その日は大雨だった。遠くで雷も鳴っていていつもは賑わっている街も今日ばかりは幾分静かであった。ジグルフはこういう悪天候は好きだった。うるさい人の声は雨が地面を打ち付ける音で搔き消されて、人々はどこか気だるげでやる気がない。燦燦と晴れた日なんかは身を隠すのも一苦労するがこういう視界の悪い日は雨に紛れて姿を隠すのも簡単だ。だからこういうどしゃぶりの雨の日が大好きだ。
通りの裏の軒下に体育座りしてジグルフは体を揺らす。
外の世界に出るととても賑やかだった。輪郭のぼやけた妖精がくるくると踊り形のない生き物がくすくすと笑い声をあげる。ジグルフはその姿をじっと眺めるだけで、一緒に遊んだことなんかないが、それを自分の友だちだと思っていた。
小さな両手を軒下からまっすぐに伸ばす。雨は強く降り注いでいるのでジグルフの手は一瞬で濡れてしまった。
「君。なにしてるんです?」
「!」
びくりと体を揺らしてジグルフは手を引っ込めた。妖精たちの鈴のような声なんかじゃないそれはジグルフの嫌いな人間の声だ。声のした方向を恐る恐る見ると、自分よりは背丈が高いが大人よりは小さな人が不格好にも大きな傘をさしてジグルフの方を向いていた。
「……」
大人じゃなかったことにはひとまず安心した。
無視していたら諦めていなくなるだろうか。ジグルフはぐるぐると思考する。最初に振り返ったりしなければ向こうの興味も薄れやすかっただろうに、残念なことに視線が絡み合っている。
「おーい?」
「……」
通りの方にいる子どもが傘の下で大きく手を振った。ますますどうするべきか迷う。無視しているのだから、諦めてさっさといなくなってほしいのに。
「迷子です? 送ってあげましょうか?」
「……!」
最悪なことにその子はジグルフの方へと歩いてきた。ジグルフはピンと耳と尻尾を立てて、跳ねるように立ち上がると、両の手のひらをヴァレリーの方へ向けて小さな声でスペルを唱えた。
ざぱんと水しぶき。
「わあっ!?」
ヴァレリーの前にサッカーボールぐらいの大きさの、青い生物が現れた。
頭にはまあるい熊耳をはやし、くりくりとした瞳をしていて、短い手には小さな杖を持ち、足はないけれどかわりにふよふよと浮いていて雫を逆さまにしたような形をしている。
「えっ? えっ、なに……?」
くるんと回るそいつは何やら雨を喜んでいるようで、ヴァレリーに危害を与える様子は一切なかった。
「ちょっと! 待って、君!」
「!」
ヴァレリーがそいつ――ジグルフが呼んだ水の精霊、ノッケンに気をとられている間に逃げてしまおうとしたのだけれど目ざとくも見つかってしまった。ジグルフの行く先は行き止まりなので、大きなごみ箱の裏に身を隠してやり過ごそうと思ったのだが、向かう様子を呼び止められてはどうしようもない。
「この子、魔法ですよね? 君が呼んだんですか?」
「……」
「すごいです!」
ジグルフはきょとんとした。魔法を見て目を輝かせる人なんて初めてだった。
「ねえ、この子、何ができるんです?」
「……、ウォタガがつかえる」
「ウォ、ウォタガ?」
「今日は大雨だから、フラッドになるとおもうけど」
「フラッド……?」
ヴァレリーは始終首をかしげている。
「魔法を知らないの?」
「えっと……、えへへ。わかんないんです。習うところもないから……」
恥ずかしそうに頬をかいているヴァレリーをじっと見つめていたジグルフだったが、その言葉に一切嘘がないことを認めた。今度はジグルフの方から距離を詰める。ぱしゃんぱしゃんと水たまりを踏んで、ついにヴァレリーの目の前まで来た。
赤と灰が交じり合う。少し距離が離れているときからもそうだったが、近くで見ても、やはりこの子はヴァレリーが見かけたことのない子であった。
「……傘、いれてあげましょうか?」
「いらない。自分で作れる」
「えっ」
「それにまだ帰らない」
ツンとした態度だ。
「お兄ちゃん。おれが魔法を教えてあげるから、お兄ちゃんはおれに動物のことを教えてよ」
「ええ?」
「……」
