宗介の意識が浮上した時、あたりは真っ暗であった。
 宗介はまずその場でえずいた。
 血なまぐささ、獣臭さ。何とも言えない異臭がこの場を支配していたからだ。
(なんだ、これ……)
 口と鼻を手で覆って周りを睨むと、何かがごそごそと動いている。
 よくよくみれば、それは一面にいた。
 人間だった。
 しかし光が少しもない闇でははっきりとした形を捉えることがでいない。
 どうなっているのか。宗介は訳が分からなかった。
「痛いよぉ、痛いよぉ……」
「帰りたいよお……」
「お母さあん、お父さあん」
 他にも様々な声が聞こえた。もはや声にすらならないうめきだってあった。
 地獄だ。宗介はとっさに思った。
 ここは地獄だ。
 宗介は耳をふさごうとした。
 だが腕を拘束する何かがそれを邪魔した。
 軽いパニックに陥った。むしろ「やっと」だ。
 何が、どうして。
 大声をあげて発狂しそうだった。
 その時に横の人間にわき腹を小突かれたのだ。
「起きるな。寝とけ」
「は、」
「寝ろ」
 まだ幼さの残る高い声だった。宗介にわかったのはそれぐらいだ。
 意味が分からなかった。
 けれど宗介はどうしてかその後の記憶がない。
 言われた通り、眠ってしまったのだろう。

 夜が明け辺りが明るくなってやっと、宗介は周りをはっきりと見ることができた。
 宗介がいたのは小さな窓が2つある倉庫だ。
 正直、夜が明けぬままでいたかった。
 周りは思ったよりも悲惨だった。
 女子供がたくさんいて、どれも恐怖や絶望に染まった顔をしていた。ケガをしているものだっていた。死んでいるものもいた。
 宗介は毎朝の通り、柔らかい布団の上で目を覚ますはずだった。なのに、何だこの惨事は。
 宗介が唖然としていると、唐突に一つしかない扉が開いた。
 そこから顔を隠した大柄の男が2人現れて、宗介はハッと思い出した。
 街を襲った賊、飛び散った血――そうだ、自分はここに連れてこられたのだ。
 恐怖で声が出ない。
 宗介はぐっと身を縮める。
「売れそうなもの以外は殺せ。死体も捨てろ」
 それから何が行われたのかは宗介はわかりたくもない。
 覚めろ覚めろ、悪い夢なんて終わってしまえ。そう願った。
 自分の番が来る前に。終わってしまえ、と。
「おら! 顔あげろ!」
「ぐっ……」
 宗介の横で誰かが倒れた。骨があげた悲鳴はあまりに生々しい。
「そいつ顔が売りだろ。顔には手ぇだすなよ」
 宗介は腕の隙間から、横を見た。
 髪を乱暴につかまれた少年が、鮮やかな若葉色の瞳で男を睨んでいた。
「生意気な目ェすんじゃねえよ!」
「……っ!」
 男は少年の腹を蹴り上げ、あたかもごみを投げ捨てるように少年を地面に落とした。
 少年はひゅうと情けなく喉を鳴らした。風穴でも空いてしまったかのようだった。
「おい」
「!」
 宗介はびくりと肩を跳ね上げ、仰いだ。
 自分も同じ目に遭うのだろうか。そう思うと震えが止まらなかった。
「へえ。珍しい目の色じゃねえか」
「高値で売れるな」
 男たちは宗介をそう嘲て、彼の前からいなくなった。
 全速力で走ったわけでもないのに宗介は息が上がっていた。
 目からはボロボロと涙が零れ落ちた。
 横の少年は地に伏せたっきり、ぴくりとも動かなかった。
 それがまた宗介の恐怖をあおった。
 宗介は誰かにのぞき込まれている気がして、意識を浮上させた。
 そしてその予感を裏切らず、見知らぬ男が舐めるように自分を見ていた。
 思わずヒッと声をあげて後ずさる。
「確かに綺麗な目だな、君たちは、この中で特に綺麗だ」
 狂気交じりに目を細めて、今朝とはまた違う男が言う。
「この2つを買おう」
 宗介は話についていけなかった。
 横の少年が小さく舌を打ったのだけが聞こえた。
 宗介は目隠しをされ、乗り物と思わしきものに投げ入れられ、しばらく揺られ、歩かされ。やっと目隠しを解かれた時には、また違う空間に立っていた。
 そこには足に鉛球をつけられたものや、手かせをつけられたものがいた。どれも宗介と変わらぬ年齢の少年少女であった。
 宗介は後ずさった。
 しかしすぐに大きな壁にぶつかった。
 宗介を見下ろす冷たい目。
 逃げられないと悟った。

