目を覚ましたジグルフは重たい体をのそりと起こして部屋の様子を見渡した。隣の布団はきれいに畳まれていて無人。浴室やトイレの方からも人気はないし、宿の貸し部屋なんて大して広くないのでわざわざ室内を歩き回って探す必要はなかった。
やっぱりだ。絶対逃げると思っていた。
「クソチキンが……」
ベッドサイドに申し訳なさそうに置いてあるカフェオレを手に取った。こんな気遣いを置いていくぐらいなら自分が起きるまで罪悪感に押しつぶされながら待って、目があった瞬間に潔く土下座でもしやがれってんだ。
ジグルフのどすの利いた声は誰に届くわけでもなく部屋の壁に吸われていった。
今朝出頭した。「強姦しました」と涙ぐみながら自首したヴァレリーを怪訝な様子で警官は眺め「なんだって? いつ、どこで、誰を?」と問いかける。
「うう……昨日、というか……深夜ごろ、借りてる宿で、連れを……」
「はあ。で、お相手はどこに?」
「宿で寝てます……」
「はあ……お兄さんあのね。警察も暇じゃないの。置いていかれた相手が可哀そうだろう。とっとと宿に帰りなさい」
「そ、そんな……! 強姦ですよ! とんでもない、合わせる顔がないです……!」
「はいはい。お相手の好きな食べ物でも買って帰って、地面に頭をこすって謝ってきなさいな」
「ま、待って……!」
ヴァレリーは署の外につまみ出された。閉まってしまった扉の前でおいおいと涙するが警官は相手をしてくれなかった。そりゃそうである。彼らは町の安全保護に忙しい。朝っぱらから痴話喧嘩など相手にしてられないのだ。
とぼとぼとヴァレリーは歩き出した。宿になんか戻れない。さっきも言ったがジグルフと合わせる顔がない。
「キュー?」
「うう。ハリネズミちゃん……」
なぜかハリネズミはヴァレリーについてきた。この様子から夜中のことはきっと知らないのだろうが、今はこの、肩にちょんとのって体を揺する愛らしい小動物すらヴァレリーの胸を突き刺していた。
ヴァレリーは酷く後悔していた。
広場にあるベンチに座って項垂れている姿には、早朝の散歩をする人や働きに出る人が気づいては不思議そうに首をかしげていた。
「最低です。俺……」
「キュ、キュー?」
ヴァレリーの肩にいるのが飽きたのか、ハリネズミはふよふよと浮遊して噴水の方へ遊びにいった。水たまりの浅いところで水浴びをしている。ヴァレリーはそれを止める気力がなかった。というか、今は人のことどころではない。
ジグルフのことを理性のない動物と罵っておきながら、まさか自分の方が衝動で動いてしまうなんて。愚かすぎる。本当に顔向けできない。
「はあ……」
しかも本能で動いたあとに自分の本心に気づいたなんて。
初めて見た時から綺麗な人だなとは思っていた。でもヴァレリーは特別同性を好むというわけではないし、今までちょっといいなと思うのは異性であったし、相手は人殺しだったし、そういうのじゃないだろうと無意識の恋心を無意識に否定し続けていたのだ。
好きな相手となれば殺せないのも頷ける。いちいち生を諦めていつ死んでもいいと笑っているのが気に食わないのも納得できる。
多分、一目惚れだ。多分というか、一目惚れだ。
ヴァレリーは頭を抱えて一人唸る。
ジグルフが好きだ。それはまだいい。衝撃的な気付きだったがその気持ちは素直に胸にすとんと落ちた。
しかし。
好きな人を強姦してしまった。剰えそのとき、いうなら無理やりされているときのジグルフの様子が、正直、可愛いと思ってしまった。
死罪だ。
切腹。
「ああーーっ」
「キュ!?」
ヴァレリーの奇声には楽しそうに水浴びしていたハリネズミもさすがに驚いた。ふるふると水を切って慌てたようにふわふわとヴァレリーの元に戻ってくる。
「キュ? キュー?」
「ハリネズミちゃん……。君が元気ってことはジグルフは大丈夫ですね……」
「キュー?」
ハリネズミも事情を知っていればさすがに顔を顰めて、使い魔で術者の安否確認をするぐらいなら本人の傍にいて土下座の一つや二つやってこいと、ヴァレリーの尻を蹴り上げただろう。しかしこのハリネズミ、何も知らない。ヴァレリーの膝の上にちょんと乗り、きゅぷきゅぷと陽気に歌っている。
そんな平和な姿を眺め、ヴァレリーは今度はベンチに凭れ掛かり大きく息をつく。
「多分、最初から憎くなかったんです……。家族や日常を奪われた怒りよりも、きっと」
怒りよりも、きっと――会えた喜びの方が大きかった。
「見つけた!」
「!?」
ヴァレリーはびっくりして跳ね上がったが、その高い大声はヴァレリーに向けられたものではなかった。広場の入り口付近。植木の影に隠れるように座っていた子を、声を出した方の子がニコニコと見下ろしている。
「探したんだよ! 剣の稽古、早くいこう!」
「ちぇー。見つかっちゃったかぁ」
「……」
