怒りのままに地面を踏みつけていたがほんの少し行った先でヴァレリーの歩みは止まった。昨夜、ほとんど真っ暗な中この森の中を歩いてきたものだから周囲に見覚えなんてものはないし、これ以上歩くと、引き返せなくなり、この森をさまよう羽目になる気がしたからだ。
「……」
 森は森閑としている。すうと息を吸い込む。空気は澄んでいた。
 そういえば昨日歩いていた時は真夜中だったのに小屋まで迷わなかった。思い返せばあのハリネズミ、まるでランプのようにほのかに光っていたような。
「……はあ」
 ヴァレリーは大きくため息をついて、ちょうどいいところにあった切り株に腰掛けた。
 昨日からずっと非現実的な体験が続いている。
 一瞬にして住んでいた町を焼き払われ天涯孤独の身になった。
 羽根なんてないのにふわふわとハリネズミが宙に浮いた。
 使えないはずの治癒魔法が成功した。
 殺人鬼を、自分の愛する人たちの仇を、あろうことか治療した。
 そしてついさっき、そいつを平手打ちして、勢いよく小屋から飛び出してきた。
「…………はぁ」
 またため息が出た。
 怒りがやや収まり冷静さを取り戻す。ヴァレリーは自分がこれからどうすればいいのか全く想像がつかない。これから、というのは長期的なものもあるが、たった数分先のことでもある。
 ここにいたって仕方がないからあの小屋に戻るべきなのか。でもそうするとあの男とまた対面するのだ。それは嫌だ。なら森をぬけてどこか人の住む町を探すのか。なんの荷物もなく一人旅。それはどう考えても無謀に思えた。
「キュッ」
「わっ! ……ついてきたんですか」
 耳のすぐ側で鳴かれてヴァレリーは肩を跳ね上げたが、ふよりふよりと浮遊しているハリネズミを見るとすぐに力が抜けた。
「……。君はあいつの手下なんでしょう」
「……」
 威嚇の一つや二つしてくるかと思ったが無反応だった。ふわふわと浮いていたハリネズミがゆっくりと降下してヴァレリーの膝に乗る。ヴァレリーは動揺したが、ハリネズミを叩き落とす気にはならなかった。
 しばらくぼうっと森を眺めた。たまに吹く風の音以外は特に聞こえるものはなかった。
「俺はどうしたらいいんでしょうかね」
 ぽつりと呟く。
 ヴァレリーは膝にのったハリネズミからの視線を感じたが、あえて見ずに、遠くを眺めたまま続ける。
「俺、君のご主人がとても憎いです。殺してやりたいです」
「……」
「でも殺せない。殺したって何も解決しないとか、ちゃんと法で裁かれて罰を受けてほしいとか、そんなんじゃない。たぶん、……人を殺すのが、怖いんです」
「……キュー」
「君にとめられるまで夢中で殴ってたときはそんなこと、思いもしなかったんですけどね。いざ人の死に直面すると、……やっぱり怖かった」
 そっと視線を落とす。
 ハリネズミは小さな体を震わせて、なにやらヴァレリーを励ましているようだった。毛並みにそってその背中を撫でる。手のひらに優しいぬくもりが伝わる。命のぬくもりだ。
「……どうしたいんだろう」
「キュ」
「俺ね、昨日までの幸せな毎日がずっと続くと思ってたんです。すごく裕福だったとかじゃないけど、家族がいて、友人がいて、毎日が楽しかったんです」
「キュー……」
「君は、君のご主人がしたことをどう思いますか? 止めようと、思いませんでしたか?」
 背中を撫でるのをやめて返答を待つ。
 ふるると身を揺すったハリネズミは、じっとヴァレリーを見上げていたが、どこか悲しそうに、どこか申し訳なさそうに、しゅんと視線を落とした。
「……すみません。君を責めるつもりはないんです。それに君には、少し……難しい話だったかもしれませんね」
 よしよしとまた背中を撫でてやる。そのままハリネズミを両手で包むように持ち上げ、ヴァレリーは立ち上がった。
「戻りましょう」
「キュ?」
「きっと君のご主人、君のこと心配してるでしょうしね」
「キュー」
 日はまだ高く、道に迷うことは無い。それにきっと迷っても、手のひらの中の親切なハリネズミが案内してくれるのだろう。ほんの少しだけ軽くなった足取りでヴァレリーは男を一人置いてきた小屋へ引き返した。

 ヴァレリーは恐る恐る木の戸を引いた。キィとどうしても音が鳴った。隙間から姿の見えるジグルフにもきっと聞こえただろうし、ヴァレリーの気配にも気づいているだろう。
「……」
 ヴァレリーがここを去る前と変わらず、ジグルフは椅子に腰かけていて、机にはヴァレリーの食べかけのパンがそのまま残っている。
「……。も、戻りました」
「……」
 何も声をかけないのも気まずく、声を振り絞ってみた。
 ジグルフは緩慢にヴァレリーの方を向いて、彼が椅子を引いて肩身狭そうに座るさまを、じいっと眺めている。
「……」
「……」
 無言だ。とても、居心地の悪い無言。しかも今回はジグルフの関心がヴァレリーに向いている。興味なさそうに窓の外でも見ていてくれたらいいのに、なぜか、今に限ってヴァレリーを見ている。
 ヴァレリーは床に視線を逃がしながら、手のひらに包んだハリネズミの様子を見た。助けを求めるためだ。
 ……だった。が、
「…………」
「……!!」
 寝ている。このハリネズミ、ヴァレリーの手の中ですやすやと眠っている。
 た、助けて! ハリネズミちゃん!
