夕暮れ。ヴァレリーはジグルフを件の酒場に誘ってみたが、急に体調が悪くなったら迷惑をかけてしまうからもう少し調子が良くなったら行きたいなと、今回は遠慮された。
 確かに体調はまちまちだもんな。と、ヴァレリーも納得した。お前も他人の迷惑を考えることもあるんですねとヴァレリーが呟くと、ジグルフは不意をつかれたようにきょとんとし、君も言うようになったねとげらげらと笑っていた。
 今は室内で思い思いに過ごしていたところだ。
 今日はジグルフが風呂を終えて部屋に戻ってきてからヴァレリーの気が向いたので、ジグルフがベッドであぐらをかいて本を読んでいたところにヴァレリーは向かっていった。
 ベッドが軋みヴァレリーの体重で軽く沈む。ジグルフは本を閉じるとちらりとヴァレリーをみて「診察ですか? ヴァレリーせんせ」と愉快そうに口角をあげた。
「脱いでください」
「強引だなぁ。もう」
 ジグルフはやはり可笑しそうに笑って言われた通りに上着を脱いだ。
「ジグルフの急な体調不良って何なんです?」
「風船にさ、空気を入れすぎると割れちゃうじゃん?」
「はい? そうですね……?」
「魔力についていかないんだ。体が」
 ヴァレリーが覆いかぶさってくるので素直に背中をベッドに預ける。前をゆっくり確認してもらったあとはころんと回って背中を見せる。
「力だけが莫大で、器に見合ってないんだよ」
「……。それっていつか死ぬんですか?」
「死ぬだろうね。風船だもん」
「……もういいですよ。前向いて」
「そう?」
 ジグルフは身を捩ってまた上向きに寝た。ヴァレリーもジグルフの顔の横に置いていた手をのけて、ちょんとジグルフの腰に座る。
「なにそれ。騎乗位じゃん」
「……」
 思ったままに言うとヴァレリーにギロリと睨まれた。普段だったら動揺するくせに、ジグルフのボディチェックをしているときのヴァレリーは気が強い。
「怒った?」
「それって、俺が女役ですよね」
「そりゃあ俺の上に乗ってるからね」
「……」
 ヴァレリーはますます機嫌を悪くした。ヴァレリーとしては体調不良の理由を明かしたジグルフの唐突な余命宣言を問い詰めたかったのに、いつも通りジグルフの調子に乗せられてしまって、そんな空気じゃなくなってしまった。
 そんなに嫌ならどけばいいのに。ジグルフはちょっぴり呆れながら「言ってみただけだって。怒んないでよ。ごめんね」とヴァレリーの頬を撫でる。
「ヴァレリーって俺の体の何を見てるの? 傷が治ってるかどうか?」
「それもありますけど。どっちかというと、新しい痕ができてないか見てます」
「なにそれ。浮気チェック?」
「……」
「心配しなくても俺にはヴァレリーしかいないよ」
 もちろん、ジグルフが言うのは恋人的な話ではなく自分の生殺与奪の権を握っているのはヴァレリーだけだという話だ。
「そろそろどいて。水が飲みたい」
 ぐ、と腕の力と腹筋を使ってジグルフが体を半分起こした。
「っ?」
「ムカつきます、そういうの」
 ジグルフが体を起こし切ることはなかった。ヴァレリーがジグルフの肩を掴んでベッドに押し倒したからだ。
 ヴァレリーの目はすっかり据わっている。
 これは参ったなあとジグルフは胸の中で呟いた。ヴァレリーは、ただでさえ怪力なのだ。魔法を使って反抗すれば勝つことは造作もないが、ジグルフ自身の力で押し返そうとするのは無謀である。
「ごめん」
 ジグルフは珍しく謝った。謝っておけばちょっとは力を弛めてくれると思ったからだ。けれど、あては外れた。
 ヴァレリーは無言だ。むかつく。内心何度もこう呟いていた。ジグルフの謝罪も胸には響かない。なぜなら、ヴァレリーは、ジグルフに苛立っているわけではなかったからだ。
 ジグルフにむかついているわけではないのなら、一体何に腹が立っているのかというと、それはもう言うまでもなく自分自身に対してだった。
