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ふっ、という力強い掛け声とともにずらりと並んだ男役たちが一糸乱れぬ動きで群舞を舞い始める。額からたらりと零れ落ちた汗は床へ落ち、誰かに踏みつけられて消えていく。男役たちの群れの中、一際強い眼差しをもって舞う千舟は予科生の頃に「のっぽ」と揶揄されたすらりと長身と相まって周囲の目をよく惹いた。


初日の幕が上がるまで残すところあと数日となり、稽古は佳境を迎えていた。
今回の公演ではトップコンビを筆頭として今まで組を支えてきた中堅スターたちも一挙に退団してしまうということもあって組子たちの熱量も普段の公演と比較しても段違いにすさまじかった。退団公演への出演が今回初となる千舟は上級生たちから漂う熱気に当初は委縮してしまっていたが、次第に「自分だって負けられない!」といつもの負けん気を発揮し、舞台の世界へとさらに深くのめり込んでいった。

同期の娘役である羽織夕夏が言うには「こんな汗をかいて髪を振り乱しているなほを見るのは初舞台ぶり」らしい。だがそれも仕方がないことだ。
早霧は千舟が組配属されてからずっとトップを務めてきた憧れの先輩だ。その人の退団公演に出るとなって気合が入らないわけがない。

「千舟くん」

フィナーレまでの通し稽古が終わり、この後はまた自主稽古となったところで早霧から声がかかった。思いがけない人から声をかけられ、もしかして何か大きなミスでもしてしまったのではないか、と思わず千舟は背筋を凍りつかせてしまう。
研3の下級生である千舟からしてみればトップスター直々に声をかけられるということはそれぐらい大変なことなのだ。だがしかし、上級生から声をかけられて振り返らないという選択肢はない。千舟は顔を青ざめさせたまま覚悟を決めて勢いよく振り返った。
早霧はそうして己の方を向いた千舟の表情を見て目を丸くした。

「ありゃ…、なによ。その化け物でも見たかのような顔は」
「あ…す、すみません!」
「ううん、別にいいんだけど。それより、ね、さっきの群舞、すごくよかったよ」

さらりとした口調で伝えられた言葉は想像していたお叱りなどではなく、千舟は思わずぎょっとした顔をしてしまった。

…よかった。
……すごくよかった、と言ってくださったのか。

先ほどの群舞は確かに今回の公演での初めての通し稽古だったこともあり気分が高揚していて、いつも以上に力を込めて踊っていたけれども。まさか、早霧さんにそんなことを言っていただけるとは…いや、そもそも後ろのほうで踊っている下級生の私を鏡越しでも見ていてくださったなんて。

喜びと感動が入り混じった感情が胸の中をかき乱す。
頬を紅潮させて「ありがとうございます!」と大袈裟に頭を下げた千舟を見て、早霧はついに耐えきれないというように大口を開けて笑い声をあげた。
急に笑い出した早霧に千舟は驚いて「え、え」と戸惑うことしかできない。

「あはは、千舟くんって…お、思ったよりも面白い子だわ。ほんと表情豊かで…!」
「え、あ、すみませんっ」
「いやいや、別に叱ってるんじゃなくてね…いやいや、もう、百面相…面白い…」

百面相?と困惑げな表情で固まっている下級生の千舟とその目の前で爆笑するトップスター。
傍から見れば珍しい組み合わせである上に、何ともシュールな光景であろう。そして早霧は一頻り笑い終えると「あー、面白かった」と瞬きを二、三度してから息を整え、口角をニッと上げた。

「ま、とにかく!うん、群舞のところとかすごくよかったよ。その調子で明日からも頼んだよ」
「はい!」
「よっしゃ、いい返事!それじゃね、なほ!」

そう言って肩を叩かれ、千舟はもう一度下級生らしい溌溂とした返事をして颯爽として去っていく早霧の背を見送った。
そして彼女が教室の向こうへと消えていくのを見送ってから、顔を上げ、そしては、と気づく。

…早霧さん、私のことなほって…そう、呼んでくださった。

普段は一切関わり合いがない関係なだけに、ずっと「千舟くん」と他人行儀に呼ばれていたのに。去り際、さらりと自分の愛称を呼んでくれたことに遅れながら気づき、千舟は目を瞬かせる。
早霧からしたら声をかけたことも、愛称で呼んだことも大したこととは思っていないのだろうが、尊敬するトップスターに褒められて嬉しく思わない下級生なんかいない。
嬉しさとほんの少しの自信が体の中を駆け巡り、体温をわずかに上昇させる。男役らしからぬ可愛らしさで頬を緩ませる千舟のことを先ほどの早霧とのやり取りを見ていた上級生たちはなんとも微笑ましげに見守っていた。

