カーテンの隙間から眩しい日が差しこんでいる。ヴァレリアンは徐に瞼を開けて寝ぼけ眼で時計を確認した。朝の7時30分。今日は日曜日なので仕事もない。もう少し寝るかと、腕に抱えた触り心地のよい枕に頬を寄せる。
「……?」
 はて。抱き枕なんて持っていただろうか。
「うわあっ!」
「ぴゃっ!」
 ヴァレリアンは思わず叫んだ。すると抱き枕の方もつられて叫んだ。それもそのはず。ヴァレリアンが抱いていたのは抱き枕ではなくエアハルトという5歳児である。
 いったい何が! とヴァレリアンの心臓はドッドッと激しく動く。
「ぬおお!」
「!?」
「おといれなの!」
 ヴァレリアンの腕の拘束から逃れたエアハルトは布団から素早く飛び出し一目散に駆け出した。弾丸のように飛び出していったエアハルトは随分と切羽詰まっていたらしい。あの様子はどうみてもヴァレリアンが目を覚ます前から起きていたに違いない。
 そういえば、あれは昨日いきなり家にやってきて、ヴァレリアンは流れで家に泊めてやって、添い寝してやったんだった。昨日のことを思い出し現状を理解したヴァレリアンは冷静さを取り戻す。わしゃわしゃと頭をかきながら布団から出た。
「うむ……。ソンゲンをうしなわなかった……」
 通りかかった洗面台の前で、5歳児は手を洗いながら深くうなずいていた。
 危うく失禁するところだったのを回避できたということだろう。尊厳を失わずに済んだなどときりりとした顔つきで言うお前は本当に5歳かと言いたかったが寝起きのヴァレリアンにはまだそこまでのエネルギーはない。
「……。おはようございます」
「! おはよ!」
 とりあえず声をかけてやるとエアハルトはピコピコと耳を動かしながらヴァレリアンに駆け寄ってきた。
「ていうかなんでそんなにトイレを我慢してたんです……」
「お布団から出られなかった!」
「え? ……動いたら俺が起きるんじゃないかって気を遣ったとか……?」
 エアハルトはフルフルと首を振った。
「にーちゃの力が強くてぬけだせなかったの!」
「……、……」
 ヴァレリアンは硬直した。まさかそんなに強くこの子を抱きしめて眠っていたというのか、自分は。
 エアハルトはヴァレリアンの様子を見て不思議そうにしていたが、てててーっとリビングの方に走っていって……リュックから着替えを取り出しあわただしく服を変え、ついでに何かを手に持ってまたヴァレリアンの前に戻ってきた。
「おれ、公園いってくるの!」
「……? はい? どうして」
「ラジオ体操なの!」
 ずい、とヴァレリアンに差し出されたのは首掛けのひもが付いた厚紙だ。ラジオ体操カードと書かれていて、そこにある枠には、すでにいくつかスタンプが押されている。
「スタンプためたらお菓子と交換できるの!」
「はあ……なるほど」
「いってくる!」
「あ、ちょっと。朝ごはんは?」
「帰ってから食べるの!!」
「こら、待ちなさいって」
「ぐぴゃっ」
 駆け出そうとしたエアハルトの首根っこをヴァレリアンはつかんだ。首がしまったのだろう。エアハルトはカエルがつぶれたみたいな声を出した。
「お茶ぐらい飲んでいきなさい。持ってきてあげますから」
「ン……」
「エア君?」
「! わかった! 待ってる! けどちょっと急ぎなの!」
 ラジオ体操始まっちゃうから、とエアハルトはその場で足踏みをしている。はいはいと返事をしてヴァレリアンはリビングへ向かう。
 冷えた麦茶をコップに入れてエアハルトに渡した。
「にーちゃもいく!?」
「俺はいきませんよ。暑いから嫌です」
「にーちゃ細いもんね! すぐとけそう!」
「……」
 見たままの感想を述べているだけで蔑んでいるつもりはないらしいが……。ヴァレリアンは5歳児の発言に無言である。
 エアハルトはこくこくとのどを鳴らして麦茶を飲みほした。
「いってくる!」
「……はい、いってらっしゃい。あ」
「ぐぴゃっ」
 2回目である。
「家の鍵渡しときますね。落とさないでくださいよ」
「……! うむ!」
 ヴァレリアンから渡された鍵を大事そうにズボンのポケットにしまって、エアハルトは今度こそ家を出た。
