第五話「春、瞬く」

 



高等部に入学してから、あっという間に早数週間。教室の窓から見える桜の木も、濃い緑の葉の間にちらほらと名残の花びらを覗かせるくらいになって、暦の上ではもうそろそろ五月がすぐそこまでやって来る、そんなうららかな季節。
とはいえ、この私、福沢祐巳の日常はといえば、幼稚舎の頃からリリアン一筋で育ってきた、自分でも言うのもなんだけど、チャキチャキのリリアンっ子であるにも関わらず、中等部の頃とあまり大きな変化はない。まあ、それが私らしいといえば、私らしいのだけれど。

いつものように昼休みの教室で、母が作ってくれた(今日はちょっとだけ豪華な三色そぼろご飯だ!)お弁当を頬張りながら、前の席の桂さんと他愛ないお喋りに花を咲かせている、まさにその時だった。ふと、開け放たれた教室の扉の向こう、賑やかな廊下のほうから、きゃっきゃっとした、楽しげな複数の女の子たちの笑い声が、まるで春の陽気に誘われた蝶々みたいにひらひらと飛び込んできたのだ。どうやら、どこか別のクラスの生徒たちが、何かとっても面白いことでもあったのか、かなり盛り上がっているみたいだ。

「ねえ、昨日のアレ、本当に見た? すごくなかった? まるでドラマのワンシーンよ!」

「うんうん、見た見た! 廊下でいきなり女の子が倒れちゃって、それをさっと抱き上げて……!」

「そうそう! あれ、まるで映画の撮影かと思ったくらい! 本当に、かっこよかったわよねぇ!」

そんな、興奮冷めやらぬといった様子の、断片的に聞こえてくる会話の端々に、私は好物のプチトマトに伸ばしかけていたお箸の動きを、ぴたりと止める。
そして、目の前でテニス部の憧れの先輩がいかに素敵かという話題で、頬を上気させながら一人で盛り上がっている桂さんに、思わず目を丸くして尋ねてしまった。

「……ねえ、桂さん。昨日って、この学校で誰か倒れたりしたの?」
「え?…なに、祐巳さん、そんなことも知らないの?」

桂さんはきょとんとした顔で私を見ると、そう言って、お弁当に入っていた好物のブロッコリーを一口でぽい、と器用に口の中に投げ入れ、もぐもぐとそれを飲み込んだ後で、少し得意げに言った。

「そうそう、昨日のお昼休みよ。一年藤組の子が、気分が悪くなっちゃったみたいで、廊下にしゃがみ込んじゃったんですって。そしたら、それを同じクラスの北原史香さんっていう人が見つけて、保健室までさっと抱えて運んであげたんだってさ」
「お、お姫様抱っこでっ…!? ほ、ほんとにそんなことあったの!」

思わず素っ頓狂な声が出てしまった。「お姫様抱っこ」なんて。そんな少女漫画みたいな展開、せいぜい夢物語か、あるいはテレビドラマの中だけの代物だとばかり思っていた。少なくとも、このリリアン女学園という、良くも悪くも女子校育ちで、なかなか男性と接する機会のない乙女の園では、そんな離れ業ができる人なんて、そうそういるはずがないだろうと思う。それと同時に、私は一瞬、その「北原史香」という名前に、どこか微かな、けれど確かな引っかかりを覚えたのだ。

「北原史香さんって…あ、あの入学式の時に話題になった、外部からいらした……?」
「そうよ、その北原さん。ものすごく綺麗な子でしょう? 背もすらっと高くて、ハーフの方みたいに、すっごい整った顔立ちしてて……。高等部の入学式の時から、もう上級生の間でもすごい話題になってた人よ。なんていうか、もう見るからにスター!って感じじゃない?」

スター、か。
確かに、桂さんにそう言われてみれば、そうなのかもしれない。私の頭の中に、ぼんやりとではあるけれど、例の「北原史香さん」の姿を思い起こしてみる。
陽の光を浴びると淡く透けるような、柔らかなウェーブのかかった亜麻色の髪。どこか物憂げな、伏し目がちの大きな瞳。モデルさんみたいにすらりと長い手足に、まるで蝶が羽ばたきでもしそうな、バサバサと音をたてそうなほど長い睫毛。そして、病的なまでに真っ白な肌!
まるで、私が小学生の頃に夢中で読んでいた、瞳の中に星がきらめくような少女漫画の世界から、そのまま抜け出てきたかのような、そんな現実離れした風貌の人。

「それに、外部からリリアンに入ってくるくらいだから、きっと頭もすごくいいんだろうし…噂じゃ、運動神経も抜群らしいわよ、あの方」
「へえ、そうなんだ」
「この前の体育の授業であった50m走のタイム、なんと7秒台だったって噂も…」
「ええ!? な、7秒台って…そ、それ、ほとんど男子中学生の記録じゃないの…す、すごい…」

聞けば聞くほど、なんだか現実離れした…というよりも、私みたいな、どこにでもいるごくごく平凡な一般庶民とは、まるで住む世界が違うような、かけ離れた存在に思えてくる。
思わず桂さんの話にぐいぐいと聞き入っていると、ふいに私の背後から、ふわっと誰かが近づいてきた気配がした。

