闇に近い闇、光に近い闇
違和感に気がついたのは、三年生になって少ししてからだった。
「もう帰るの?」
「……ああ」
「じゃあ私も帰る」
私の部活がないときは、決まって一緒に帰る。今まで通りだ。私たち二人はまた同じクラスだった。例年より少し気温が高かったのか、始業式には綺麗な春色が夏に向かって準備を始めていた。
運が良いのか悪いのか、私たちと天宮はクラスが離れた。しかし、左右田くんと天宮は離されて当然といえば当然だ。あの事件は、もちろん生徒たちに広まることはなく、左右田くんが認めたまま収束した。
「クラスには慣れてきた? 私は結構仲良かった女子と離れたし今の雰囲気になかなか溶け込めなくてさ」
「まあ……オレは普通かな」
二人で慣れた道を歩くのは、もう慣れた。たった三ヶ月の影なんて元からなかったように――とはいかず、ほんの少し、彼と私の間には空白があった。毎日変わらないような帰り道は、少しずつ夏へと向かっていた。タンポポが綿毛になってきた。つくしの姿が見えなくなった。風から花の香りが消えつつあった。
「ふふ」
どうしてだろう、空白が寂しいはずなのに、笑いがこみ上げてくる。それは、隣にいる彼の姿が変わらないから。丸まった背中に、斜めがけのスクールバッグ。いつだって鞄は程よく物が入っており、決して軽くはなさそうだった。少しボロボロのスニーカーは、一年前と同じもの。物持ちが良いのだろう。
何より、彼と当たり前のように話せるのが、嬉しかった。心の奥底で何かが寂しいと言っているのを埋めるように、笑った。彼は、そんな私を不思議そうに見た。自転車を押しているせいで、顔を隠すことはできない。
「ふふ、あのね。こうして話せるのが嬉しくて、ちょっとにやけちゃってる」
「……そっか」
「うん」
表情筋がゆるむのを抑えきれないまま彼の方を見ると、彼は頬を赤くしている様子はなかった。さらには、どこか安心感すら覚えるような鋭いツッコミすらなくて、けれど、特に深くは考えなかった。深く考えてはいけないと思った。隣にいるはずのアイツがいなくなったから、なんていうのはわかりきっていたから。
いつもの橋が見えた。網を持った小学生が見えた。まだ四月だというのに、シャーベットカラーのビーチサンダルを履いていた。アイツのことは、お互いに考えないように。なかったことにはできないから、考えないように、わざとらしく「あっ!」と何かを思い出したかのように声を出した。もちろん、隣の彼は私の狙い通りこちらに視線を預けた。
「もうすぐ修学旅行だね。班とかまだ決まってないでしょ?」
「あー、そうだな」
「一緒の班になろうよ。友達には声かけてあるし……左右田くんももし仲が良い友達がいたら誘って。ね?」
元々そういう約束だったんだ。一人欠けてしまっても、修学旅行は一緒に回ろうって。それが楽しみだって、左右田くんも言っていた。あの表情だって忘れていない。数週間先に迫る修学旅行に、胸が躍る。それは彼だって一緒のはずなのに。
「……おう」
どうしてだろう。本来なら縮まっているはずの距離は、遠ざかっているように見える。出会って間もない夏祭りのときの方が、むしろ出会ったばかりのときの方が、近しいような。合わない視線が、どこかよそよそしい返事が、それから、帰るときの合図だって。全部が、三年生に上がってからの違和感だった。
その違和感も無理はない。全部天宮のことが忘れられないから。彼にとっても私にとっても親友だったのが、彼の知らないところで終わってしまったのだから。
「……明日も晴れるといいね」
「そうだな」
今日は四月らしい、少し靄がかかって見える青色が広がっていた。モンシロチョウがモンキチョウ二匹を追いかけるように、拙い動きで宙を舞った。
私たちの親友だったアイツが戻ってくることは、きっとない。だから、私はあの夏の日々が当たり前だった頃に、左右田くんを引き戻すだけだ。
⊗⊗⊗
その日は、風という風は吹いていなかった。ただ、絹のように細い雨がさらさらと降り続けている。今日はギアが回る音はせず、大きな無地の黒い傘の隣に、うるさすぎない花柄の傘が並んでいた。雨音は、耳をすまさなければ聞こえなかった。運送会社のトラックが通りすぎた。
「修学旅行ももうすぐだね! 自由時間で回るところとか決めた?」