 慌ただしい空間は静かになった。ヴァレリアンは部屋のカーテンを開いて回ってテレビをつける。今日の気温について、天気予報士が汗を拭きながら伝えているのが映った。熱中症に気を付けましょう。夏の常套句だ。
 午前中からすでに暑いので早速エアコンをつけた。洗顔、食事、洗濯、軽い掃除。今からは朝のルーティンをこなす時間。それが終われば読書の続きでもしよう。ヴァレリアンはまず洗面台へと向かう。
 それにしても、昨夜はあの子を抱きしめてぐっすり眠ってしまったのか。ヴァレリアンは顔を洗いながらぼんやりと思う。いつもより寝つきがよかった気がするし、いつもよりも眠れた感じがする。子どもというやつはもしや安眠効果があるのだろうか。なんて。
「……」
 子どもなんてやつにそんな効果は絶対にない。自分も昨日のことは突然で、なんだかんだ疲れていたのだろう。
 ヴァレリアンは顔を拭いて、ため息をついた。
 ラジオ体操に遅刻しそうだったので服は脱ぎ捨てたらしかった。リュックの傍に申し訳程度に寄せられたエアハルトの寝巻を拾い、洗濯機に入れる。朝食は何にしようか。ホットサンドを、自分の分と、5歳児の分と。コーヒーはきっとあの子は飲めないだろうから、牛乳をいれてカフェオレにしてやればいいか。
 いつもは一人分しかない食器を二人分に増やしてヴァレリアンは朝食の準備に取り掛かった。

 30分としないうちにエアハルトは帰ってきた。ちなみに帰宅の言葉は「おじゃまします! ただいま! わあ! すずしい!」である。暑い外からエアコンのきいた他人の家に帰ってきたのでそうなったのであろうが、なんだそれはとヴァレリアンは眉をひそめた。
 涼しいはともかく。
「ただいま、でいいですよ」
「ン……ただいま!」
「はいはい。おかえりなさい」
「手洗ってくる!」
「はい」
 エアハルトは言うや否やぴゅーっと駆けていった。あんなに暑い中出かけて行ったというのに、子どもはバイタリティ溢れている。
「いいにおい!」
「はや……。ちゃんと手は拭きましたか?」
「拭いた!」
「石鹸で洗いました?」
「洗った!」
 エアハルトは両の手のひら広げてヴァレリアンに見せつける。見せつけられたところで汚れていないな、濡れてないな、ということしかわからないのだが、ヴァレリアンは「ちゃんと石鹸で洗って手も拭いてえらいですね」とエアハルトの頭を撫でてやった。
「何食べるの?」
「ホットサンドですよ。無難にチーズとハムと……」
「!」
「トマトとレタスをはさんでおきました」
「……!」
 チーズとハム、までは5歳児は目をらんらんと輝かせていたのだが、トマトとレタスと続いた言葉にきゅうと顔を絞ってみせた。何だその顔、とヴァレリアンが驚いたのもつかの間。そういえばこの子、野菜とはまだ分かり合えていないんだったか。と思いだした。
「……食べられます?」
「ン……! えらいから食べるの……!」
「はいはい。頑張りなさいね」
 ぎゅうと拳を握って意を決している様子だ。
 ヴァレリアンはそんなエアハルトにほどほどに構い、ホットサンドが冷めてしまわないうちにと、小さな手を握ってローテーブルへと向かっていった。
 テレビは今度はアニメを放送している。よくある女児向けヒロインものだ。それには興味がないのか、テレビには目もくれず、エアハルトはホットサンドを見つめている。
「おいしそ!」
「そっちは俺のですよ」
「む」
「む、じゃなくてね。どう考えても量が多いでしょう、それ」
「うむ。特盛である」
「……、エア君はこっちです」
 5歳児の発言に突っ込みたかったがやめておく。
 昨日のエアハルトの一口が随分小さく一生懸命だったので、食べやすいようにと、ホットサンドを一口大に切っておいた方の皿をヴァレリアンは彼に渡した。
 エアハルトは尻尾をふりふりとさせながら一つを手につまむ。
「野菜入ってますよ?」
「にーちゃがつくってくれたから嬉しいの!」
「……そういうもんですかね」
 エアハルトがホットサンドを手に持って嬉しそうなので思わず指摘してみたが、返ってきた答えが予想外でヴァレリアンはそっと目をそらしたのであった。