 数日のうちは何もなかった。ただ食事を与えられ、風呂に入れられ、冷たい石の上で眠る。労働を強いられることもない。
 しかし同時に宗介は理解していた。
 ここは好きに遊ばれる場所だ。
 強姦される少女がいた。
 暴行を受ける少年がいた。
 たったの数日で、地獄絵図を多々その目に焼き付けた。
「おまえ、名前なんていうの」
 ここに来た5日目の夜。唐突に横の少年に声をかけられた。
 それは倉庫で目覚めた日からずっと宗介の横にいた少年だった。
 彼は誰に何を言われても無言だったので、宗介はてっきりしゃべれないものだと思っていたので、存外驚いた。
「そう、すけ……」
「ふうん」
 自分から聞いたくせに少年は興味なさそうに返事をした。
 以来会話はない。
 えっ、と宗介は心内驚いていた。
 思えば彼はいつだって冷静であった。
 倉庫で値踏みされた日。男に買われた日。目の前で命が失われた日。
「……どうしてお前はそんなに冷静でいられるんだよ」
 宗介は半ば八つ当たりでそう聞いた。
 ちらりと少年が宗介を見る。
「お守りがあるから」少年はそう言って、腕をさすった。
「いつか、絶対に帰ってやる。こんなふざけた場所」
 少年の左腕にはぶかぶかの腕輪があった。
 それを見つめる少年の優しい目を、宗介は忘れられそうになかった。

 宗介が少年の名前を知ったのはそれからまた3日後のことだった。
 少年は水希といった。宗介と同い年だった。
 そもそもこんなところで誰かと絆を深めたって意味がないと宗介は塞ぎこんでいたのだが、水希と話し出すと自然と氷が解けていくようだった。
 宗介が自分のことを話せば、水希も語ってくれた。
 彼は、双子の兄と幼馴染と一緒に街から離れた時に賊に捕まったのだと言った。
 幼馴染を助けるために男を切ったこと。
 自分もかなり暴力を受けたこと。
 結局大人には勝れず、腹に一発食らった後は気を失ってしまったこと。
 自分は高値で売れるという理由から、殴り蹴られはしても剣で切り付けられることはなかったこと。
 腕輪はその幼馴染にもらったものなのだとも語った。
 水希はすべてを鮮明に覚えていた。
 12年間の幼馴染たちとの記憶を語る彼は、とても幸せそうであった。
 宗介は久しぶりに笑った。
 心からの笑みだった。
 だが、地獄での幸せなど所詮は紛い物に過ぎない。長くは続かなかった。
 それはここにきて10日ばかり経った日に起こってしまった。
 いつものように狭い部屋に集められ、粗末な皿に盛られたスープが並べられる。
 宗介と水希は相変わらず隣どうしだった。
 宗介たちがスープを半分ほど飲んだ時に、からんと一人の少女がスプーンを落とした。
 どうしたんだろう、と宗介と水希はそちらを見た。
 少女は顔をだんだんと青くして、しまいには泡を吹くと、ばたりと後ろに倒れた。
 少女の近くにいたものはみな悲鳴をあげて離れた。
 苦しみ、呻く少女の手が天に向かって真っすぐに伸びる。そして一度ピンと針金のように張り、ボキンと。
 宗介は全くついていけなかった。
 何が起きたのかさっぱりわからなかった。
 食事を運んだ男が甲高い声で笑っていた。
 少女が絶命していく様子を見て、愉快そうに、声を上げていた。
 毒を盛ったのだ。
 そう分かった瞬間宗介は吐いた。
 ほとんど満足な食事を与えられていないので、それは苦痛だった。
 水希がその時どうだったのか宗介は知らないが、その翌日から水希は食事をとらなくなった。
 宗介は次に死ぬのは自分かも知れないと恐れてはいたが、それでも食事を取らなければ飢え死にするのだ。
 あるとき毒で死ぬか、じわじわと飢えて死ぬか。そのいずれかなのだ。
 だから宗介は食事を口に運んだ。
 しかし水希は絶対に手を付けようとしなかった。
 どれだけ言っても聞かない水希に、宗介は怒鳴りつけた。
「幼馴染に、兄貴に、会うんじゃねえのかよ!」
 水希は驚いた顔をしていた。
 それでも食器に手は伸びない。
 宗介は自分が少し食べたものなら毒もないのだから、と無理やり彼に食べさせた。いわば宗介は毒見係のようなものだった。
 それを水希が嫌がっているのも知っていた。