残り一週間まで迫っていた二泊三日の修学旅行。それに備えての服も、街の方に出て揃えたし、気分はすっかり修学旅行に染まっていた。今日の五、六限の授業は自主研修という名の自由時間での行動範囲を決めるなどだった。しかし迷子にならないように何人かで行動をしなければならないらしいので、左右田くんも一緒に回ってくれるのだろうかと選択肢を絞るためにも質問を投げかけた。しかし、彼は「あー」とぼやいたかと思えば、水溜まりを避けながら、淡々と言葉を続けた。
「まあ、適当に」
「ふぅん……」
彼のことだから、ジャンク屋さんだとか機械系のお店だとか、そういうところに行きたいのだと思ったけれど、「適当」なんてぼかす始末だった。しかも、目的地すら言わないなんて。雨が、ほんの少し強まった。パラパラと音を立てて、傘を伝っては地面に落ちる。コンクリートは、まだまだ水を吸うらしい。
道にできた水溜まりが、波紋を呼んでは広がっていく。耳をすまさなければ聞こえなかった雨の音は、当然のように被さってくる。それも、私たちが何も言わずにいたからというのもあるのかもしれない。
息苦しい時間が続いた。いつかの雨の日は、びしょ濡れになることだって気持ちが良いように感じたのに、今は少しでも肌に水が降りると不快感が募った。
「……左右田くんさ」
騒がしい沈黙をついに壊した。少し、重々しい口調になってしまった。無理もない。三年生に上がってから、言いたくても言えなかったことを、これから言おうとしているのだから。彼のつま先が水溜まりに浸かりかかって、それを避けると私に視線だけを向けた。
「あ?」
「前より私に自分のこと話してくれなくなったよね」
雨の音が、一瞬だけ聞こえなくなった。雨だけじゃなくて、歩行者信号の間抜けで不気味な音や、車が水をはねる音まで。でもそれはほんの一瞬で、すぐに音は戻ってきた。それから間もなく大きな黒で覆われた彼は、姿を現した。下唇を、鮫のような歯で強く強く噛んでいた。噛み切りそうなほどに。
「オメーだって」
「え?」
返ってきたのは、予想外の言葉だった。私だって、何? 傘を握る手が弱まって、心臓が跳ねた。傘が落ちてしまうかと思った。それを気にも留めず、左右田くんは歯を軋ませた。肌寒さからか、わずかに身震いした。
「オメーこそ、オレに無理して話合わせてんだろ。……それに、オレの顔色やたら窺ってきてよ」
「いや、だって一緒に回るでしょ。だったら合わせないと」
「違ぇ……なんか、わかんだよ。気遣われてんのが」
心臓が、また跳ねるような心地がした。今度は傘を落としそうだったからではなく、左右田くんの言っていることが図星だったから。実際、天宮とのあの日から、私は彼と薄っぺらな中身のない会話しかしていなかった。元より中身なんてないようなものだったけれど、それとは違った、必死で繕うような会話を私から提供していたのだ。左右田くんが、傷つかないためのものだった。
「それは………左右田くんが、私に線を引くようになったからじゃん。ここまでしか入ってくんなって言われたら、その先だって気になるよ……」
声が震える。彼がいつも通りに、前までみたいに軽口を叩いて、自分から話したいことを話してくれたら、私だって今まで通りにくだらない会話をしていたはずだ。
「今までは、もっと踏み込ませてくれたのに。左右田くんがガードするから……」
何を弱気になることがあるのだろう。言葉が必死に喉から這って出てきて、なのにこれ以上は出てこられない、と次第に声が小さくなった。目だって合わせられなくなって、宙を彷徨った。そんな私とは対照的に、彼はじっとこちらを蛇のような目つきで見た。
「苗字だって、あの日。……天宮と教室出てったこと、なんも教えてくんねぇだろ」
「あれは……!」
「……なんだよ。オレは何もしなくていいって言ったのに余計なことしたのか?」
「余計なこと」。もしかしたらその通りなのかもしれない。いや、第三者から見てもその通りだった。左右田くんと天宮のことを無視したことだった。罪悪感だって募っている。けれど、私のあのときの気持ちを「余計なこと」にされたくはなかった。
「余計なことじゃない! 私は今まで通り三人で笑えるようにって思って……」
「やっぱしてんじゃねぇか! そんなの綺麗事だ。……結局はオメーのエゴなんだろ」
綺麗事、なんて。左右田くんだって、天宮がいつも通りしてくれることを望んでいたはずなのに。結局は、私が手を加えようがどうしようが、こういう結末が待ち受けていたのだろうか。
