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「ねえなほ…大丈夫?」
「…うん、ごめん…はいちゃん」

恥じ入るように赤くなった目元をタオルに押し付けて隠す千舟に眞ノ宮は心配げな視線を送るが、タオルに顔を押し付けている千舟がその視線に気づくことはなかった。


彩風の休演が組子に発表されたのは今朝のこと。昨晩、家に戻ってから熱がかなり上がってしまい救急で病院に駆け込んだところドクターストップがかかったらしい。回復に要する期間は長く、初日には間に合わないというのが医者の判断だという。そのため彩風が回復するまでの数日間は代役公演を行うことに決定した旨が演出家から伝えられた。

芝居「幕末太陽傳」では彩風の代役は永久輝が演じることとなり、繰り上がって永久輝が演じる常連客の清七は千舟が演じることになった。またショーの方でも千舟はそのダンスの実力を買われ、彩風の代役として数場面を与えられたのだった。

「初日までに数日もないから大変だろうけどこのあなたならできるって思っての配役よ。気張ってちょうだい」

演出家直々にそんなことを言われたら「はい」以外に何も言えない。
顔を真っ青にして頷く千舟のことを眞ノ宮は気の毒に思っていた。千舟へ与えられるチャンスを羨ましく思う反面、それが自分だったらとてもじゃないが耐えられないとも思う。新人公演だってあるというのに…代役までこなさなければならないとは…一体どれだけの重荷だろうか。
無情にも稽古は定刻通りに始まった。本番さながらの緊迫した空気の中、代役を演じる生徒たちは立ち位置や振りなどを確認しながら真剣にお稽古へ取り組んでいる。

そうして始まって3時間ほど経った頃だろうか。
一旦休憩となった途端に千舟がいきなり大号泣し始めたのだ。

「え、ちょ…ちょっと!おがち、どうしたの!」

隣に立っていた上級生が焦ってその背中を摩るが、千舟は何も言わず服の袖口でぐしぐしと顔を拭うばかりであった。
組子の大半は彼女のその様子を見て「きっと代役の重荷に耐えられなくなって泣いてしまったのだろう」と思ったらしく、頼りない様子で泣く千舟に「大丈夫。本番は私たちもフォローできるようにするから」「台詞がとんでも平気な顔だけしていればなんとかするよ」と口々に温かな声をかけて慰めていたが、遠くから見ていた眞ノ宮だけが泣いている理由は違うのだろうということを正しく理解していた。


千舟はいつだって誰よりも期待されている少女だった。
歌は苦手なようだが芝居心はあるし、ダンスは「さすがバレエ教室の娘」と舌を巻くほどにうまかった。
高身長と「股下80cm」と揶揄されるほどのスタイルを併せ持ち、衆目を引く端正な顔立ちをしていて、何をやらせてもそれなりにそつなくこなせてしまえる器用さがあった。
入学した時から期待され、文化祭では当然の如く主演を務め、入団してからもずっと同期たちを牽引するように走り続けている彼女がまさか『代役の荷が重くて』なんて理由で泣くはずがない。彼女は重圧によく慣れている。それはいい意味でも、悪い意味でも。

「…それで何があったの」
「…え?」
「さっき、泣いてたやつ。なほが泣いてた理由、別に代役の重荷とかそういうのじゃないでしょ」

眞ノ宮の言葉に千舟ははっとして顔を上げ、その横顔をまじまじと見つめた。

「…はいちゃん、わかるんだ」
「そりゃ同期だもん。なほは泣き言を人前で零すような子じゃないのは知ってるし」
「そっか…」
「…それで、そんな泣くほどのことがあったの?」
「……」
「…言いづらいこと?」
「…ううん。……ただ、私…ダメなやつだって、思って」

俯いてから目を擦る千舟を「赤くなるからやめなって」と止めながらも「ダメなやつ」とは?と眞ノ宮は内心首をかしげていた。

むしろしっかりやっている方ではないか。泣いてはしまったものの代役の台詞や振りつけ、歌詞は初めてやるにしてはよく覚えていた方だし、演出家の先生にも「大したものだ」と褒められていたのに。
疑問を口にしたら千舟は煮え切らない態度で「そうじゃなくて…」と呟き、口を真一文字に結んだ。それからしばらくの間、視線を彷徨わせたのちに小さな声で呟いた。

