第三話「潮目の午後」


後悔という感情は、いつだって事がすべて終わってしまった後になってから、まるで遅れてやってきた客人(まろうど)のように、ずかずかと心の中に上がり込んでくるものなのだ。

目立ちたくない、とあれほど強く、何度も心の中で繰り返していたはずなのに。
目立って良いことなど、これまでの私の人生において、ただの一度たりともありはしなかったというのに。
なのに、どうして──どうして私は、こんな馬鹿げた状況の真っ只中に立たされてしまっているのだろう。

保健室から自分の教室へと戻り、そっと扉を開けた、まさにその瞬間。教室中のという教室中から、まるで申し合わせたかのように一斉に注がれた熱っぽい視線に、私は思わずその場で足を縫い付けられてしまった。
喉の奥が、きゅっと凍りつくような、そんな息苦しい感覚。
そこにいる少女たちの潤んだ瞳が、まるで何か得体の知れない、けれど尊いものでも崇めるかのように、ただひたすらにこちらを見つめていた。

──怖い。
本能的に、そう感じた。

あの、熱に浮かされたような視線が、今朝までの、遠巻きに好奇の目を向けてくるだけのものとは明らかに異なっていることくらい、鈍い私にだってはっきりとわかった。
どこまでもまっすぐで、一点の曇りもなく無垢で、そして痛いほどに真剣で、まるで──何か途方もない“期待”でも込められているかのようだったのだ。

一体全体、どうしてこんなことになってしまったというのか。
その理由は、ほんの一時間ほど前の出来事にまで、時計の針を巻き戻さなくてはならない。




**




それは、四限目の数学の授業が終わりを告げ、待ちに待った昼休みへと入ったばかりのこと。

私はいつものように、教室の窓際、一番後ろの自分の席で、鞄の中からそっとお弁当箱を取り出していた。けれど、それをそのまま広げるのではなく、誰にも気づかれないように再び鞄にしまい、おもむろに席を立とうとしていた。他の生徒たちが、思い思いのグループで楽しげにお弁当を広げ始める、その喧騒が始まる前に。

「ご一緒にお昼をいただきませんか?」

そんなふうに、遠慮がちに声をかけられることが、ここ最近、何度かあった。
もちろん、彼女たちに悪気など微塵もない、純粋な親切心からくるお誘いであることは十分に理解している。でも、私はどうにも、そういった和気藹々(わきあいあい)とした集団の輪の中に入っていくのが、昔からひどく苦手なのだ。

おそらくは、心のどこかで常に“自分を演じ続ける”ということに、知らず知らずのうちに疲弊してしまっているのだろうと思う。ここリリアン女学園においては、なおさらに。
だから私は、できる限り自分の気配を殺し、校舎の片隅にある、人気(ひとけ)のない中庭のベンチなどで、誰に気兼ねすることもなく一人で食べる昼休みを選んでいた。そして今日も、いつものように、その重箱じみたお弁当箱を片手に、そっと教室を出ようと考えていたのだ。

お弁当。
中学時代までは、毎日母が作ってくれた、色褪せたキャラクターものの布で包まれた小さなお弁当箱だった。
中身はといえば、彩りなどお構いなしの冷凍食品ばかりが詰め込まれていて、お世辞にも手が込んでいるとは到底言えないような代物だったけれど、それでも、唯一甘い卵焼きだけは必ず隅っこに入っていて、その優しい味が、今でも時折ふっと蘇っては、胸の奥をきゅんと締め付ける。
それが今となっては、北原家のキッチンに常駐しているという、どこかの有名レストランで腕を振るっていたらしいシェフが、腕によりをかけて作ったという、見るからに立派なお弁当なのである。
いや……これはもう、お弁当、というよりは。まるで料亭の仕出しのような、黒塗りの二段重ねの「お重」と呼ぶべきものだ。蓋を開ければ、そこには繊細な細工が施された小鯛の姿焼きやら、伊勢海老の具足煮やら、果ては小さなガラスの器に盛られた黒々としたキャビアやらが、行儀よく詰め込まれている始末。美味しいことには違いないのだろうけれど、それ以上に、一体これだけの食材にどれほどの値段がついているのかという下世話なことばかりが気になってしまって、肝心の味になかなか集中できない代物なのだ。……悲しいかな、貧乏舌の私にわかることといったら、これが絶対に一人分の量ではないだろう、ということ。ただ、それだけである。

