ヴァレリアンは子どもが嫌いだ。行動が突拍子もないし、泣くとやかましいし、いきなり大声をあげるし、人に対して礼儀もない。人生で極力関わりたくない存在であるのに、一通の手紙とともにそいつはヴァレリアンの元にやってきた。
「……」
 元凶の方に電話を何度かかけているが不通だ。もしかすると今頃飛行機に乗っていて通話ができないのだろうか。メッセージも飛ばしているのだが今のところ反応がなくこうなるとどうしようもない。ヴァレリアンは溜息をつきながらスマホをポケットにしまう。
「めんどうなことになりましたね……」
 もう一度大きなため息。手紙もあるし本人も保護者からここに行きなさいと言われたことは理解しているようなので、ヴァレリアンが誘拐疑惑をかけられることはほぼないだろう。だから警察を呼んでエアハルトを突き出してやっても構わないのだが保護者は海外出張中で身元を引き取りにこられないだろうし、結局は自分のところにエアハルトが戻ってくるような気がした。
 つまるところ通報しても無駄な徒労に終わってしまいそうなのだ。
 プリンを食べている間5歳児はとても大人しかった。リュックサックを自分の横に置いてローテーブルの前にちょんと座りお行儀よくプリンを食べていた。ヴァレリアンは小さなプリンなんてぺろりと平らげてしまったのだけれど、5歳児の方は一口一口がゆっくりで、いまだに食べきれずにいる。そんなエアハルトをヴァレリアンはキッチンからじっと見つめ、観念したかのようにまたもため息をして足しの飲み物を片手にリビングに戻る。
 もぐもぐと一生懸命にプリンを食べているエアハルトの向かいに座り、ちらりとリュックサックに視線をやる。小さな背中に背負っているときからずいぶんと不格好だと思っていたが、30Lぐらいの容量がありそうな、大きな宿泊用リュックだ。
「いったい何を持ってきたんです?」
「ン……。お泊りセット!」
 何とも厄介なことにこの子ども、すっかりヴァレリアンの家に泊まる気らしい。
「着替えと、おふろセットと、あと……絵本!」
「絵本……?」
「うむ。にーちゃ読む!?」
「……」
 うむってなんだ。うむって。
 名刺だの菓子折りだのの時点では大人に教えられてそうふるまっているものと思っていたが、そもそも彼自身がちょっと変わった5歳児なのかもしれない。ヴァレリアンは呆れ顔でエアハルトを見て首を左右に振った。
「読みませんよ。絵本なんて」
「! ン……」
 あからさまにシュンと肩を落としたエアハルトは、ポケットからメモを取り出し、何やら熱心に内容を確認してる。何をしているんだとヴァレリアンが怪しんでいると、「にゃんまるはすき!?」と大きな声。
「にゃ、にゃんまる……?」
「土曜日の夕方5時にあってるアニメなの!」
「知りませんよ。そんな子ども番組……」
「! ン……」
 またもエアハルトはしょんぼりと耳を下げた。それから先ほどと同じようにメモ紙を焦った様子で確認しているので、ヴァレリアンの方もとうとう気になってその紙をエアハルトからひょいと取り上げた。
「あっ」
 なかよくなるための さくせん
 ・えほんをいっしょによむ
 ・すきなもののおはなしをする
 ・おてつだいをがんばる
 ・にーちゃのなまえをきく
「……。なんですかこれ」
「キミツジコウなの!」
 発音が怪しい。
「機密事項ですか……」
 もう何度目かわからないため息が出た。エアハルトから取ったメモ用紙を彼に返す。
 エアハルトは戻ってきたメモを大事そうにたたんで、思い出したようにまた開く。
「にーちゃ、おなまえ、おしえて!」
「……」
 仲良くなるための作戦に書いてあったものだ。仲良くなりたい相手に内容を見られてしまったのに懲りずに続けるらしかった。
「名前も知らない人のところにきたんです? お前」
「ン……。おじちゃんにきいたけど、ちゃんとにーちゃからききたい」
「はあ」
「おれ、エアハルトっていうの!」
 あせあせと自己紹介を始めたエアハルトは、絵本作戦、好きなもの作戦と失敗が続いたせいか、どうやらこの作戦は実らせたいようだ。
「えっと……、5歳なの!」
 名前も年もご丁寧に名刺を渡してくれたから知っている。だからヴァレリアンは特に反応しなかった。
 無言のままじいと見つめてくるヴァレリアンに、エアハルトの焦りは募る一方だ。
「り、りすぐみさんなの……」
「……」
「すきなたべものは、いちご……!」
「……」
「おやさいは、ちょっとずつコクフクちゅうなの!」
「……」
「えっと、……」
「……」
「……ン」
「……。ヴァレリアンです」
 5歳児が泣きそうになっていく様子にはさすがのヴァレリアンも良心が痛んだ。
