7

 


第二次世界大戦が終わり、アメリカはかつてない好景気の時代へと突入していた。

「アメリカンドリーム」「アメリカの黄金期」。

この時代のアメリカは古きローマの時代にちなみ「アメリカによる平和パクス・アメリカーナ」と評され、人々は消費的文化を謳歌し、繁栄を極めていた。
しかし光が強ければ強いほど、影はよりいっそう濃くなるもの。
1950年代は眩しい光と暗い影の両極を併せ持つ時代でもあった。
人種差別に米ソ冷戦、宇宙開発競争…。
第二次世界大戦が終結しても、根本的な問題解決は何一つとしてなされておらず、社会には多くの問題が渦巻き、人々を蝕んでいた。そしてその不安を忘れようとさらなる喧騒を求める人々の姿もまた、戦前と滑稽なほどになにも変わってはいなかった。




さて。
千舟が演じるアリエル・デービスはそんな時代の真っ只中に生まれ、育った若者である。
出身はカンザスの田舎町。
先の世界大戦で父を亡くし、母もまた心労で倒れ、帰らぬ人となってしまった彼には幼く病弱なたった一人の妹がいた。
この妹を養うために彼は職を求め、大都会ロサンゼルスへとやってくるのだが学歴もなければコネもない若者を雇ってくれるほど世の中は甘くはない。悲しいがそれが現実である。


結局、アメリカンドリームを夢見た若者は、妹のために上京してわずか一年ほどでストリートギャングへの末端へと身を落としたのだった。


仕事は主に薬物や武器の運搬。
アリエルは学のない青年だったが、腕っぷしだけは強かったため、それなりに重宝はされていた。だから毎日身を粉にして働くことで妹に仕送りする程度の金は稼ぐことはできていた。

…しかし一方で悪い仲間とつるむ彼の私生活は荒れていくばかり。

朝まで飲んで、騒いで、暴れて遊んで…。
酒が抜けたら仕事をして、また酒を飲む。毎日がこの繰り返し。きっと自分は死んだら地獄に落ちるんだろうな、…なんて本人ですら思っていしまうほどに不道徳で不埒な日々。

陽の光が当たらない人生。
破滅の道を歩む彼の日々はこの先もずっと変わらないはずだった。

その男に出会うまでは。


「君がアリエル・デービスか。君の仲間について少し話を聞きたいんだが…50ドルでどうだ」


私立探偵を営む男、ケイレブ・ハント。
彼との出会いはアリエルの人生を大きく変えることとなる。


当時、ケイレブがこなしていた依頼はアリエルの属する組織の一人の調査だった。その調査のために声をかけられたことでアリエルは彼と関わるようになり、最終的にはケイレブに誘われ、ギャングを足抜けして彼の探偵事務所に雇われることになるのだ。


ケイレブは彼に対して父か兄のような親しみをもって接していたし、アリエル自身も彼のことを信頼できる兄貴分として、また恩人として心の底から彼を尊敬していた。
ケイレブはアリエルをよく気にかけ、よく可愛がった。それはもう、周囲が不思議に思うほど。どうして彼がそこまでアリエルを気にかけていたのか。

その理由はケイレブの過去にあった。

ケイレブには先の大戦で軍人として徴兵され、欧州で軍人として戦っていた過去がある。その際にケイレブの上官を務めたのが何を隠そうアリエルの亡き父だったのだ。
アリエルの父はケイレブら自身の部下をドイツ空軍の爆撃から守って死亡した。いわばアリエルの父はケイレブの命の恩人だったのだ。ケイレブはアリエルを助けることにより自らが抱える罪への贖罪を行っていたのである。

そして本編。

…アリエルはここ最近、なんだかおかしい。

常に浮かない様子で、なにをしていても上の空。普段はしないようなミスを連発し、簡単な尾行任務すらも失敗していた。彼の様子がおかしいことは皆知っていたが、それぞれ忙しいため追及する暇もない。
そうしている最中で起きたのが物語の主題になる事件だ。
その事件の調査の一環としてアリエルは被害者女性アデルの身辺調査を任せられ、情報収集に勤しむこととなるのだが、そんな彼に不穏な影が近づく…。

その影の正体は本編の悪役、マクシミリアンである。
ケイレブたちのことを脅威に感じた彼はケイレブらを陥れるため、裏切り者の存在を欲していたのだ。当然アリエルは彼の求めを撥ね退けるが、マクシミリアンはほくそ笑んで言う。

