待ち望んだ返事がやってきた。今は18時前。ヴァレリアンからは昼過ぎにメッセージを送ったので、おおよそ6時間は返事を待たされたことになる。
 お風呂セットとやらをリュックサックから取り出して広げているエアハルトを眺めていた時にスマホの通知が鳴ったので、ヴァレリアンは弾かれたようにポケットからそれを取りだして、ロック画面を素早く開いた。
 ――アメリカ到着(^-^)v
「……」
 ヴァレリアンは歯ぎしりした。
 ヴァレリアンからは俺に子どもを預けるなんて正気ですかとか一体いつまで預ける気なんですかとか事情と今後について尋ねていたのに、かのおっさんから返ってきたのはいかにもおっさんな顔文字付きの到着報告と、英語の並ぶ空港でピースサインをしながら自撮りしているおっさんの写真であった。
 ヴァレリアンは目を据わらせ通話ボタンを押す。コールが1回、2回、3回と続くにつれて背中からどす黒いオーラがわきあがってくる。
「はいはーい。もしもーし」
「一体どういうつもりですか!!」
 おっさんからしたら、キーン! である。ヴァレリアンの大声にはお風呂セットを並べていた5歳児も驚いたようでぴょんと肩をはね上げて心配そうにヴァレリアンを向いた。が、ヴァレリアンは今はエアハルトに構っている余裕はない。
「どうもこうも……手紙を書いたろ?」
「あんなので俺が納得するわけないでしょう! 急すぎるんですよ! しかもただの知り合いの俺に子どもを預けるなんて正気ですか?!」
「おっちゃんの中じゃあテイラー君は十分信頼に足るんだがなぁ」
「はぁ?!」
「そいじゃちょっと移動するからまたあとで! エア君、いい子だからよろしくなっ!」
「ちょっ……」
 ぷつんと電話が切れた。
 画面には虚しくも通話終了の文字が残されている。かけ直してやるかと思いもしたがなんだか余計に疲労しそうだったので、ヴァレリアンは深いため息をつき忌々しそうにスマホをポケットに押し込んだ。
「……」
「……」
 じっとヴァレリアンを見つめていたエアハルトとばっちり目があった。慌てたのはエアハルトのほうで、なにかいけないものをみたのを誤魔化すようにわたわたとお風呂セットを手繰り寄せ取り繕うように居住まいを正した。が、誤魔化しきれなかったのか、それからしゅんと耳を垂らした。
「……あのね、おれ、やっぱりおうちでおるすばんするの……」
「……、……はい?」
「にーちゃのじゃまして、ごめんなさい……」
 しょんぼりである。
 5歳児ながらに初めからヴァレリアンに歓迎されていないことは理解していたのだろう。それでも何とか事前のメモなんかを確認しながら、仲良くなろうと、エアハルトなりに一生懸命だったのだ。
 今の電話の相手がおじちゃんであることも、声がほんの少し聞こえてきたのでエアハルトは察していた。その上で、ヴァレリアンのあの怒り様だったので、これまた5歳児ながらに、自分がヴァレリアンに迷惑をかけていると責任を感じたのだった。
 お風呂セットはリュックサックに押し込んで、エアハルトはしょぼしょぼと立ち上がる。
「……待ちなさい。別に邪魔とは言ってないでしょう」
「ン……」
「それにもう遅いから、子どもがひとりで出歩くと危ないです。家まで送ってやるほうがめんどうですし今日はうちにいなさい」
「……」
「ほら。リュックはそこに置いて」
 ショボ、と耳もしっぽも垂らして俯いているエアハルトに近づき、動こうとしない彼の背中からヴァレリアンはリュックサックをおろしてやった。
「でも、にーちゃ、おこってた……」
「あれはお前に怒ってるんじゃなくてあまりにも無鉄砲なおっさんにキレてたんです」
「ン……」
「俺は夕飯を作りますから、さっき出してた着替えと道具を持って、お前は先にお風呂を済ませてしまいなさい」
「……」
 ポンポンとヴァレリアンはらしくもなく頭を撫でてやるが、それでもエアハルトは動き出さない。エアハルト自身も周りの大人の都合で振り回されている立場だからあまり責め立てまいとヴァレリアンは思うのだが、それとこれとはまた別だ。この態度はめんどうなガキモードだろうかと思いヴァレリアンの表情が歪む。
「あのね、エアハルトって言うの……」
「はい?」
「おまえじゃなくて、エアハルトなの……」
「……」
 自信なさげに、しかしこれだけは譲れないというこだわりを持ってエアハルトはそう口にした。
 なにをいじけているのかと思ったらまさかの名前を呼んでもらえないことに対してであった。ヴァレリアンは呆気に取られて口ごもった。
 わりと、罪悪感はある。ヴァレリアンが子ども嫌いで他人の都合に振り回されたと言えど、エアハルトは大人しくまたヴァレリアンと同様に保護者の都合で振り回された被害者だ。冷たく当たってしまったのも、本人がいる場で面倒事に巻き込みやがってと露骨な電話をしてしまったのも。心の隅に、ほんのりと申し訳なさがある。
