暖かな日常から急に地獄へ放り込まれたように。その地獄から頓に引き上げられたように。ある状態が“ずっと”続くことなんて、きっと、ない。
俺たちの拠点から遠く離れたこの地にやって来て早2週間。地図上での位置関係は掴めたが、実際砂漠を歩くとなると目印が必要だ。その目印を知る人物がいないだろうかと、この町の隊商なんかにも尋ねているのだけれど、結果はあまりよくない。
あっても、数年前以来確認していない目印なら、といったところだ。
ますます荒れているらしい外の様子を考えるに、不確かな情報を頼って進むのはいい考えではないと、隊長は言った。その言葉に一員は皆深く頷いた。
それに、何も焦って拠点に戻ろうとする必要はない。たまに開かれる真剣を用いたトーナメントに参加するとか、俺たちにも今まで身につけてきた各々の稼ぎ方はあるわけで困窮することはないし、夜を過ごす安全な場所だって、それも無償で、提供されている。
だから、焦る必要なんてない。
「遙ぁ、マーケット行かないと食べるものがない」
「早いな……」
「十数人もいればね。こんなもんだよ」
水希はカラカラと笑って、なあ、と。近くにいた俺に話を振った。話は聞こえていたのでそれっぽく頷く。満足そうに水希はまたハルに向き合う。
俺が彼らから視線を外す前に一瞥を投げた相手は、水希を見て、眩しそうに目を細めていた。
この町から出ようと焦る必要がないのは、「隊商」であって「俺」ではない。俺は、彼を連れてここから逃げ出さなければと焦っている。ひたすら、変わりそうな関係に怯えている。
胸に溜まった苛立ちをごまかすように、俺は静かに息を吐いた。
俺たちを拾ってくれた男とマーケットから戻ってくると、ちょうど家の扉が勢いよく開いた。ドアが外れるんじゃないかってぐらい激しい音がたった。
いったい何事だと俺も彼も目を丸くした。男は俺を守るように、俺の前に手を出していた。
とは言っても俺たちが認めた人影に、俺はすぐに拍子抜けする。そこにいたのは水希だった。
起きたのか、とぼんやり思って、すぐに体が熱くなる。嬉しかった。1週間は長かった、ずっと目が覚めないんじゃないかと本当はどこかで恐れていた。だから嬉しくて、俺はらしくもなく泣きそうだった。
「宗介!!」
俺が呼ぶよりも先に水希が叫んだ。久しぶりに聞いた声だったのに。俺は呼び返せなかった。心臓がうるさく鼓動する。水希は顔面蒼白で今にも死にそうだった。
時が止まったようだった。
離れてなさい、と言われたような気がした。
男は鞘から剣を引いた。一瞬だった。
キィンと耳鳴りみたいに甲高い音が戛然と鳴り響いて。キリキリと互いの鎬を削りあうように触れる小刀と曲刀を俺は呆然と見ていた。
男が剣を持ったのは、俺が見てきた中では、これが初めてだった。
目が覚めた水希は猜疑心の塊だった。少しでも人の気配がすると息を張り詰め、他人の出した料理は決して口にせず、眠ることもままならない。
そしてなにより、1番ひどいのが人を殺した記憶であった。
あるとき水希は、しゃくりあげることもなしに涙を流し、吐けるものなんかないくせにえずいては、野犬のような声をあげて暴れるのだ。
俺はどうにもできなかった。そばで見ていることしかできなかった。大体は男が水希の気を失わせた。次に目覚める水希はほとんど生気のない目をしていた。その繰り返しだった。水希はどんどん死んでいくようだった。生きているのに死んでいた。
暴れない日もあったけれど、眠れない水希は男に無理に眠らされていた。手段はいまさら言うまでもないだろう。
ろくに食べもしない水希だったが、限界が来たときは自分で何かを作るようにしていた。食材は男が俺を間に挟んで水希に渡した金で買っていた。このころから水希は男に牙をむきだすことをしなくなった。
そんな日々が続いたある日のこと。男は外に出ていて家には俺と水希しかいない。
水希は相変わらず死んでいるような目をしているけれど、俺との間には普通の会話が成り立つ。普通の会話といっても花が咲くような話題はそうそうなくて、「今日はいい天気だな」とか、よく見るベタな、見方によってはかなりぎこちないものだ。
水希は生まれたばかりのひな鳥みたいに俺の後ろをひょこひょこついてくる。本人曰く、俺が目に見える範囲にいないとダメなんだそうだ。
賊にさらわれたときから俺と違って決して動揺も屈しもしなかった水希を知っている俺からしてみれば、何バカなこと言っているんだと。けど、そうはおどけられなかった。
