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甘いマスクに長い手足。ダンスが得意で歌・芝居も卒なくこなす優等生。
宝塚の男役としてこれ以上ないほど恵まれたものを持ちながらも、その朗らかな笑みの裏では泥臭い努力を行っていることを知ったのは一体いつだったか。
永久輝せあ。愛称は本名からちなんで「ひとこ」。
「雪組の御曹司」だとか「雪のプリンス」だとかファンに呼ばれる彼女は千舟が組配属で雪組へやってきたときにはすでに新人公演主演を務めた期待の若手スターだった。
人好きのする爽やかな笑顔で物怖じすることなく上級生たちにじゃれつく姿を千舟は最下級生としていつも教室の隅で見ていた。順調にスター街道を駆けていく彼女は入団当初からトップスターを夢見ていた千舟にとって一番身近な目標でありお手本だったが、とはいえ決して気安く話しかけられるような相手ではなかった。
舞台の上で役を演じる彼女のオーラは圧倒的で、声をかけることすらおこがましく思えてしまう新星。
近いようで遠い、憧れの人。
「ねえ、酷い顔してるけど大丈夫?」
…だから、まさかそんな風に声をかけてきてくれるだなんて思ってもいなかった。
永久輝が千舟に初めて声をかけてきてくれたのは千舟にとって初となる大劇場公演、その新人公演のお稽古中のことだった。
入団当初から整った顔立ちと天性の華やかな雰囲気から劇団に期待されていた千舟は自身初の新人公演で異例の抜擢を受けていた。与えられた役は男役スターの彩凪翔が演じる猪飼秋定という大役だった。そもそも組配属されたばかりの最下級生が名前付きの役を与えられること自体珍しいというのに、加えて台詞や見せ場もそれなりにある大役を与えられるなんて、想像もしていなかった。
新人公演の配役が発表されたその日に同期LINEは荒れたし、ネット上のファンブログやSNSでもちょっとした話題になったのを今でもよく覚えている。
突然与えられた大役と周囲から寄せられる大きな期待。
右も左もわからない状態で始まった新人公演のお稽古は本当にもう散々だった。
男役としては三流以下、ダンスも歌も緊張のあまりうまくこなすことができない。
実力が伴わないどころか本来の力も出すことができずに立ち尽くすばかりの千舟を演出家は厳しく指導した。
「なんでそんなこともできひんの」
「やる気がないなら稽古場から出なさい!」
「台詞を覚えるのは最低限!そんなこともできないでどうすんの!」
それはもう、周囲に同情されるほどの怒られっぷりだった。
悔しくて、恥ずかしくて、情けなくて。どうして自分はこんなにできないんだろう、家でも稽古場でも自主練は怠らずにやっているのに…といつも稽古が終わった後、廊下の隅で丸くなって泣いていた。
そんな時に声をかけてきてくれたのが永久輝だったのだ。
彼女は千舟と同じように下級生の頃から期待され、抜擢され続けてきたスターで千舟の気持ちをよく理解してくれていた。苦しい時は何も言わず背を撫でてくれたし、悩んでいる時は食事へと連れ出し、相談を真摯に聞いてくれた。
「なほ、何してんの」
『私立探偵ケイレブ・ハント』の本公演で比較的出番の多い大役を任された時もうまいこと役作りができず、一人稽古場に残っていた千舟に優しく声をかけてきてくれた。永久輝の快活な笑みを見て、思わず肩から力が抜ける。
「ひとさん…」
「もうすぐ消灯時間だよ。帰りの準備、もうできてるの」
「えっ…、もうそんな時間ですか!」
慌てて教室の壁にかかった時計を見れば針は11時50分を指し示していた。あと10分もすれば消灯だ。消灯時刻までに建物から出なければ見回りの夜警さんに「時間は守れっていつも言っとるやろ!」と叱られてしまう。急いで床に投げ捨てた上着を拾い、片づけを開始しながら千舟は扉の前に立つ永久輝へと声を張った。
「すみません!ひとさん、先に帰っててください!」
「ううん、いいよ。待ってる」
「えっ…だ、だめですよ!私、絶対消灯までに出られませんし。ひとさんまで怒られちゃいますって」
「大丈夫だよ。早くすれば間に合うって。…ほら、手伝うから」
そう言ってから永久輝は床に散らばるペンや台本、資料の類をまとめ出した。
上級生に片付けを手伝わせるなんて同期が見たらきっと「なほ、あんたってやつは!」と怒るだろうな、と思いながら千舟もスポーツバッグのなかに乱雑な手つきでドリンクや靴を押し込んだ。
結局その日は永久輝のおかげで消灯時刻ぎりぎりに建物を出ることができた。受付の事務員さんには「もっと余裕をもって出てください」とお小言を言われたものの、とりあえずは夜警さんからのお叱りは回避することができたのだ。
ご近所さん同士のため同じ帰り道を歩きながら千舟は永久輝へと声をかけた。
「ありがとうございます、ひとさん。助かりました」
「別にいいよ、このぐらい。…それよりさぁ」
永久輝はそこで言葉を止め、千舟のことを険しい顔で見つめた。美人なだけあって眉間にしわを寄せたその表情はなんとも迫力がある。一体なんだ、と思わず身じろぎをする千舟に対し神妙な態度で永久輝は口を開けた。
「…なんかさ、なほ…最近ちょっと痩せた…?」
「…え。そんなことですか」
深刻な顔をしているからなんだと思えば、思っていたよりもずっとどうでもいい話題だった。
拍子抜けしながら首を傾げれば、「そんなことじゃない!」と永久輝にひと睨みされた。