座っていた子は立ち上がって、ニコニコ笑っている子と肩を並べる。剣の稽古と言っていたので剣術士ギルドの方に通っている子たちなのだろう。元気よくかけていく二人の姿は次第に見えなくなった。
ヴァレリーはその光景を見ているとなんだか懐かしい気持ちになった。ずっと昔、自分も誰かを探していた気がする。友だちとたくさんかくれんぼだってしたが、それとはまた違う、誰かと。
「……はあ」
ヴァレリーは深くため息をする。いつまでもこんなところで懺悔していたって意味がないから、やはり宿に戻ってジグルフと顔を合わせるべきなのだ。そうだ。その場の空気を少しでも和らげるために何かジグルフの好きな食べ物を買っていこう。それがいい。警官もそうしなさいと言っていた。
ジグルフの好きなもの。
ポテトチップス。なんとお得なことに一袋200ギルとせずに買える。
……。
「そんな安物もっていく男やばすぎるでしょ……」
ヴァレリーは一人真っ青になった。10袋買えば2000ギルとかそういう話ではない。謝罪の席にポテトチップス。ジグルフも多少ずれているところがあるしポテチは最近お気に入りのようなので食べるだろうが、謝罪の場にはあまりにも不釣り合いだ。
ジグルフの好きなもの。
ヴァレリーは頭を悩ませた。こうやって考えれば考えるほど、自分はジグルフのことを大して知らないのだと痛感した。
「……」
こうやって一人でうじうじ悩んでいる自分を見たらジグルフは何というのだろう。思えばジグルフは、ヴァレリーが悩んでいると、まさに自分の言葉こそ正解であるといわんばかりの自信をもって意見していた。ヴァレリーはジグルフの意見に全面的な賛成であることばかりではなかったが、ジグルフに意見されると、気持ちはまとまっていたように思う。
だんだんと人通りは多くなってきた。お店も開き始めているだろう。
ヴァレリーはゆっくり立ち上がった。
何か、彼が好きそうなものを買っていこう。きっと彼は自分が買ってきたものを好んでくれるから。
部屋の前でハリネズミは何かを察したようにふわりとヴァレリーの肩から離れ、すぅとその姿を消した。さすがにヴァレリーは驚いたのだが、キュッキュッと楽しそうな声がちょっと離れたところから聞こえてきて、存在があることにはひとまず安堵した。しかしここにきてまさかのステルス機能である。やはり高性能ハリネズミだ。
宿に戻ったヴァレリーは、こっそりと戸を開けた。ジグルフはまだ寝ているかもしれないと思ったがその反対で彼は起きていた。テーブルのところの椅子に腰かけて、しかもヴァレリーの帰宅に気づいていて「やあ」と明らかに殺気立っている様子で笑いかけてきた。
ヴァレリーはひゅっと息をのみこんだ。
「一人反省会は終わった?」
しかも夜中の記憶はしっかりある。
もちろんヴァレリーは謝るつもりで戻ってきたのだからそれは構わないのだが、圧がすごい。ジグルフの圧が。
「帰ってきてえらいね。戻ってこない粗チン野郎だったらどうしようかと思ってたよ」
「うっ。えっと、ちょっと待ってください。やっぱり心の準備が……出直します……」
ドアノブに手をかけた。
回らない。回らない……?
「かけなよヴァレリー」
「ひょ……」
思わず変な声が出た。
「話し合おうか」
机に頬杖をついてジグルフは変わらずニコニコしている。しかしヴァレリーにもしっかり見え始めた。この部屋は何か異様な結界のようなもので囲まれている。
「えっ、えっ……なにこれ……」
「魔法だよ。ヴァレリーの大好きな」
「ちょっと待って……怖すぎ……これ封印の類じゃないんですか……?」
「こうでもしないとすぐ逃げるでしょ」
「に、逃げ……くっ……」
逃げませんと言いたかったがついさっきドアノブに手をかけた手前言えなかった。しかもそれでヴァレリーの逃走を阻止しているのだからすでにこの結界、ジグルフの言った通り、仕事を一度果たしているではないか。
ヴァレリーは縮こまりながらジグルフの方に行き、椅子に座る前に、手に持っていた紙の小箱をジグルフへと差し出した。
「こ、これ……」
「なに」
「! これ、お土産です……」
ヴァレリーはおずおずと小箱を開く。
「ケーキです。ショートケーキ……」
「……」
箱の中には大ぶりのイチゴが乗ったケーキが一つだけある。
「なにこれ。おいしいの?」
「甘くて、おいしい……と思います。俺は好きです」
「ふーん。1個しかないじゃん」
「もちろん、俺のじゃないですよっ。お土産なんですから……それはジグルフのです」
「そうじゃなくて」
「え? あっ……もっと食べたかったとかですか!? すみません、気が利かなくて……」
「だからね。そうじゃなくてさ」
ジグルフは大きなため息をした。
「ちゃんと2個買ってきて。一緒に食べられないじゃん」
「え……あ、っと……一緒に……」
衝撃だ。一緒に食べたかったのか。一緒に……。