思えば1週間経って目覚めた水希の横に俺はいなかった。俺のいない目覚めを迎えた水希は我を忘れていた。俺を見つけると一度だけホッとした顔をして、俺の横の得体の知れない人間に牙をむいた。
俺に、害があると思ったから。
1週間からさらに2週間を重ね、今、二人っきりで俺は水希にその話を聞かされている。
算数の勉強、とか言って木の棒で地面に数式を書きながら。向かいにいる水希は耳の垂れた子犬みたいな目をしている。
「怖いんだ、宗介がいなくなるのは。俺には、おまえしかいないから」
「……」
目を伏せる。砂を掻いて書いた筆算は答えの1つ手前で止まっている。
「俺だけじゃねぇ。水希には、ちゃんと、待ってくれてるやつがいる」
「……」
スローペースな言葉の交わし合いだった。どちらか一方がしゃべって、しばらく黙って、またどちらか一方がしゃべる。ちゃんと会話になることもあれば、一人が喋り続けているだけのこともあった。
最後に俺が言ってから、俺も水希も黙り込んでしまって会話は止まった。そこに気まずさはない。俺はまた木の枝を動かす。
「……ないんだ」
ぽつりとつぶやかれた言葉。導いた答えがあっているか、水希に声をかけようとした矢先のことだった。
「なあ宗介、俺は前にも人を殺したのかな」
「は?」
「多分、初めてだったと思う。けど、本当にそうなのかわからない」
「……」
「あそこまでする必要はなかった、するつもりもなかった。なのに気づいたらあの人は真っ赤になってて、俺の手も、赤くて」
「……もういい」
「どうしてこの腕輪を取られることがあんなに嫌だったのか思い出せないんだ」
スローペースな言葉の交わし合いだった。
「真っ暗な倉庫で宗介と出会って、ずっと宗介がそばにいてくれたことしか、俺は、覚えてないんだ。どんなに思い出そうとしても、鮮明に思い出せるのは刃物を通した生々しい感覚だけで、ないんだ、俺には、宗介、俺には」
おまえしかないんだ、宗介。
変に口角をあげた水希が泣くとわかって俺は咄嗟に水希を抱きしめた。せっかく書いた地面の数字は靴底に擦られて消えて、一生懸命になって探し回った木の枝も放り出した。
見るだけでも痛々しいのに、触れた水希は可哀想なぐらいやせ細っていて、病人の域だった。
耳元で聞こえる嗚咽に、ただただ水希を抱きしめる腕の力が増すばかりだった。
目覚めた水希は12年間を失っていた。12年もかけて刻んできた記憶はたったの1週間でなくなった。
「宗介はおまえの町の話をするときが1番楽しそうだな」
「そうか? ……まあ、もしここから出られたら案内してやるよ」
「もし、じゃなくて出るんだよ」
「……ああ、そうだよな」
「俺も宗介に、遙たちのこと、紹介してやるよ」
水希は、1番優しい目をして幼馴染の名前を呼んでいた。
遙。ブレスレットに触れながら笑った水希を。それさえ、時は奪っていった。
ずっと同じ姿形であり続けるものはきっとない。少しずつ、少しずつ。そのあり方を変えていく。
どんな形であろうと水希は彼らに出会った。地獄から抜け出して、また笑い合うんだと告げた言葉通り。有言実行。水希は大体そんな感じだ。
でも、きっと。
「宗介、なに難しい顔してんの」
「、」
暖かい両手が不意に頬に触れ、俯いていた顔を上げさせる。心配そうに目を曇らせる水希がいた。
「調子悪い? 俺、今からマーケット行くから誘おうと思ったんだけど……宗介、休んどく?」
「……いや、」
俺の頬に触れる水希の手に、そっと自分の手を重ねる。
「水希がいれば、平気だ」
不意を打たれたように目を見張って、すぐ、水希ははにかんだ。
――離れないよ、宗介。俺はずっとおまえのそばにいるって決めてるんだ。
たとえどんなに足掻こうと、“ずっと”は、ない。
“彼ら”の関係が変わったように、“俺たち”の関係もいつかは変わる。少しずつ、少しずつ。変わり始めている。
♯
マーケットから帰るなり、水希が木刀を投げ渡してきた。
「そろそろお互い平和ボケしてんじゃない?」
そう言って水希は嫌みったらしく笑いかけてくる。いつも扱うのと同じ長さの木刀を手先でくるくる弄ぶ彼は、相変わらず器用なものだ。
投げられた木刀と、変に挑発的なセリフ、それと俺たちが隊商の護衛であることから導き出される答え。剣の稽古だ。
水希との稽古は隊商の護衛に誘われたときから続けている。だからお互いの癖もわかってるし、おかげでいざ現場に立ったときにはぴったり息が合う。「頼りにしてるよ」と周りから言われて頬が熱くなったのはいつだったか。