「なんかお腹とか腰とか…細くなった気がするし」
無遠慮に永久輝の手が千舟の腰を掴む。思わず千舟は「うわっ」と跳ね上がるが、永久輝の確かめるように慎重な触り方にいやらしさは欠片もなかったため、苦笑いを浮かべた。
「ちょっとひとさん…やめてくださいよ。人に見られたら恥ずかしいんですけど…」
男のような格好をした大女が二人、夜道でくっついている姿は端から見ればひどく滑稽だろう。しかし茶化すような千舟の言葉に永久輝は笑わず、眉間に皺を寄せたまま千舟の顔を見て言った。
「やっぱり細くなってるし。…なんか、肋骨も出てるし。最近ちゃんとご飯食べてるの?」
「……食べてますよ、普通に」
永久輝の眼力に気圧され、視線を逸らして答えるとじとりとした視線で見つめられたのち、大きなため息を吐かれてしまった。それから永久輝は千舟の腰から手を放し、両頬をきゅっと引っ張った。
「その間はなに、その間は!全くもう!」
「す、すみません…。最近、食べてる暇がなくて…」
本公演で初めて与えられた大役。
役名はアリエル・デービス。まだ20代前半の若者の役だ。
可愛らしい名前とは裏腹に主人公たちの営む探偵社きっての武闘派で、ロカビリーファッションを着た粗野な青年。彼はもともといわゆるストリートギャングに属していたワルだったのだが、主人公のケイレブに出会い、拾われたことでその道から足を洗い、探偵社の社員として雇われたという過去がある。
本編では病気の妹の治療費を稼ぐため、敵であるマクシミリアンにそそのかされて裏切るシーンがあったりとなかなか見せ場の多い役だ。出番的にも本来であれば千舟のような下級生に任せられるような役ではないはずなのだが、演出家の先生の強い後押しがあってこの役を演じられることとなった。
初めての大役に対する不安は計り知れないもので、千舟は休日も返上して稽古に取り組んだ。周囲と比べて自分がまだ未熟であるという自覚があるからこそ、食事や睡眠の時間すらも惜しんで稽古に励まなければ、という焦りに囚われていた。
朝一番から自主稽古を行い、消灯時刻まで残って帰る。練習は誰よりもしている自負があった。それでも焦燥と不安は燻り続け、消えることはない。
「不安なんです、なんかやっていないと…みんなに置いていかれるような気がして」
早霧や二番手の望海風斗、三番手の彩風にそれから若手スターの月城かなと。
同じ場面に出る彼女たちを見ていると自分の演技の拙さを実感して恥ずかしくなる。新米だからといえばそれまでだが、そんな言葉で終わらせていいはずもないことは千舟本人がよくわかっていた。
学年も経験年数なんて観客にとっては何の関係もないのだ。
できるかできないか、ただそれだけ。
不安を吐露する千舟の顔を永久輝は何も言わずじっと見ていた。
そしてしばらくの沈黙ののち、「まあ、ね」と小さく言葉を零す。
「…まあ、わからなくはないよ。その気持ちは。私だって未だにそうやって思うもん」
ちぎさんもだいもんさんもみんな凄いエネルギーでさ。ちょっと歩くだけでも私なんかとは大違い。稽古で見るたびに「ああ、なんで私はこんな風にできないんだろう」って思って、練習してなんとか追いつかなきゃって思って。
「…でも。だからってがむしゃらに頑張ればいいわけじゃないんだよ。そんなことしたら舞台に立つ前に体を壊しちゃうし。…こんな貧相にやせちゃって」
「ひとさん…貧相ですか、私」
「貧相だよ、このガリガリめ!」
胸をがしりと鷲摑みされ、思わずぎゃあ!と悲鳴を上げる。
「色気のない声上げるんだから」
「色気なんて求めないでくださいよ…私に。というかナチュラルにセクハラしないでください…」
「あはは、いいじゃん。私と千舟の仲でしょー」
からからと笑う永久輝の快活な笑みに千舟もつられて口角を上げる。
…こうして茶化してくれるのだって千舟に気を遣わせないためなんだろう。いい先輩なのだ、この人は。
「とにかく、ちゃんとご飯は食べてよく寝ること。お稽古はほどほどにね。公演が始まったら新人公演のお稽古もあるんだし、こんなんじゃ体がもたなくなるよ」
「…はい、わかりました」
「無理したっていい結果はついてこないよ。大事なのはいかに質のいい練習をするか!…ってことで」
がしりと腕を掴まれ、千舟は永久輝をはっと見上げた。永久輝は変わらず笑っている。
「うちにおいで。簡単な料理ぐらいだったら作ってあげられるから」
「えっ。わ、悪いですよ!そんなの」
「遠慮しないの。どうせなほの家の冷蔵庫、何も入ってないんでしょ」
「……いや、そんなこと…」
脳裏によぎるのは空っぽの冷蔵庫。入っているのは冷凍食品やちょっとした貰い物のお菓子ぐらい。
「…あります、けど…。でも、さすがにこんな時間に上級生さんの家にお邪魔するなんて…」
「気にしない、気にしない。上級生命令には素直に従ってればいいの」
「夕食、なににしよう。あ、鶏肉の賞味期限、もうちょっとだっけ。チキン南蛮にしようかな」と軽い調子で呟く永久輝に手を引かれながら千舟はその背中を見る。
料理なんて、本当なら永久輝も疲れていて作りたくないだろうに。わざわざ自分のために何でもない風を装って作ってくれるなんて。…この人はあまりにも優しすぎる。
だけどここで謝るのはなんとなく違う気がして、千舟は目に映る薄い背に小さく声をかけた。
「…ひとさん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「……うん」