「ほら。買ってきてよ」
「えっ!? 今から!?」
ヴァレリーは二度ショックを受けた。
このショートケーキを買った店、宿からどれぐらい離れていただろうか。うんうん悩みながら町を歩き回っているときに偶然見かけて入ったお店だったので、結構歩いていた気がするし、どのあたりであったか、記憶があまり……。
「えっ……はい……急いで行ってきます……」
ヴァレリーはよろよろと体を動かした。
ジグルフに謝るためそれなりに覚悟と体力をもってこの場に挑んだはずだが、もう半分は魂が抜けていってしまっていた。
「嘘だよばーか」
よろめくヴァレリーの腕をジグルフがつかんだ。
「半分こしよヴァレリー」
ジグルフは楽しそうに笑って席を立った。
嘘。
ばか。
半分こ。
ヴァレリー。
単語だけがヴァレリーの頭に入ってくる。文章としてつながっていない。完全に思考は停止していて理解が追いついていなかった。ヴァレリーは茫然とその場にたたずむ。部屋の結界とやらは解かれているらしかった。
「昨日おいしそうな紅茶ってやつを買ってみたんだよね。ケーキとやらに合いそうだから飲んでみよう」
「……」
「ヴァレリー。この紅茶ってどうやって飲むの」
「えっ……あ、俺が淹れましょうか?」
ヴァレリーは弾かれたようにジグルフを向いた。ついでに半分こしろと言われたケーキも持ってジグルフのいる狭い簡易キッチンの方に向かう。ジグルフはティーパックを摘まんで袋の裏側を読んでいたが、ヴァレリーが来たのを見ると、「あげる」とそれを押し付けた。
「俺、座って待っとく」
「あ、はい。準備して持っていきますね」
「うん」
こういうところもさっぱりしている。人に仕事を押し付けたという罪悪感のなさ。いつも責任感に追われているヴァレリーとしては、多少はジグルフを見習っていきたいかもしれない。
部屋にやかんはなかったので鍋に水を入れて火にかける。
戻ったヴァレリーを見た時こそすさまじい圧を感じはしたが、案外、ジグルフはいつも通りにヴァレリーに接してきている。ものすごく気にしていたのは自分だけなのだろうか。ヴァレリーは悶々とする。もちろん罪悪感が消えたわけではないし謝るつもりでいるのだけれど、なんだろうか、なんというか、その、ジグルフとの温度差というか。
「ねえ」
「ひゃいっ!?」
いきなり声がかかってヴァレリーは尻尾をぶわりと膨らませた。声も裏返ってしまって驚きましたというのが丸出しである。
振り返るとジグルフがちょっと機嫌悪そうにヴァレリーを見ている。準備が遅いと怒りに来たのだろうか。
「俺さ、初めてだったんだよね。好きな人とするの」
「はいっ? はい……?」
「……」
「……。えっ?」
「チッ。処女厨のメンタル童貞が」
「はい? ……。えっ!?」
ヴァレリーは大混乱だ。大混乱すぎて始終「はい」と「え」しか言えなかった。
舌打ちと暴言を残してジグルフは去っていった。
いや待て。すごい暴言を吐かれた気がする。というか、もっとすごいことを言っていた気がする。
好きな人。
好きな人……。……。えっ? 誰?
ふつふつと鍋の中の水が沸騰している。ヴァレリーははっとコンロの火を止めた。ティーパックを入れているカップにお湯を注ごうとして、いやそれよりも先に8等分されたケーキを2等分するかと思って、いやそうじゃないと慌ててジグルフを呼んだ。
椅子に座ってつまらなそうにしているジグルフの前に立ち、ヴァレリーはぐっと詰め寄る。
「ジグルフ! あなた……好きな人いるんですか!?」
「そろそろ殺してやろうかお前」
「えっ!?」
ガッと胸ぐらをつかまれた。今日のジグルフはヤクザだ。
「世間でかわいーかわいー言われてる天然ボケも度を超すと殺意がわくんだよね」
「エッ……ちょっと待ってください……いやほんと待って……実は頭がついていってないんです……」
ヴァレリーは両手を挙げて降参した。情けないことに自分より華奢な5歳年下にこの姿である。
「あ、あの……昨日というかその、今日というか……無理やりしてすみません……」
「はあ。は〜〜……」
「……」
「怒ってないよそんなこと。それより早くケーキと紅茶持ってきてよ」
「はい……」
謝るタイミングがおかしかったかもしれないが、意を決して謝罪したのに「そんなこと」で片づけられてしまった。ショックだ。
ヴァレリーはしゅんとしながらキッチンスペースに戻って、紅茶を入れ、大きな手で2つのカップと2枚の皿をいっぺんに持った。ケーキは、ジグルフの方に大ぶりのイチゴを載せて、スポンジ部分も多めにした。紅茶もケーキもおいしいと言ってきっと気に入る。もしかするとケーキは半分こしたけれどおいしいからとやっぱり奪われるかもしれない。ジグルフは、意外と子どもだから。
ヴァレリーは頬をほんのり緩め、ジグルフのところへ向かった。