そうして、いつものようにその重たいお重を抱え、教室からひっそりと抜け出そうとした、まさにその時だった。
廊下の向こう側が、俄かに騒がしくなったのは。

「きゃあ!」

甲高い、絹を裂くような悲鳴が上がったかと思うと、それを皮切りにするように、どっと波が引くようなざわめきと、「どうかしたの?」「大丈夫なの?」「大変! 誰か先生を呼んできて!」云々といった、切羽詰まったような声が幾重にも重なって聞こえてきて、その場は一瞬にしてただならぬ騒ぎに包まれた。何か尋常ではない事態が起こったのだ、ということは、さすがの私にもすぐに理解できた。
…いくら私がこのリリアンという学園に対して、あまり良い印象を持っていない人間だとはいえ。
目の前でそんな切迫した悲鳴が上がっているのを完全に無視して、のんきにお弁当を抱え、その場を悠々と去って行けるほどの、図太い神経は持ち合わせていない。それに、一体何があったのか、少しばかり気になったのもまた事実だった。
だから私は、ひとまず持っていたお弁当箱を自分の机の上にそっと置き、教室のドアの前に折り重なるようにして群がっている人垣の後ろから、そっと廊下の様子を伺い見た。

そこには、同じ一年藤組の生徒だけでなく、隣のクラスや、あるいはそのまた隣のクラスからも駆けつけたのであろう生徒たちまでが集結していて、まさに大わらわといった様相を呈していた。
その幾重にもなった輪の中心には、床に両膝をつき、今にも泣き出しそうなほど焦った顔を浮かべているクラスメイトの姿と…そして、その傍らにぐったりと横たわっている、一人の生徒の姿があった。

それを見た瞬間、私の中には、「これは、少々まずい状況かもしれない。のんきに傍観者気分で見ている場合ではないぞ」という、妙に冷静な気持ちが少しばかり湧き出てきたのだ。もし、集まった生徒たちの中から誰か一人でも進み出て、何らかの適切な対処をしてくれていたなら、私は特に何事もなかったかのように、そっとその場を立ち去っていたことだろう。けれど、なにせここは、やはり筋金入りのお嬢さま学校なのである。集まった生徒たちは皆、ただ「きゃあきゃあ」と意味のない悲鳴を上げるばかりで、誰一人として具体的に何かをしようとはしない。というよりも、おそらくは、どうしたら良いのか皆目わからない、といった感じなのだ。かろうじて、生徒の一人が「先生を呼んでまいりますわ!」と叫んで走り去ったようではあったけれど。

…ああ、本当に、これ以上目立ちたくないのになあ。
という、切実な感情がなかったわけではない。けれど、それ以上に、目の前で人が倒れているというのに、自分の体面ばかりを気にしているのは、あまりにも不謹慎なのではないかという、ごく真っ当な良心の呵責(かしゃく)が、むくむくと頭をもたげてきたのである。

「…ちょっと、そこをどいてちょうだい」
「あっ…史香さん……」

仕方がない。
そう、これはもう、本当に仕方がないことなのだ。
ややもすれば邪魔にさえ感じていた、このやたらと高い身長のお陰で、人垣を分け入って輪の中心に出るのに、さほどの苦労はなかった。私は、床に倒れた生徒の傍らに膝をつき、半ばパニックに陥っているクラスメイト(残念ながら、名前は思い出せないけれど)の横に、同じようにそっと膝をつき、できる限り落ち着いた声で尋ねた。

「彼女、何か持病か何かを持っているの?」
「え…あ、…いいえ…。ただ、最近ダイエットだっておっしゃって、あまりお食事を召し上がっていないみたいだから…その、たぶん…」

栄養失調。あるいは、典型的な貧血といったところか。
そう当たりをつけ、私は職員室のある方角へと無意識のうちに視線を向ける。…このリリアン女学園は、とにかく校舎が無駄に広い。その分、職員室もかなり遠い道のりになるはずだ。そもそも、「制服のスカートを翻して走るなんて、はしたないことですわ!」みたいな、暗黙の了解ともいうべき独特の風潮のあるリリアンなのだ。先生を呼びに行った生徒も、もしかすると走ることなく、早足程度で向かっているのかもしれない…なんて最悪の可能性まで考えてしまったら、一体どれくらいの時間がかかるのか、見当もつかない。
…それに比べて、保健室は、確かこの場所から比較的近かったはずだ。