「もしお前がこちら側につくのであれば、お前の望む額を提示するつもりだ。…妹が、病にかかっているんだろう」
「知り合いの命と家族の命。比べるべくもないだろう」
「君が賢明な人間であることを願っているよ、アリエル・デービスくん」

…事件が発生する数日前、カンザスの知人から一通の手紙が届いた。
手紙の内容は実に簡潔。そこにはアリエルの妹が大きな病を患ってしまい、その治療には莫大な費用が掛かるということが記されていた。
アリエルの妹は兄に迷惑を掛けたくない一心でこのことを隠していたが、日に日に悪くなる容態を見るに見かねた地元の知人が手紙をわざわざ送ってくれたらしい。知人に感謝しながらもアリエルは苦悩する。

妹の治療代は探偵事務所勤めの自分が払えるような額ではない。しかし用意できなければ妹はこのまま衰弱し、死んでしまう。
…妹を助けるためにいったいどうすればいいのか。


アリエルは苦悩の末、最終的に味方が得た情報の全てをマクシミリアンに売ってしまう。しかしその結果、仲間たちが次々と危険な目に遭い、命は落とさなかったものの酷い怪我を負う事態となった。

自らの行いに罪を感じながらも告白することを恐れ、沈黙するアリエル。追い打ちをかけるようにマクシミリアンはアリエルとの約束を反故にし、金銭の受け渡しを拒否。マクシミリアンは彼の妹を囮にし、アリエルに探偵社を裏切り、彼らのことを殺すように命令する。
しかしこれ以上仲間を裏切ることのできないアリエルは全ての事情を書いた紙を探偵社に残し、失踪。相討ち覚悟でマクシミリアンの元へ赴いてしまった。


ケイレブら探偵事務所の者たちはアリエルの残した手紙から全てを理解し、マクシミリアンに囚われた女性ハリエットとアリエルを救うために刑事たちと共謀し、マクシミリアンの元に乗り込む。マクシミリアンとの対決はケイレブの機転と謎の狙撃によって勝利することができ、囚われたハリエットとアリエルも救出された。

しかし、救われたアリエルは浮かない顔をしている。
当然だ。だって本意ではなかったとはいえ、彼は確かに仲間を裏切り、命を危険に晒させた張本人なのだから。

「こんなオレにもう、ここにいる資格はねぇ。…恩を仇で返すようなことをしちまった」

そう言い、せめてもの罪滅ぼしとして探偵事務所を去ろうとするアリエル。しかし、ケイレブたちは彼の事情についてもよく理解していた。彼の行いは決して褒められたものではないが、それでも彼だって妹を守るために必死だっただけなのだ。誰が彼のことを責められようか。

結局彼は仲間たちに引き留められ、探偵事務所で働き続けることにした。


後日談。
彼は妹をカンザスからロサンゼルスへと連れてきた。ロサンゼルスで一番大きな病院での手術が決まったのだ。費用はケイレブが工面してくれた。手術後は妹と共にこのロサンゼルスで暮らしていくつもりだという。
嬉々として報告するアリエルにケイレブは微笑み、心の中でこの最良の結果をもたらしてくれた友へと感謝の言葉を述べた。

「…おい、ケイレブ。この金」
「…金……っどうしたんだ、こんな大金…!」
「お前に渡した訳じゃねぇ。それは、……デービス上官のガキに渡してやってくれ」
「………ナイジェル…お前…」

…実はケイレブが工面した治療費は世界大戦で共に戦った友人、ナイジェルから預かっていた金だった。ナイジェルは彼ら兄妹の父に命を救われた軍人の一人だったため、兄弟の父に報いるために費用を用意したのだという。

「…だが、俺の名前は決して言わないでくれよ。この金だって、別に綺麗な仕事で稼いだモンなんかじゃ…ねぇからな」
「…わかった」

ナイジェルの想いを汲み、ケイレブはその金の出所については決して口にしなかった。

なんの事情も知らぬアリエルはケイレブへ感謝の言葉を口にすると晴れやかな顔で妹の手を取り、病院へと二人で向かう。
きっと彼の妹はその後、快方へ向かうだろう。

悩み、間違い、失敗して。
愚かな行為に手を染めながらも決して悪には成り切れず、正しい人でありたいと心の底では願う普通の青年。そんなどこの国にでもいるありふれた等身大のティーンエイジャー。それこそが自分が演じる青年、アリエル・デービスなのだ。