 ヴァレリーは胸の内で叫ぶ。彼がいないとこの重い沈黙は破られないのに、なんでこんなにぐっすりなのか。
 いったい何を話せばいい。ジグルフとできる会話なんて思い浮かばない。
 何を言えばいい。さっきは、さっきは――。あ。
 さっきは平手打ちしてすみませんでした。
 そうだ。
 これでいこう。
「……眼球片方で100万にはなると思うんだよね」
「は?」
「俺の目って綺麗でしょ?」
「はい? はっ? ……いや、まあ」
 ヴァレリーは手の中で寝ているハリネズミを机の上におろす。ジグルフも一度はそちらを見たが、またヴァレリーに視線を向けた。
 意外にも沈黙を破ったのはジグルフの方だった。が、会話の内容はずいぶん突拍子がない。ヴァレリーは素っ頓狂な声を上げ、じっと自分を見つめてくるジグルフを見返した。
 右目はいつつけたのか眼帯をしていて見えない。いままでも意識してはいなかったけど、彼は前髪が少し長いから、眼帯がなくとも右の方はわからないだろう。代わりによく見える左目の方は、淡いグレーをしている。綺麗でしょう、と自信満々に言われた言葉に同意するのは癪だが、彼の言うとおり、きちんと見てみると宝石のように綺麗だ。
「綺麗、ですね。……」
 ヴァレリーはジグルフからサッと目を逸らした。
 綺麗、と。口にするとなんとなく気恥ずかしくなった。
「売れば100万はいくと思うんだよね。普通、それも片方だけなんて10万にもならないんだけど。ほら俺の場合はさ」
「…………。……綺麗だから?」
「そう! わかってるじゃん」
 ニコニコと嬉しそうに口角を上げ、頬杖をついたジグルフはヴァレリーを見つめている。
 なにが、わかってるじゃん! だ。今のは明らかにヴァレリーに「綺麗」と言わせるために誘導していた。きっと、綺麗と口にしてまごついているヴァレリーがおもしろかったのだ。
 この男、嫌な性格をしている。ヴァレリーは内心でこの性悪め、と悪態づいた。
「で。なんです?」
「だから売ると100万はくだらないんだって」
「はいはい。随分価値があるわけですね。お前の綺麗な瞳とやらは」
 まともに相手をするだけ無駄だとさすがのヴァレリーでも気がついた。彼は、おかしいのだ。あんな残虐な行為に及んでおいて、その被害者の前でケロリとしている時点で異常だが、なんというか、そもそもの話、ジグルフは、普通ではない。無機質だ。感情がない……とまでは言わないが。ほとんどない。感情のない相手にこちらが怒鳴りつけて怒りを見せたって、疲れるだけだ。
 ヴァレリーは大きなため息をついた。
 ジグルフはそんなヴァレリーに首を傾げたが、話を続ける。
「この森をぬけた先に大きな町があるんだ。こんな犬小屋よりいい家だってある」
「……」
「明日一緒に行こう」
「は……」
 ヴァレリーは拍子抜けした声を出した。
 自らの拠点を犬小屋なんて呼んだことにも驚きはしたが、それよりも、次の発言の方が衝撃だ。
 一緒に行こう。
 一緒に。一緒に――?