「ふふん、やっぱりその話題になったわね。彼女、昨日は一段と目立っていたからねぇ」
「わっ、蔦子さん!?」

振り返ると、そこにいたのは、同じクラスの武嶋蔦子さんだった。いつものように、愛用の少し古風なフィルムカメラを首から下げて、その両手でまるで宝物でも抱えるように、しっかりとレンズをこちらに向けて持っている。写真部のエースだ。

「ほら、これ。特ダネよ」

そう言って、少し得意げな顔で蔦子さんが差し出してくれたのは、まさしくその“事件”の瞬間を捉えた一枚の写真だった。
午後の光が差し込む廊下の中央、リリアンの深い色の制服の袖をふわりと揺らして、同じ制服姿の少女をその腕にしっかりと抱えて歩く、北原史香さんの姿。その表情はどこまでも真剣で、それでいて凛々しく、そして息をのむほどに美しい。一方、その腕の中でぐったりと意識を失っている様子の少女の方には、私にも見覚えがあった。確か、幼稚舎からずっと一緒のクラスだった、宗谷華代子さんだ。

「……わあ……すごい……」

私は思わず、写真から目を離せないまま、感嘆のため息を漏らした。まるで、時間が止まったかのような一枚だった。

「ね、本当に映画のワンシーンみたいでしょう? ちょっと逆光気味になっちゃったのが玉に瑕なんだけど、でもそれがまた、かえって雰囲気出てると思わない?」
「うん……本当に、そう思う……」

私はその、ドラマチックな一葉を見つめながら、まるで独り言のように、ポツリとつぶやいた。

「……きっと、こういう人が、山百合会の薔薇さまとかに、なっていくんだろうなあ」

それは、私の心からの、何の計算もない、素直な感嘆の言葉だった。
すると、隣で同じようにその写真を覗き込んでいた桂さんが、小さく肩をすくめて、少し意地悪そうに笑った。

「あらあら、なに? 祐巳さん、もしかして嫉妬しちゃった?」
「ま、まさかっ! そんな、私が史香さんに嫉妬できるほどの立派な身分なわけないじゃない! というか、私にはそもそも、そんな大それた度胸も、人を惹きつけるような華やかな存在感も、これっぽっちもないし……」

私は慌てて手を横に振りながら苦笑し、もう一度、蔦子さんの写真に視線を戻した。
そこには、まるで物語の主人公のように颯爽とした姿で廊下を歩く一人の少女と、その姿を、驚きと憧れの入り混じったような複雑な表情で見つめる、まわりの大勢の生徒たちが写っていた。
本当に、どこか遠い世界の、手の届かない場所にいる人みたいだった。

「というか、蔦子さん、よくこんな決定的瞬間をばっちり撮れたね。いつもながら、すごいよ」

「ふっふっふ、シャッターチャンスは絶対に逃さないのが、私のモットーなのよー!」

カメラを胸に抱えて、得意げにえっへんと胸を張って笑う蔦子さんの顔を見て、私もなんだかつられて、ふふっと笑ってしまった。
それは、確かに少しばかり眩しくて、私には縁遠い世界のように思える風景だった。

だけど、そういう手の届かないまばゆさを、少し離れた安全な場所からこっそりと見つめて、心の中でほんの少しだけ憧れて、でも自分には無理だとすぐに諦めて、すぐには手を伸ばそうとはしない──。
そんな、ちょっとだけ醒めた立ち位置にいる自分自身のことを、私はそれほど嫌いではなかったりするのだ。

「それにしても、あの子、北原史香さん。なかなかどうして、興味深い面白い子みたいよ」

ふと、それまで黙って私たちのやり取りを聞いていた蔦子さんが、ぽつりと、何かを含んだような声で言った。

「表向きは旧華族のご令嬢って聞いてたけど、どうも信頼できる筋からの話によれば、中学まではごく普通の公立の学校に通ってたみたいだし。ご家庭の事情も、いろいろと複雑みたいよ、あの子」

「えっ……そ、そうなの? あの、北原史香さんが…?」

祐巳が目を丸くして驚いて聞き返すと、蔦子さんは悪戯っぽく片目をつぶって、にやりと意味ありげな笑みを浮かべた。

「私たち写真部はね、ただ単に美しい光だけを追い求めるだけじゃなくて、時にはその光が生み出す濃い影の部分も、しっかりと撮るのが仕事なのよ。もちろん、下世話な悪趣味にならない程度に、ね」
「……うう、なんだか蔦子さんの言葉、ちょっと怖いような、でもすごく奥が深いような……」
「まあ、安心しなさいな、祐巳さん。福沢祐巳さんは、いつだってちゃんと光のほうで、きらきらと眩しく写ってるから大丈夫よ」

くすっと悪戯っぽく笑う蔦子さんに、なんだか無性に照れくさくなってしまって、私は「もう、蔦子さんったら!」と頬を膨らませた。
ふと目を向けた教室の外の桜の木は、もう盛りを過ぎたとはいえ、まだ少しだけ可憐な花を残している。
季節はゆっくりと、でも確実に、次の新しい場面へと移り変わろうとしていた。

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