ジグルフはむすっとした。ヴァレリーの態度を提案にのってくれないものだととったようだ。ぷいと背を向けてまた通りの裏に引っ込んでいったジグルフは、さっきと同じ場所にちょんと腰を下ろす。水を楽しそうに浴びているノッケンも、くるりくるりと回ってヴァレリーから離れていった。
せっかちな子だと、ヴァレリーは思った。ジグルフが一方的だからヴァレリーは理解が追いついていなかっただけで、教えないなんて言っていないじゃないか。
ヴァレリーは小さくため息をついて裏道に入る。軒下で傘を閉じ、つまらなそうに体育座りしているジグルフの横に同じようにちょんと座った。
「犬って知ってますか?」
「知らない」
「えっ! い、犬を知らないんですか? わんわんって鳴く、モフモフの子ですよ?」
「……」
「別にモフモフじゃないのもいますけど……」
「お兄ちゃんだってウォタガもフラッドもしらないくせに。水属性の基本的な魔法だよ」
「……」
「知らないから教えてって言ったの。知らないと想像もできないから作れやしない」
まさにむっすりだ。発言はともかく、頬を膨らませて膝に顎をのせている姿は今までで一番年相応に見えた。
「……犬っていうのは、四つ足歩行の動物です」
「うん」
「肉球っていう、ぷにぷにしたのが足の裏にあって……ふかふかした尻尾も生えてるんです。ペットとして飼う人が多い、親しみやすい子で……」
ヴァレリーの説明を、ジグルフは興味深そうに聞いている。
ざあざあと降っている雨は未だ降り止む気配がない。
次の日は、その子はいなかった。
次の日、また次の日と裏道を覗いてみたけれど、ヴァレリーの期待を裏切ってそこには誰もいなかった。友だちや大人に「魔法使いの子を知っていますか? 黒髪で、淡い灰色の目をしている、サンシーカーの男の子です」と聞いてみれば見つけるのは簡単になるのかもしれないが、ヴァレリーは何となく、あの子のことは自分だけの秘密にしておきたかったので、誰にも聞かなかった。
それから何日経ったのか。午前中のうちはからからに晴れ上がっていたのに、夕方になるとバケツをひっくり返したかのような土砂降りになった。連日の晴れも相俟って、想像できないぐらいの大雨だった。
ヴァレリーは親戚の家での手伝いを終えて、のんびりと帰っていたのに、急に雨が降ってきて慌てて走っていた。傘なんて、持ってきていない。
こっちの方が近道だ。大通りからさっと細い道に入る。軒下を選んで走っていく。ふと、通りの裏に興味が向いた。
「あ!」
思わずヴァレリーは大きな声を出した。それが聞こえたのだろう。軒下で体育座りをしていた子どもはヴァレリーの方をゆっくり振り向いた。
明るい灰白色。つまらなそうな瞳。
靴が濡れるのも気にせずに、水たまりを踏んで、ヴァレリーはその子の方に走り出す。
「お兄ちゃん」
自分を見下ろす緋色の瞳にジグルフはまぶしそうに目を細めた。
「ずっといないから、探してましたよ!」
「晴れの日は出てこれないから」
「? とにかく……写真、持ってきたんです!」
ヴァレリーはジグルフの横に座ると、濡れてしまった肩掛けから手帳を取り出した。一番後ろのページを開いてはさんでおいた数枚の写真を取り出す。
「じゃん! 動物の写真です!」
「!」
「言葉でいうだけじゃなくて、写真があった方がわかりやすいでしょう? いろいろ用意しておいたんです」
犬、猫、鳥……。軽く数枚めくってヴァレリーはその写真をジグルフに渡す。
「……、ありがとう」
ジグルフは嬉しそうに頬を緩め、大事そうに写真を胸に寄せた。
「これ、かわいい」
「うん? ハリネズミですね。背中の毛は針なんですよ。自分を守るときなんかに逆立って、トゲみたいに固くなるんです」
「ふぅん……」
「……。図書館でちょっと調べて、勉強しておいたんです」
「……うん。ありがとう」
もう一度お礼を言われ、ヴァレリーはくすぐったそうに笑った。
「君は、どうやって魔法を学んだんですか? 町に魔法学校なんてないですよね?」
「話してるのを聞いてたら、なんとなくわかった」
「話しているのを?」
「妖精だよ。その辺を飛んでる。……そことか」
ジグルフが指さす方向をヴァレリーも見てみたが特に何もいない。
「……うーん? 俺には見えないです」
「そっか」
「いいなあ。俺も見てみたい」
「……。手、かして」
