自分はサポートに回ると宣言したジグルフは、ワイバーンにおどおどと近寄っていくヴァレリーを本当に後ろから眺めているだけだった。ヴァレリーは自分はここで死ぬのかもしれないと内心涙目だったし、そろりそろりと後ろから距離を詰めて不意打ちで一撃喰らわせようとした途端ワイバーンが振り返りばっちり目が合った時は、死を悟った。
 ギョロリとした大きな瞳。ぎらりと光る巨大な牙。ヴァレリーは硬直した。さながら蛇に睨まれた蛙であった。
「グオオオ!」
「……!!」
 唸り声を上げてワイバーンが羽を広げた。振り上げられた鋭い爪。
 終わった――。ヴァレリーはギュッと目を瞑る。
 ドン! と鈍い音がヴァレリーの鼓膜を揺らした。
 …………。
 ……。くるべき痛みがこない。
「目を瞑ったらダメだよ」
「……?」
 恐る恐る目を開ける。するとなにか、ヴァレリーの前にはキラキラと反射しているガラスようなものがあって、そのガラスの先にジグルフの背中があった。さらにその先には、大きく体をよろめかせるワイバーンの姿。
「あれ、……」
 強い衝撃音はワイバーンのあの大きな手でヴァレリーが振り払われた音ではなかった。
「怖かったくせに接近できたのは合格だ」
 ガラスは文字通り熔けてなくなり二人を隔てるものが消えた。ジグルフは呆然としているヴァレリーの額を人差し指でトンとつついて口角を上げた。
「俺が気を引いとく。首を切り落とす花形は譲ってあげるね」
「え……」
「体力を削って誘導するから構えといて」
「ゆ、誘導? ちょっ、待ってください……! ジグルフ!」
「うーん。残念、あの子が待ってくれないや」
 ぐるりと瞳を回したワイバーンはその瞳にジグルフを捉えた。
 明らかな殺意を向けられたジグルフは、楽しそうに目を細めた。
「遊ぼう」
 右腕を突き出し指先をくるくると回す。口ずさんで歌うようにスペルを唱える。
 ボッと火柱があがった。発火したのはワイバーンの左目だ。
「グオオ!!」
「じゃあ任せたよ、ヴァレリー」
「あっ! ジグルフ……!」
 ヴァレリーから離れ駆け出したその姿を追うのはヴァレリーだけではない。怒りの咆哮をあげたワイバーンもまた、尾を大きくしならせ、地を蹴りあげ高く飛び上がると、ジグルフ目掛けて急降下していった。
 ヴァレリーの位置からでは何が起こっているのか確認ができない。が、凄まじい衝突音や爆発音が響くのを聞く限り、ジグルフは生きていて、ワイバーンとやりあっていることは確かだ。時折聞こえるワイバーンの唸り声からも、ジグルフの有勢であるようだった。
 呆気に取られていたヴァレリーであったが、だんだんと状況把握ができてくる。そうなるとふつふつわいてくるのはジグルフへの憤りだ。
「誘導とか、花形とか……っ。作戦があるなら最初っから共有してくださいよっ」
「キュッ!」
「わ! いつの間に……」
 急に現れたハリネズミにヴァレリーは驚いて声を上げたし、脅かすなと文句を言ってやりたくもなったが、今はそれどころではない。グッと言葉を飲み込み、斧槍の柄をしっかり握り直す。
「……いきましょう!」
 ぽむ、とハリネズミがヴァレリーの肩に乗った。どうやらそこが定位置のようだ。
 音を頼りに二人のあとを追う。最初いたのは開けた土地だったのに、進むにつれて狭い一方通行の荒地に入り込んでいく。誘導すると言っていた。なるほど、これでは相手も逃げ場がなくなるのか。
 夢中で走っているので息が上がる。はっはっとヴァレリーが呼吸を荒くするにつれて、あたりはやけに静かになっていった。
「!」
 見つけた。
 両翼がボロボロになり恨めしそうに這いずるワイバーンと、その目の前に――しゃがみこんでいるジグルフを。
「ジグルフ……?」
 様子がおかしい。ジグルフは苦しそうに胸を押えていて、目の前にまだ息のあるワイバーンがいるというのに、完全に地面を向いている。
 一瞬いつものからかう態度のジグルフが脳裏を過って、彼が使いそうな表現をするなら、最高の演出でヴァレリーを出迎えたのかとも思った。けれどワイバーンが鋭い爪を振り上げてもその体勢を変えないのを見て――ヴァレリーは叫びながら駆け出し、斧槍を大きく振りかざした。
