ヴァレリーによる身体検査はあれ以来彼の日課となったようだった。最初のうちはジグルフが寝付いてからこっそり布団と服をたくしあげて見ているらしかったが、ランプの明かりでは十分に見えなかったのだろう。ある日からはジグルフがまだ起きているうちにちょっと見せなさいと有無を言わさず体に乗り上げてくるようになり、最近ではわざわざ服を脱がす必要がないからかジグルフが風呂上がりに体を拭いている途中に乗り込んできて、ジグルフを壁際に追い込んでじっと体の様子を見る始末だ。
今日も今日とてそうである。
トントンと風呂場の戸を叩かれた音を聞いて「どーぞ」と気だるげにジグルフは返事をした。
ジグルフ自身はヴァレリーの身体検査を鬱陶しく思いつつも拒否する理由はないので受け入れていたし、全裸体を見られたって羞恥心もなにもなかった。けれど勝手に風呂場に乗り込んできたヴァレリーがすっぽんぽんなジグルフを壁際に追い込んで身体の様子を見た挙句、下着ぐらいはつけなさいなんて注文をつけてきたので、若干不服さを覚えながらもパンツを履いてからジグルフは返事をするようにしている。
ちなみに風呂場に乗り込むようになった時からノックはあったのだがジグルフとしては着てようがいまいがどうでもよかったのですぐにどうぞと返事をしていた。返事を聞いて入ったはずが、何も着ていないジグルフにはヴァレリーのほうだって動揺したけれど、引くのは癪だったのかずんずんと近寄ってきたわけだ。多分、平然としているジグルフに対するヴァレリーの意地だったのだろう。
じーっと熱心に様子を見ているヴァレリーの後ろの方をジグルフは意味もなくぼんやりと眺める。
逃げないようにと保険をかけているのだと思う。ジグルフとしては逃げる気はさらさらなかったので、別に壁際まで追い込んで、いわゆる壁ドンというやつをしなくていいだろうと呆れている。もちろんこれだって初めの頃はからかったのだけれど、ジグルフの身体検査をするときのヴァレリーはいつものおどおどした調子はなくジグルフからすると殺気だっていて、少しからかおうものなら殴り合いの喧嘩に発展しそうな様子だったので、もういろいろと諦めて、好きにさせていた。
下着を軽くあげて前も後ろも、鼠径部や臀部なんかも念入りに調べられると、絶対全裸でいいだろうと思うのだけれどジグルフは我慢して黙っている。
ヴァレリーはいつも傷痕を指先でなぞる。
ジグルフは全裸を見られることに抵抗はなかったが、肌に触れられるのはくすぐったくていつまで経っても慣れなかった。
ヴァレリーの指先は、最後に彼自身がジグルフに噛みついた脇腹の痕を撫でる。その後は手も、接近して軽く覆いかぶさっていたヴァレリー自身もそっと離れるので、それが身体検査の終わりの合図だった。
「どっか気になるところあった?」
「……。いえ」
最後にジグルフがヴァレリーにこう聞くのもいつから始まったかは忘れたが近頃では毎回のことだった。
「……ないことはないです」
「?」
そして毎回ジグルフの問いかけにヴァレリーは「いいえ」と答えるのに今日は違った。
ないことはないです。なんて歯切れ悪い返事にジグルフは首を傾げる。ないことはない。つまりは気になることがあるということだ。
ヴァレリーは何やら口ごもっているので、気になることとやらをジグルフにどう尋ねるか考えているらしい。すぐには言葉が出てきそうにないなと察しジグルフは間を持たせることにした。
「服、着てもいい?」
「どうぞ」
許可も出たので着替えの服を羽織る。
「最初よりマシになってるけど、いくらなんでも再生不可能な部分もあるんだろうね」
「……」
「体も魔法も万能じゃないからなぁ」