私は、どうすれば良かったのだろう。天宮だって罪悪感を持っている、なんて言ったところでそれは今は「綺麗事」。だからといって、アイツが私に告白をして関係を断ち切った、なんて左右田くんにはとても言えることではない。何より、天宮が私たちから離れてしまったところで、手遅れだった。
ぐっと溢れそうな涙を呑み込んだ。私の表現を見てもなお、左右田くんは歯ぎしりをした。歯が鋭く尖っているからなのか、嫌な音がやけに響いて聞こえた。
「……それか、天宮に裏切られたオレに同情でもしてんのか?」
鼻で笑うような声だった。今までに聞いたことのない、けれど悲しみと辛さが煮詰まったような声色だとわかった。
「それともアレか? 人を簡単に信じるのがちょろいとかって思って裏で笑ってんだろ? オメーもオレを裏切るつもりなんだろ!?」
左右田くんが傘をぶん、と振り下げた。腕と一緒に伸ばされた傘からは、水滴が連続して落ちる。彼の黒髪が、少しずつ下りた。
先程と打って変わって、図星をつかれるようなことはなかった。私は心のままの言葉を並べるそうだ君に、ただ口を開けるだけでも、反論をするわけでもなかった。ぎゅっと胸が苦しくなった。何十本もの細い糸で、縛られるような心地がした。
「……なんなの、それ」
気がつけばそう零していて、今度は私の方が嫌な音を鳴らした。なのに彼は、いつもよりも鋭く、怖く見える三白眼でキッと睨んだままだ。やっぱり、その小さな黒目には、どこか悲しみの色が見えた。それも私の思い込みなのかもしれない。
左右田くんは、自己評価が低すぎる。彼は、自分が思っている以上に面白くて、明るくて、優しくて、本来はもっともっと大勢の人に慕われるべき人間なのに。本人が、本人の気持ちがそうさせないだけなのに。不器用ながらも人懐っこい彼を短期間でここまで人間不信にさせたのは、他でもない天宮のせいだろう。けれど、先生や、もしかしたら私だって、その一人かもしれない。
「私は今ままで通り左右田くんと仲良くしたいだけなんだよ……」
私と左右田くんの間にいた彼は、罪悪感で消えてしまった。けれど、それでも私は左右田くんと一緒に歩きたい。学校の備品を改造したい。肩を並べて花火を見たい。ただ、それだけなんだ。
「……ねえ。天宮が離れていったから、こうなったの?」
「……それもあったけど、今はそうじゃねぇ」
「今は」そうじゃない。それは、確かに左右田くんがこうして過度な人間不信に陥ったのは天宮のせいではあるけれど、今の私たちの話においての原因は、あくまで私であるということを示していた。私が、エゴで動いたから。――実際は、エゴのつもりなんてなかった。それから、私が関係性を気にしすぎるあまり、表面的な会話しかしなかったから。
それにしたって、根本の原因は彼の自信のなさではないだろうか。会って数週間の謙遜ぶりに、私の隣に立つことにたいする評価。天宮に対する「親友」の認識。実際のところはわからないけれど、双方に原因があるんだ。
「……君は、自分を過小評価しすぎ」
ぼそり、そう零せば、私の声は雨の音にさらわれた。頭だって良いし、実は見かけによらず芯がしっかりしている。誰にも負けない特別な才能だって持っている。なのに、君は、どうしてそんなにも自信がないのだろう。
「無理して同情してオレといるならやめろ。……オメーとオレはもともと住んでる世界が違うんだよ」
「……違わないよ。無理もしてないんだよ。私と左右田くんは、同じ世界にいるんだよ」
私は、今まで左右田くんをそんなふうに見たことがなかった。私と左右田くんは同じ人間で、同じ教室にいる仲間で、親友で、正反対のようで似ているところだってたくさんあった。同じ世界にいる左右田くんに励まされたことも、気づかされたこともたくさんあった。
手に力を込めると、水か汗かで少し滑った。伝わってほしい。私と君は、いつだって隣にいて、たくさん笑って、ずっと同じ世界にいたことを、わかってほしい。思い出してほしい。
雨が止んだ。正確には、音が消えた。雨は未だに私たちの四方を包囲していた。立ち止まっているせいで自転車の進行を妨げていることにも気がつかなかった。また、私と彼だけの空間になった。騒がしいはずなのに静かな空間で、彼の小さな溜め息が耳に届いた。
