「シャルルは、親からは愛情を注がれ、周囲の友人には恵まれて育ったのでしょうね。根がお人好しで、人を疑うことを知らず、所属による偏見を持たない。本人はそう思っていないようですが、博愛なのでしょう」
「……」
 ぽそぽそと内緒話をするような音。不意に鼓膜を揺らしたフリンズの声に、ちっとも揺らがない釣竿の先から視線を外し、フリンズへと目を向けた。
 彼の柔らかに細められた月のような瞳は、水面ではなく、賑やかな声のする方向を向いている。そこにあるのは、背の低い白い人影と、シャルルの姿だ。
 魂の眠るこの地で、シャルルが幼い亡霊から物語を聞かせてほしいとせがまれたのは数十分も前からのことだった。
『おにいちゃん』と声をかけられた当初、俺とシャルルは釣り糸を垂らすフリンズのことを岩に腰掛けぼーっと眺めて過ごしていて、シャルルも俺も不意をつかれて小さく肩を弾ませた。
「おにいちゃん。お話をきかせて」
 釣りの最中に小噺することを良しとしないフリンズが何かを言ってくる前に、俺の隣のシャルルは腰を上げ、小さく笑みしながら幼子の手を取った。亡霊に触れられるわけはないけれど、そのときは確かに、ふたりは手を繋いでいるようだった。
「いいよ。俺と、向こうで話そうか。なんの話がいい?」
 シャルルの言葉を聞くと、青白い少女はふわりと足を浮かせて彼の腕の中に飛び込む。シャルルは冷たいそれを、嫌な顔ひとつせず受け入れた。
 そんな様子に自分の息が息を詰まった理由はよく分からない。横にあった温もりが離れたのを静かに感じながら、ただ、シャルルは本当に優しいな、なんて思いが胸の内に広がっていった。少し胸が寒かった。まるで、己を照らしていた太陽が、分厚い雲に遮られ、その日を翳らせたような感覚。
「……、……」
 沈まない水面の浮きを一瞥し、別に、聞き取れなければそれでもいいと思いつつ、声を潜めて言葉を紡ぐ。
「……シャルルがよく、外を散策しているのは知っていましたが、幽霊の女の子と、友人になっているとは、……知りませんでした」
「ええ。僕もまさに今、初めて知りましたよ。社交的なのは結構なことですが、彷徨う魂に魅入られてしまうのは、あまり、好ましくありませんね」
「……」
 フリンズの穏やかな瞳にあるのは慈愛ではなく、観察するような眼差しだ。それをちらりと伺ったあと、また視線を幼子とシャルルに戻す。
 シャルルは穏やかな笑みを浮かべながら地面に座り込み、膝にその小さな子を乗せていた。彼女は身振り手振りを大きく交えて話をしていて、シャルルはそれに相槌を打ちながら耳を傾けている。何を話しているのかは聞こえない。
 ふと、頬を撫でた風は冷たくて、常に横にあるはずの体温を酷く恋しく感じさせる。極寒の地には慣れているはずなのに、少し、肌寒い。
「……欲しいのであれば、きちんと欲しいと示して繋いでおかなければ、すり抜けてしまいますよ?」
「……? なんの、話ですか?」
「おや……ロストは聡明だと思っていましたが、案外自身の感情には疎いようだ。ですが、そんなところも可愛らしいですよ」
 そうやって突拍子もない軽口を叩くフリンズは、なぜか愉快げに口角を上げて釣竿を振り、波間に新たな餌を放つ。それを見送るように顔を下に向けると、揺れる水面に映る自分の姿はどこか困ったように眉を下げていた。


 フリンズが魚を釣り上げたあとも、シャルルは少女の亡霊と話し続けていた。「あの魂に、彼を連れて行けるほどの力はありません。好きにさせましょう」冷静にそう告げて家路につくフリンズの背中と、楽しそうに少女の相手をするシャルルとを交互に見比べて、――邪魔をするべきではないと、よくわからない焦燥を抱えながらフリンズのあとを追った。どうして今、シャルルの隣にあるのが自分ではないのだろう――頭の隅に浮かんだ疑問の真意は、自分自身分からないままだった。

