11
「皆さん、初日からお休みして、ご迷惑をかけてしまって申し訳ありませんでした。本日より復帰いたしますので、またよろしくお願いいたします」
そう言って頭を深々と下げた彩風の頭に降り注いだのは、あたたかな拍手だった。
「お帰り」という言葉の代わりかのようにあたたかい拍手を受けて、楽屋に入ってきてからずっと硬い表情を浮かべていた彩風はようやっと肩の力を抜くことができたのか、ぎこちなく微笑みを浮かべた。
「もう、体の方は大丈夫なのね」
そう問いかけたのは2番手の望海。
彼女の言葉に彩風は「はい」と大きく頷いた。その姿にほっと溜息を吐いた望海は「そう。それならいいよ。今日からまたよろしくね」と声をかけ、再び公演に向けての準備を再開させた。望海に倣うように他の組子たちも視線を彩風から外し、彼女自身も周囲を一度ぐるりと見渡し、もう一度だけ頭を下げると自分の化粧前へ向かって歩み始めたのだった。
そんな光景を千舟といえばひっそりと隠れるように身を縮めて見つめていた。
彩風の顔色は最後に会った時と比べて随分と良くなっている。それに、表情も穏やかで無理をしている様子はない。どうやら病気は本当に完治したようだ。
…もう、自分のせいで彼女が休演しただなんてことは思ってはいないけれど。それでもやっぱり、ずっと気がかりではあったのだ。だからこそ元気そうな彼女の姿を見て安堵してしまう。
「…よかった……」
「ん?なにがよかったのよ、なほ」
「え?…あ、いや…なんでもない!」
横に座る同期が不思議そうにこちらを見たから、千舟は首を横に振ってから化粧筆を手に取った。
彩風が戻ってきたため、千舟もまた今日から本来の役である伊藤春輔役に戻ることになる。今まで演じてきた清七は商家のボンボンの息子だが、かたや今日から演じる伊藤春輔といえば日本を変えるべくして立ち上がった攘夷志士———後の内閣総理大臣・伊藤博文その人だ。当然化粧も役に合わせて変えねばならない。
無骨な長州の武士らしく、眉は太く凛々しく、目尻は吊り気味に…。
そんな風に思いながら鏡越しに自分の顔と真剣に向き合っていると、先ほど声をかけてきた横に座る同期が突然「わっ」と声を上げた。
…一体どうしたのだろう。
そう思いつつ、鏡から顔を上げた千舟は同期の座る席とは反対側に立つ人物に気づき、同じように「わっ」と声を上げた。
「あ、…彩風さん…」
そこに立っていたのはほかならぬ、先ほどまで密かに見ていた彩風咲奈その人だった。
柔らかな微笑を浮かべた彼女は「なほ、久しぶり」と片手を上げる。
上級生が下級生ゾーンにわざわざ顔を覗かせに来ること自体、滅多にあることではなく、周囲は静かながらに騒然としていた。
「どうかされたんですか…!」
驚いて目を白黒とさせるなほの当惑を見下ろしながら、彩風は微笑んだまま彼女へ告げた。
「ちょっとさ、話したいことがあって。…今、いい?」
「え…」
その言葉に、拒否するだなんて考えは端からありはしないのだ。
千舟は心配げな同期たちの視線を背に受けながら、彩風に連れられて楽屋から廊下へと移動した。
頭の中には嫌な想像がぐるぐると回る。
なにか粗相でもしただろうか。やっぱりあの日、不遜にも「休んだ方がいい」なんて言い放ってしまったことがまずかったのだろうか。上級生に対して下級生が生意気な…って、そう思われているのかもしれない。だけど、でも…あれは一応、彩風のことを心配して、それで言っただけで…だけど、ああ。やっぱり宝塚の上下関係的にはいけなかったかもしれない…。だけど、…でも、でも…!
……。
……いや、もう今更考えたって仕方がない。とにかく、とにかくだ。
こうなってしまったからにはともかく、指摘されるよりも早く謝らなければ…!
