第四話「manège d’amour」
美しい人。
それが、私が彼女──北原史香さんを初めてこの目にした時に抱いた、偽りのない最初の印象だった。
午後の柔らかな光が教室に斜めに差し込んで、その淡い亜麻色の髪がきらきらと繊細に揺れていたのを、今でもはっきりと覚えている。
まるで、どこか遠い国の、古いモノクロ映画の中からそのままそっと抜け出してきたような、あるいは、私が幼い頃に夢中で読んだ物語の登場人物が、目の前に現れたかのようだった。
……なんて、そんなありきたりな表現しか思いつかない自分が、なんだか少し悔しいくらいに。
ヘーゼルがかった、と表現すればいいのだろうか、吸い込まれそうなほどに深い色の瞳は、その輪郭をくっきりと際立たせ、そこにかかる睫毛は信じられないくらいに長くて、それがほんの少し伏せられただけで、まるで何か近寄ることのできない聖域に、そっと拒まれているような気持ちにさせられた。
深い緑がかった黒の、リリアン伝統のワンピースの制服からすらりと伸びる脚は、同じものを身にまとっているはずの私や他の生徒たちとは、まるで別の特別な仕立てなのではないかと思うほどに、息をのむほどに美しかったのだ。
あの人を「美しい」と感じるのに、特別な理由なんて、きっと必要ない。
ただ、そこにいるだけで、周囲の空気の色さえ変えてしまうような、そんな存在だった。
けれど、その美しさは、決して私たちが安易に近づけるという意味ではなかった。むしろ、その逆だったかもしれない。
史香さんは、いつも一人でいた。
無理に誰かと親しくなろうとする素振りも見せず、それでいて教室全体の空気からほんの少しだけ身を引いて、それでも決して不自然には見えないように、巧みに、そして静かに振る舞っていた。
私たちクラスメイトが、勇気を振り絞って「ごきげんよう」と声をかければ、はっとするほど美しい微笑みを返してくれる。
けれど、その完璧な微笑みの奥に隠された本当の心に、私たちの手が届くことは決してないと、きっとクラスの誰もが、言葉にはせずともなんとなく気づいていたのだと思う。
だからこそ、私たちは、気軽に話しかけることすらできない。
ただ、教室の片隅から、あるいは廊下の向こうから、その姿を遠くから見つめているだけ。
同じクラスの子たちが、今日は史香さんに声をかけられたとか、「ごきげんよう」とあの涼やかな声で言ってもらえたとか、そんな本当に些細(ささい)な出来事を、まるで貴重な宝物みたいに、頬を染めながら嬉しそうに語り合うのを、私はいつも少し羨ましい気持ちで聞いていた。
……もちろん、私もその、臆病な一人だったのだけれど。
その日は、私にとって、本当に幸運な一日だったのだと今なら思う。
たまたま図書委員の当番で返却された本を棚に戻しにきた、その先に、彼女がいた。だから、本当はもう用などなかったのに、私は書架から適当な小説を抜き取って、放課後の静まり返った図書室の片隅で、ただひたすらに彼女の姿を目で追っていた。
窓際の席に一人で腰掛け、長い睫毛の奥で、静かに手に取った文庫本に目を落としている彼女。
影絵のように美しい横顔。
少し緩めに結ばれたセーラーカラーの結び目と、そこから覗く白い首筋。
そして、リリアン伝統の膝下まである制服のスカートから覗く、行儀よく組まれた足の、その肌の白さが、どうしようもないくらいに艶(なま)めかしくて、私は一度捕らわれた視線を、もうそこから外すことができなかった。
もし、不意に目が合ってしまったらどうしよう。
そう思うだけで、顔を上げることすらできなくなってしまう。
それなのに、私の心臓だけが、まるで持ち主の意思などお構いなしに、馬鹿みたいに速く、そして大きく脈打っていた。
……やがて彼女が、読んでいた本を閉じ、数冊の本をその細い腕に抱えて、静かにカウンターの方へと向かう。
その滑らかな横顔のすぐ横を、夕暮れ間近の、少しだけ赤みを帯びた陽の光が、まるで名残を惜しむかのように、静かに、ゆっくりと流れていく。
ふと、こちらを向いたその大きな瞳に、どきん!と心臓が文字通り跳ね上がり、顔全体がぶわり、と熱くなるのが自分でもはっきりとわかった。きっと、耳まで真っ赤になっていたに違いない。
けれど、ふい、と自然な仕草で視線を外した彼女は、もしかしたら私に気づかないふりをしただけなのかもしれないし、本当に私という存在など見ていなかったのかもしれない。
いずれにせよ、彼女は何も言わずに、こつ、こつ、と小さな靴音だけを残して、図書室を後にしてしまった。
──本当に、それだけだったのだ。
