日勤の警備員への申し送りは終わった。制服から私服に着替えて会社から出る。眩しい日光に目を細め、持ってきていたサングラスをかける。
 小さい頃から太陽の光が苦手だ。というか日中活動すること自体が苦痛だったのだが、その理由がサキュバスと人間の間に生まれた子どもだからということを知ったのは義務教育を終えたあたりのこと。「実はママはサキュバスなのよ〜。でも一生モノの相手見つけちゃった! あなたインキュバスだからこれからもっと大変だと思うけと幸せになりなさいよ」きゃぴっ! なんて効果音が聞こえるようなウィンクを飛ばされた次の日に家出した。
 母親のとち狂った発言が引き金になった訳では無い。元々家を出ようと思っていた。
 適当なバイトで食いつないだ。
 世間では高校生と言われる年齢だったが学校には行かなかった。普通の食事以外に何かを得ないと満たされない、そんな体の変化に見舞われたのもその頃だ。
 初めて連れ込まれたラブホテルで、キスした相手が勝手に眠りこけたのも、なんとなくフェラして精液を飲んで満足したのも、そいつにホテル代は押し付けて出ていったのも、そいつが自分のことを覚えてなんかいなかったのも。
 ジグルフはわりとどうでもよかった。
 母親はサキュバス。人間じゃないのか。ふーん。どうでもいいや。
 夜中に親の喘ぎ声で目が覚めるような毎日から解放されたことだけで十分だった。うっかり子ども孕んじゃったら困るからピルをしっかり飲んでいる、なんてピロートークを聞いてからは家出のことしか頭になかった。
 要は擦れていた。人生どうでもよかったのだ。だからといって死ぬ訳にも行かず、適当にバイトをして、安い賃貸に住んで、たまに食事をして。歳を重ねるうちにインキュバスと人間のハーフとして生きることに慣れていたしいつのまにか警備員として働くいまに至っていた。
 駅に着いた。
 制服のポケットから私服のポケットに移した鍵を取りだしてジグルフは思案する。
「……」
 なんなんだ。本当の巨根って。
 思い出すと吹き出しそうになるがあの時はヴァレリーの剣幕に押されて何も言えなかった。あまりにもインポだの勃起不全だのと罵られ男のプライドが傷ついたのだろうと思うが、だからって家の鍵をほとんど上辺しか知らない相手に渡すか、普通。
 駅のホームに電車が入る。
 ジグルフが今から向かう先はヴァレリーの家ではなく自宅だ。ヴァレリーの家に行く気が無い訳では無い。というか、ジグルフが駅に向かいながら気づいたことだが、一人暮らしのヴァレリーがいくつも鍵を持っていると思えないので、ジグルフが行ってあげないとヴァレリーが家に入れなくなってしまうだろう。あの会社の定時は午後6時。だからそれまでに向かうつもり。
 まずは家に帰ってシャワーを浴びて寝る。
 ヴァレリーが仕事を終えて夜帰ると寝てしまうのと同じ。時間帯が違うだけで、ジグルフもひと仕事終えて睡眠予定ということだ。
 通勤ラッシュとはズレているので空いている電車に乗り混み座席に腰かけた。お腹がすいた。昨日は食べられなかったし。今朝も食べられなかったし。両方の意味での空腹だ。
 ジグルフは鍵をしまい、目を閉じて小さく息をついた。まぶたの裏にはケンケンと怒る赤目の男が張り付いている。
(……。顔はいいけどインポなんだよなぁ)
 といってもあの夜勃起できていなかったわけじゃない。いつもどおり手遊びしていたらヴァレリーのそれはちゃんと勃起していた。
 ただ勃起したからいいというわけでもない。
「昨日彼氏と初めてホテル行ったんだけどさぁ」
「えーっ!」
「あいつ、中折れしたのよ! 信じられる!?」
「は? マジィ?!」
 少し離れた席にいるギャルっぽい女性達の会話が耳に飛び込んできた。車内にはほとんど人がいないし、一応乗車しているジグルフは目を閉じているし、本人たちにはそこまで大きな声を出しているつもりがなかったのだろう。
 ジグルフの思考を読んだかのようなタイムリーな会話である。
「……」
 まあそういうことだ。勃てばいいってもんじゃあない。勃った先で、しっかり出すもん出してもらわなきゃ。

 ふっと目が覚めた。時刻は午後の6時半だった。ぐっすり眠ってしまったと慌てて家を出た。ヴァレリーと連絡先を交換していないのでむこうがどうなっているかわからないがとりあえず彼の家の鍵を開けてやらなければ。そんな思いで記憶だよりにヴァレリーの住むマンションまできたところ、エントランス前でばったり出会ったのである。
「あ。出かけてたんですか?」
 なぜかジグルフがいままでヴァレリーの家で待っていた前提で話しかけられた。