「彩風さん、…あの…!」
「あのさ」
千舟が発したか細い声は彩風には届かず、彼女の力強い声にかき消される。
千舟はその言葉に続く叱責を想像して思わずぐっと奥歯を噛み締めたが、彩風からかけられたのはまた叱責とは異なる意外な言葉であった。
「…ごめんね、この前は」
「………え?」
突然謝られ、千舟は訳も分からず彩風の顔を見上げる。
彩風はどこか申し訳なさそうに目を細め、千舟をじっと見つめていた。
「あの時はいろいろと余裕がなくて。…なほが私のことを心配して言ってくれたのはわかってたのに…なんか、辛く当たっちゃって。大丈夫とかいってあのざまで、余計迷惑までかけて…さ。……本当にごめん」
「あ…いえ…!あれは私も悪かったので…彩風さんが謝ることでは」
「ううん、謝らせて。私が悪かったの。本当に」
「ごめんなさい」———ともう一度言い、頭をぺこりと下げる彩風。
上級生に頭を下げられたことなんて今まで一度もない。…というか、これからも一度もないだろう。
そんな光景に千舟は唖然としていたが、すぐに正気を取り戻し目を引ん剝くと「やめてください!頭を上げてください!」と悲鳴じみた声を上げた。
「私は本当に…ほんっとうに…気にしてないですし!彩風さんがおっしゃられたこともその通りだと思いましたし。というか、私の方から失礼なことを言ってしまって…だから、あの…なので…本当に…ほんとうに……」
言葉が縺れ、どもりにどもって、自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
あたふたとする千舟に対し、目を瞬かせた彩風は暫くの後、ぷっと噴き出した。
「動揺しすぎ。…ね、ちょっと落ち着いて」
「え、…あ…す、すみません…」
彩風の笑顔を見た千舟は、少しだけ顔が赤くなるのを感じた。
一人でドタバタと動揺してしまって…恥ずかしい。
「いや、でも…本当に…」
千舟はまだ少し動揺しながらも、気を取り直して続けた。
「気になさらないでください。私も気にしていないですし。彩風さんが元気になって、舞台に戻ってこれたことが一番ですから」
そういうと彩風は「そっか」と呟いて、微笑んだ。
「ありがとうね、なほ。…そう言ってもらえるだけで、救われるよ」
「…救われるだなんて」
そんな、大げさな。
そう言いたくなって、少し顔を上げた千舟だったが彩風の表情を見て言葉を途切れさせた。彩風は言葉にし難い凪いだ顔をして、少し遠くを見つめていた。
「…休演中にいろいろな人から連絡が来てね。それこそ、同期とか、上級生の方々とかから。なんで体調が悪いのに無理するんだって怒られちゃった。……何だかね、周りに迷惑をかけるのが怖くて無理して気を張ってきたし、自分の限界なんてわかりきってるつもりだったけど…結局、私も一人ではなんでもできるわけじゃないんだって、今更ながら実感してる」
「彩風さん…」
その言葉に、千舟は少し驚いたが、同時に彩風がどれほど真剣に悩んでいたのかを感じ取ることができた。舞台に立つ姿は超然としたスターである彼女が一方で、こんなにも人間らしく悩み、迷うことがあったなんて、少し意外だった。
「これからはもっと自分を大切にしながら、舞台に立つよ。なほも無理しないでね。私たち、みんなそれぞれのペースで頑張ればいいんだから」
その言葉に千舟は心からの安堵を感じ、力を抜いて息をついた。彩風の言葉が彼女自身にとっても大きな意味を持つことがわかる。それはただの励ましではなく———お互いを気遣い合い、支え合うべきだという舞台を共にしている仲間としての誠実さから来ているものだと感じた。
「…はい!ありがとうございます、彩風さん。私も気をつけます」
大きく頷いた千舟に彩風は笑った。
「彩風さん、だって。…ね、私のことはさきでいいよ。みんなそう呼んでるし」
「……はいっ、さきさん!」
「うん、よろしい!……それで今日の公演はどう?昨日までは商家のボンボンだけど、今日から攘夷志士でしょ?…準備はできてる?」
彩風は話題を少し軽くして、からかうように言った。
千舟は一瞬考えてからぐ、と親指を立てて「新人公演のお稽古の後、練習しましたから。バッチリです!あとは、ちゃんと化粧を整えて、完璧な姿で舞台に立つだけです!」と宣言してみせた。
「そう、じゃあ期待してる。…本番、楽しみにしてるよ」