「え。いや……。というか、町に行っていい家があったって、俺、無一文なんですよ? 買えやしないじゃないですか」
「だからさっきも言ったじゃん。100万はくだらないんだよ?」
「はい?」
「どんなに明るくて素晴らしい町にも一般人が知らない暗い部分はあるんだよね。ぜひ、いい買い手を見つけよう」
 ぱちんと指を鳴らしたジグルフはやけに上機嫌だ。
「もちろん俺は1ギルたりともいらないから、全部君が受け取るといい。さすがに両方なくなると何も見えないから――代金は、受け取れたのをちゃんと確認できるよう、先払いにしてもらわないとね」
「……待ちなさい。ちょっと、お前。何言ってるんですか? もしかして、お前の左目を売って、お金にしようって話してるんです?」
「はぁ? そうだけど。待ったもなにも、ずっとそう話してるのに、もしかして今わかったの?」
 呆れた、と付け加えられるが、ヴァレリーはそれに言い返す余裕もないぐらい、衝撃を受けていた。
 なんてないようにペラペラ語っているが、この男、自身の瞳を抉り出して売ると言っている。臓器販売、というやつだろう。しかも――さすがに両方なくなると何も見えない。そういっていた。右目がないのか、視力がないのか。どちらなのかヴァレリーにはわからないが、ともかく、左目を失うと視覚を失うのに、そんな恐怖を微塵にも見せず、妙案だと言わんばかりに飄々としているのだ。
「心臓だと死んじゃうじゃん? 目ぐらいがちょうどいいかなって。目がなくなっても視覚ぐらいならどうとでも補えるし」
「……、……」
「おーい」
 固まったヴァレリーの顔の前に、ひらひらとジグルフが手を振っている。
 ひらひら。
 ひらひら。
 ヴァレリーは急にその手を掴みあげた。勢いを裏切らず、そこそこの力だ。ちょっとだけジグルフが痛みに眉をひそめた。
「……お断りです」
「? なんで」
「そもそも、俺の復讐劇を見届けたいっていってたくせに、目が見えなくなってどうするんです?」
「確かに。目が見えないと見届けられないね。じゃあ腎臓にでもしようか」
「ダメです」
「じゃあ」
「俺はお前の世話になるつもりはありません」
「……」
「自分が生きるためのことぐらい、自分でできます」
 ヴァレリーは、掴んでいたジグルフの手を荒っぽく離した。
「町には行きますから。こんな犬小屋にいつまでもお前と二人っきりにされるのはたまらないですしね」
「……。そうだね」
 妙にしおらしい声だったので、ヴァレリーはハッとしてジグルフを見る。目を伏せている彼は、声音通り、おそらくではあるが、落ち込んでいる。
 悲しませた? ヴァレリーは慌てた。なぜ慌てる必要があるのか彼自身わからなかったが、焦ったのだ。声をかけようとして言葉に詰まった。ヴァレリーはジグルフの名前を知らない。
「じゃあ」
「え?」
 ジグルフは机の隅にあったメモとペンを手元によせ、なにやら書き込んでいる。何を書いているのだろう、と。ヴァレリーが顔を寄せようとしたところである。
「ここで、待ち合わせにしようか!」
 バン! と音を立ててメモ用紙がヴァレリーの前に叩きつけられた。机が叩かれた拍子に、ハリネズミが跳ね上がった。気持ちよく寝ていたというのに、キュウッ! と情けない声をあげて飛び起きたのだ。可哀想なことである。
「テレポもできない、この森の土地勘もない、ヴァ、レ、リー、サ、ン!」
「!?」
「俺は先にテレポで向かうから。自分が生きるためのことは自分でできる、ご立派な怪力男なら、何十日とかければ、場所も知らない町にきーーっと、たどり着けるだろうね!」
 急なジグルフの気迫にヴァレリーはしばらく飲み込まれていたが、席を立って付近にあった肩掛けカバンに早速必要なものを放り込んでいくジグルフの様子を見て我に返る。
「な、なっ……!!」
 ヴァレリーは想像した。
 この知らない森をぬけて、知らない町にたどり着く自分の姿を、想像……しようとした。
 絶対に無理である。
「む、無理です!」
「へー」
「ぐっ……!! おっ俺も! 俺もテレポで連れて行ってください!!」
「俺の世話にならないんじゃないの?」
「……。……お世話にナリマス」
「ふん」
 ヴァレリーにリュックサックが投げつけられた。
「明日すぐ出るから。なんかいりそうなもの詰めといて」
「……。はい」
 今回ばかりは分が悪いのでヴァレリーは大人しく従った。
 事態の飲み込めないハリネズミがふよふよとヴァレリーの周りを浮遊し心配そうにしている。
「……おいで」
「キュ」
 ハリネズミはヴァレリーの手のひらに乗った。手がふさがってしまっては作業が出来ないので、上着のポケットにいれてみた。モゾモゾと動いたあとはおとなしい。どうやらポケットの中が気に入ったようだった。
 ヴァレリーはジグルフの名前を知らないが、ジグルフはヴァレリーの名前を知っていた。ヴァレリー自身、ハリネズミに名を語った覚えはある。ついさっきのことだ。ジグルフもその場にはいた。会話に参加してなかったくせに、話を盗み聞きしてはいたのだ。嫌な奴だ。
「……」
 そういえば、ジグルフはどこで待ち合わせしようとしていのだろう。
 ヴァレリーは机の上のメモ用紙を見た。
「……!! 性格、わるっ!!」
 再三思っていた言葉がついに声に出た。

 魔法音痴

 嫌味なぐらい綺麗な文字で、そう書かれていた。