自分の出番を終え、上手にはけたと同時にアリエル・デービスが自分からふっと離れていくのを感じた。それと同時にどっと体中から汗が噴き出てくる。
はあ、と大きなため息を吐き、何とか心臓を落ち着かせようと胸に手を当ててみるが高鳴りは止まらない。

初日の舞台。どうなることかと思っていたけど、今日の演技は今までの稽古と比べて最高の出来栄えだった。…ケイレブたちと対峙し、罪を告白して謝る場面では自然と涙がこぼれた。本当に青年アリエル・デービスになったような気分だった。

「あの、なほさん」

控えめな声をかけられ、視線を横へとずらすと妹役の優美が少し恥ずかしそうに頬を染めて俯いていた。

「…どうしたの?」
「いえ…あの、…手が…」

その言葉を聞いて、ようやく千舟ははけてからもずっと彼女の手を握り続けていたことに気づいた。そして慌てて握っていた手を離し、どもりながら謝罪を口にする。

「ご、ごめん!」
「いいえ、いいんです。…むしろ、私は…」

優美は己の頬に手を染めて、瞬きをする。言葉の続きを聞こうと黙した千舟だったが、結局優美はそこで言葉を止め、何かを恥じ入るように首を横に振ると「いえ!なんでもありません!…それより」とほてった顔に愛らしい笑みを浮かべて千舟のことを見上げた。

「かっこよかったです、なほさん。私、感動しちゃいました。本当にアリエル・デービスが乗り移ったのかと…」
「え、本当?…そう言ってもらえるならよかった。自信持てるよ」

優美の言葉におべっかのようなものは感じられなかった。心底尊敬しているとでも言いたげなその瞳の輝きに少し気難しくなりながらも千舟は優美とともに楽屋へと戻る道を行く。途中すれ違う仲の良い男性スタッフにも「良かったで」と声を掛けられ、背中がむず痒くなった。

…自分でもそれなりにいい演技ができたとは思うけど。
でも、そんなに褒めてもらえるほどにできてたのかな。役に没入していたから自分ではよくわからない。

そんなことを雑然と思いながら歩けばいつの間にか楽屋の扉の前へと来ていた。扉の隙間からいつもと変わらない組子たちの様子が見えて、少しだけほっとする。

「ただいま戻りましたぁ」

思わず気が抜けた声でそう言うと組子たちの視線が一斉にこちらに向く。

…え、一体どうしたんだ。いつもなら挨拶しても適当に「はい、お疲れー」と返事をしてくるというのに。

不思議に思って首を傾げると同時に楽屋の奥から「よりこ!」という声が聞こえてきて、それと同時に体に強い衝撃が走った。ふわりと香る化粧品と香水の混じり合った匂いと背に腕を回され、引き寄せられる感覚。どうやら自分は誰かに抱きつかれたらしい。

視界の端に目を丸くした優美の姿が映る。

いきなり誰なんだ、と思いながら顔を横に向けて抱きついてきた人物を見る。

「…って…え?ひとさん?」

抱きついてきたのは永久輝だった。しかもなぜか彼女は少し目を潤ませている。その姿を見てなぜ永久輝が、と疑問に思う間もなく千舟はぎょっとしながら彼女へと声をかけた。

「なっ…、ひ、ひとさん!どうしたんですか!なにかあったんですか」
「ち、違う。…なにもない…けど。なほの…」
「私の…?」
「なほの演技がめっちゃよかったから!感動しちゃったんだよぉ、いつからあんなに演技上手になったの!昨日までは棒立ち演技だったのに…!」
「…ん?それ、私褒められてるんですか」

それとも罵倒されているのかなんなのか。

その言葉で感動もなにもかもが吹っ飛んだ千舟に対して、永久輝は未だに目を潤ませている。背中に回す手にぐっと力を込め、肩口に顔を押し付けてくる先輩を見ながら「衣装に化粧がついてしまう」と思う自分は薄情者なのかもしれない。

楽屋にいた他の上級生たちはそんな二人の様子に「ひとこちゃん大げさすぎ〜」「でもよかったよ、おがちー」「成長しちゃって…お姉さん、感動」「お姉さんってかお兄さんでしょ」「というか二人ともラブラブね」「見せつけてくれるんだからぁ」「お熱いことで!ヒューヒュー!」と口々に野次ってくる。