「どうしたの、なほ。なんかご機嫌じゃん」
「……ちょっとね!私、自販機でお茶買ってくる!」

荷物を取りに行っていた眞ノ宮が千舟の嬉々とした様子に気づいて声をかけるが、千舟はわずかに微笑んで返しただけでそのまま駆け抜けるようにして飲み物を買いに教室を出て行ってしまった。眞ノ宮は「どうしたんです、あれ」と近くにいる上級生に声をかけたが、彼女は「誰だって憧れのトップスターに褒められたらうれしいってことだよ」と朗らかに笑っただけだった。







自販機に向かって鼻歌を歌いながら小走りに向かう。
気分はすこぶる良い。早霧さんにあんな褒めていただいたんだ、もっと頑張らなきゃという思いとやる気が身体を満たしていく。

飲み物を買ったらすぐに教室へ戻ってお稽古を開始しよう。
四時半から長州藩士を演じる上級生たちと練習する予定が入っているからそれまでにショーの振りだけ確認しておかなければ。
…今日の通し稽古では少しだけ振り間違いをしてしまったし。
あとはそう、銀橋に立って歌うことになったソロ曲も音源を聞き直して練習…あ、そうだ。デュエットのダンスの練習もしたい。あのダンスでの相手役は上級生だけど、今からでも練習に誘っても平気だろうか。
お芝居の方も台本を確認して…刀の振り方ももう一度だけおさらいしたい。後でもう一度浴衣に着替えなければ。


自分の中で未だ不十分だと感じる点は枚挙にいとまがない。全てを一日で仕上げるには時間が足りなさすぎる。だができることは全てやりたい。本公演まで時間だってわずかしかないのだから。

とりあえず最初はダンスの振り確認から始めよう、と思いながら廊下の角を曲がったとき、体にドンという衝撃。
誰かにぶつかってしまったようだった。

「あ…すみません、大丈夫ですか!」

千舟は急いで目の前に倒れた人へと声をかけた。俯いていて顔が見れないため誰かは判別はつかないが、相手が上級生なのは一目瞭然。失礼な対応などできようはずもない。

「…あ、うん。平気。ごめんね、ぼんやりしてた」

そう言って顔を上げた人は千舟がよく知っている人物で、思わず千舟は「彩風さん…」と彼女の名前を呟いた。

彼女は雪組三番手スター、彩風咲奈という。背の高い男役の少ない雪組において一際目を引く異次元的なスタイルの良さを持つ彼女はその長い手足を生かしたダンスが持ち味で、どちらかといえば地黒の千舟が羨ましく思うほどに色白で美しい人だった。また同時に93期生の主席入団者という超がつくほどの優等生でもある。

学年が7期も離れているため、プライベートでの関わりはほぼ皆無なものの新人公演では彼女の役をやらせてもらったこともあり、稽古場ではなにかとお世話になっている。
千舟は急いで起き上がろうとする彩風に急いで手を差し出した。

「私こそすみません、本当に…。考え事をしていて…」
「そう」

彩風とは普段から仲がいいわけではないし、加えて彼女が学年の離れた上級生だということもあって会話はそこで途切れてしまった。ただ、彩風は差し出された千舟の手だけは握ってくれた。爪先まで整えられた綺麗な指に見惚れながらも、一気に彼女の体を引き上げる。

「お怪我とか、大丈夫ですか。どこか痛いとかありませんか」

主要キャストの一人である彩風が自分との衝突で怪我をした、だなんてことがあったら一大事だ。焦って体の心配をする千舟に彩風は微笑んで「平気」と言ったが、どこか心ここに在らずといった様子だった。

本当にこれは打ち所が悪く怪我をしたのではないか。初日間近に一体なんてことを私はしてしまったんだ。考え事なんてして歩くんじゃなかった。そんな悪い考えが頭の中をぐるぐると回る。
己の手を握りながら顔を真っ青にして動きを停止させてしまった下級生の様子に彩風は困ったように眉根を寄せた。