 その夜。布団に入っても目は冴えていた。見回りをして来なければならないので、と告げてフリンズが家を出てから既に久しい。
 フリンズが家を出たことにも気づいていないシャルルは、今も俺の隣で深い呼吸を繰り返している。途中まで間にフリンズが寝ていたせいで中央にぽっかりと、距離がある。温もりの遠い布団の中で、ただ、意識だけを暗闇の中に泳がせていた。
 またシャルルはあの子供の亡霊と遊ぶのだろうか。ふとそう思って指先が少しだけ震えた。他者に対して柔らかな愛情を見せるシャルルの様子が脳裏に過ぎって、なぜかそれだけで、胸の奥が痛むような感覚が走る。
 きっと、――心配なのだと思う。シャルルに何かあって欲しくないと思っているのだと思う。だけどそれは心にしっくりこなくて、自分の気持ちであるはずなのに遠くに感じて。言葉にならない微かな不安を抱えながら目を閉じても眠れない。
 もう一度ゆっくりと瞼を開くと、少し離れたところに変わらず、シャルルの寝顔があった。俺にとってシャルルは好奇心旺盛で子供っぽさを感じさせることが多いが、眠っているときに至ってはなおのこと幼く見える。
 髪が少しだけ乱れているその顔をまじまじと見つめると、ゆっくりと喉が上下に動くのが見えてしまって。口の中の唾液を飲み込んだ。
「……シャルル」
 いつも、彼が俺を抱きしめてくれるから。俺との距離を詰めてくれるのはシャルルの方だから、俺にはこの距離を埋める術がまだ分からない。少しの後ろめたさと緊張を覚えながら、体を寄せた。
 ふわりと鼻腔を掠める石鹸の香りは、同じものを使っているはずなのに自分とは少し違って感じた。同じような白い肌のはずなのに、シャルルの頬はふっくらと柔らかそうで。
 布団の中で伸ばした指先でそっと頬に触れる。己の指の腹に暖かな血を感じた。
 その温度を確かめたら満足して離すつもりだったのに、そのまま耳まで滑らせて親指で擽ってしまった。するとシャルルの睫毛がぴくりと反応する。
「ん……」
 小さな声と共に薄い唇が開いて。
 ――傍にいたい。でも、俺にはこんなときにどうすれば良いのか分からない。
 もっと寄り添いたいと思うのにシャルルの身体を引き寄せる勇気もなく、ぎゅっと握り締めた拳を緩めることもできなかった。この行動を咎められることも怖くて仕方ないのに、触れずに居続けることもできない。
 そんな葛藤を抱えながら小さく身を縮こまらせていると、ふいにシャルルの体が動いた。ぱっと反射的に手を離し息を飲む。少しの間を置いてシャルルの瞼が持ち上がっていく。
 ゆったりとした動作で青緑の瞳が姿を現した。シャルルは眠気に誘われながら瞬きを繰り返し、俺を見つめて目元を緩ませる。
「……ロスト」
「ぁ……」
「どうしたの……寂しそうだよ」
 シャルルの声は眠たさからか少しだけ舌っ足らずだった。その柔らかな声色に甘えるような気持ちになりながら、つい視線を逸らしてしまう。
「……すみません、うまく、眠れなくて……」
「そうなんだ……大丈夫だよ、ロスト。一緒に寝てたら、いつか眠くなるよ」
 そう言ってシャルルは片手を伸ばし、俺の体を抱き寄せる。抵抗しようと思えばできたのにそうしなかったのは、きっと内心では強く望んでいたからだ。
 シャルルの体はとても温かい。ここの主であるフリンズの体温が低いから、余計そう感じる。とくとくと触れる心音が同じ熱を促すようで、心が溶けていくような安心感を得た。先ほどまでの不快なざわつきが徐々に沈静化していく。
「旅を……してたときの、はなしを。聞かせてたんだ」
「……。今朝の、亡霊の少女に、でしょうか」
「うん……彼女、大人になったら、冒険者に、なりたかったんだって」