「やっぱり二人ってそういう関係だったの?」

近くにいた上級生がお菓子を食べながら軽い様子でそう尋ねてきた。
やっぱりってなんだ、やっぱりって。
そりゃあ、普通の上級生下級生にしてはパーソナルスペースが近いとは思うけど…。別にそういうんじゃないし!ていうか私たち、女同士じゃないか!
千舟は悲鳴のような甲高い声で「違いますよ!」と否定したが、それを見た彼女はにまにまと笑う。

「焦っちゃって…怪しい」
「怪しくないですよ、別に!」
「別に恥ずかしがらなくてもいいのに…」
「恥ずかしがってるわけじゃなく…ひ、ひとさんも言ってくださいよ!」

ああ言ったらこう言うを繰り返す上級生に少しうんざりして、未だに顔を衣装に押し付けて感動の余韻に浸る永久輝へと助けを求めるが、永久輝はぐずぐずと鼻を啜って全く話を聞いていない。
横でおろおろとしてばかりの優美は役にも立たなさそうだ。
…全くもう!と舞台から戻ってきて早々にため息を吐きそうになる千舟のフォローをしてくれたのは彩凪だった。

上級生ゾーンの化粧前から「ひとこ、その辺にしとき」といつもの柔らかな声をかけてきてくれたとき、思わずほっとしてしまった。

「凪さまぁ…でも…」
「はいはい、あんたの気持ちもわかるけどよりこが困っとるやろ」

そう言ってわざわざ千舟たちの元まで歩いてきてくれた彩凪はやんわりと永久輝を千舟から引き離す。
永久輝は乱雑に目元を拭って「…お芝居、とにかくよかったから。ショーも頑張ろうね」とだけ言い、さっさと自分の化粧前へと戻っていってしまった。
マイペースな永久輝の様子に思わず呆気にとられる千舟の様子を見て、彩凪はやんわりと微笑んだ。

「悪く思わんといてやってな、ひとこのこと。あれでほんまになほのこと心配しとっただけやねん」
「え、…ええ。もちろん。悪く思うだなんて」

むしろいつも迷惑をかけてばかりなのは自分の方だ。
お弁当の件もそうだし、永久輝には世話になりっぱなしで申し訳ない。こんな自分に根気よく付き合ってくれる永久輝には感謝の念を抱くばかりで、悪く思うことなんて決してありえないことだ。

そう言えば、彩凪は「ひとこもすっかり立派な上級生やな。昔は先生たちに怒られてピーピー泣いてたのに」と化粧前で同期と楽しげに話している永久輝を感慨深げに見つめた。

「ひとさんにもそんな時代があったんですね」
「そりゃあもちろん。誰にだってあるよ、そんなの。私にもさきにも…あ、だいもんさんにもね」
「望海さん…想像できないです、なんか」

雪組の二番手、望海風斗といえば当代きっての実力派スターとして有名だ。特に歌は彼女の代名詞といっても過言ではなく、彼女が宝塚随一の歌手だというのは誰もが認めるところであろう。
ダンス、芝居となにをやらせても穴がない彼女は稽古場でもまた常に周囲を牽引し続けてきた。稽古初日の時点ですでに周囲よりも一歩も二歩も進んだ場所にいる望海ができない、なんて弱音を吐くところなんて想像もつかない。

「ふふ、なほはそんなだいもんさんとそんなに関わりないからなぁ。…ああ見えてあの人、結構可愛い人なんやで」
「可愛い…」

可愛いとは。…かっこいいの間違いでは?
思わず眉間に皺を寄せた千舟の顔を見て彩凪は笑うとそれから「さて」と重たげに伸びを一度してから言った。

「そろそろ一幕も終わりやな。二幕の準備、始めな」
「あ…はい!そうですね」

舞台の方から聞こえてくる台詞を聞き、もう幕が下りることを感じながら千舟は大きく頷く。

「なほ、今日のお芝居はほんまによかったで。だけど途中で息が切れたから、そこだけは課題やな」
「え、…は、はい!」
「明日からもこの調子で頼むで」

そう言ってひらひらと片手を振り、去っていく彩凪の背を見つめる。
じわりと湧き上がってくるくる喜び。

…私、ひとさんだけでなく、凪さまにまで褒められてしまった!

そんな思いが胸を駆け巡り、口元が緩まる。隣に立って成り行きを見ていた優美は口パクで「よかったですね」と言ってくれ、さらに思いは極まるばかりだ。

こんな風に言われたらこのあとのショーも、明日からの舞台も頑張るほかないではないか。

そんな思いを抱き、千舟は自らの化粧前へと向かう。
次のショーだってきっと、今までよりずっとうまくできるはずだと思いながら。


 

Top