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舞台袖に控え、深呼吸を出番を静かに待つ。
先ほどまで同期は心配して傍にいてくれたが、それぞれ役割もあるし出番もある。羽織が後ろ髪を引かれるようにして立ち去ってからもう10分は過ぎた。
初日の舞台裏はいつも以上の喧騒に塗れている。
あちこちでスタッフたちが駆け回り、多くの声が飛び交っていてその様はまるで戦場のように思えた。袖から表を見れば、そこでは笑顔の早霧が稽古場で見せた以上の演技をもって観客を沸かせている。今回の公演は笑いのある作品にしたい、そんな早霧の願い通り客席からは先ほどから退団公演には似つかわしくないくすくすとした笑い声が響いていた。
「…はあ」
大きく息を吐く。
大一番の出番まであと少し。昨日の稽古ではこれならば大丈夫だろうと演出家の先生にも言われたし、自分でも永久輝には到底及ばないもののそれなりに様にはなっていると思う。
それでも不安だ。舞台がつつがなく進むごとに不安は増す。
初日に向けて代役の穴を埋めながら皆でどれほど頑張ってきたか。…その努力を自分のせいで無に帰すわけにはいかない。
舞台が暗転し、場面が移り変わる。
あと5分もしないうちに自分の出番が訪れる。
…ああ、いやだ。心臓が嫌なほどに高鳴る。握り締めた右手には汗がにじみだし、唇がわなわなと震える。
お客様は一体、代役の自分をどう思うだろうか。永久輝のほうが良かったと、見るに堪えなかったとそう言われてしまわないか。
嫌な想像が頭を駆け巡り、俯いた瞬間に思わず手に持っていた小道具の起請文を床へと落としてしまう。
軽いものだからちょっとした風に吹かれて舞台の方に出てしまったら一大事だ。千舟は急いでしゃがみ込み、それを取ろうとしたがその前に紙を手に取った人物がいた。
鬘をかぶった着物姿から一目でスタッフさんでなく、組子の一人だということがわかる。千舟は彼女に向かって「ありがとうございます」という言葉を漏らそうとして、思わず息を呑んだ。
紙を差し出してきたのは永久輝だった。
困ったような、照れくさそうな、心配げな、そんな顔をして彼女はそこにいた。
「ひとさん…」
「大事な小道具なんだから、落としちゃだめでしょ」
上級生らしい叱責だが、その声は少しだけ緊張の色を帯びていて千舟は神妙に頷き「すみません…」と一言だけ口にし、彼女の差し出す紙を両手で受け取った。その後、しばらく気まずい沈黙が二人の間に広がったが千舟は勇気を出して、ひっそりと彼女へと声をかける。
「ひとさん…あの、もう出番ですね」
もっといろいろ言いたいことはあったはずなのに、選んだのは差し障りのないそんな言葉。それに永久輝は静かに頷いた。
「…そういうなほも。震えてるけど、大丈夫なの」
「こ、これは!…これは、武者震いで…」
「武者震いって」
「…緊張なんか、してません。本当です!」
そうやって無理やり自分に暗示をかけなければやってられなかった。
今までどんな重圧にもそうして立ち向かってきたのだから。
そんな千舟の様子を永久輝はまじまじと見て、それから千舟の額に手を伸ばす。なんだ、と思う間もなく額に走ったのはちょっとした痛みだった。自分がデコピンされたのだと気づいたのはすぐのこと。
「な、なんですか、ひとさん!」
上級生の突然のアクションに驚き、額を抑えてそう言えば永久輝はどこかぶっきらぼうに言った。
「いっちょ前に気負ってんじゃないよ」
「…え?」
「そんな『私が失敗したらこの舞台は終わりだ〜』みたいな顔しちゃって…。一体この舞台に何人のベテラン舞台人が出てると思ってるの。あんたはいつもみたいに自信満々に舞台で堂々と演技してればいいんだから」
永久輝に背中をパンと叩かれる。
「失敗したらフォローするし、舞台はみんなで作るもんでしょ」
それはきっと、複雑な感情を抱きながらも後輩のことを何よりも案じている永久輝からの精一杯の叱咤激励だった。
その言葉を聞き、額を抑えたまま呆然と永久輝の顔を見つめると彼女は微笑んだ。その微笑みは長らく見ていなかった彼女の本当の笑顔。
「なほなら、きっとできる。私も頑張るからね」
それだけ言い、永久輝は深呼吸して光に満ちた舞台へと歩みだした。
「どうしました、取り込み中ですかい」
「徳三郎!お前、今までどこへ行っていたんですか!」
「ちょいと商売の勉強にね」
舞台から聞こえる声に耳を澄ませ、千舟は舞台上をじっと見つめる。
へらりとした笑み、のらりくらりとした態度に騙されやすそうななよなよとした風情。どこからどうみてもそこにいるのはドラ息子の徳三郎がそこには立っていた。
客席のざわつきは次第に収まり、皆代役ということは忘れて芝居に没頭していくその様。
「…きっとできる、か」
誰に叱咤激励されるよりも、案じられるよりも。
永久輝に言われた「なほならきっとできる」という一言が身に染みた。
そうだ。自分は永久輝に教えを請い、寝る間も惜しんで稽古したじゃないか。
努力をして今自分はこの場所に立っているのだ。