それだけのことだったのに、私の心は、どうしようもなく高鳴り続けていた。まるで、大切な秘密を一人で抱えてしまったみたいに。
私は、知っている。
ほんの数日前、彼女のその胸に、確かに私が抱かれていた、あの一瞬のことを。
あのとき、私は馬鹿なダイエットがたたって、大勢の生徒たちの目の前で、みっともなく廊下に倒れてしまって。
朦朧とする意識が少しずつ戻ってきたとき、目に飛び込んできたのは、私を抱き上げてくれている彼女の、どこか険しい、けれど真剣な光を宿した美しい横顔だったのだ。
「…じっとしてて。もう保健室、着くから」
その低い、けれど芯のある声が、まるで夢の中にいるみたいに、ぼんやりとした私の耳に届いた。
しっかりと、でも決して痛くないように、腕の中にいた私を、彼女はまっすぐ前を見据えたまま抱きしめて、確かな足取りで歩いてくれた。
ふわりと、どこからか香ってきた、甘くて、でも爽やかな、柔らかい花のような匂い。
それは、リリアンの生徒たちがよくつけているような、わかりやすい香水の香りとはまったく違っていた。
保健室の真っ白なシーツのベッドにそっと寝かされて、駆けつけてきた栄子先生にこっぴどく怒られて、自分がしてしまったことの愚かさと情けなさで、もう泣きそうになってしまって——
まさに、そのときだった。
保健室を出て行こうとした彼女が、ふと足を止めて、私にあの言葉をかけてくれたのは。
「無理なダイエットとか、やめた方がいいわよ。……別に痩せなくても、あなた、十分可愛いし」
……まるで、本当に、息が止まってしまったかと思った。
次の瞬間、顔中がカッと炎が燃え移ったみたいに熱くなって、何か言おうとしても、言葉なんてまったく出てこなくて、ただ、わけのわからない涙が、ぽろぽろと頬を伝ってこぼれ落ちそうになって。
恥ずかしいのに、どうしようもなく嬉しくて、でも、その気持ちを伝えるどんな言葉も、どんな仕草も、私はその時、何一つ持っていなかったのだ。
彼女は、そんな私を一瞥しただけで、何も言わずにくるりと踵を返して、そして、その美しい背中越しに、少しだけぶっきらぼうな声で言った。
「そしたら、お大事に。ごきげんよう」
そして、それきり。本当に、それっきりだった。
私は、ただ呆然と、白いシーツを握りしめたまま、保健室の扉の向こうに消えていく彼女のその後ろ姿を、見送ることしかできなかった。
静まり返った保健室で、しばらくして、傍らでその一部始終を見ていた保健の栄子先生が、ぽつりと、けれどどこか楽しげな声でつぶやいた。
「……よかったわね」
先生は、悪戯っぽく、でもとても優しく笑っていた。
まるで何か、この世のすべての秘密を、その大きな瞳の奥に隠しているみたいな顔で。
栄子センセは、いつも春の日差しみたいに軽やかで、誰に対しても分け隔てなく優しくて、けれど時折、本当に何もかもを見通しているような、深い、深い目をしていることがあるのだ。
「ふふ、好きになっちゃったわね。あの子のこと」
そんなふうに、楽しそうにからかわれたような気がして、私はますます顔が熱くなるのを感じながら、ぷいと顔を背けて、手にしたベッドの毛布を、ただぎゅっと強く握りしめた。
───ううん、きっと、そんなものじゃない。会った、その瞬間から、私、あの人のこと…ずっと…
それからというもの、私は毎日のように、無意識のうちに彼女の姿を探している自分がいることに気づいた。
声をかける勇気なんて、まだ欠片もないけれど。
でも、朝の教室で、昼休みの図書室で、夕暮れの廊下で、あるいは中庭のベンチで。
不意に彼女のその美しい姿を見かけるたびに、私の心臓は、まるで見つかってはいけない秘密を抱えているみたいに、とくん、とくん、と大きく早鐘を打って、次の瞬間には慌てて目を逸らしてしまう。
それなのに、馬鹿みたいに、またすぐに、その姿を目で追ってしまうのだ。
こんなにも胸が苦しいのに、こんなにも切ないのに、でも、どうしようもなく幸せだと感じてしまう。
これは、きっと、みんなが言うところの、恋、というものなのだろう。
それは、まだあまりに小さくて、頼りなくて、でもきっと、私の心の中で、ゆっくりと、でも確実に回りりはじめた、愛のメリーゴーランド。
そして、私だけがそのきらびやかな回転木馬の中心で、ただ一人、遠い星を見上げるように、彼女を見上げている。
───北原史香さん。
その名前を、心の中でそっと、大切に、何度も呼んでみる。
けれど、そのか細い声が、いつか本当に彼女の心に届く日は、まだほんの少しだけ、遠い先のことのようだった。