唾液を交換して濡れた己の唇をジグルフはぺろりと舐める。
「……、ヴァレリーってさ。なんで舌いれるの?」
「えっ。……」
なんてないように指摘されてヴァレリーは動揺した。キスをしてほしいとお願いされたのでキスをしていた。が、確かに舌を入れろとは言われていない。というか、キスと言えば軽く唇を重ねるのが普通だろう。
「……。えっと」
「別にべろちゅーでもいいんだけどさ」
「べっ……! いや、なんでって言われたら、そうですね……」
「……」
不思議そうに見つめてくるジグルフの、その瞳を見ているときゅうと胸を握られるような感覚がする。
ヴァレリーはすうと息を吸い込み意を決した。
「…………。好きだから、です」
ジグルフは面食らったようだったが、一拍置いて頬をゆるめる。
「……、好きならしかたないね」
ジグルフの返事を聞いてヴァレリーは落ち着かない様子で身を縮めた。強姦されても冷静な時点でわかってはいたが、やはり勇気を持って告白してみてもジグルフの反応は淡白なものだ。
そんな中、少し離れたところで二人の様子を眺めていたハリネズミがきゅぷと大きなため息をついた。
主語をつけろ。主語を。
ハリネズミはじとりとした目つきだ。
好きだからです。好きならしかたないね。まるでしっかり会話できているようではあるが。ハリネズミだけが理解している。この二人の認識に齟齬があると。
――ジグルフが、好きだからです。
――キスが、好きならしかたないね。
けれどもハリネズミはヴァレリーとは話ができない。ジグルフとは会話できるのだけれどわざわざふよふよとそちらまで行って、君たち会話が食い違っているよとジグルフに教えてあげてもどうにもならない気がする。
多分ジグルフは、ヴァレリーはキスじゃなくてあなたが好きなんだよ、と伝えられたところで「ああ。そういうこと」と納得するだけだ。話が繋がるわけでもなくそこで終わり。なんの進展も期待できない。
今回は話の流れで主語を取り違えているみたいだが、ジグルフは鋭い方だし、ヴァレリーがジグルフを好いているのも気づいているだろう。他人の感情に敏感なのを活かして、うまく生きるために善悪問わずに向けられる感情は利用してきた。嫌われているのならその嫌悪で相手の理性を欠かせ、好かれているのならその好意で相手の隙につけいった。
でもヴァレリーには何もしない。ヴァレリーが自分を好いていると気づいていても、ジグルフは好意を利用した利益を得ようとしない。
ジグルフ自身の人生の目的はとうに果たされているからそもそも利用価値がない――というのも理由ではあるのだろう。ただ、今後ヴァレリーを利用することでジグルフ自身が得をすることがあったとしても、ジグルフはそうしないと、彼の初めての使い魔であるハリネズミは知っている。
――うまくできた! お兄ちゃんに見せなきゃ。
出会っての第一声に主はそう言った。子どもらしくはしゃいで、嬉しそうに双眼を光らせていた。
ハリネズミは小さな手のひらの中で身をふるわせた。彼に触れて伝わってきたのは、水の精霊の召喚を大いに驚き、しかし大いに感心する赤い瞳の少年だった。
名前はお兄ちゃんにつけてもらおう――。
エーテルの移動とやらが終わったのか、ヴァレリーの方がかしかしと頭をかきながらテーブルの方に歩いてきた。ハリネズミと目が合うなり、げっといった顔をする。
「もしかして、見てました……?」
「……」
主とこの男が出会った時のことは記憶伝いでしか知らないけれど、生まれてからずっとジグルフと過ごしてきて、ジグルフの気持ちや経験を使い魔は知っている。主が慕い愛おしく思うこの男はとても親切だし、ハリネズミも、使い魔なりに彼を好いている。けれどヴァレリーにジグルフのことを教えてやるつもりはない。悩み、振り回され、傷つきながらそれでも寄り添っていけばいい。
ハリネズミはヴァレリーの声掛けからそっぽを向くようにその身を震わせくるりと丸まり眠る姿勢を取った。
「あ、あれ……。無視ですか?」
「……」
「もしかして君からジグルフを取ったと思って怒ってる……!?」
たまに主はヴァレリーに対してイラついているが、この時ばかりはわからなくもないと使い魔ことハリネズミは思った。
「きゅぷぁ……」
「えっ?? な、なんですかその鳴き声……初めて聞いた……」
