ヴァレリアンは一人暮らしである。交友関係はあれど家に招くほどの友人もいなければ実家も遠いので身内が泊まりに来るようなこともほとんどない。
 つまるところ布団が自分の分しかないのである。
「……」
 皿を洗いながらヴァレリアンはリビングで絵本を読んでいるエアハルトの様子を伺う。体が小さいと言えどソファで寝せるのは忍びないので、やはり自分がソファで寝てエアハルトにベッドを貸してやるべきか。
 食器を乾燥にかけてヴァレリアンは手を拭いた。エアハルトのそばに向かうとエアハルトの視線は絵本からヴァレリアンを向く。
「にーちゃ」
「眠たそうですね」
「ン……」
「ベッドで寝なさい。こっちおいで、エア君」
 しぱしぱと瞬きし目を擦る様子はどこからどう見ても眠たそうだ。ヴァレリアンに手招きされエアハルトはゆっくりと立ち上がる。絵本は閉じてリュックに立てかけた。
「見えてます?」
「うむ……」
 眠たくても武士は健在のようだ。
「……ほら。手を貸してみなさい」
 ふらふらと足取りがおぼつかないのでヴァレリアンはエアハルトの手を握った。さすが子どもいうべきか眠たさも相まってエアハルトの手のひらは随分あたたかい。
 エアハルトを寝室に案内しベッドの前まで連れて行ってやると、エアハルトはベッドによじ登りモグラのように布団に潜って行った。掛け布団はすっぽり頭まで被ってしまっている。
「おやすみなさい。エア君」
「おやすみなさい……」
 布団から耳だけが出てきた。
 ヴァレリアンは自分の布団に他人が寝ているのを奇妙に思いながらも、念の為部屋の常夜灯をつけて、この場を後にした。
 時刻は夜の9時過ぎだ。ヴァレリアンにとってはまだそんなに遅い時間ではない。マグカップに少なめのコーヒーを1杯淹れ、日課の読書を開始する。本当はこの本は昼間に読み終えてしまおうと思っていたのだけれど思わぬ来訪者の登場にすっかり時間を取られてしまった。
 本を少し読み進めたところで電話が鳴った。ヴァレリアンは表示名を見て大きなため息をする。
「…………はい」
「よお! テイラー君、エア君と仲良くしてくれてるか?」
 エアハルトの保護者のおっさんである。
「寝ましたよ。さっき」
「おっ? そうか。こっちは朝でもそっちは夜だったか。ん……? 寝たって、ひとりで?」
「そうです」
「そりゃ驚いた。ひとりじゃ眠れないんだよ、エア君」
「?」
「よっぽどテイラー君家が落ち着いたのかのかもしれんなぁ」
 電話の向こう側は随分感慨深そうだ。
 ひとりじゃ眠れないと言ったって、あの眠気じゃそんなことを気にする余裕もなかったんじゃなかろうかと思う。ヴァレリアンはマグカップを口元によせ――ふと、ふらふらと寝室からエアハルトが出てきたことに気がついた。驚いた。すっかり眠ったものと思っていたのに。
「えっ? ちょっ……」
「えっ?」
「あ。いや、ちょっとすみません。一旦切りますね」
 ヴァレリアンは慌てて通話を終え、壁伝いに歩いているエアハルトの方に向かう。トイレにでも行きたいのだろうか。「エア君?」と声をかけるとエアハルトは眠たそうな眼をヴァレリアンに向け、ぷくと頬を膨らませた。
「? どうしました?」
 ヴァレリアンは不思議に思いながらエアハルトの前で腰を曲げた。
「……いっしょがいいの」
「え?」
「にーちゃもいっしょに、ねんねなの……」
 きゅと両手で片手を掴まれた。
 ヴァレリアンは唖然とした。ひとりじゃ眠れない。つい先程の言葉が脳裏をよぎる。
「ね、寝かしつけないとダメなんです?」
「ン……よくわかんないけど、いっしょにねてほしいの」
「ええ……」
「ひとりはいやだ……」
 しゅんとエアハルトは耳としっぽを垂らした。
「……」