「…実はね、…私、一昨日のね…自主稽古前の時から知ってたの…」
「何を」
「…彩風さんの体調が良くないこと」
「え、…それ本当?」

思わず聞き返すと千舟は小さく頷いた。

「…止めようと、思ったんだけど…」

思ったんだけど。ただ、彩風さんのお気持ちもわかるから。どうしたらいいかわからなくて、それで…彩風さんほどの人がまさか無理なんてするはずがないって勝手に思って、結局誰にも言わないまま…。

「まさかこんなことになるなんて…。私が一昨日ちゃんと止めてれば…」

…ああ、そういうこと。
背中を震わせ、目尻に涙をためる千舟の姿を見ながら眞ノ宮は解したように頷いた。
つまり昨日の時点で体調不良を知っていたのに止めなかった自分のせいで、事態が悪化したのだと責任を感じているのか。

…変に責任感が強いこの子らしいというか、なんというか…。別にそんなの誰のせいでもないのに。

眞ノ宮はそう思いながらため息を吐き、片手を振り上げると勢いよく千舟の丸まった背中を叩いた。小気味いい音が教室に広がる。

「うわっ…!」

いきなり背中を叩かれ、顔を上げた千舟は横に座る眞ノ宮を睨みつけた。

「な、…ちょっとはいちゃん!」

涙を目ににじませながら睨みつけてくる姿はそれほど怖くない。
眞ノ宮は千舟の目尻の涙をタオルで拭ってやりながら「なほは変に真面目すぎるんだよ」と苦笑いを浮かべた。

「彩風さんのことに責任感じてみたいだけど、それは違うよ」
「…え」
「そんなの誰の責任でもないじゃん。まあ、強いて言うなら彩風さんの責任になるんだろうけど…それだって、別に体調を崩したくて崩したわけじゃないし」

タカラジェンヌとて人間だ。
どれほど気を使っていても体調を崩してしまうときぐらいある。それは人間である以上どうにもできないことで、本当に仕方がないことなのだ。
その言葉に千舟はぽかんとして、でも、だって…と口をまごつかせた。

「…だって私、一昨日知ってたのに止められなかったんだよ。知らないふりしたんだよ」
「仕方がないことでしょ。彩風さん、上級生だもん。上級生に物申しただけ凄いと思うよ」
「…でも」

眞ノ宮を見る千舟の瞳は不安そうに揺れている。
未だ納得がいっていなさそうなその表情に眞ノ宮は本当に頑固なやつだ、と思いながらも視線を千舟から外し、稽古場の隅へと向けた。

「それに。……彩風さんだって嫌だと思うよ。自分が病気になったせいで下級生がべそかいて、お傾向に集中できないなんて。ひとさん、見てみなよ」

眞ノ宮の視線の先には教室の隅に立つ永久輝がいた。
台本片手に鏡の前に立ち、一心不乱に稽古に励んでいる彼女の顔にはいつもの優しく朗らかな笑みはない。鬼気迫るほどに真剣な顔をしているその姿はいかに彼女がこの代役という重圧へ全力で立ち向かっているかがよくわかる。

眞ノ宮の言葉に誘われるように千舟も自らの視線をそっと永久輝に移し、その姿を見つめた。一体このとき千舟が何を思っていたのか、それは眞ノ宮にもわからない。それがわかるのは同じような重圧を背負ったことがある者だけだ。

「ひとさん…」

永久輝の姿を目にしたとき、千舟の胸に浮かんだのは羞恥心と悔しさだった。

泣いて、落ち込んで、同期に励まされて。
…いったい自分は何をしているんだろう。
同じような立場に立たされている永久輝は何も言わず、休憩中の今もひたすらに稽古に励んでいるというのに。彩風の休演を聞いてショックだった、自分のせいでと己を責めた。だがそれがなんだというのだ。責めたって現実は変わらない。彩風が戻ってくることはないのだ。