なるべく人の少なく見渡しも良い場所を選んで水希と剣を交える。響くのはいつもとは違う衝突音。
真剣じゃないからスパッと切れることはないけど当たれば痛みはある。本気を食らえば大怪我もありえるし、油断はできない。でも、手加減することはお互いない。
何度目かの足払いを避けることに失敗し、地面に尻餅をついた水希に剣を振りかぶった。
片手はうっかり地面についてしまっていたので、振り下ろされた剣を水希は片手で握った剣で受けた。
「、……っ」
「お前は受け方が悪い」
水希が露骨に顔を歪める。
擦り合う刀を離しても水希の腕はそのままだ。鼻で笑って水希の腕に手刀を落としてやると、水希の手から木刀が滑り落ちた。
「……おまえほんっと馬鹿力」
忌々しそうに水希は言った。
力強く打った一撃のせいですっかり腕の付け根までやられてしまったらしい。
地面に落ちていた水希の木刀を遠くに蹴り飛ばし、自分の剣先を彼の喉にあてがう。
「……降参」
腕は数秒で麻痺から解放されたようで、それでも何か反撃に出ることはなく、水希は両の手のひらを俺に向けてあげた。
終わりの合図だ。
長いこと剣を振るっていたからか、お互いに呼吸が乱れ、汗が伝い、喉が渇いている。
俺も刀を下ろして座り込んでいる水希に手を伸ばす。
「あー、なんか悔しい」
「水希はもっと体鍛えろ」
「これでも鍛えてるんだよ」
知ってる。筋トレしてるのとか、素振りしてるのとか、よく見るし、俺も付き合ってやることもあるし。
口を尖らした水希は悔しそうに俺の手を掴んだ。俺は水希を引っ張り起こした。
「宗介のガタイの良さはずるいんだよ」
立ち上がるや否や、水希はジト目になって俺の胸板を拳で叩く。
「水希も一応そのへんの男よりはマシな体つきだろ」
「あんまり励まされてる気がしないんだけど」
ご機嫌をとるつもりが逆に損ねてしまったようだ。
他の言葉をかけようとしたところで、不意に水希の目がすいっと横切る。
「……あ。遙」
「……」
ぽつりと呟いた水希の目線の先には、俺たちに無償で寝どころを提供してくれているこの町の青年が立っている。
途端に胸が寒くなるのを感じた。
「どうした?」
「……『やんちゃ坊主に水を持って行ってやれ』て」
そう言ってハルが水筒を“2つ”、“水希”に差し出す。
「ああ。わざわざありがと」
「……別に」
夢を、見ているのかと疑った。
水希の口から礼の言葉が出たことに驚いた、わけではない。水希が、彼に差し出された水筒を“受け取った”ことが衝撃的だった。
原因は5年前のあの出来事にあるが、水希は、口にするものに関しては行き過ぎなぐらい疑いをかける。渡されたものは絶対に信用しようとしない。唯一俺の作ったものや渡したものならば平気なようだが、人からは受け取ろうとしないのだ、食事はもちろん、水筒の水だって。
それは水希本人が言っていたことだし、現に俺はそれを見てきた。俺が渡してやった水筒は簡単に口をつけるのに、仲間から水筒を差し出されると、冷や汗をかき顔を青ざめることだってあった。
受け取らなかった。行き過ぎなぐらい怯えていた。
なのに。
「ん。宗介」
水希が2個のうち1個を俺に差し出してきて、俺は呆然としたままそれを受け取った。
水希の「潔癖」は隊商の中では暗黙の了解だ。実際潔癖症とは違うのだけれど、たとえそれが隊商の仲間といえど、所詮は商人の寄せ集めで、全てをさらけ出すことはできない。水希の異常なまでの人間不信を説明せずに納得させるには潔癖症としておくのが1番楽だった。
今回ハルに水を持っていくように頼んだであろう人物は見当がつく。俺たちのことをやんちゃ坊主だなんていうやつは一人しかいない。
彼女は、隊商の中で隊長以外に唯一俺たちの事情を知る人だ。当然水希の人間不信も知っている。彼女が水筒を2つ用意するように言うわけがない。
ハルは何も知らなかった。他人の出した料理が口にできないことは初日に水希本人が伝えたようだが、さすがに水筒さえ無理なことは知らなかっただろう。
だから“2つ”用意し、“水希”に差し出せた。
そこまではいいとして。
コクコクと喉仏を上下させる水希はまったく気づいていない。自分が今何をしたのか、少しもわかっていない、――まるで俺と接するようにハルに接したことに。
眩暈がする。頭が真っ白で、何も言えない。
水希は、目を覚まさなくても、また、昔のように。惹かれている。もはや俺にはどうすることもできない。
変わり始めた関係に、この場で俺だけが気づいていた。