「いや。さっきまで自分ん家で寝てて、今来た」
「俺ん家にいてよかったのに」
「……。まあ一旦着替えたりしたいからさ」
 ヴァレリーの方はスーパーのビニールと通勤カバンで手が塞がっている。
「一個持つよ」
「いや。……はい。じゃあお願いします」
 断ろうとして考え直したようだ。ヴァレリーはジグルフにビニールをひとつ渡す。
 それを受け取って、エントランスのロック解除はとりあえずジグルフがやった。
 定時で帰ると宣言した通り定時上がりしたのだろう。その後、スーパーに寄った、と。
「買い物してきたの?」
「はい。うな重にしようかなって」
「……。結構単純思考?」
「え? ……。はっ! いや、そういうつもりじゃなくて普通に鰻食べたいなって……」
「……。そう」
 鰻といえば精力アップ。なんて情報もあるが、このヴァレリーの慌てようを見るにそういう意図があったわけではないらしい。
「明日有給取りました」
「え」
「定時で上がってやる! と思ったら、なんか連日働いて頑張ってるのがアホらしくなったというか……」
 ヴァレリーが頬をかく。
「……、まあね。休むのは大事だよ」
 念入りな下準備かと一瞬誤解したがそうではなかった。案外突拍子がないというか思い切りがいいというのか。今まで働きに働いていたかと思えば唐突な有給。ぷつんと糸が切れてしまうと極端な言動に出る人なのだろう。それこそ、ジグルフに家の鍵を渡したみたいに。
 エントランスを通りエレベーターに乗り込んだ。行き先ボタンはヴァレリーが押す。
「ていうかお前も、律儀に俺ん家にきたんですね」
「だって俺が来ないとヴァレリーさん家に入れないじゃん……」
「…………。確かに。うっかりしてました」
 感嘆するように呟くヴァレリーを見ながら、やっぱりそこまでは考えていなかったのかとジグルフはこっそり呆れている。
 エレベーターを降りた。少し歩けばもうヴァレリーの部屋の前だ。
「お前……。んっ。んんっ」
「?」
 急な咳払いだ。
「……。あの、名前で呼んで大丈夫ですか?」
「え。うん。どーぞ」
 ジグルフは少し驚いた。ほとんど見ず知らずの相手に家の鍵を託す非常識っぷりを見せつけたわりに、そういう礼儀はきっちり見せてくるなんて。
 ジグルフの許可を聞いてヴァレリーはどことなく嬉しそうに目を細めた。
「家の鍵俺が開けていいの?」
「鍵もってるのジグルフさんですし。どうぞ」
「……。そういうもん?」
 とりあえずジグルフが部屋を開けた。
 ヴァレリーが先に中に入り、ジグルフがその後に続く。鍵は後ろ手で閉めた。
「ジグルフさんは鰻食べられます?」
「ん。うん、多分……? 食べたことない」
「えっ!」
「いつもコンビニのおにぎりかパンだし」
「えっ!?」
「貧乏だから」
「……。おうちはあるんですよね?」
「さっきまで帰ってたって言ったじゃん」
「確かに……」
「燦々荘って言うんだけど」
「!? 有名な事故物件アパートじゃあないですか!」
「訳ありで家賃クソ安いよ」
「誰も猟奇殺人現場になった家なんか住みたくないですよそりゃあ……」
 まさか数年前にテレビで大々的に放送されていた殺人事件のあった家に住んでいるとは。聞くだけで身も震える思いだ。
「安いと言えどよく住めますね……」
「まあ俺インキュバスだし」
「でたぁ……インキュバス理論〜……」
 ヴァレリーは遠い目をした。
 今回ばっかりはインキュバスどうこうというより単にジグルフの肝が据わっているだけだろう。
「ジグルフさんお腹すいてます? あっ、人間的な意味で。インキュバス的なのは聞いてないです」
「なんかムカつくんだけど」
「どうどう」
「…………。空いてる」
「じゃあうな重、一緒食べましょうか」
 むっつりしているジグルフに気づいているのかいないのか。ヴァレリーはニコニコと笑い買ってきたビニールを持ってキッチンに運んでいる。
「ちゃちゃっと作っちゃうんで、リビングで待ってていいですよ」
「そう? ……わかった」
「あ。ブラックコーヒー飲めます?」
「飲めない」
「んっ。ふふっ……。飲めないんだ。ブラック。ふふ、朝メロンパン貰ってからちょっと子供舌っぽそうだなって思ってはいたんですけど……ふふっ」
「…………」
「カフェオレにして持っていきますね」
 くすくすと言う笑い声はキッチンに引っ込んでいった。
 ――あいつは今朝の巨根発言を覚えているのだろうか。今自分がここにいるのは、そういう目的、なのをわかっているのか。
 妙な扱いを受けたことに眉間に皺を寄せながらもジグルフはリビングのローテーブル前にちょんと腰を下ろした。