 向き合ったシャルルは俺の両手を柔らかく握りながらゆったりとした口調でそう呟く。目は閉じられているけれど気配で俺が起きているのを察しているのか口角だけがゆるくあがっていて、眠気に抗うその様子に少し笑みが零れながら、「そうでしたか」と頷いた。
「話すと……外に、出たくなるね」
「……」
「旅がしたいなぁ、ロストと、一緒に……来たいって言うならべつにだめって、言わないから、フリンズも、ついてくれば、いいのに……」
 ぽつりぽつりと零される言葉に耳を傾けながら、己の手を握るシャルルの手を指を絡めて結び直し、緩く握り返す。所謂恋人繋ぎと言われるこれが、自分の中で精一杯の距離の詰め方だった。
「シャルルには……大空の下が、とても似合います。だから――私はひとりでも、平気ですから……シャルルは自由に、飛び立ってもいいのですよ」
 本心からそう伝えるとシャルルは緩慢に目を開いた。澄んだ青緑。微睡みにある瞳はしかし意志が強く、やや怒りを滲ませて咎めるような視線を俺に向ける。心臓を射抜く鋭さにたじろぐ俺の手に、絡んだ指先の力が強くなる。
「……そういうことを言うロストは、きらい」
「え」
「俺は、ロストと一緒がいいって、言ってるのに。あんたが好きだって、伝えてるのに。……それをなかったことにして、きみのためだ、なんて顔で、俺を突き放そうとするロストがきらい」
「……っ」
「一緒にいたいって思ってるのに……ふ、大体みんな、好きに生きろって。誰も手なんか、繋いでくれないんだ……」
「……、シャルル、俺は、……」
「……ごめんね。変なこと言った。きらいなんてうそだよ。ロストのことは、大好き。……もう寝よう。おやすみ」
 繋いだ手をほどいて、シャルルは俺を抱きしめる。温もりはあるのに、手先から消えた熱が惜しくて切なくて、ひどく胸が痛かった。ぎゅっと服の上から自分の胸を押さえつける。
 シャルルのことが大切だと思っているのに、彼のためを想って口にした言葉が彼を傷つけてしまったことに涙が出そうになって堪えた。苦しくてたまらないのに何も言えず、ただシャルルの寝息に耳を傾けていることしか出来なかった。
 ――きちんと欲しいと示して繋いでおかなければ、すり抜けてしまいますよ
 不意にフリンズの言葉が過る。
 シャルルの首の、鎖のない青の首輪が目に入る。俺の首に赤色のものがあるように、歪なお揃いだと、そう思う。背に回った手。俺を抱きしめる腕。それのどこも、俺は握ってなどいない。
 もしもこの手を解かれたら、シャルルは容易くどこかに行ってしまうのだ。彼に良く似合う空の下。たとえば今朝のように、俺ではない誰かと、手を繋ぎ。今更気づいてしまったその事実は、暗闇の中に溶けていった。


 翌日の朝。目が覚めると自分はシャルルの胸元に強く顔を押し付けていた。というよりも、シャルルに強く抱きしめられていた、の方が正しいか。身動きが取れない。顔を上げることも難しいが、とりあえず無理矢理首を捻って横を向く。壁に掛かる時計は七時を示していた。
「おはようございます」
「っ! ……お、おはよう、ございます……」
 シャルルの後ろ。少し高い位置から降ってきた声は、フリンズのものだった。いつの間に帰ってきていつの間にそこに体を横たえていたのかわからないが、シャルルの後ろから俺まで抱き込む形で抱擁しているようだった。やけに力強く抱きしめられている、と思ったのはこの人のせいだったらしい。
「相変わらず、シャルルはロストに執心しているようですね」
「な、なにを……」
「いえ。昨晩二人の間に入ろうとしたら、シャルルから腕を引っかかれたもので。仕置はしましたが、気の強い子猫は、どう躾けしたものかと、悩みものですね」
 フリンズの長い指がシャルルの首に添えられるのを見て思わず顔を強張らせる。
 シャルルの寝息は規則正しく続いていて、起きる気配はなさそうだ。
「……シャルルに乱暴をするのであれば、私が、盾になります」