楽屋に戻った千舟のことを同期たちは酷く心配してくれたけれど、詳細を語る気にはなれずに廊下であった出来事は適当に濁して彼女たちには伝えた。化粧を完璧に仕上げ、そうして千舟は舞台へと向かう。その足取りは軽かった。
『皆さま、本日はようこそ宝塚大劇場へお越しくださいました。雪組の早霧せいなです———』。
アナウンスが流れる。緞帳越しに漏れ聞こえていた観客の騒めきが凪の様におさまって行く。
千舟は一度目を瞑り、そうして腰に下げた刀の柄をぎゅうと握りしめた。
「よし」
———そして今日も幕が上がり、物語が始まるのだ。
皆様、初日からお休みして、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。本日より復帰いたしますので、またよろしくお願いいたします」
そう言って深々と頭を下げた彩風の頭上に、温かい拍手が降り注いだ。
「おかえり」という言葉の代わりに響く拍手を受け、楽屋に入ってからずっと強張っていた彩風の表情が、ようやく柔らかく解けた。ぎこちないながらも、微かな笑みがその唇に浮かぶ。
「もう、体の方は大丈夫なのね」
声をかけたのは、組の二番手である望海だった。
彼女の問いかけに、彩風は「はい」と力強く頷いた。その姿に安堵の息を漏らした望海は、「そう。それならよかったわ。今日からまたよろしくね」と声をかけ、再び公演の準備へと戻っていく。望海に倣うように、他の組子たちも彩風から視線を外し、彼女自身も周囲をぐるりと見渡した後、もう一度だけ頭を下げ、自分の化粧前へと向かった。
そんな光景を、千舟はひっそりと、隠れるようにして見つめていた。
彩風の顔色は、最後に会った時よりもずっと明るくなっている。表情も穏やかで、無理をしている様子はない。どうやら病気は本当に完治したようだ。
…もう、自分のせいで彼女が休演しただなんてことは思っていない。それでも、心のどこかにずっと引っかかっていたものが確かにあった。だからこそ、元気そうな彼女の姿に安堵を覚える。
「…よかった……」
「ん?何がよかったのよ、なほ」
「え?…あ、いや…何でもない!」
横に座る同期が不思議そうにこちらを見たため、千舟は首を横に振り、化粧筆を手に取った。
彩風が戻ってきたことで、千舟もまた今日から本来の役である伊藤春輔役に復帰する。今まで演じていた清七は商家の若旦那だが、今日から演じる伊藤春輔は、日本を変革しようと立ち上がった攘夷志士——後の内閣総理大臣・伊藤博文その人だ。当然、化粧も役に合わせて変えなければならない。
無骨な長州の武士らしく、眉は太く凛々しく、目尻は吊り気味に…。
そんなことを思いながら鏡越しに自分の顔と向き合っていると、先ほど声をかけてきた同期が突然「わっ」と声を上げた。
…一体どうしたのだろう。
そう思いつつ、鏡から顔を上げた千舟は、同期の座る席とは反対側に立つ人物に気づき、同じように「わっ」と声を上げた。
「あ、…彩風さん…」
そこに立っていたのは他ならぬ、先ほどまで密かに見つめていた彩風咲奈その人だった。
柔らかな微笑みをたたえた彼女は、「なほ、久しぶり」と片手を上げる。
上級生が下級生のエリアにわざわざ顔を出すこと自体、滅多にあることではない。周囲は静かながらも、どこかざわめき立っている。
「どうかされましたか…!」
驚いて目を白黒させるなほの当惑を見下ろしながら、彩風は微笑んだまま彼女に告げた。
「ちょっとさ、話したいことがあって。…今、いい?」
「え…」
その言葉に、拒否するという選択肢は最初から存在しなかった。
千舟は心配そうな同期たちの視線を背に受けながら、彩風に促されるまま楽屋から廊下へと移動した。
頭の中には嫌な想像がぐるぐると渦巻く。
何か失礼なことをしてしまっただろうか。やはり、あの時、不遜にも「休んだ方がいい」などと言ってしまったことがまずかったのだろうか。上級生に対して下級生が生意気だ…そう思われているのかもしれない。けれど、あれは彩風のことを心配して言っただけで…でも、やっぱり宝塚の上下関係的にはまずかったかもしれない…。だけど、…でも、でも…!
……。
……いや、もう今更考えても仕方がない。とにかく、とにかく。
こうなってしまった以上、指摘される前に謝らなければ…!