「……。その怪我って、いつのものなんです?」
ヴァレリーに問われたジグルフは少しきょとんとした。
なんだ。何が気になっていたのかと思えばそんなことか。
「いつのもの、ねえ……。ずいぶん昔から治っては作ってって感じだから。どれがいつっていうのも難しいな」
「ずいぶん昔って。それこそいつなんです?」
「やけに俺のこと知りたがるんだね?」
ジグルフの言葉にヴァレリーがぎくりとした。あまり言われたくない言葉だったようだ。
そんなヴァレリーをやや呆れた顔で見て、一言、なぁに好きになっちゃったの? なんてからかってやろうと思ったのだけれど。
初めてモブハントに挑戦した日、こんなときまでふざけたことを言うなと怒鳴ったヴァレリーを思い出した。ジグルフとしてはいつだって「こんなとき」なんかじゃないのだけれど、ヴァレリーからすらとあの時と、今は、こんなとき――つまるところ、真剣な場面なのだろう。
機嫌を無駄に損ねそうだ。ジグルフはヴァレリーをからかうのはやめにした。
「別に減るものじゃないしね。長くなりそうだしこんなところじゃなくて部屋で話そう」
「……。そうですね」
先に浴室を出たヴァレリーを確認してジグルフは小さくため息する。ジグルフが話す気があるのを知ると、ヴァレリーはどこか不安げにしていた。興味はあるけれど知ることが怖いなんて面倒なやつだ。
ヴァレリーは先に椅子に腰かけていた。
ジグルフは小型の冷蔵庫から小さな瓶に入ったカフェオレと、大きな瓶に入ったミネラルウォーターとを取りだしてヴァレリーの方に向かう。
「ほい」
「あ。どうも」
ミネラルウォーターの方はヴァレリーに渡した。ヴァレリーは立ち上がって、グラスを持ってきた。
「……」
また腰かけて、水をグラスに注いだあとは、手持ち無沙汰だ。ヴァレリーはどことなく居心地悪そうに、ジグルフが話し出すのを待っている。
ジグルフはベッドのところでくぷくぷと寝息を立てて眠っているハリネズミを眺めた後に椅子にゆっくり腰かけた。
「何歳だったかは俺もちゃんと覚えてるわけじゃないんだけど。そうだなぁ。多分……5、6歳くらいかな」
「……そんな子どもの時から?」
「ん? うん。多分ね」
「俺がそのぐらいのときは、多少はやんちゃしたけど……そんな体に残るような怪我が残ること、普通しませんよ」
ぽつぽつと語るヴァレリーをジグルフは目を細めて見守る。ヴァレリーの言う幼少期のやんちゃとやらが気になるので聞いてみたかったが、そうすると今はジグルフのことを聞いているんですと怒られそうな気がしたのでまた今度聞くこととする。
「確かに。俺の怪我って、友だちと掴み合いの喧嘩をするとか、そういう可愛らしいものじゃないしね」
「友だちいたんです?」
「いないよ」
「……。なんかそうもサラッと断言されると、どういう反応をするべきなのか迷います」
「あはは。つい最近まで奴隷だったんだよね。俺」
「……はい?」
ヴァレリーが険しい表情をした。
ジグルフの方はいつものような態度で、重い発言とは裏腹飄々としている。
「からかってます?」
「いや? からかいたいなって肌まさぐられてるときから思ってるけどずーっと我慢してる」
「……」
からかうのをずっと我慢していたとは衝撃だ。それに、肌をまさぐるとはなんだその言い方はとヴァレリーは反論したくなったが、確かにジグルフからするとそうなるのかと思う部分もあったし、なによりここでジグルフのペースに乗ってしまうと、この話は有耶無耶になりそうだ。だからヴァレリーも、ここはぐっと堪えた。
「奴隷って」
ぽつりと呟いたがその先になんと続ければいいのかヴァレリーには分からなかった。