「!」
 名前を教えてやるとエアハルトは耳をぴょんと立ててパッと目を輝かせた。
「ミコッテなのにリス組って」
「?」
 ヴァレリアンは一つだけ突っ込みたかったことはしっかり口に出した。
 リス組とは幼稚園のクラス名だろうが、本人は猫なのにリスだなんて。別に、ねこ組さんにしろというわけではないが、もうちょっとこう、さくら組さんとか。違う名前にしようと園は思わなかったのだろうか。
「んと、ば、ば……ばれりあんおにーちゃん……」
「……」
 Vの発音はまだ難しいのだろう。エアハルトの言葉遣いはどうもたどたどしい。
「ば、じゃなくて。ヴァです」
「……! う、ぶ、ぶぁ……!」
「……。めんどくさいからにーちゃでいいです」
「ン……。れ、練習しとくの!」
 悔しそうに唇をかみしめたエアハルトは、リュックからシャーペンとスケジュール帳を取り出した。ぺらぺらとページをめくり、日付ではなく罫線のひかれたページを開く。
 がんばること
「……。にーちゃ、ぶぁってかいて!」
「はあ。貸してください」
 ぶぁではなくてヴァだと訂正するのもめんどくさい。大方濁点のついたうの書き方がわからないのと、ひらがなの方はできてもカタカナは、それも濁点をつけたヴという文字はまだ書けないらしい。
 ヴァレリアンはエアハルトからスケジュール帳とシャーペンを預かると、がんばること、と書かれているページに「ヴァの発音」と書き足した。
「どうぞ」
「ありがと! ……?」
「……? あ。もっかい貸してください」
「?」
 スケジュール帳を受け取った5歳児がなぜ首をかしげているのかはすぐに察した。貸してくださいと言いつつヴァレリアンはエアハルトからひょいとスケジュール帳をとった。
 文字の上には空きがないので、発音の横に括弧を付け足し、はつおん、とひらがなで書きこむ。
 がんばること
 ・ヴァの発音(はつおん)
「! はつおん!」
「そうです」
 果たして発音が何たるか理解しているのかは微妙だが、読み仮名を振ってもらえて漢字が読めたエアハルトはずいぶん嬉しいらしかった。
 がんばることのページには、今ヴァレリアンが書き足したのとは別に、野菜を食べるだの早起きをするだの、いかにも子どもっぽいことが書かれていた。
「ていうかそのスケジュール帳はなんなんですか? 高々5歳に管理するようなスケジュールはないでしょう」
「? よくわかんないけど、これはおじちゃんに買ってもらったの!」
「そりゃあお前が自分で買ったとは思いませんよ」
「にゃんまるなの!」
 エアハルトはふんすと胸を張ってスケジュール帳の表紙をヴァレリアンに見せつける。
 ゆるいアニメ調の猫が大きく描かれている。
「中にもいっぱいにゃんまるがいるの!」
 続けてエアハルトはぺらぺらとダイアリーのページをめくって見せる。マンスリー型ではなくウィークリータイプなようで、細かい文字がまだ書けなさそうな5歳児にはお似合いのようだ。にゃんまるなの! と声を張られたときはあっけにとられたが、理解の追いついたヴァレリアンはにゃんまるとやらがなんたるかを頬杖をつきながら聞き流している。
「うんとね、その日のトクベツを書いてるの!」
 ちらっと見えたところには、えんそく、おとまりかい、などとひらがなで書いてあったが、やはり5歳児にはこれといった予定はないようで空白の方が多かった。
「おじちゃんが手帳をもっててかっこいいから、おれも買ってもらったの!」
「ああ。要は大人の真似事ですね」
「? ン……、にーちゃ、ちょっとむずかしい……」
「……」
 真剣な顔をしてヴァレリアンの発言を理解しようと思い悩んでいるエアハルトを見ると、5歳児に対して嫌味っぽく対応していた自分がなんだかかなり大人げなく思えてきた。ヴァレリアンはこほんと咳ばらいをしごまかすように時計を見た。
 16時52分。――奇しくも、今日は土曜日だ。
「にゃんまる、あるんじゃないですか? もう17時なりますよ」
「あ……!」
 エアハルトはたちまち手帳とシャーペンをリュックサックに片づけて、すくっと立ち上がってテレビの方に向かおうとして、慌てたようにくるりとヴァレリアンの方に戻ってきた。
「にーちゃ、テレビ見ていい?」
「……、どうぞ」
「ありがと!」
 子どもは自己中心的でわがままなものだ思っている。だからわざわざヴァレリアンに許可を求めにきたエアハルトは、一応ここが他人の家であることをわきまえているようで、――だからと言って子どもを好きになったわけではないが――律儀で礼儀正しいな、とヴァレリアンにはほんの少し好印象だった。