ヴァレリーはハリネズミの珍しい態度におどおどとしている。大胆かと思えば小胆。ヴァレリーという男は、まったく対極な言動の多い人だ。先が思いやられる。そんな気持ちでハリネズミはゆっくりと目を閉じた。
何か、ハリネズミちゃんに呆れられた気がする……。ヴァレリーは胸の内でそう思いながら、ジグルフに取ってきてと言われたカフェオレを冷蔵庫から取り出した。くぷくぷと眠っている姿を横目に見つつもジグルフの待っているベッドの方に戻った。
「はい。取ってきました」
「ありがとう」
ヴァレリーから瓶を受け取り早速カフェオレを飲んでいるジグルフは満足げだ。
「……キスで本当に魔力が移動できてるんですか?」
「もっとする?」
「!? いや、そうじゃなくてですねっ」
「はは。気になるなら魔法のひとつでも試してみたらいいよ」
「魔法……俺が?」
「うん」
ジグルフの提案を聞いたヴァレリーはきょとんとする。
「俺のエーテルが移ってるんだから驚きの魔法音痴でも使い魔の一匹や二匹くらい呼べるでしょ」と続けられたジグルフの言葉はさりげなくヴァレリーを貶していたが、ヴァレリーは寛容な心でスルーだ。
「魔法って。どうすればいいんでしょうか。治癒魔法をするにしても今は怪我なんかないですし……」
「……ふむ」
神妙な顔つきのヴァレリーを真似るかのように、ジグルフも少し目を細め、口元に手を寄せて思案する。
「魔法は想像力だね」
「?」
「じゃあヴァレリー、絵を描いてよ」
「はい?」
ジグルフはベッド横にあったメモ用紙とペン指している。あれにかけということらしい。
「ええ。そんなこと突然言われてもですね……」
「困るよね。でも自由なんだ。何を描いてもいい。自分で何を描くか決めて、想像して、形にする。魔法もそういうことだよ。魔力があればあとは術者の想像力。なにをしたいのか、なにを呼ぶのか、イメージを形にする」
「……なるほど?」
「はい。じゃあどうぞ?」
「ええ……」
ほいってしてぬんってしてぽん! みたいな擬態語じゃなかっただけマシではあるが、やはり魔法に疎いヴァレリーにはなかなか難しい。
「というかそれってジグルフが想像力豊かってことですか?」
「そうだよ?」
「……」
「このクソ淡白な男が想像力豊かとかなんのギャグですか……」
「えっ、俺、今、口に出してましたか?!」
「やった正解。これが想像力だね、ヴァレリー」
「……!」
ジグルフがニコリと笑った。いや全く。想像力というか普通に心を読まれたのかと思って心臓が嫌な跳ね方をした。揶揄もある程度で勘弁してほしいものだ。
からかわれた……。どこか屈辱を覚えつつも、ヴァレリーは切り替える。
想像。想像……。ヴァレリーはメモ用紙を睨みつけながら思案する。魔法。ヴァレリーにとっての魔法とは。熱く、眩しい――。
「器用だね。メモ用紙だけ焼いたんだ」
「!」
手のひらはじわじわと暖かい。そこに気が集中したような感覚。以前、ハリネズミがヴァレリーの治癒魔法を補助してくれたときのような感覚だ。
真っ白だったメモ用紙は真っ黒な炭になっている。
「皮肉なものだ。ヴァレリーが想像する魔法が炎だなんて」
まだチリチリと燻っている様子なのをジグルフは手をかざして消火した。
魔法。それは自分の故郷を一瞬にして焼き払った炎。暗い夜を明るく照らす、眩しくて熱い、赤い煌めき。
悲しそうに街を見渡す綺麗な瞳の中で揺れていた燎火。
皮肉なんかではない。ヴァレリーはあの炎を恐怖して描いたのでは無いのだ。あれを、儚く綺麗だと――。
「にしてもさすが俺のエーテルだね。魔具もない魔法音痴なのにそこそこの火力」
「……」
「ピンポイントに的を絞ってるのはヴァレリーのセンスかな。なかなかやるじゃん」
「ジグルフ」
「ん?」
「キスしていいですか」
「……、……」
ジグルフは目を丸くした。ヴァレリーの発言は突然だ。ぱちぱちと二度瞬きして、それから真っ直ぐに自分を見つめているヴァレリーに対して小さく笑みをする。
「どーぞ」
「……」
目の前の無防備な様子のジグルフに胸を締め付けられるような思いになる。好きだ。一目惚れなのだ。なんでも自由に思い描けと言われて出てくるぐらいに愛おしい。
目を閉じたジグルフの頬に手を添えて、ヴァレリーは優しく口づけた。