…仕方ない、か。もう、腹を括るしかないのだろう。

……よし。

私は心の中で、見えない審判にでも向かって「うっしゃあ!」と気合を入れるように、固く握りしめたこぶしを、もう片方の手のひらにぱん、と叩きつけてから、意を決した。そして、床にぐったりと横たわる彼女の、か細い膝の下と、頼りなげな背中の部分に、そっと自分の両手を差し入れ、次の瞬間、一気呵成にその身体を抱き上げて立ち上がった。周囲から、先ほどまでのパニックとはまた質の異なる、息を呑むような、それでいてどこか熱っぽい騒めきが一斉に上がるのを感じた。

…ぐっ、と腕に確かな重みがのしかかる。お、重い。意識のない人間というのは、こんなにもずっしりと重く感じるものなのか。
だが、もう仕方がない。一度抱き上げてしまったものは、もう一度下ろすわけにはいかないのだ。
幸いというべきか、こうして腕の中に抱えてみると、彼女は身長もそれほど高くはないし、見た目通りに全体的に華奢な体つきをしている。おそらく、実際の体重もそれほど重くはないのだろう。
…このまま、行くしかない。

「悪いけれど、道、開けてくれないかしら」

まるで、旧約聖書に出てくるモーゼの海割りの奇跡でも目の当たりにしたかのように。
私がそう静かに告げると、目の前の廊下に集まっていた生徒たちが、先を争うようにしてざざざ、と左右に分かれ、あっという間に一本の道ができた。
私は、その生徒たちが作った道を、できる限り早足で通り抜け、保健室へと向かった。後ろの方から、「キャー!」だとか「史香さんって…史香さんって、まるで…!」だなんだのと、いつもの数倍は甲高い黄色い声が、まるで追ってくるかのように聞こえてきたけれど、私はそれらすべてに気づかないふりをした。今はただ、腕の中の彼女を、一刻も早く保健室のベッドに寝かせることだけを考えて。




**





保健室の白い扉にたどり着く直前、腕の中で身じろいだ彼女が、か細い声で何かを呟いた。

「…え、あれ…わたし…、なにを…。史香、さん…?」

ほとんど吐息のような、途切れ途切れの声。まだ意識がはっきりとは戻っていないのだろう。私は、額に滲んだ汗をそのままに、できる限り平静を装って低い声で応えた。

「…じっとしてて。もう保健室、着くから」

そう言って、少しばかり乱暴に保健室の引き戸を開けると、そこには清潔なシーツの匂いと、微かな消毒液の香りが漂っていた。そして、部屋の奥のデスクでは、この学園の養護教諭である保科栄子先生が、ちょうどお昼のお弁当であろうか、可愛らしい風呂敷包みを解き、その蓋に手をかけたところだった。
常日頃、生徒たちからは親しみを込めて「栄子ちゃん」あるいは「栄子センセ」などと呼ばれている彼女は、リリアン女学園のOGでもある。そのせいか、どこかおっとりとした、それでいて品のある佇まいは、まさにリリアンの生徒たちがそのまま歳を重ねたような雰囲気を持っていた。
その栄子先生が、大きな荷物のようにクラスメイトを横抱きにして現れた私を見て、一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で目を丸くした。しかし、すぐに私の腕の中で再び小さく身じろぎし、まだぼんやりとした焦点の定まらない瞳で虚空を見つめている生徒の姿を認めると、さっと顔色を変え、慌てて椅子から立ち上がり、こちらへ駆け寄ってきた。その動きは、普段の穏やかな物腰からは想像もつかないほど俊敏だった。

「まあ、大変! 何があったのよ! 一体全体、どうしたっていうの?」
「廊下で彼女が倒れていて…運びました」
「た、倒れた…わ、わたしが…?」
腕の中で、ようやく事態を少し理解したのか、当の彼女が掠れた声で呟く。
「そうよ。…ちょっと下ろすわよ、気をつけて」

私は静かに声をかけながら、その華奢な身体を、保健室の奥に設えられた真っ白なシーツのかかったベッドの上へと、そっと横たえる。栄子先生は、心得た様子でさっと彼女の肩を抱き、「大丈夫よ、少しの間、楽にして横になってなさいね」と優しく声をかけながら、その上半身をゆっくりとベッドへと沈めた。その手際の良さは、さすがは専門家といったところだろうか。

「それで、倒れていたって、詳しく聞かせてもらえるかしら?」
栄子先生は、ベッドサイドの小さな椅子を引き寄せながら、私に改めて問いかけた。その声には、先程までの動揺はもう見られない。

