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規則的な寝息が聞こえる。隣の席の黛はまた授業中寝ていて、誰にも気付かれていない。
俺だけがこいつが寝ていることを知っていて。
「おい、黛」
「………んー…ありがとーヒム…」
眠そうなその瞼を蕩けさせながら翡翠の瞳が顔を出す。
そんな黛は俺が何を考えているかなんて気にも留めない様子で次の授業はー?なんて呑気に聞いてくる。
自習、そう俺が答え返すとやった、と喜ぶ。
まるで小さい子供でも相手しているかのような変な感覚だった。
「立花ー」
話の中心でいつも明るい、今日もまた誰かに呼ばれたようでそっちに行ってしまった。
黛には羽がついてるんじゃないかとよく囁かれているが本当にそうなんじゃないかと思う。
誰に対しても広く接し、浅く関わる。
顔見知りが多くほとんどのやつと知り合いなんて3組のうちでも数人とこいつくらいだろう。
「お前黛さん好きなんだろ」
「でも…」
それに好かれやすい。誰しもに優しく明るいタイプだからかあまり憎まれることだってない。
本人は全く気付いてない辺り本当に鈍いやつだと思う。
「イブラヒムどう思うよ、お前黛さんの隣の席だろ」
「あんまりだろ、基本的にいつも見てる感じ普通と変わんないし」
嘘、黛は嬉しいときふわふわ笑う。悲しいとき目尻を少し下げる。
好きなおかずは唐揚げで寝起きは少し緩くて、よく忘れ物をして、授業は寝てばっかりで。
たくさん、黛と隣の席になって俺は今まで知らなかったことを知った。
他の奴が知らないような事をそれはたくさん。
勿論言ってやるつもりはないしひけらかそうとも思わなかった。
ただ俺だけがあいつのいい所を知っていればそれで良かったし…事実、俺はそう考えていた。
「別にそれで好きになったりはしないだろ」
見栄を張って答えた、嫌いだとは言わなくてもあいつに興味はないと取られかねない言葉を。
運悪く帰ってきた黛が驚いた表情で俺を見つめ、その目を伏せた。
ザワザワと騒がしい男子共の声が煩わしい。
俺は今誤解を解かなくちゃいけないのに、口から零れるのは謝罪でも弁明でもなく無言だけ。
しくった、そう思ったのと同時に焦りが生まれて、伝えなくちゃいけない言葉がどんどんと流されていく。
いつもと同じ、隣の席にいる筈なのに黛は俺に笑いかけることもなければこちらを向くこともない。
隣ってこんなに遠かったのか…俺が遠ざけたのか。
イブラヒムくんのこと信頼してるんだね、なんて桜華が言っていたのをこんな時に思い出した。
立花はあんまり人前で寝たりとかしないから…そう言って少し羨ましいよと言っていた。
黛のそれが信頼だったのかそれ以外の何かだったのか今となってはもう分からないけど確かにその時は俺も黛も肩を預けあっていたのだけは分かった。
…無くして、気が付いた。明らかな俺の失言のせいだった。
「黛!」
「…なに」
冷え切った翡翠の瞳、空を見つめていて俺のことなんて気にもしていない様子で。
どこまでも冷たく黛は俺の言葉を聞いている。
「ちげぇんだって、俺が…本当に好きなのは!」
「聞きたくないよ!…もう、やめてよ」
お前が好きだなんてそんな簡単に言葉には出なくて。
傷付けた分だけ、黛との距離は開いていて。
明日にはその隣に俺じゃない誰かがいて、もう永遠に好きになることさえ許されないのかも知れない。
それでも、俺は伝えなくちゃいけない。
それだけが確かで、俺の中での絶対だから。
「お前のことが好きなんだよ!」
勢いと焦りで頭がパンクしそうだった。
黛の顔なんて見れないまま、俯いて俺は言った。…言ってしまった。
数秒後、ゆっくりと聞こえる嗚咽。
仕方ないな、独りよがりだったななんて自嘲して黛の方を見る。
「遅いんだよ…ばーか…」
黛は何よりも綺麗に笑っていた。頬を伝う涙さえ彼女の手に掛かれば芸術のようで。
「わたしもずっと、好きだった」
まるで映画の中のシーンのように黛はそう言った。
「だから、すごく嬉しい…」
恋する乙女の表情なんて全然予想してなくて、羞恥がこみ上げてくるのが分かる。
「…マジで?」
素直な反応が出たなと自分でも感心する。
混乱してくらくらし始めるのを何とか抑えて高鳴る鼓動も今は少し目を瞑って。
「嫌われたかなって思った…露骨過ぎたかなって」
言ってみれば同じ気持ちだったと簡単に理解できた。
単に互いのプライドと引け目が先に進ませなかっただけで、一歩踏み出した先は不思議なことに同じだった。
ぐずぐずと泣いたままの黛を慰めるのも少したどたどしくなって、二人で笑って。
なんてことない幸せがまた一つ増えて。
「これがお金で買えない幸せだよ」
「何でお前が誇らしげなんだよ…」
隣同士の距離が初めより更に縮まった。