「うん? どうぞ」
ヴァレリーが右手を差し出すと、ジグルフはそれを両手で包み込んでゆっくりと目を閉じた。
ふわりと体が浮くような感覚がしたけれど実際に浮いてなんかはいない。ヴァレリーはほんのりと温かい右手とジグルフの様子をじっと見ていたが、不意に頬のあたりを何かがかすった気がして視線を弾いた。
「わ……!」
ゆらゆら。輪郭のぼやけた光のような何かが、ヴァレリーの前を通り過ぎていく。びっくりしながらそれを目で追っていると、今度はその反対でひそひそ声がして、ヴァレリーは慌ててそちらを向いた。
――今日は雨ね。
――明日は晴れるよ。
くすくす。声は笑いあっている。
羽をはやした人型の影。淡く光って楽しそうに踊っている。
――この町に魔法使いはいないのね。
――そこにいるじゃない。
――あら本当。珍しい。小さな魔法使いさん。
――でも可哀そうね。この町では、魔法は嫌われているのよ。
――まあ! こんなにも素敵なのに。
妖精たちはひらひらと羽を揺らして雨の中で水遊びをする。彼らがぱちんと指を鳴らすと小さな小さな虹ができた。
ヴァレリーはぱちくりと瞬きをした。あれも魔法なのだろうか。
「すごい……」
「お兄ちゃん」
「は、はい」
「誰にも内緒だよ。妖精を見ました、声を聞きました、なんていった日には頭がおかしいって言われちゃうから」
「……。でも、一応この町にも、治癒魔法はありますよ? それなら妖精たちだって、見える人はほかにもいるだろうし……」
「治癒魔法しかないことがいびつなんだ」
「え?」
ジグルフはヴァレリーから手を離した。
ヴァレリーの視界から妖精の姿がすっと消え、聞こえてくるのも雨の音だけになる。
「……。お兄ちゃんはウォタガもフラッドも知らない方がいい」
「そんな! 魔法を教えてくれるって約束したじゃあないですか!」
「教えないなんて言ってないよ」
「!」
「考えてた。何を教えてあげればいいんだろうって。魔力の薄いお兄ちゃんでも使えて、この町で忌み嫌われない魔法って。別に魔力の薄さは補えるんだけど……この町じゃ受け入れられる魔法がろくにないから、難しかった」
「……?」
「治癒魔法は、町で適当に習えばいい。使えなくたってこの町じゃそんなに困らないし」
きょとんとしているヴァレリーと距離を詰め、ジグルフはヴァレリーの胸に手を当てる。
「詠唱ができなくたって構わない。わからなくても大丈夫。おれがお兄ちゃんに教えるのは、おれが生きている限り、あなたを守る魔法だ」
雨の日でも、その子はそこにいなかった。
また別の雨の日にも様子を見に行ったが、ひと月、ふた月、ついには年を跨いでしまって、ヴァレリーもあの子を探すことがなくなった。あの子がどんな子だったか、そもそもたった2回出会ったあの子なんてものは、ヴァレリーの賑やかな日常に突如現れたイレギュラーだったのだから、日常に戻ったヴァレリーは何年も月日が経つうちにもうその日の記憶もすっかり忘れてしまった。
背が随分と伸びがたいもかなりよくなった。ヴァレリーは町では一番の力自慢だと大人にも尊敬されている。今日は大きな瓦礫をひょいと担いで運んで見せた。昨日の嵐のせいか、町の入り口の大門が崩れてしまったらしかった。
「きっとあれじゃあ、修理の時も手伝わないといけませんね」
ヴァレリーは呟いて、頼まれていた買い出しがすんだことを確認すると、ゆっくり家路につく。今日はシチューだ。仕事で忙しい母親が、いつもヴァレリーに任せっぱなしだからと、珍しく作ってくれるのだ。
――帰ってきたのね。おかえりなさい。
――ずいぶん背が高くなったね。
――あらあら。じゃあみんなに伝えましょう。わたしたちはすぐにお暇するわ。
ヴァレリーは驚いて足を止めた。
街はガヤガヤと賑やかで、露店に客を呼び込む店主、楽しそうに談笑する夫婦、走り回る子どもたちがいて、――いつもと変わらない。
聞き間違いだったのだろうか。いやしかし、それにしてはどうも声がはっきりとしていた。ヴァレリーはその場でじっと耳を澄ます。鈴を鳴らすような話し声は、確かに聞こえたはずだったが、そのあとどれだけ待ってみても、二度と聞こえることはなかった。