くんを見たことがある。だからわたしは水希くんはその子に気があると思っていたし、その子を特別扱いしていると思っていたのに。わたしにまであんなに優しく接してこられると、わたしは変に期待してしまう。
 しかも水希くんは、当日食べられなかったタルトの代わりにクッキーを作ってきてくれて、兄弟が羨ましいと言ったわたしのために、下の子にラッピングを手伝ってもらった。チラッと見えた小袋には、『またこんどあそびにきてね、おねえちゃん』と書いてあるメッセージカードがリボンに括られていた。誰が書いたのかなんて言うまでもない。
 お手洗いまでやってきて、鏡の前で立ち尽くす。ぎゅっとタオルを握りしめる。胸が苦しい。
 ……わたしは、水希くんが自慢したくなる友人になれたら、それで満足だと思っていた。
「……どうしよう」
 鏡には、情けない顔をしたわたしが映っている。