 もう何日目かもわからない。
 最後の地獄は朝日が昇る前から待ち受けていた。
 夜中に横の水希がたたき起こされたので、宗介はつられて目を覚ました。
 寝ぼけ眼をこすると「離せ!」と叫び、もがく水希が部屋から連れ出されていくのがぼんやり見えた。
「水希……?」
 宗介はしばらくぼうっとしていたが、いきなり頬をぶたれたかのように目を覚まし、飛び起きて走り出した。
 宗介の足は迷うことなく一つの部屋を目指した。
 地獄が生み出されるのは、決まった部屋だった。
「……っ! い゛っ、あ゛、やめ、ろ……っ!」
「喚くな!」
「ぐっ、あ゛……!」
 悲痛なうめき声に宗介の足は止まった。
 ここまで全速力した心臓がバクバクと騒ぐ。
 この先に水希がいる。
 苦しんでいる。
 助けなければ。
 しかし宗介の足は言うことを聞かない。すっかり恐怖で竦み、使い物にならないのだ。
(どうすればいい?)
 中にいるのは水希と、男1人だとは断言できない。男は複数名いる可能性だってある。
 そんな中に飛び込んでいくのは無謀ではないか? 自分も捕まり、地獄を見るのではないか?
 宗介はガクガクと足を震わせる。
(……、どうすればっ)
 扉の向こうの悲痛な叫び声が一旦途切れた。
 宗介はうつむいた顔をハッとあげた。
 静寂。
 あんなに悲鳴をあげていた水希の声がない。
(うそ、だろ)
 宗介はへたんとその場に座り込んだ。
 まさか、死んだのか。
 殺されたのか。
 そう絶望した突如。
「返せ!! それに触んな!!」
 水希の怒鳴り声が聞こえた。
「返せっつってんだよ!!! 返せ! 触るな!!」
 ――生きている。
 宗介は何かに弾かれたように立ち上がり、扉に手をかけた。
 何かを考えている暇なんてなかった。
 彼には水希を助けることしか頭になかった。
「返せ!!!」
 聞いたこともない水希の叫び声だった。
 宗介は扉を勢いよく開けた。
 赤。
 目の前で、血が迸った。

 宗介は呆然とその光景を見つめていた。

 無音。
 無臭。
 水希が泣き喚きながら何度も短刀を男の首に突き刺す。
 引き抜かれるたび刀は血を飛ばす。
 男が蝋人形のように床に身を叩きつける。
 男の周りにはすぐに真っ赤な海ができる。
 水希は男の手からそれを奪い返すと、からんと短刀を滑り落とした。
「水希!!」
 途端に時が流れ、宗介は急いで水希の元へ駆け寄った。
 鼻のもげるような鉄臭さ。
 目も当てられない蝋人形。
 ぬめりとした液体が素足を染める。
 水希がその場にうずくまりなにもない胃からひたすら吐き出す。
 水希は泣いていた。しゃくりあげ、嗚咽して。
 宗介はためらわずにその肩を掴んで、無理やり彼を立ち上がらせる。
「逃げるぞ!!」
 どこへ。どうやって。
 何も考えていなかった。
 明け出した牢屋の外へ、がむしゃらに駆けた。