「はい。お昼休みが始まってすぐ、廊下で……。その場に一緒にいた子が、“最近あまりお食事を召し上がっていないみたいだった”と、そう言っていました」

「食べていない? ……なんですって?」

私のその言葉を聞いた瞬間、栄子先生の表情が一変した。それまでの心配そうな顔つきから、一転して厳しい、どこか険しいものへと変わる。まるで、何か許しがたいことでも見聞きしたかのように。

「……あなた、もしかして最近、無理なダイエットでもしていたの?」

先生は、ベッドに横たわる生徒の顔を覗き込むようにして、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で尋ねた。

「あ……はい、その……ほんの、少しだけ……の、つもりで……」

か細い声で、彼女は消え入りそうに答える。その顔色は、まだ青白いままだ。

「いつから? 最後にちゃんとした炭水化物を口にしたのは、いつのことなの?」

栄子先生の追及は、まるで尋問のようだ。けれど、その声の奥には、生徒の身を案じる切実な響きが感じられた。

「……昨日の……その、朝ごはん、です……パンを、少しだけ……」

「昨日の朝ですって!?」

思わず、私のものではない大きな声が、静かな保健室に響き渡った。栄子先生の声だった。私は驚いて一歩後ずさり、そのままベッドの足元にそっと立ったまま、二人のやり取りを、まるで舞台の観客のように見守っていた。

「……ちょっと、あなたねえ、本気で言っているの? それじゃあ、倒れるに決まっているでしょう。この、一番大切な成長期の女の子が、ろくに食べもしないでどうするつもりなのよ? そんなことをしていたら、本当に取り返しのつかないくらい身体を壊してしまうわよ」

栄子先生のお小言が始まった。その口調は、普段の生徒たちに「栄子ちゃん」などと気安く呼ばせているような甘さは微塵もなく、むしろ母親が我が子を真剣に叱るような、厳しさと愛情が入り混じったものだった。

「いいこと? あなたたちが今、一番しなくてはいけないのは、痩せることなんかじゃないの。しっかりと栄養のあるものをバランス良く食べて、健やかな身体を作ること。そして、勉学に励み、豊かな教養を身につけること。リリアンの生徒であるならば、そのくらいのことは理解できて然るべきでしょう? 見た目の美しさだけを追い求めて、自分の健康を損なうなんて、本末転倒も甚だしいわ。そもそも、あなたたちくらいの年齢の女の子はね、少しくらいふっくらしている方が、ずっと健康的で魅力的に見えるものなのよ。お分かりになって?」

立て板に水とはこのことか。栄子先生の言葉は、淀みなく、そして的確に問題の核心を突いていた。リリアンOGである彼女の言葉には、単なる養護教諭としてではない、人生の先輩としての重みと説得力があった。ベッドの上の彼女は、ただ黙って、小さな声で「はい…」「すみません…」と繰り返すばかりだ。

やがて、一通りのお説教が一段落したのか、栄子先生がふう、と一つ大きなため息をついた。そのタイミングを見計らったかのように、私は、自分でもなぜそんな言葉が口から出たのかわからないまま、ぽつりと呟いていた。

「無理なダイエットとかはやめた方がいいわよ。別に痩せなくても、あなた、十分可愛いし」

その瞬間、ベッドに横たわっていた彼女の顔が、ぼっと音を立てるかのように真っ赤に染まり、その大きな瞳がみるみるうちに潤んでいくのが見えた。そして、それとは対照的に、隣にいた栄子先生が、まるで何か面白いものを見つけた子供のように、ぱっとその目を輝かせたのを、私は見逃さなかった。その視線は、明らかに私に向けられていて、そこには「あらあら、まあまあ!」といったような、からかうような、それでいて何かを期待するような色が浮かんでいた。

げっ、と思う。
…うわっ、まただ。また、余計なこと、言っちゃったかもしれない。
この、得も言われぬ居心地の悪さ。まるで、自分の足元が不意に崩れ落ちていくような、そんな感覚。

もう、後の祭りだ。
私は、無意識のうちに眉間に寄ってしまった深い皺を隠すかのように、くるりと彼女たちに背を向けた。そして、我ながらぎこちないとは思ったけれど、できる限り平静を装って、取り繕うように早口で告げた。

「そしたら、お大事に。ごきげんよう」

返事も待たずに、私は逃げるように保健室の扉を開け、そのまま勢いよく外へと飛び出したのだった。
背中に感じる、二人の視線が生温かくて、なんだか無性に走り出したくなった。

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