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笑いあって、他愛のないお喋りをして、ふざけあって。

上級生と下級生というには近すぎたその関係を一体どう言い表せばよいのだろう。ひとつ確かなことといえば、当たり前のようにそこにある人の存在が一体どれほど大きなものだったのか、改めて思い知らされたのは代役公演の決定を告げられてからだった。



「なほ、ひとさんとはあれからどうなん」

同期の星加梨杏にそう尋ねられ、千舟はダンスで火照った自らの体が冷めていくような感覚に襲われた。口元に浮かべていた笑みはすっと消え、きゅっと一文字に結ばれる。何か言わなければならないとは思うものの、口を開いたところで漏れるのは頼りない言葉ばかり。
眉間に皺を寄せ、途方に暮れたような顔をする千舟を見て星加は「こりゃあ重症や」と思いながら頬をぽりぽりと掻いた。

「あんた、ひとさんの代役やろ。そんなんでお稽古の方は大丈夫なん」
「…別に。平気」

絞り出したような一言は不安げに揺れている。演技にしてはあまりにもお粗末だ。

…余計なことを聞いてしまったか。
同期とはいえ少し無神経すぎたかもしれない、と星加は少しだけ後悔する。だからその言葉に「そう、ならええんやけど」と頷いただけでそれ以上言及することはせず、すぐに話題を変えたのだった。


公私共に仲が良く、一緒にいることの多い永久輝と千舟。
毎日飽きずに教室で肩を寄せ合い、楽しそうに話し合う二人が上級生と下級生の垣根を超えて仲がいいことは雪組生であれば誰もが知る周知の事実だった。

しかしながら今、この二人の関係性は変わりつつある。
その原因は言わずもがな、千舟の新人公演主演への抜擢だ。

千舟は新人公演の香盤発表以来、一度も永久輝とまともに言葉を交わしていなかった。
もちろん教室で会ったら挨拶はするし、公演のことについて話し合うことはあるが、あくまでそれだけ。
稽古が終われば永久輝は千舟との会話を避けるようにそばからさっさと姿を消してしまう。よそよそしい永久輝の態度に寂しさと悲しみを覚えるものの、千舟には引き留めるようなことはできなかった。

…だって、永久輝の気持ちもよくわかるから。

永久輝にとって早霧は新人公演初主演以来、お世話になり続けてきた誰よりも尊敬するトップスターなのだ。早霧の退団が発表された日も永久輝は目を赤くして、鼻を啜っていた。早霧の退団公演に懸ける気持ちはきっと千舟よりも強かっただろう。主演を務めたかったに決まっている。
それなのに、新人公演主演に選ばれたのは入団三年目の新人だなんて。

悔しくないはずがない。
辛くないはずがない。
複雑な思いをもたないはずがないのだ。

自分だって永久輝の立場にいたならば、きっと新人公演の配役には納得できなかっただろうし、ましてや新公主演に選ばれた下級生に対して気兼ねなく話しかけることなどできなかったと思う。
永久輝への遠慮から話しかけることもできず、ただ遠くなっていくばかりの二人の関係に頭を悩ませ、時はただ無常に過ぎていく。
結局永久輝との複雑な関係はずるずると続いていき、ついに大劇場公演の初日を迎えてしまった。

化粧前でドーランを塗りながら思わずため息を吐く。
気持ちを切り替えなければならないことはわかっているし、今日がどれだけ大事な日なのかも理解しているつもりだ。だが心とはままならないもの。化粧をしている最中、鏡の端に映る永久輝の姿にいちいち心をざわつかせてしまう自分のなんと弱いことか。

「なほ。手とまってるよ」

隣の化粧前を使っている羽織にそう言われ、千舟ははっとして急いで止まっていた化粧をする手を動かし始める。ぼうっとしてる暇なんてなかった。定刻まであと少ししかないのに。
そんな千舟の様子に呆れたようなため息を吐きながら「間違えてもみあげ描かないようにね」と下掛けの上に転がるペンシルを見て言った。

「もう…、さすがに和物でもみあげは描かないよ。なっちゃん心配しすぎ」
「だって…なほ、なんかめちゃめちゃぼーっとしてるんだもん」

かつら合わせの時間ちゃんと覚えてる?
振り、覚えてる?もう一回台本見たほうがいいんじゃない?