「……」
 ヴァレリアンはエアハルトから目を逸らした。
 エアハルト。一応他人の子だ。呼び捨てはいかがなものか。エアハルト君。長い。呼びづらい。エア君。おっさんは、この子をそう呼んでいた。
「お前呼びはよくなかったですね。すみません、……エア君」
「!」
 ぴょんとエアハルトの耳が立った。
 名前を呼ばれたことがよほど嬉しかったのか、ふりふりとしっぽを左右に振ってふにゃりと頬を緩ませている。
「……ほら。お風呂に入ってきなさい」
「わかった!」
 エアハルトはリュックサックからお風呂セットを取り出すと、ぱたぱたと、ヴァレリアンから教えてもらったお風呂場の方にかけて行った。
 ヴァレリアンはその姿を見送ってから、はあと息を吐き出す。なんだか調子を狂わされた。ふにゃりと嬉しそうに緩んだ顔をしていた5歳児が、ほんのちょっぴり、頭の隅っこの方で、可愛いなと。思ってしまったのは不覚だ。

 ヴァレリアンが夕飯を作り終えた頃にちょうどエアハルトは風呂から上がってきた。頭にはタオルキャップをかぶっていて、手には脱いだ分の服を抱えている。
「あれ。どうして服を持ってきたんです?」
「着たものふくろにいれて、かえってからあらうの!」
「いやいやいや、いつになると思ってんですそれ。一緒に洗うからカゴに入れといてください」
「??」
「洗濯機のところにカゴがあったでしょう。ほら、入れてきなさいエア君」
「! わかった!」
 ヴァレリアンは気づいたことがあるのだが、この5歳児、わりと扱いやすい。今だって洗い物を別に保管せずにカゴに出してとけと指示した時にはきょとんとしていたが、名前を呼んでやると力強く頷いて一目散に駆け出して行った。
 5歳児の名前を呼んでやるのはヴァレリアンにとって最初こそはむず痒いことだったのだが、こうも効果があると知ってしまうと躊躇せずに呼べてしまう。
 風呂場に向かったエアハルトは今度は手を空にして戻ってきた。それからキッチンに立つヴァレリアンのそばにきて、そわそわとヴァレリアンを見上げる。
「おてつだいある?!」
 ヴァレリアンは少し考えた。
 特に手伝ってもらうほどのことはないが、まるでフリスビーを投げてもらう子犬のような目をしている5歳児には、何もせずに座って待ってなさいと指示を出すよりも、手伝いを頼んでやる方がいい気がした。
「……そうですね。じゃあこれを机まで運んでください」
「わかった!」
 オムライスの乗ったお皿をひとつ渡してやると、エアハルトは力強く頷いて、大事そうに両手でお皿を抱えてローテーブルの方に歩いていった。
 しっぽがぶんぶんと左右に動いているのを見る限りとても嬉しいらしい。ヴァレリアンも自分の分のお皿と、スプーンを2つ持ってエアハルトのあとを追う。
 先に座っていたエアハルトは、ヴァレリアンが向かいに座ったのをみて、意気揚々と口を開く。
「おむ!」
「おむ? ああ、オムライス……」
 5歳児はオムライスのことをおむと呼んでいるらしい。
「好きですか? オムライス」
「すき!」
「そうですか。あ、食べきれなかったら残してもいいですからね」
 ヴァレリアン自身はかなりの大食いである。作っている最中に気づいたことだが、自分以外の、しかも小さな子どもがどれぐらい食べるのかがヴァレリアンにはわからなかった。だからヴァレリアンのさじ加減で、エアハルト用に適当に量を減らして作ってみたのだけれど、やはりヴァレリアンは大食いなので減らした結果を見てはこれでは少なすぎる……と過ぎってしまい、なかなか調整が難しかった。
「まだ欲しかったらおかわりしてもいいです」
「うむ……」
 エアハルトはこくりと頷いた。
 その、うむ、というのはなんなのかと尋ねようかとも思ったが、ヴァレリアンは今回もスルーした。なんだかあれはあれで武士のようで可愛いような気がしてきた。
 スプーンを持って一口分を掬いとる。子どもだからかやっぱり一口が少ないなぁとぼんやり思いつつ、ヴァレリアンも食事を開始した。
「ン……うま!」
「……」
「にーちゃのおむ、おいし!」
「……。口にあったならよかったです」
 耳をピコピコさせ、ふんふんと一生懸命にオムライスを食べるエアハルトの姿はリスのようだ。そういえばリス組だと言っていた。なるほどぴったりである。
「ゆっくり食べなさいね」
「んむ……」
 その後も言葉にせずとも、おいしいといわんばかりに一口飲み込む度に顔をほころばせるエアハルトの様子をヴァレリアンはたまに眺める。
 料理が上手いでしょうと得意になるつもりはないが、ヴァレリアンは、5歳児の姿に悪い気はしなかった。