「ねえ、本当に私は平気だから。手、離してくれない?」
「あっ、すみません!いつまでも握ってしまっていて…!」

彩風の言葉に「上級生の手を長々と握り続けるなんてまずい!」と千舟は急いで彼女から手を離した。

その瞬間、感じたのは僅かな違和感。

…あれ。なんか、彩風さんの体温が…。

さっき手を握っていた時は怪我をさせてしまったとか、なんて人にぶつかってしまったんだとかそういうことばかりを考えていて気づかなかったけれど、手を離した途端にその違和感に気付いてしまった。

千舟は彩風の手を握っていた方の手のひらをじっと見つめた。
体温が高い自分でも熱く感じるあたたかな手。少しだけ汗をかいていて湿っていた。稽古で火照った体の熱が冷めていなかったのか…。いや、稽古が終わってから時間は随分と経っているのだ。自分だって汗をかいて踊っていたけど、今ではもうすっかり体の熱が冷めきっている。
何かがおかしい。

まさか。
…ありえないことだけど、まさか。

瞬時に頭の中をよぎった嫌な予感。
ありえない、そんなはずがないと思いながらもその気持ちを隠すことができず千舟はあの、とその場から去ろうとしていた彩風へと声をかけた。

「…なに?」

気だるそうに振り返った彩風を改めて見てみれば、やはり普段とは少し様子が違う。体はあんなに熱をもっていたのに、顔はむしろ青白くやつれていて、疲労がにじんでいるのが見てわかった。

やはりおかしい。

違和感は次第に現実味を帯びてきて、千舟の頭の中に警報を鳴らす。

「彩風さん、…あの、こんなこと…失礼にあたるかもしれませんが…」

言葉をつっかえさせながらも慎重に口にする。
…こんなことを言ったら目の前の上級生はそんなことない、と怒るかもしれない。だけど、聞かなきゃいけない。一舞台人としてそれは必要なことだ。

「…もしかして、お体の調子が悪いんじゃないですか」

廊下に響いた声はすっと空気に溶けて消えていく。
千舟の目の前に立つ彼女は目を丸くして立っている。

「…なんで」

その「なんで」は、どういう意味だろう。
「なんでわかったの」という意味か、それとも「なんでそんな馬鹿げたことを考えたの」という意味か。
ただ千舟は前者の意味で尋ねたのだろうと思い、気まずげな表情を浮かべながら言った。

「いえ…あの、体がとても熱かったですし…お顔も…なんだか…」
「……そう」

呟いた後にこぼされた重々しいため息と眉間に寄った深い皺に千舟は背筋をピンと伸ばし、慌てて謝罪を口にした。

「す、すみません!勘違いだったら私…とても失礼な…」
「…いや、うん。別に、勘違いとかじゃないから」
「……え」

ストンと告げられた言葉に喉仏が引きつって、思わず絶句した。
「勘違いとかじゃないから」って…そんな簡単に告げることではないだろう。そんな思いが胸の中を駆け巡る。
そんな千舟の心中を察したのか、彩風は軽く笑って緩く首を横に振った。

「…ちょっと体調崩しちゃって。でも別に、大したことないから気にしないで」
「気にしないで…って…そんな…!」
「本当に大丈夫だから。なほはなほの練習に集中しなよ」

そう言ってふらりとした足取りで稽古場に戻ろうとする彩風の背を思わず呆然と見つめる。…気にしないで、なんて。体調が悪そうな人を目の前にして「はいわかりました」なんて言えるはずがないだろう。

「待ってください!」

千舟は焦ってそのまま去っていこうとする彩風の腕を掴んだ。
彩風は少し不機嫌そうな目で千舟を見る。視線は彼女の方が少し高く、舞台で一際輝く鋭い眼光は今だけは少し恐ろしかった。
下級生の冗談にも笑って返すような穏和な彼女には似つかわしくない表情を見て、相当彩風が切羽詰まった状態であることを千舟は悟る。
…上級生に失礼なことをしているという自覚はあるが、とはいえこのまま離すことなどできない。
怯むな怯むな、と自分に言い聞かせながら千舟は腕の力を少しだけ強くして言った。

「調子が悪いなら休まなきゃ駄目じゃないですか、今日は帰ったほうが…」
「…無理だよ、この後は個別の歌稽古が入ってるし…」
「歌稽古なら、先生に言って別日に変えてもらったらどうですか」
「明日は一日通し稽古で明後日からは舞台でのリハが始まるでしょ…私一人のせいで時間を作ってもらうようなことできない」

千舟の言葉に澱みなく応える姿はとても体調不良の人間には見えない。
思えばお稽古中だって彼女はいつもと変わらず激しいダンスを踊り、朗々と歌を歌い上げていた。千舟だって彼女の手を取ることがなければきっとわからなかったことだろう。
どうしたって帰らないという彩風を止めようと必死に頭を回すがそうしている間にも彩風はこの話を切り上げようとしている。