 ――一振で首が飛んだ。
 耳を劈くような断末魔が上がったのも一瞬で真っ赤な血が勢いよく噴きあがった。
 生暖かい液体がヴァレリーに降りかかる。両手で握っていた武器を片手に持ち替えて、服の袖で乱暴に拭った。
 ヴァレリーは武器から離した手を顔の前に広げてみるとブルブルと小刻みに震えているのがわかった。真っ赤に染った手のひらの恐怖なのか、全く別の焦りなのか、はたまた初めて感じた肉を断つ感覚を受け入れられずにいるのか。
「はじめてにしては、上出来だね。ヴァレリー」
「ジグルフ! 大丈夫なんですか?!」
 ハッとして急いでジグルフに駆け寄り彼の肩を掴む。あまりに勢いがあり過ぎて、しゃがみこんでいたジグルフはヴァレリーに押されるがままに地面に倒れた。
「いてっ」
「ジグルフ!」
 押し倒したことを謝る余裕などヴァレリーにはなかった。ヴァレリーが見た時、ジグルフは胸を押えて座り込んでいた。どこか怪我をしたのか。大丈夫なのか。焦りはひどく、言葉よりも行動が先に出た。
「鉄臭い」
 しかしそんなヴァレリーを気にした様子もなくジグルフは悪態づいた。それから目を細めてヴァレリーを見上げると、両腕をのばしヴァレリーの頬をそっと包む。
「赤が似合うね」
「……、……」
「いい斧槍だ。こんなに綺麗に染まるなら切られがいがある」
「……っ、こんなときまでふざけたこと言うな!」
 ヴァレリーが感情的に怒鳴りつけてきたのでジグルフもさすがに目を丸くする。
「どこか怪我したんですか」
「……、してないよ」
「嘘だ。隠してるんでしょう」
「ちょっ、……してないって……」
「見せなさい」
 ジグルフが抵抗する間もなくヴァレリーは彼の服をたくしあげた。
「……」
 日焼けしてない白い肌。外傷は、真新しいものは、特にない。その代わりいつ作ったものなのか、ところどころに古傷が目立った。
「傷だらけでびっくりした?」
「……、いえ。まあ、少しは」
「これでもよくなったほうなんだけどね」
「……」
 切り傷もあれど、打撲の痕の方が多くみられる。これは今回のような戦いでできたものなのだろうか。たとえジグルフであっても最初から魔法を自由自在に操れたわけではないだろうし……。ヴァレリーは胸の中でひとり思考した。ジグルフ本人に聞いても茶化すように話すだけで、この傷の本当の理由を教えてもらえないだろうから、ひとりで推測するしかなかった。
「もういい? お腹冷えちゃう」
「……。怪我じゃないなら、さっきはどうしてうずくまってたんです」
 一つ一つの傷痕をなぞりながらヴァレリーはジグルフに問いかけた。不意打ちだったのだろう。ふ、と息を漏らしたジグルフは小さく身動ぎをする。
「……君の町を焼くのに全力出したから、まだ本調子じゃないんだよね」
「……」
 ジグルフの弁明は理由を問い詰めたヴァレリーには聞こえていなかった。
 白い肌。古傷に紛れた治りかけの鬱血痕。脇腹にできたそれは比較的新しいものようだった。
 ヴァレリーはゆっくり肌に顔を寄せ、その痣に思い切り噛み付いた。
「い゛っ……」
 叫ぶことは堪えたけれどさすがに悲鳴があがった。
「いったいんだけど……。君さぁ、戦闘後に興奮するタイプ?」
「お前を殺すのは俺です」
「はぁ?」
 あまりに会話になっていないのでジトリとヴァレリーを睨みつける。が、ヴァレリーは怒っているというか、焦っているというか、ジグルフが今までに見たことがない表情をして目を据わらせているものだから、ジグルフはいつもの軽口を叩けなかった。
 ジグルフから仄めかしたことは多々あったが、ヴァレリーの方から明確に宣言されたのは、それこそ最初の出会いを除くと、これが初めてだ。別に、殺す気でいるならそれはそれでいいし、ジグルフも自分を殺すのは復讐に飲まれたヴァレリーだと思っているのだけれど。
「わかりましたね」
「……。うん」
 なんだかヴァレリーから感じるものが殺意とか憎悪とかとは全く違うもののような気がして、ジグルフは、訝しげに頷いたのだった。