 どうやって地獄を抜け出したのかわからない。
 気づけば眠る広場の真ん中にいて、宗介と水希は茫然とそこに座り込んでいた。
 背と背を合わせ、東雲を眺めていた。
 宗介の後ろは血生臭かった。
 返り血を全身に浴びたのだと振り返らずともわかる。
 それでも宗介は肩越しに彼を見た。
 わずか乾燥した血がへばりついていた。
 水希の背中には、見慣れないものがあった。
 小さな翼のようなトライバルタトゥー。
 赤く腫れた肌に真っ黒なそれは目立った。
「それ、……」
 そこまで言いかけてやめたのには2つの理由がある。
 1つは水希が上の空であったこと。
 もう1つは自分たちに1人の男が近づいてしていたからだ。
 こんな時間に人が徘徊しているのはおかしい。
 追っ手かもしれない。
 その可能性に行き着いて、宗介は途端に体を強張らせた。
 ゆっくりと男が向かってくる。
 宗介は立ち上がろうとしたが、手枷のせいでうまくいかず、また日頃の疲労もあり体は軋んだ。
 どうすればいい。
 宗介は苦虫を噛んだような顔をした。
 どうすれば。
 不意に男が立ち止まった。
 同時に宗介の背中の温もりがなくなり、目の前にゆらりと影がたった。
「来るな」
 低い声でまるで獣のように水希が唸る。
 男は自分の前に立った少年の様子にかなり驚いたようだが――また一歩、また一歩と2人に近づく。
「来るな」
「……」
「来るな!!」
 びりびりと体が痺れるような咆哮。
 宗介は身を竦めた。
 しかし気後れしない男は水希の前に屈んで、とん、と。
「まずはお風呂だね」
 ふわりと男の方に水希が倒れた。
 男はそれをしっかりと抱きとめた。
「なにを……」
 宗介は唖然と男を見つめる。男の動作は素早くて、見えなかった。
 男の目は宗介の手枷に向く。
「ついておいで。それを外してあげよう」
 そう言うと、男は水希を抱え上げ、来た時と同様、ゆっくりと歩き出した。
 のちにキャラバンの隊長となる男との出会いであった。
 もちろん宗介は男を少しも信頼していなかった。
 彼の後ろについていきながら、どうにかして逃げ出そうとも思っていた。
 しかし男に抱えられた水希を取り戻し、2人で逃げるのは不可能だった。日ごろの過酷な生活に加え、街まで全力で逃げてきた宗介には、もう力は余っていなかった。
 男は一人暮らしであった。
 男一人には十分な家に連れてこられ、宗介はさっそく腕を見せるように言われた。
 宗介は一度敷物の上に横たわる水希を見て、おずおずと手を差し出した。
「その形状の鍵なら……そうだね、なんとかなりそうだ」
 宗介は信じられない、といった様子で男を見つめる。
「外せんのか……?」
「最初にそう言ったじゃないか」
 男は困ったように笑う。
 立ち上がって、整頓されていない木箱の中からなにやらさまざまな工具を持ってくると、宗介の腕を優しく持ち上げる。
 カチャカチャと銀色の工具たちが犇めき合っているのを宗介はジ、と凝視していた。
 ほんの1,2分で鍵は外れた。
 宗介を何十日も苦しめていた手かせは、あっけなく男の手に収まった。
 宗介は唖然とその場にたたずんでいたが、次第次第に手を持ち上げ、肩をゆっくり回したり、腕を水平に動かしたりする。
「うご、く……」
「そうだね」
「……っ、水希!」
 ぱあっと目を輝かせた宗介は、水希を呼んで振り返った。
 水希に報告したかった。
 この喜びを水希と分かち合いたかった。
 きっと水希は自分のことのように喜んでくれるに違いないから。
 だが宗介の目に飛び込んできたのは、真っ赤に染まって横たわる水希だった。
 宗介はすぐに思い出した。
 そうだ、水希はこの男に。
「すまないね。ちょっと眠ってもらったよ」
「……!」
 宗介は瞬時に警戒して、身を守るように男を睨み付ける。
「そうしないと、殺されそうだったんだ」
「え……?」
「話をしようにも聞こえないようだったからね。あの子は何も持っていないみたいだったけれど、私を殺す気だったよ。何をしてでも、殺そうとしてた」
 男は眠る水希を一瞥して、宗介に向かって苦笑いした。
「君を守ろうとしていたようだよ」