「彩風さん、…あの…!」
「あのね」
千舟が発したか細い声は彩風には届かず、彼女の力強い声にかき消される。
千舟はその言葉に続く叱責を想像し、思わず奥歯を噛み締めたが、彩風から告げられたのは、予想とは異なる意外な言葉だった。
「…ごめんね、この前は」
「………え?」
突然の謝罪に、千舟は訳も分からず彩風の顔を見上げる。
彩風はどこか申し訳なさそうに目を細め、千舟をじっと見つめていた。
「あの時は、色々と余裕がなくてね。…なほが私のことを心配して言ってくれたのは分かっていたのに…なんだか、きつく当たってしまって。大丈夫だって言っておきながら、こんなことになって、余計な迷惑までかけて…さ。……本当にごめんね」
「あ…いえ…!あれは私も…その…彩風さんが謝ることでは…」
「ううん、謝らせて。私が悪かったの。本当に」
「すみません」———と、もう一度言い、彩風は頭をぺこりと下げた。
上級生に頭を下げられることなど、今まで一度もなかった。…というか、これからもないだろう。
そんな光景に千舟は呆然としていたが、すぐに我に返り目を見開くと「やめてください!頭を上げてください!」と悲鳴のような声を上げた。
「私は本当に…ほんっとうに…気にしてないですし!彩風さんがおっしゃったことも、その通りだと思いましたし。というか、私の方から失礼なことを言ってしまって…だから、あの…なので…本当に…ほんとうに……」
言葉がもつれ、どもりにどもって、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。
あたふたする千舟に対し、目を瞬かせた彩風はしばらくの後、ふっと吹き出した。
「動揺しすぎだよ。…ね、ちょっと落ち着いて」
「え、…あ…す、すみません…」
彩風の笑顔を見た千舟は、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
一人でこんなに動揺してしまって…恥ずかしい。
「いや、でも…本当に…」
千舟はまだ少し動揺しながらも、気を取り直して続けた。
「気になさらないでください。私も気にしていないですし。彩風さんが元気になって、舞台に戻ってこられたことが一番ですから」
そう言うと、彩風は「そっか」と呟き、微笑んだ。
「ありがとうね、なほ。…そう言ってもらえるだけで、救われるよ」
「…救われるだなんて」
そんな、大げさな。
そう言いたくなって、少し顔を上げた千舟だったが、彩風の表情を見て言葉を飲み込んだ。彩風は言葉にし難い凪いだ表情で、少し遠くを見つめていた。
「…休演中にね、色々な人から連絡が来たんだ。同期とか、上級生の方々とかから。なんで体調悪いのに無理するんだって、結構怒られちゃってね。……なんだろうね、周りに迷惑をかけるのが怖くて無理して気を張ってきたし、自分の限界なんて分かっているつもりだったけど…結局、私も一人では何でもできるわけじゃないんだって、今更ながら実感してる」
「彩風さん…」
その言葉に、千舟は少し驚いたが、同時に彩風がどれほど真剣に悩んでいたのかを理解することができた。舞台に立つ姿は、どこか超越したスターである彼女が、一方でこんなにも人間らしく悩み、迷うことがあるなんて、少し意外だった。
「これからはもっと自分を大切にしながら、舞台に立つよ。なほも無理しないでね。私たち、みんなそれぞれのペースで頑張ればいいんだから」
その言葉に、千舟は心からの安堵を感じ、肩の力を抜いて息をついた。彩風の言葉が、彼女自身にとっても大きな意味を持つことがわかる。それは単なる励ましではなく———お互いを気遣い、支え合うべきだという、舞台を共にする仲間としての誠実さから来ているものだと感じた。
「…はい!ありがとうございます、彩風さん。私も気をつけます」
大きく頷いた千舟に、彩風は笑みを返した。
「彩風さん、だって。…ね、私のことはさきでいいよ。みんなそう呼んでるし」
「……はいっ、さきさん!」
「うん、よろしい!……それで今日の公演はどう?昨日までは商家のボンボンだけど、今日から攘夷志士でしょ?…準備はできてる?」
彩風は話題を少し変え、からかうように言った。千舟は一瞬考えた後、ぐっと親指を立てて「新人公演のお稽古の後、練習しましたから。バッチリです!あとは、ちゃんと化粧を整えて、完璧な姿で舞台に立つだけです!」と宣言してみせた。
「そう、じゃあ期待してるよ。…本番、楽しみにしているね」
楽屋に戻った千舟のことを同期たちは酷く心配してくれたが、詳細を語る気にはなれず、廊下での出来事は適当に濁して彼女たちに伝えた。化粧を完璧に仕上げ、千舟は舞台へと向かう。その足取りは軽やかだった。
『皆さま、本日はようこそ宝塚大劇場へお越しくださいました。雪組の早霧せいなです———』。
アナウンスが流れる。緞帳越しに漏れ聞こえていた観客のざわめきが、凪のように静まっていく。
千舟は一度目を閉じ、そうして腰に下げた刀の柄をぎゅっと握りしめた。
「よし」
———そして今日も幕が上がり、物語が始まるのだ。