ジグルフはなんてないように言ったけれど、つい最近まで奴隷でした、なんて。聞いた方は言葉を失う他ない。
ジグルフはカフェオレを口にしてヴァレリーの言葉の続きを待っていたが、彼はなにやらかなり思い悩んでいるようだったので、自分から話を続けることにした。
「俺って偉大な魔術師じゃん?」
「まあ……」
「それに容姿もいいからさぁ。引く手あまたで困っちゃうね」
「…………」
「でも子どもの頃ってまだ塩梅がわからないからさ。一丁前に刃向かってたら引っぱたかれて吊るされ鞭打ちの刑ってわけだ」
「そんな……。そんなこと、なんで平気そうに語れるんです?」
「もう自由だからかなぁ」
「自由……」
「初めこそはなんで自分がこんな目にって恨めしくも思ってたけど、いつからか受け入れて、代わりに爪を研いで待ってたんだよね。いけるって確信したら首を掻っ切って殺しちゃった」
「……。それと、俺の故郷を破壊したのとは、何か関係があるんです?」
「うーん。そうだなぁ……ひょんなことからたどり着いた君の故郷でみんなが幸せそうにしているのを見たら、俺ばっかりが酷い目に遭ってきたのが憎くて憎くて、こんなものがあってはならないんだって許せなくなっちゃった。って感じ?」
「じゃあ、どこでもよかったんですか」
ヴァレリーの怒気を孕んだ声を聞き、ジグルフは一度口を噤む。ただそれはヴァレリーの怒りを感じて怖気づいたとかではなくヴァレリーの問に対してどう答えるか迷ったからだ。
それにしても、いつの間にか傷痕の話から故郷の話にすり替えられてしまった。ジグルフはついふっと息を漏らして笑う。
「どこでもはよくなかったよ」
「……」
「あの町が俺にとって気に食わなかったからだ」
「そんな理由、やっぱりどこでもよかったんじゃないですか」
ヴァレリーは憤りが隠しきれないようで、拳を握ってテーブルを打った。ドン、と衝撃が走り、テーブルに乗せていたグラスが揺れる。
「俺が何を言っても君は俺の行動を許せないんだよ。この話は実に不毛だ」
ジグルフはわざとらしく大きなため息をした。
「無駄な話し合いなんかしてないで、ヴァレリーを憎しみに縛り付ける俺を殺して君はどこにでもいくといい。俺が、俺を道具みたいに扱う大人を殺して自由になったように」
ジグルフは深く息をついた。今度のは、ヴァレリーに対する呆れからきたため息ではない。
少し、胸が苦しくなってきたのだ。
話をしていて気分が悪くなったとか、ヴァレリーからのプレッシャーに参ってしまったとか。そういうのではなくて、以前ワイバーンの前で膝を着いてしまったのと同じ理由。単純に体の調子が良くない。
ジグルフは席を立った。
当然ヴァレリーの方は、ちょっと、とどすの利いた声を出し、まだ話は終わっていないと言わんばかりの表情だ。
ジグルフは立ち止まってヴァレリーを見下ろすと、ゆっくり瞬きをして発言の続きを促す。
「……。俺はお前とは違います。お前みたいに理性を失った動物じゃない」
「……なるほど。だから俺のことを知って、俺と話し合って、どうにか折り合いをつけようとしてるんだ」
「……」
「実るといいね。その理性的な努力が」
今度こそジグルフはヴァレリーに背を向けた。
ベッドのど真ん中を陣取って寝ているハリネズミをそっと持ち上げて枕元の隅に寄せる。きゅぷ、と不思議な鳴き声を上げたが起きる気配はなさそうだった。
「ちょっと」
「ごめんけど、また今度にして」
「は?」
そう言い残した後はもう発言する気力もない。ジグルフはグッと胸を押えながらベッドに倒れ込む。気が遠くなる。このまま気を失うと気持ちよく眠れそうだ。
「ちょっと!」ともう一度同じ掛け声が、さっきよりも上擦った調子で聞こえたような気がするが、定かではない。