 じくじくと痛む背中。ぼんやりとしていると、男は水希の左腕を持ち上げる。
 何を、する気だろうか。
 水希はほとんど力なく男を見上げる。
「お前の飾りは一つでいいだろう?」
 するりと腕輪が抜ける。
 水希は大きく目を開く。
 カアッと体中が熱くなった。
「……お前に、似合うと思った……から、」脳裏に青い目の幼馴染がはっきりと浮かんだ。
「返せ!! 触るな!!」
 大事なもの。肌身離さずつけてきたもの。
 あれをくれた幼馴染はあきれていたが、水希にとっては己が命以上に大切なのだ。
 遙がくれたブレスレットは、宝物だ。
 取り返す。
 それだけしか水希の頭にはなかった。

 赤。
 刀を通して全身に伝わった肉をえぐりむしる感触。
 全身に浴びた生暖かい液体。

 そこまでする必要はなかった。
 そこまでするつもりはなかった。

 男の手から腕輪を取り返した時、彼はピクリとも動かず、喉にぼっかりと穴をあけて蝋人形のように転がっていた。
 何があったのか水希が一番分かっていなかった。
 手から滑り落ちた短刀がカランと無機質な音を立てた。
「水希!」と。誰かが叫んだ気がした。
 ――水希?
 ――誰だ。
 ――ああ、俺か。
 ――俺が、やったのか。
 鼻持ちならぬ臭いに、目を背けたくなる光景に、水希はその場にうずくまり、ろくに満たされていない胃からあるものをすべて吐き出さんとした。
「逃げるぞ!!」
 誰かに肩を掴まれ、無理やり立ち上がらせられる。
 その手のぬくもりを水希は知っていたが、何も考えられなかった。
 少年と一緒になって真っ暗な中をひたすら走った。
 無機質な石の建物はどれも大差なくて、まるで同じ場所をぐるぐると回り続けているようだった。
 やっと視界が開けて、少年は疲れ果てたようにそこに座り込んだ。
 それが宗介だと気づいたのは、彼に背を預けるようにして座り込んで、しばらくしてからだ。
 宗介が何か言いたげにしたのが分かり、水希はそっと振り返る。
 すると一人の男がこちらへ近づいてきているのが分かった。
 見た感じ30代ぐらいだろうと思った。
 ――またか。
 ――また取ろうとするのか。
 ――どうしてだよ。
 ――俺から、大事なものを取るな。
 ほぼ無意識に立ち上がって、宗介を庇うようにして、男と対峙した。
 そのあとはわからない。
 真っ暗だった。
 そして――また意識が浮上した。
 水希の目が覚めたのは、地獄から逃げ出して1週間たった日のことだった。
 ふかふかとした布団の上に彼はいた。
 起き上がると体が軋み、ひどい頭痛がした。
(どこだ、ここ……)
 水希は額を押さえながらあたりを見渡す。
 真昼の太陽が窓から差し込んでいる。
 まったく覚えのない場所だ。
 とりあえずベッドから下りて、窓の外をのぞき込む。
 部屋にも、外にも。誰もいない。
(なに……してたんだっけ)
 水希はぼうっと空を見上げて、不意に。
「……宗介?」
 彼がいないことに気がついた。
「宗介、」
 もう一度呼ぶが返事はない。
 目も頭もすっかり冴えきっている。
 知らない部屋。
 いなくなった宗介。
 水希の顔からサアと血の気が引く。
「宗介!!」
 水希は慌てて部屋を飛び出した。