ならば、きっとただの代役だなんてことは言わせない。お客様に見せつけるのだ、自分の演じる清七という役を。彩風の代役が決まってからの数週間ほどは全て、この日のためにある。
「こはるさんのところで起請文が衝突しちまったんだ!」
その台詞が聞こえ、千舟は静かに目を閉じる。
…今から自分は遊女に騙された客の一人、清七だ。鼻から息を吐き、暗転した舞台に向かって歩む。向こうからは掛け合いが聞こえてきた。それは悠真演じる清七の父、倉造とこの公演で退団する娘役の星乃あんり演じるこの品川宿の遊女屋で人気の女郎こはるの言い争いだ。
人気女郎のこはる大枚を得るためにに手練手管を使って客を誘惑する。
その一つが起請文。起請文とは「あなたは私の本気のお客様です。私はあなたと一生添い遂げます」という遊女と客の念書のことだ。だが当然、それも遊女にとっては客を獲得するための手段の一つ。全て嘘でしかない。
さらに悲劇なのは清七と倉造は親子で、二人して同じ女に熱を上げていたということである。親子で同じ女に懸念しているなんてこれほどの不幸があろうか。もし寝ていたとしたならば、…もう、これ以上ないほどに最悪だ。
悔しさと憎しみと恥ずかしさ、それから未だこはるを想う気持ち。
ごちゃまぜの心をもって泣きながら清七は起請文をこはるへと突き出す。
「なんだい!わっちは女郎でござんすよ。騙しますよと、看板をかけてこの商売をしてるんだ!」
「じゃあ…俺と別れたくないと泣いた涙は……ありゃ芝居か!」
あの夜は嘘だったのかと必死で訴えれば、その話を聞いた父親に「こんな小童」と叩かれ、清七の怒りの矛先はこはるから父親へと向かう。
そうだ、そもそもなんで妻子を持つ父がこんな若い女郎に熱を上げているんだ!
父さえ来なければ今晩だってこはるの元へと通ったというのに。
「小童とはなんです!おとっつぁんこそ、いい歳して女郎に入れあげて!」
「なんだと!」
「この!」
取っ組み合いになり、こはるを取り合うものの彼女としては父も息子もどうでもいいのだろう。
彼女は根っからの女郎なのだ。客は金蔓。年季が明けるまでの間、自分が裕福に暮らしていくためだけの道具でしかない。起請文とてその手段のうちの一つ。客を前にして「自分の身は全て売り物だ」と堂々とするこはるは美しい。
もう収拾がつかなくなったその時、現れたのは自分たちと同じ起請文を持つ男。こはるに貢ぎ、ついに身を破滅させた男は泣きながら包丁を振り回し、無理心中を図る。
とにもかくにも一度は想った女性を殺させるわけにはいかず、親子そろって包丁を持つ男を止めた。男は二人の説得に応じてその身の上話を泣きながら語ったのだ。
「…それが元で店をしくじり、こんな始末でごさいます…」
「なるほど…、それはまあ、辛かろうが…。やけを起こさず働くのがなにより。…いや、いい戒めになりました。おめぇさんもまだ若いんだから、きっとやり直せますよ!」
彼の姿に遠くない将来の自分たちを重ねた親子は結局手に手を取って二人で家路へとつくことにした。餞別としていくらか男に金を渡し、「気を落とさず、しっかりやっておくんなさいよ」と激励して、大号泣しながら江戸へと帰っていく。
彼らのその後は知れないが、きっと今回のことで懲りてこの品川宿の遊女屋へは足を踏み入れないだろう。
決して親子仲が悪いわけではないのだから、こんな笑い話にしかならない出来事は忘れて商売に勤しんでほしいものである。
舞台袖に捌けた瞬間、背中をぱんと叩かれて意識が舞台から現実世界へと戻ってくる。
隣を見れば、明るい笑みを浮かべた悠真がこちらを見上げて立っていた。
「ちょっとどうしたの、すごいよかったじゃない!おがち!」
悠真の口から零れた称賛の言葉に、思わず肩の力が抜ける。そう長い時間舞台に出ていたわけではない。一役での出演時間を言うのならば、前作のケイレブ・ハントのほうがずっと長かった。
だけど今回はまたそれとも訳が違う。
なんせ代役なのだ。それも永久輝という自分の尊敬する人の。
大した役じゃなかった、なんて思われたくない。そう思われることは彩風が戻ってきた後、この役に復帰する永久輝の顔に泥を塗ることにもなるのだから。
そう思って、少ない時間で必死にやってきた。
代役だから、という言い訳にかまけたくないという一心で行ってきた努力。その全てが今、悠真に言われたこの一言で報われたような気がした。
「……まりんさぁん」
今日はなんだか、涙腺が緩い一日だ。
褒められた瞬間、目を潤ませ始めた千舟に悠真は苦笑いを浮かべて背中を優しくさすった。
「泣かないでよー、この後また衣装替えして出るんでしょ。目が赤かったらお客様にばれるよ。まだ舞台は終わってないんだから」
悠真のその言葉に千舟は涙をぐっとこらえる。
そうだ、ここで終わりじゃない。舞台はまだまだ始まったばかり。この後、千舟は下級生らしく舞台を盛り上げる端役としていろいろな場面に出演しなければならないのだ。
今日の舞台が終わるまで、泣くのはよそう。
今はただ、初日を駆け抜けるのみだ。
「気張りなさい、おがち。頑張って成功させるよ、この舞台!」
「…はいっ!」