上司が隣に越してきました
公安部と警備企画課を行き来し始めて半年。降谷さんが言った通り、人数が増え賑やかになっていた。
「そういえば、明日からでしたっけ」
「行くなよ?」
「行きませんよ!ちょっと見てみたいですけど…まだ死にたくありません」
明日から我が上司は米花町にある喫茶ポアロでアルバイトを始めるのだ。本音を言えばめちゃくちゃ見たい。だが、許されない。見ようものなら、私の明日は無いだろう。
「お前なら大丈夫そうだけどな」
「それ、どういう意味ですか」
「鈍い!」
「鈍臭い!」
「同じ意味ですよね!?」
仮にもゼロ直属の部下であるのに、鈍いってマズイでしょ。今、この場に降谷さんが居なくて良かった。絶対あの形相で小言を言ってくるんだから。
「安室透」
「へ?」
「降谷さんの偽名だ。覚えておくように」
「…あむろ」
あれ、何処かで見た気がする。最近目にした筈なんだけど、何処だったか思い出せずにいた。思い出せないって、凄く気持ち悪いしモヤモヤするから是が非でも思い出したい。
「あーー。思い出せない!どっかで見た気するんだけどなあ」
「気がするだけだろ。後はやっておくから、蒼井はもう帰れ」
「何でですか?」
「蒼井ちゃーん、何日目?」
「んー、三かな?」
「降谷さんからの指示だ。帰って休め」
降谷さんの名前を出されると反論なんて出来るわけない。三日くらい家に帰って無いから何だっていうのさ。睡眠は仮眠室でちゃんと取ってるし、シャワーだって浴びてる。別に家に帰らなくても平気なのに。
「納得してないって顔だな」
「してませんよ。してませんけど、仕方ないですから」
「ゆっくり休めよ」
きっと明日から鬼のような忙しさが待ってるに違いない。うだうだ考えてないで、帰って休もう。明日のために。
まだ手を付けていない例の件の始末書を風見さんに渡し、三日振りの我が家に帰宅する。上着を脱ぎ、ブラウスのボタンを二つ外し、ソファに身を投げる。
「やっぱ、家が一番だ」
心の底から出た言葉に、笑ってしまう。ついさっきまでは文句しか考えていなかったのに。もう少しこのままでいたいが、さっさと着替えてしまおうと立ち上がるとタイミング悪くインターホンが鳴る。
「…はい」
「隣に越して来た者ですが…ご挨拶に」
「ちょっと待って下さい」
両隣りいなくて静かだったのにな、と思いながらドアを開けて全思考が停止した。見知った人が、恐ろしいくらいの笑顔で立っているからだ。
「隣に越して来ました。安室透です。宜しくお願いしますね、蒼井さん」
「は…っ、」
「宜しければ、此方をどうぞ」
「……」
「では、僕は失礼します。まだ荷解きも残ってますし」
「はっ…い」
放心状態のままドアを閉める。降谷さんに渡された紙袋を覗くと、数日前に私が食べたいと騒いでいた今話題のワッフルが入っていた。もしかして…あの時私が食べたいって言ったから態々買ってきてくれたのだろうか。止まっていた思考は完全に動き出し、都合の良いように解釈していて、自然と鼻歌が出そうなくらい上機嫌なのが自分でも分かる。
「…ん?」
もう一度袋を覗くと白い紙が見え、恐る恐る開いてみた。とても素晴らしく見やすい字で「降谷の名は外で口にするな」と書かれていた。分かっていますとも。寧ろ公言してはいけないなら、事前に教えて頂きたかった。文句の一つでも言ってやろうかと降谷さんの名前を探していると、探している筈の降谷さんからの着信が鳴って驚いた。あの人、隠しカメラとか仕掛けたんじゃないだろうか。
「蒼井です」
『落ち着いたか?』
「事前に言って下さいよ」
『忘れてた』
「絶対嘘だ!」
『ちゃんと食えよ』
「あ、ワッフル!有り難う御座います!」
『偶々通り掛かったからな』
「それでも嬉しいです」
自分の耳を疑いたくなるくらい、聞いた事もないような優しい声色で良かったと降谷さんが言うもんだから正常だった思考が再度停止しそうになる。
『風見から聞いてるか』
「明日からだと聞いてます」
『暫くそっちに顔を出せないが、頼むぞ』
「はい」
『それと、飯はちゃんと食えよ』
「降谷さんこそ」
『ああ』
「休める時に休んで下さいね」
『蒼井もな』
私達を取り仕切るゼロ。例の組織に潜入し動くバーボン。そして、明日からは喫茶ポアロの店員の安室。幾ら降谷さんでも、身が持たないのではないか。私だけじゃなく、風見さんや他の降谷班の人達も心配しているだろう。切れた電話を握りながら、改めて思う。少しでも降谷さんの役に立ちたい、と。