 1週間を経て宗介の用心もやっと解かれ始めていた。
 正直まだ猜疑心はあるが、少なくともこの男には、自分たちをどうこうしようという気持ちがないことには納得した。
 宗介はあの日の夜この男を殺そうとした。
 宗介に風呂を貸し、食事を与え、水希の体を清め、寝床まで提供してくれたが――その厚意を素直に受け止めることはできなかった。
 今まで殺されかけていたのだ。
 他人を信じろという方が無理な話なわけで。
 宗介は相変わらず目を覚まさない水希をちらりと見て、部屋で見つけた曲刀を手に、別室で眠る男のもとへ行った。
 男はまったく無防備であった。
 穏やかに胸を上下させ眠っていた。
 宗介は彼に馬乗りになって、曲刀の切っ先を彼の喉に突き付けた。
 わずかに力を入れるだけだ。そうすれば少し沈んだ皮膚を完全に食い破ることができる。
 簡単に、殺せる。
 ドッドッと心臓は激しく唸った。
 全身に冷や汗をかいた。
 そのうちに手が震え始めた。
 ――やれ。
 ――一瞬だろ。
 ――力を入れるだけだ。
「何かの命を奪うのは、簡単なことじゃないねえ」
「!」
 宗介は驚いて飛び退いた。
 その拍子に曲刀は床に落っこちた。
 ゆっくりと瞼を持ち上げて、男は宗介を見た。
「確かに鬱血の後はあったけど、あの子の血は全部返り血だろうね」
「、」
「怖かったろう? 君も」
 泣きわめき、我を忘れた瞳で何度も男の首を掻っ切り、血に染まっていく彼がふっと過った。
 ――怖かった? そうか、怖かったのか。
「あの子のことを、支えてやりなさい」
 男が上体を起こし、優しく宗介の頭を撫でた。
 堰を切ったようにぼろぼろと涙が零れ落ち、宗介は嗚咽して泣いた。
 もう枯れたと思っていた。涙なんて、とうの昔に。

 宗介は男の付き添いでマーケットに行った。
 依然目を覚まさない水希のことが心配だったが、「水希のためにもいい食材を買わないと」と言われれば一発。
「宗介は水希のためとなると簡単だなぁ」
「うるせえ」
 チ、と舌を打った宗介を、男はからからと笑った。
 水希の名前を男に教えたのは宗介だ。
 彼は1週間をかけ氷を溶かしつつ、その中で彼に自分たちのことをちょっとずつ話した。
 売られたこと。
 目の前で人が死ぬのを見たこと。
 少女が毒を盛られ殺されたこと。
 それを楽しむ大人がいたこと。
 水希は幼なじみと双子の兄に会いたがっていること。
 自分も街に帰って家族に会いたいこと。
 水希がブレスレットをとても大事にしていること。
 水希が、人を殺したこと。
 しゃべりすぎだと思ったが、男がそのどれにも、まるで宗介の心情を映し出したかのような目をするので、宗介はついつい話してしまった。
 男は時に顔をしかめ、時に泣き、笑った。
 宗介とともに喜びや悲しみを共有してくれた。
 父親のようだった。




 満天の星空を仰ぎ、宗介は息をついた。
 ここまで話すのにどれだけかかったかはわからないが、星の位置はだいぶ変わっているように思われた。
 ここからまた隊商を組む話や、水希と一緒に護衛を任される話なんかもあるのだが……。
 5年分の話をするとなると1日じゃあ足りない。
 宗介はきっと必要とされているであろう情報を、できる限り簡潔に2人に伝えた。
 遙と真琴のことを、はっきりと覚えていた水希のことを。
「1週間たって起きた水希には、俺と会う前の記憶がなかった」
「、」
 遙と真琴が揃って体を強張らせる。
「あいつは起きたけど……12年分はまだ眠ってるのかもしれねえ」
 12年。つまりは水希がまだ真琴たちと一緒にいたころの記憶のことだ。
 どうして。
 遙の頭はその4つ文字が占めた。
 どうして忘れてしまったのか。
 どうしてあの日、彼をおいて走ってしまったのか。
「……水希の昔話は、必然的に『5年前』になる」
「……」
「だから、昔のことを、無理に思い出させんじゃねえ」
 遙はきつく唇を噛み、真琴は強く拳を握った。
 頷くことはできなかった。しかし嫌だ、と声を張ることもできなかった。
「えっと……宗介君?」
「宗介でいい」
「あ、うん……。宗介、その、……話してくれて、ありがとう」
「……ああ」
「それと、……5年間、ずっと水希の傍にいてくれて……ありがとう」
 宗介はちらりと真琴を見て、また星空を見上げた。
 それは今までのことを思い起こしているようだった。
 遙はずっと黙っていた。
 真琴のように礼を言う気にはなれなかった。