「……違うんだよ。オメーがオレといたら、オメーも変なふうに見られるかもしれないだろ。それに……」
音が完全に静まった。雨の音も、踏切の音も、クラクションの音も、何もかもが聞こえなくなった。
「――オメーがオレを裏切るのが怖いんだよ」
しっかりと聞こえた言葉に、ハッと顔を上げると、左右田くんは眉を八の字にして、なのに口角は弱々しく上がっていた。まるで無理をして笑っているようだった。彼の震えた、上擦った声は、今日――三年生になってから、初めての本心だったように感じた。
私は迷わず彼の手をとった。音が再開した。かわいい花柄の傘が軽い音を鳴らして落ちた。湿った手に、同じような質をした手を乗せると、柔く握った。
「裏切らないよ」
私は裏切らない。こんなに大切に思った友達は、親友は、左右田和一くん、君が初めてだった。彼は傘の影の下で目をわずかに見開くと、ようやく目が合った。彼の漆黒の瞳に、光が宿ったような気がした。
――しかし、それは瞬きの間だった。まるで光に呑まれまいと足掻くように、ぎゅっと少しかさついている唇を噛んだ。
「そんな勝手な理由なら私は左右田くんから離れない」
「だから! …………嫌なんだ。オレがオメーといるのは嫌なんだよ!」
もう音が消えることはなかった。左右田くんの必死さが、苦しかった。私から無理に離れようとする彼が、私を突き放そうとする彼が苦しかった。どうすれば、良かったのだろう。彼が折れない限りは、私にはどうすることもできない。何度だって、彼がわかってくれるまで話せばいい。そんなこと、心ではわかっていた。
「嫌」という言葉が、頭の中で反復する。そのマイナスなワードの攻撃力は、想像していたよりも強くて、私に手を離させるのには十分だった。
手を離してしまった私に、左右田くんはほんの少しだけ肩を揺らした。なのに、私は構わずに落ちてしまった傘を拾い上げた。持ち手の部分が、ぐっしょりと濡れていた。
「……世間は思ってるほど自分に興味ないよ」
スカートに乱雑に入れたハンカチで柄の部分を拭うと、水を切るように一度振り下ろし、何事もなかったかのように、傘を差した。的外れのような言葉は、本当に彼に言いたかったことなのだろうか。そんなことすら考えられないほど、私に向けられた言葉が胸にぽっかりと大きな空洞をつくった。
「左右田くんが本当に望むなら。私はもう……左右田くんには話しかけない」
彼の表情は、見えなかった。私と左右田くん、どちらの傘のせいだっただろうか。どこか突き放すような言い方になったのは、衝動的か、理性的か。ほんの少しだけ、自分の声が震えていたのは気のせいではなかった。今度は私が突き放したのに、心のどこかで彼が止めてくれるのを待っていたから。彼が私を必要としてくれるのを待っていたから。私は、期待していた。
けれど、そう上手い具合に事は運ばない。
「……そうしてくれ」
沈黙の後の言葉が、私の中の空洞を放ったらかしにした。唇を強く結んだ。こういうときに限って、思い浮かぶのはどうでもいいことだ。左右田くんの声は、去年よりも低く、男らしくなっていた。
もう目は合わない。それは、お互いの傘が私たちの間を遮断したから。ばしゃん、と気にせず水溜まりに踏み込むと、ローファーの隙間から水がじんわりと靴下に滲んできた。
「じゃあね」
「……」
今まで並んで歩いてきた私たちは、私は、彼を追い越した。そのまま、振り返らずに歩いた。まるで何かに取り憑かれたかのように。取り憑かれていればどれほど良かっただろうか。
今日も変わらずにシャッターが下りている店を過ぎた。看板を見れば、どうやらその閉店したお店駄菓子屋だったらしい。胸が苦しくなった。どの風景を切り取っても、彼との日々しか思い出せなかった。
「親友」なんて脆くて簡単な言葉だってわかっていたのに。以前は特に深く考えずに使っていたその言葉は、私の中で想像以上に大きいものになったしまっていた。私にとっての魔法のようだった。彼と同じように、私も「親友」という言葉を信じすぎていたようだった。左右田和一という一人のクラスメイトが、簡単に割り切れないほどの大きな存在になっていた。
同じ班を組んでしまったことに気を遣うだろう。けれど自由行動は各々で行動すればいい。必要以上に関わらなければ良いだけだ。そう思っていたのに、私の心配は無意味に終わった。
左右田くんは、体調不良で二泊三日の修学旅行を欠席した。