心配げに眉根を寄せて次々とそんなことを言う羽織はまるで母親のようで、思わず「ママ…」と呟けば二人の会話を化粧をしながら聞いていた同期たちがどっと笑い声をあげた。

「なっちゃんが…ま、ママ!ママって!」
「いや、確かに母親っぽいけど!」
「なーこママ!ぶっ…はは!おっかしい!」
「なっ、な…だ、誰が母親だ!なほ、あんた茶化してんじゃないわよ!」

顔を真っ赤にした羽織が千舟の肩をどん、と叩く。
「いったぁーい!」とそれに大袈裟な反応を返しながら、千舟は笑っている同期たちの姿を横目に見た。

これから初日の幕が開くというのに随分とお気楽だ、と思う人もいるかもしれない。だが別に、彼女たちも緊張していないわけではないのだ。彼女たちの気負わない態度は全て今回、永久輝の代役を演じることになった千舟に負担をかけまいとする気遣いだった。

もちろん代役公演のためのお稽古はいつも以上に必死でやったし、リハーサルだって普段よりずっと長い時間をかけて行った。突然決まった代役公演だ。本来この役を演じるはずの永久輝と比べたらそりゃあ雲泥の差があるだろうが…。それでもお客様に見せても恥ずかしくない最低限のレベルには到達しているという自負もある。

…とはいえ。それでも、ここまで大きい代役を頂くのは今回が初めてだから、緊張をしてしまうのは致し方がないことだろう。

もし台詞が飛んだらどうしよう、とか。
振りを間違えて周りの人に迷惑を掛けたら…とか。

掛け合いのお芝居をする大ベテランの専科、悠真倫には「もしも失敗してもしっかりフォローするから安心してやりな」と言われたものの、だからと言って全く気負わずにいられるはずもない。

そんな千舟の思いを察し、自分たちまで不安そうにしてはいられまいと気丈に笑ってくれる同期たちのなんと心強いことか。

持つべきものは頼もしい同期、とはまさにこのこと。
羽織をからかって笑う同期たちの騒がしい姿をぼんやりと見つめ、千舟は浅い吐息を零し、下唇をぐっと噛み締めた。

「みんな…」
「ん?」
「…みんなが同期でよかった」

瞳をうるませる千舟の柄にもない言葉に同期たちは「なによ一体!」と驚きの声を上げ、泣くな泣くなとまだ化粧の施されていない目元にエルメスのハンカチを押し付けた。

「う、…なっちゃん…ごめん、それ…高いハンカチなのに」
「別にいいよ。これ、ファンの方から頂いたものだし。ファンの方もなほの涙を拭った用に使われたって知ったら喜ぶでしょ」
「ええ…そんなことは、ないと思うけど」

羽織の雑な物言いに苦笑いを浮かべながらも、千舟は素直にありがとうと口にした。
こんな風に気にかけてくれる人なんか、他にはいない。同期は本当にかけがえのない存在だとこういう時、痛く実感する。
同期たちに背をさすられながら千舟はスポンジパフを手に取り、自らの顔に舞台メイクを施していく。衣装を同期たちに手伝ってもらいながら身に纏い、床山さんにかつらをかぶせてもらった。
去り際には「おがち、気張りや」といつもお世話になっている床山さんに背を叩かれて鼓舞までしてもらった。古株のスタッフである床山さんは普段は厳しい職人気質の人だから、そんな風に言われるのは初めてのことで気恥ずかしさと共に少しばかりの誇らしさを感じた。

「皆さん、大変長らくお待たせいたしました。雪組組長の梨花ますみでございます。開演に先立ちまして、この公演で初舞台を踏みます、103期50名を……」

表の舞台からは組長の口上ののち、大きな拍手が聞こえてくる。「すみれの花咲くころ」の演奏と共に初舞台生たちの初々しい挨拶が舞台裏にまで届き、それを聞きながら千舟は初日の訪れを改めて実感した。

「皆さん、よろしくお願いします!」

主演を務める早霧の挨拶が初舞台生の口上の裏で朗々と響く。それに対してこれから数か月の間、同じ舞台を作り上げていくスタッフたちが「はいはい、よろしく」と返すのは退団公演とはいえ、いつもと何も変わらなかった。

…騒然とする舞台裏を見つめながら深く息を吐く。

もう、今だけは余計なことを考えずにただ目の前の舞台に集中しよう。これから自分は幕末の時代に生きる商人の青年になるのだ。

そして今、初日の幕が上がる。




 

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