「ふふっ。随分と健気なことを言いますね。僕が本気でシャルルを害そうと考えるのであれば、まず初めにあなたを壊しますよ。彼は随分と、ロストに依存しているようですから」
「……」
「いえ、冗談です。戯言を許してください。あなたのその表情も素敵ですから。……ですがロスト。シャルルとはもう少し意思疎通を図ってください。……手放せばいつ、また手元に戻るかなど、誰にも分からないのですから」
「……分かり、ました……」
「良い子ですね。朝食を作る間、その寝坊助を起こしておいてください」
 言葉の真意をよく理解しないまま、ひとまず頷いた俺のことなど、フリンズはきっとお見通しだっただろう。
 フリンズの大きな手が俺の頭を撫でたあとゆっくりと離れていき、寝台に残されたのは俺とシャルルのみとなる。背に回っていた温もりは消えてしまい、改めて、俺を包むのはシャルルの体温のみとなった。
 シャルルは脱力していて拘束から逃れるのは容易い。しかし、今の自分はまだ抜け出す気になれない。背に回っていた手を一本とって、己の手と手のひらを重ね合わせた。指同士を絡めて力を込める。まだシャルルは、寝息を立てている。
「……ほかの誰でもなく、俺の手を、とってほしいと言ったら、……シャルルは困り、ますか」
 昨晩は眠りについてしまったシャルルに言えなかった言葉。この手を離されたくないという気持ちが溢れ出し、ぽつりと呟く。聞こえていなくても構わない。ただ形になった思いを口に出したかった。それだけの行為だ。
「困らないよ……」
「!」
 しかし声が帰ってくる。
 はっと顔を上げる。目の前のシャルルは寝ぼけ眼でこちらを見つめていて。互いの額がぶつかる距離にある瞳がじっと俺を捉えている。恥ずかしさが込み上げてきて頬に朱が昇るのを感じながら慌てて顔を俯けた。
「お、起きていたのですか……?」
「うん……まだ、ねむいけど……」
「……。すみません……」
「なんで謝るの」
「……」
 シャルルがこつんと額を合わせる。吐息が混ざる距離に思わず呼吸が止まりそうになる。
「シャルル……」
「ロスト、だいすきだよ。ロストと二人で行きたいとこたくさんあるんだ。……フリンズもまあ、連れて行ってあげても、いいけど」
「……フリンズに聞かれてたら、怒られそうですね」
「カルシウムが足りないんだ、フリンズは……血色だって悪いし……今度ナシャタウンで、粉ミルクでも、買ってきてやろうかな……」
「ふ、……」
 フリンズに対しての不満は尽きないようで、彼のこととなると悪口とも言えないものを饒舌に紡ぐシャルルに、小さく吹き出してしまった。
「ロストには、お砂糖を……買ってきてあげるね」
「……」
 眠たさに負けそうなのか解れそうになった指先を慌てて繋ぎ止める。するとシャルルもまた、応えるように微かに、指先を震わせた。
「……あの、シャルル……」
「うん……?」
「……俺は、シャルルと二人の時間を、長く……持っていたいと思います。だから……シャルルが空の下に行くなら、……俺もそこに、並びたい」
 精一杯の言葉だった。思っていることを口にするのは、我儘になるというのは、こんなに難しいものなのかと実感した。
 緩やかに細められた瞳は愛おしそうにこちらを見ている。真っ直ぐな愛情。まるで偽りを知らないその純粋な瞳が、少し、眩しい。
「うん。……つれていくよ。手をつないで、ロストを……」
「……あ。起こすように、言われてるんです。寝ないでください、シャルル……」
 言葉ではそう言いつつ、その実、俺は微睡みにもどるシャルルを引き戻そうとしていなかった。今ここでシャルルを起こしてしまえばこの時間は終わってしまう。もう少しこの温もりを独占していたかった。
 抱き合って眠る俺たちにフリンズが呆れて、叱りつけに来るまで。その幸福な時間は続いていた。