 エアハルトは幼い頃に両親を失ったからあのおっさんに預けられている。と、聞いた。幼い頃だなんて、今でも十分幼いと思うが、やはり早くに親を失って過ごしているこの子は寂しいのだろう。
 ヴァレリアンは子どもが嫌いだが、今に限ってはエアハルトに対して同情した。
「……。わかりました、一緒に寝ましょう」
「!」
「おいで」
 ヴァレリアンが両腕を広げると、エアハルトはフラフラ揺れながらそこに飛び込んだ。随分と必死にしがみついて意地でも離れなさそうだ。
 ヴァレリアンはエアハルトをしっかり抱えて立ち上がった。
「家ではおっさんと寝てたんです?」
「おじちゃんは……かえりがおそいの」
 エアハルトはふるふると頭を振った。よかった。あのザ・おっさんと毎日一緒に寝ていると言われたら、ヴァレリアンはエアハルトと添い寝することに少し抵抗が出たかもしれない。間接キスならぬ間接添い寝だ。
「見かけによらずしっかり働いてるんですねぇ……」
「うむ……。だから、くまちゃといっしょなの」
「?」
「つれてきたかったけどリュックにはいんなかったの……」
 くまちゃとだけ聞いた時にはなんのことだと思ったけれどリュックサックに入らなかったと言う言葉でピンときた。
 なるほどぬいぐるみを抱いて眠っていたということか。ぬいぐるみはヴァレリアンの家にはない。けれど抱いて眠るものがあれば眠れるというのなら、自分が添い寝してやらなくても、枕なんかを抱っこさせればいいのでは、とヴァレリアンは思った。
 しがみつかれたままベッド横になる。
「……」
 まあ、こんなにひっつかれてはひっぺがすのも一苦労だろうから、今夜は添い寝をするほかない。やったことはなかったが子どもを寝かしつけるにはこれだろうと、ヴァレリアンはぽんぽんとゆっくりしたリズムでエアハルトの背中を軽く叩いた。
 それにしても子どもというのは体温が高い。この部屋のエアコンがきいていなければ、ヴァレリアンは正直エアハルトのそばにいつつも離れて眠る策を思案しただろう。
 1人じゃなくなったことに安心したのかエアハルトはすうすうと寝息を立てて気持ちよさそうに眠っている。ヴァレリアンは向かい合って眠っているエアハルトの頬をなんとなくつついてみた。
「……。マシュマロ……」
 思った以上に柔らかい。子どもとはこんなにぷにぷになものなのか。
 何度もぷにぷにと触ってしまうとなんだか癖になりそうだったのでヴァレリアンは一度つついて以来は触るのをやめておいた。
 すやすやと穏やかな寝息。安堵しきった優しい寝顔。
「まったく不思議な子ですね……」
 ヴァレリアンはため息のように呟いた。
 ヴァレリアンは、子どもにあまり好かれない。ヴァレリアン自身も子どもが嫌いなので好かれる必要もないし変に懐かれた方が困るのでそれでいい。ついでに動物ともあまりわかりあえない。多分そういう、愛着を形成してコミュニケーションをとらなければならない生き物はヴァレリアンと相容れないのだ。
 けれどこのエアハルトという子どもは不思議とヴァレリアンに懐いている。たまに武士だが、そこまで大人びているわけでもないのに、なんだかヴァレリアンとのうまい距離感を知っているかのようだ。
 ヴァレリアンは大きくあくびをした。
 コーヒーだって飲んだし、まだ時刻も午後10時を回っていないのに、なんだかとても眠たくなってきた。目の前の子どものぬくもりにつられてしまったのだろうか。
 エアハルトは1人で眠れないらしいが、ヴァレリアンの方は誰かがいると寝つけない性だ。……寝付けないはずが、他人が、ましてや子どもが一緒にいるというのに、ヴァレリアンはうとうとと瞼を遊ばせ、そのうちに緩やかに胸を上下させ始めたのだった。