 時折とても不安になる。自分と一緒にいるはずのジグルフが知らないところで傷を作っているんじゃないかと。だから体を見て確認していた。ジグルフから、冗談交じりに浮気を疑ってるの? といった旨のことを言われた。違う。そもそも恋人でもないのに浮気も何も無いだろう。そう言い返すことは簡単だったのに、ヴァレリーは言い返せなかった。そんなつもりはなかったのに、ジグルフの言葉を聞いてから、ジグルフに誰かの影がないか探している自分がいたことに気がついてしまったからだ。
 ジグルフの体に残る鬱血痕に、殴打の痕とはまた違うものがあるのを、自分はどうして気にしているのだろう。なんで、その鬱血痕が増えていないのか、不安に思うのだろう。
 ジグルフはヴァレリーから目をそらさずにいる。綺麗な灰白色の左目はヴァレリーの心を見透かしているようだった。
「お前は俺のなんなんです……」
 ヴァレリーは絞り出すように呟いた。
「……。俺がみんなと一緒に君を殺してあげられてたら、ヴァレリーはそんなにつらい思いはしなかったのにね」
 ジグルフはゆっくり目を伏せる。
 ジグルフから戻ってきた言葉はヴァレリーの問の答えにはなっていなかった。
 ジグルフの手首を握るヴァレリーの手に力が篭もる。殺すとか、殺されるだとか。多分、そういう単純な話じゃないのだ。この感情は。
 ヴァレリーにあるのはジグルフが故郷を破壊し大切な人たちを奪ったという事実だけのはずなのに。ほんの数週間この男と過しただけでそこまでの情が湧いてしまったとでも言うのだろうか。いつか死ぬ? 魔力に体がついていかないから。ふざけるのも大概にして欲しい。
 憎いのに失うのが怖い。殺したいのに生きていてほしい。自分の気持ちが矛盾している。だから苦しい。
「……っ、痛い、……」
 悲痛な声がした。ヴァレリーの知らないうちにジグルフの手を拘束する力は随分と強くなっていて、僅かながらに骨の軋む音もしていた。
 いつものヴァレリーならすぐに手を離してやっただろうが、今はそうしなかった。常に余裕綽々としている男が痛いと弱音を吐いている。自分の下でほんの少しだけ、表情を歪めている。
 ――愉快だ。もっとその顔を歪めればいい。
 ヴァレリーは拘束を解くことはせず、ジグルフの首筋に顔を寄せて、牙を立て、思い切り噛み付いた。
「いっ! ほんと、痛いって……っ!」
「……」
 更に強く噛む。
 ぷつりと皮膚を破る感触がして、すぐに鉄の味がした。
「い゛っ、う、ぐっ……〜〜っ……」
 ジグルフが痛みに呻いている声を聞くと、ヴァレリーはなんだがうそ寒い胸が暖かく満たされていくのを感じた。
 ぷくりと浮かんでくる血を舐めとる。それでもまた赤いそれは浮かんでくるので、傷のまわりごと強く吸ってやると、出血の勢いは弱まり止血されたのか、そのうち出てこなくなった。
 その間もジグルフは小さく呻いていた。
 ヴァレリーはゆっくり顔を上げた。
「なんなの、お前……」
 痛みからだろう。ジグルフは目にうっすら涙を浮かべ恨めしげにヴァレリーを睨んでいる。
「痛かったです?」
「痛いって言っただろ。一丁前に牙なんか持ってて、これだからムーンキーパーは嫌いなんだ……」
 突然の種族批判である。らしくもなく感情的になっているジグルフをみたヴァレリーは、ふっと息を吹き出して笑った。
「その程度の痛みで泣いてたら、お前、俺に殺されるとき泣きわめくんじゃないですか?」
「そりゃそうだよ。誰も静かに死ぬなんていってないだろ」
「……」
「ヴァレリーが俺を殺してくれるときには、ヴァレリーが嫌になるぐらい絶叫してあげるよ」
 ヴァレリーの絶対優位かと思っていたが、ジグルフはやはり一筋縄ではいかないのだ。
「これ、絶対しばらく痕が残るって。まだ痛いし……」
「……。水飲みますか?」
「飲む。持ってきて」
 むっすりとしたジグルフから退いて、ヴァレリーは冷蔵庫の方に向かった。眉を顰めあからさまに機嫌を悪くしているジグルフの姿を見られて、なんだか胸がスッとした。正確に言うと――首に自分が残した痕がくっきりついているのを見て、なのだけれど。ヴァレリーには自覚がない。
 ――死ぬのが怖い。
 ――殺さないで。
 ジグルフがヴァレリーにそう縋ってくれたら、ヴァレリーは自分の中の矛盾を正当化できるのに。