それならば自分はやるべきことをしなければならない。そんな愚かしい思考に囚われることなく、舞台人として邁進しなければならない。
代役は大変な役割だが、しかし同時に大きなチャンスである。
新人公演の主演をもらった時、自分はそれをチャンスだと捉え、その重圧に負けてなるものかと密かに誓ったはずだ。代役とてそれは変わらないはず。チャンスをものにして、なんとしてでも公演を成功させる。それが今の自分にできる唯一のこと。

「はいちゃん…」
「うん?」
「ありがとう…、…私、ちょっとお稽古してくる!」

そう言って立ち上がった千舟は床の上に自分のタオルを投げ捨てるようにして置き、台本を手に取ると教室の端へと駆けて行った。突飛な行動に眞ノ宮は目を丸くしたものの、彼女が永久輝に触発されて吹っ切れた様子は見て分かったため、「持ち直してよかった」と安堵のため息を吐いた。

「うえんつ」
「え、はい…って、え!なぎ様!」

後ろから声を掛けられて振り返った先にいたのは上級生の男役、彩凪翔だった。
目鼻立ちのはっきりした華やかな美貌と陽性のオーラを持つ天性のスターたる彼女。銀橋の上からウインクをされてしまえば男も女も関係なく、どんなファンをもときめかせる生粋の男役である。

そんな彼女に「うえんつ」と気軽に声をかけられて眞ノ宮は胸を思わず高鳴らせた。

今回、新人公演で眞ノ宮は彩凪の役を演じるのだが、その挨拶に行った際「眞ノ宮くん、みんなになんて呼ばれとるん」と尋ねられ「本名からとって『はいちゃん』とか、あとウエンツ瑛士に顔が似てるから『うえんつ』とか、呼ばれています」とがちがちに緊張しながら応えてから彼女はずっと眞ノ宮のことを「うえんつ」と呼んでいる。

しかし未だに彩凪から「うえんつ」と呼ばれることに慣れない。
…いや、むしろ憧れの人から名前を呼ばれることに慣れる日なんて来るのか。

彩凪はそんな風に緊張して固くなる眞ノ宮の様子に微笑みながら軽い調子で「なほ、持ち直したみたいやな」と声をかけた。
眞ノ宮はそれに重々しく頷く。

「はい、…あの、同期が迷惑をかけまして…」
「迷惑なんて誰も思ってへんよ、別に。…むしろみんな同情しとるぐらいや、『まだ研3なのに』って…」

だから泣いちゃって…ちょっと心配したんやけど。
彩凪の視線が自主稽古をする千舟へと向けられる。

「やっぱり同期は偉大やなぁ。今日のMVPはうえんつやで」

茶化すようにそう言われ、眞ノ宮は思わず苦笑いを浮かべた。

「いえ…そんな。私なんて何も。持ち直したのだってひとさんに影響されてですし」
「謙遜することないやん、うえんつがいてなほも随分支えられてると思うよ」
「…そう、ですかね」

そうだったらいいなあ、と思う。

…さっきまでは千舟は隣にいたというのに、なぜだろう。こうして稽古をしている千舟を見ていると随分と遠くへ行ってしまったような気がする。入学して間もない予科生の頃、男役をやるのが恥ずかしいと言って演劇の授業では縮こまっていたあのはにかみ屋の少女が今では雪組期待の若手男役だ。

何とも複雑な心情でぼんやりとその背中を見ていると突然「まあ!そんなことはいいとして!」という彩凪の柔らかな声で響いた。

「うえんつもこんなところでぼんやりしてないで稽古してきな!午後からは通し稽古やで」
「えっ、…あ、はい!」

突如としたその言葉に体を飛び跳ねさせながらも、上級生からの言葉に反射的に体が動く。小道具の刀を手に小走りに教室の中央へと行く眞ノ宮の背中を見ながら彩凪は微笑を浮かべて呟いた。

「あんただってまだまだこれから。諦めた顔をするのは十年早いってもんや」

 

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