「なほの気持ちは嬉しい、心配してくれるのはありがたい。でも…ごめん。…舞台に穴を空けるようなこと、絶対にできない。私一人が休むだけでどれだけの人に迷惑をかけるか…わかるでしょ」

そう言って見つめられると、もう何も言えなくなってしまう。
それは千舟が以前、るろうに剣心の公演で休演者が突然出た時のことを覚えているからだった。
あの時は本当に大変だった。代役とは関係のない千舟も上級生の手伝いに駆り出され、舞台裏は緊迫した空気で包まれていた。男性スタッフが駆け回り、「あれはそっち」「それはあそこ」と忙しなく駆ける姿は今でも瞼の裏に浮かぶ。

…彩風の言うことは確かに正しいのだろう。彼女は代わりがいくらでもいる端役ではない。雪組の3番手スターなのだ。休めばお芝居だけでなくショーでも多くの変動が生ずるのは明白。

「今日休んだら多分、私は駄目になる。自分のことだからわかる」

…その気持ちもよくわかる。
アドレナリンのせいか精神的なもののせいかは分からない。ただ、練習に出て気が張っている時はまだギリギリのところで自分を保てているが、一度休み、少しでも気が緩んだ途端に一気に崩れてしまうというのはこの世界ではよく聞くことだ。彩風が危惧しているのはそのことだろう。
千舟はこの時になってどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
先ほどまでは絶対に止めて休ませなければと強く思っていたが…、よく考えれば彩風は自分より7期も上の大先輩だ。舞台経験は彼女のほうが上だし、自分の体調のことを一番把握しているのも本人だろう。その本人が平気だと言っているのだったら口出ししないほうがいいのではないか。それに舞台人として本番まで日数がもうない今、休むわけにはいかないという気持ちも十分理解できる。

…だけど、その言葉が無理して吐き出しているものだったら…。もし倒れてしまうようなことがあったら…。

「…お願い、このことは誰にも話さないで。私は本当に平気だから。心配なんてしなくていいから」
「…彩風さん…だけど…でも…」

はい、とは言えない。
どうしても、素直に言えない。

「……私、私…彩風さんのことが…」

本当に、心配で。
そう言おうとしたとき、廊下の向こうから「わっ!」という驚いた声が聞こえて意識がそちらへと向いた。
ハッとして振り返ればそこには同じ組の上級生が立っていた。彩風の腕を掴んで、深刻そうな顔をする二人の姿を目に入れた彼女は気まずそうに頬を掻くと「おがちにさきちゃん…。あれ、お邪魔だったかな…」と苦笑いを浮かべた。…何かを勘違いしているようだった。
彼女の言葉になんと返答したらいいか答えあぐねていると千舟の手の力が緩んだのを隙と見たらしい彩風がするりとその手を振り払ってしまった。

「あっ」

思わずそんな声を漏らす千舟を振り返ることなく、彩風は目の前の上級生に微笑むと言った。

「違うんです、別に大したことじゃないので…お気になさらないでください。…私、凪さまが待ってるので行きますね」

じゃあね、なほ。
そんな声をかけて颯爽と去っていった彩風の背中を千舟は見つめるしかなかった。

「…ね、おがち…、私、やっぱりお邪魔だった?」

気の毒そうにこちらを見る上級生に千舟は「いえ…いえ…」と何と答えたらいいのかわからず俯いた。

…彩風の病気のことを話してしまうおうか。
彼女は彩風より上級生だし、きっとあの人のことを止められるだろう。だけど、話すなと言ってきた彩風の目は本気だった。話していいものか、…どうするべきか。

「…本当に、…なんでも、ないですから」

結局それしか言えなかった。


飲み物を買おうと思っていたことは忘れ、千舟はすごすごと教室へと戻っていった。教室で見た彩風は普段と変わらず、楽しそうに上級生と話している。一瞬ちらりとこちらを見たその冷ややかな目が自分に対する牽制であることは明白だった。
千舟はその視線から逃げるように、何も知らないふりをして眞ノ宮の元へと戻った。

「なほ?」
「…はいちゃん」
「さっきの上機嫌はどうしたの…ていうか、…なんかあったの」
「………なんでも、ない」


その二日後、彩風の体調不良による休演の話が演出家の口から組子に伝えられることになろうとはまだ誰も知らなかった。


 

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